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ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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即興曲の起源 (3)マルシュナー

ヴォジーシェクの作品7の「6つの即興曲」と並んで初期の代表的な即興曲として知られているのが、ハインリヒ・マルシュナーの「12の即興曲」作品22・23である。

マルシュナー
ハインリヒ・アウグスト・マルシュナー Heinrich August Marschner (1795-1861)は、ドイツ・オペラの重要な作曲家として音楽史に登場する。現在のチェコ・ポーランドとの国境に近いドイツのツィッタウで生まれ、ボヘミア系の家庭で育った彼は、早くから作曲を始め、初期のオペラで注目を集める。1821年ドレスデンに移住し、1824年に同地の歌劇場音楽監督に就任。ライプツィヒ歌劇場指揮者を経て、1831年からはハノーファー宮廷歌劇場の楽長を務めた。1833年のオペラ「ハンス・ハイリング」の成功で、ヴェーバーの後を継ぐドイツ語オペラの第一人者としての地位を勝ち得る。メンデルスゾーンやシューマンらからも尊敬を集めたが、その影響下から出発したヴァーグナーの台頭によりやがて存在感が薄れ、1861年にハノーファーで死去したときにはほとんど忘却されていたという。主要作品の多くはオペラや劇音楽だが、室内楽曲やピアノ曲なども多数残している。

「12の即興曲」は、第1曲から第6曲までが作品22、第7曲から第12曲までが作品23としてまとめられ、1822年のヴォジーシェクの作品7とほぼ同じ時期に出版されたとみられている。IMSLPにある楽譜は初版譜かどうかわからないが、ライプツィヒのホフマイスター社から出版されている。
作品番号を少し遡ると、作品18が「パピヨン、ピアノのためのカプリス」(同じくホフマイスター社)、作品19から21までが「ピアノのための3つのロンド」(ライプツィヒのブライトコプフ&ヘルテル社)となっていて、どうやらドレスデンに移住したばかりのマルシュナーは、おそらくライプツィヒの出版社から依頼を受けて、サロン風のピアノ曲を次々と書いていたようだ。

マルシュナーの「12の即興曲」は、ヴォジーシェクの作品7と比べると、曲想やテンポの幅が広く、技巧の見せ場もあって、非常にヴァラエティに富んでいる。ポロネーズ風の第7曲やカンティレーナ風の第10曲などキャラクター性の強い曲もある。
構造的に分析すると、やはり一番多いのは「エクローグ」型のダ・カーポ形式であり、この単純な三部形式が初期「即興曲」の基本形であったことがわかる(シューベルトの即興曲では、D935-2がこの初期形式に則っている)。
しかしマルシュナーでは、ヴォジーシェクにはなかった新たな構造の「即興曲」が登場する。たとえば、ほぼダ・カーポ形式だが、冒頭に荘重で古典的な序奏がついた第12曲や、ヴォジーシェクの変ロ長調の「即興曲」に似た二部形式で、かつ長いコーダが付された第1曲。更に特異なのは「ロマンス」という標題を持つ第6曲で、これは明確な変奏曲形式である。冒頭の注釈によると、主題を作ったのはマルシュナーの妻でピアニストとして活躍したオイゲニー(1798-1825)で、これに基づいて夫ハインリヒが変奏曲を書いた、ということだ。主題と4つの変奏からなり、最終変奏はかなり長く華やかで、第1巻の最後を飾る大曲となっている。言うまでもなくこれはシューベルトのD935-3、「ロザムンデ変奏曲」のモデルになった可能性が高い。
また右手の3連符のパッセージが無窮動風に続いていく小規模な三部形式の第11曲は、変ホ長調という調性も相まって、D899-2に酷似している。

こうしてみると、シューベルトがマルシュナーの「即興曲」を知り、影響を受けたということも大いに考え得る。マルシュナーはドイツ楽壇で活躍したが、ルーツ的にはトマーシェクやヴォジーシェクと同じボヘミア系だったというのも興味深い。
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  1. 2015/03/23(月) 18:48:23|
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