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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

[告知] シューベルトツィクルス第18回「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」

シューベルトツィクルス第18回
2023年5月17日(水) 19時開演 東京文化会館小ホール  ゲスト:林悠介(ヴァイオリン)
♪ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(ソナチネ) ニ長調 D384 作品137-1
♪ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(ソナチネ) イ短調 D385 作品137-2
♪ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(ソナチネ) ト短調 D408 作品137-3
♪ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(デュオ) イ長調 D574 作品162
一般4,500円/学生2,500円 →チケット購入
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  1. 2023/05/17(水) 19:00:00|
  2. シューベルトツィクルス
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ヴァイオリン・ソナタ(デュオ) D574 概説

ヴァイオリンとピアノのためのソナタ イ長調 Sonate A-dur für Violine und Klavier D574
作曲:1817年8月 出版:1851年(「デュオ」作品162として)
楽譜・・・IMSLP


独自の世界を築きつつもどこか閉じられた印象の前3作(D384D385D408)と比べて、このソナタの開かれ方、確信に満ちた世界観の提示は一線を画している。この1年あまりの間に、シューベルトは少なくとも6曲のピアノ・ソナタに取り組んだ。その経験を通して、より大柄なソナタの骨格を獲得することに成功したのだろう。ピアノ・ソナタD459+D459Aの各楽章との類似については以前の記事を参照されたい
楽器法も格段の進化を遂げた。前3作では、一方が主旋律ならば他方が伴奏に回るという場面が多かったのに対し、本作ではその役割がより頻繁に交替し、また渾然一体となって音楽を進めていくことで、両楽器が主従関係ではなく分かちがたい有機体として機能している。演奏時間が特に長いわけではないのに「グラン・デュオ」(大二重奏曲)と呼び習わされているのは、その器の大きさを示しているのだろう。

第1楽章はのどかで歌謡的な第1主題で始まり、自由な展開を経て、ホ長調の第2主題では両楽器が華やかに技巧を競い合う。展開部ではそれまでほとんど登場しなかった3連符(3分割)リズムが現れ、第1主題に由来する付点リズムのシンコペーションと食い違いが発生することで緊張感が高まっていく。
第2楽章はホ長調のスケルツォ。4楽章構成のソナタで、第2楽章にスケルツォを置く(ベートーヴェンスタイル)のはシューベルトにしては非常に珍しい。両楽器とも幅広い音域を縦横無尽に飛び跳ねる。ハ長調のトリオは一転して鄙びた雰囲気。
そのトリオの調性を受け継いだハ長調の第3楽章では、11小節目にして早くも遠隔調への転調が始まり、煌めくような高音のトリルに伴われて変ニ長調、変ト長調、嬰ヘ短調という大周遊を繰り広げ、あっさりとハ長調に戻ってくる。中間部は甘美な変イ長調に長く留まり、その楽園での生活は終結近くでも短く回想される。
第4楽章はソナタ形式のフィナーレ。舞曲のリズムを基調とし、エネルギーを発散しながら精力的に前進していく。ホ長調の第2主題は、何とも言えないウィーン風の情緒に満ちている。展開部の終わりに置かれた謎めいた反行カノン風の転調のシークエンスも印象に残る。
  1. 2023/05/17(水) 05:21:13|
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ヴァイオリン・ソナタ(ソナチネ 第3番) D408 概説

ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ト短調 Sonate g-moll für Violine und Klavier D408
作曲:1816年4月 出版:1836年(「3つのソナチネ」作品137 第3曲として)
楽譜・・・IMSLP


前2作の翌月、1816年4月に書かれたト短調のソナタはより演劇的で、外向的な表現が随所にみられる。

第1楽章は付点のリズムが支配的で、晩年の歌曲『アトラス』D957-8にも似た、避けられない運命のようなものを感じさせる。やがてその緊張感は後景に退き、唐突なユニゾンで変ホ長調の第2主題が導かれるが、D384と同様に主題間のコントラストは明確ではない。
変ホ長調の第2楽章も、D384の第2楽章とよく似た三部形式の緩徐楽章。主部がモーツァルト風なところも似ているが、短い展開部の中でロ短調という遠隔調に転調し、異界の裂け目がぽっかりと口を開けているのはシューベルトの独壇場というほかない。
第3楽章は変ロ長調のメヌエット。どことなくスケルツォ風の他愛ない舞曲で、歌謡的な変ホ長調のトリオをもつ。
第4楽章はソナタ形式のフィナーレで、休符で明確に区切られたセクションごとに、互いにあまり関連のない主題が次々と登場する。結果的に、何か当てもなくさまよっているような、気ままに散歩しているような印象を与える。展開部と呼ぶにはあまりにも短く即興的なセクションを経て、この楽章でもD385の第1楽章と同様に下属調再現が試みられており、最後はト長調で元気よく終わる。
  1. 2023/05/16(火) 22:37:58|
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ヴァイオリン・ソナタ(ソナチネ 第2番) D385 概説

ヴァイオリンとピアノのためのソナタ イ短調 Sonate D-dur für Violine und Klavier D385
作曲:1816年3月 出版:1836年(「3つのソナチネ」作品137 第2曲として)
楽譜・・・IMSLP


前作と同じ1816年3月の日付があるが、その内容の落差には驚嘆を禁じ得ない。ここに聴かれる寂寞たる孤独、隠された狂気、異世界への誘いは、後期シューベルトが開拓していった地平に通じている。病魔に冒されながらそこに辿り着いたのではなく、シューベルトは早くも19歳にしてその扉を開けていたのだ。

第1楽章は不安げな弱音のピアノソロと、その静寂を打ち破る怒気を孕んだヴァイオリンが跳躍音程を提示する、緊張感の漂う第1主題から始まる。8分音符(2分割)のみだったリズムはハ長調の副次主題から3連符(3分割)が優勢となり、2分割と3分割の葛藤がヘ長調の第2主題で顕在化する。展開部は静寂に包まれ、ヴァイオリンは高音域をさまよい、ピアノが8分音符を刻みながら数度転調するのみ。しかしその凍てついたような寂寥感はただごとではない。再現部の大きな特徴はニ短調から始まっていること(下属調再現)で、この時期のシューベルトが何度か試みた構成である。コーダではついに刻みは4分音符(分割なし)にまで減退し、闇の中に沈んでいく。
第2楽章はヘ長調の緩徐楽章。コラール風の主題は温かみに満ち、慈悲深さをも感じさせる。推移部では16分音符のパッセージを繰り返しながら複雑な転調を経て変イ長調に到達、希望に満ちた調性で主題が再び奏でられるが、どこか落ち着きがない。推移部でまた幾度とない転調を重ねながら、元のヘ長調で主題が帰ってくる。此岸と彼岸を行き来するシューベルトの精神の本質が明示された楽章である。
第3楽章はニ短調のメヌエット。力強い6度跳躍で始まる主部に対して、変ロ長調のトリオでは少し気恥ずかしそうなそぶりを見せる。
ロンド=ソナタ形式の第4楽章は、同じ調性のピアノ・ソナタD784やD845のフィナーレにも通じる、彷徨する魂を描くような無窮動。スタティックな2分割とダイナミックな3分割のリズムの対比は第1楽章から受け継がれ、後年のシューベルトのドラマトゥルギーの源にも繋がっていった。
  1. 2023/05/15(月) 22:24:57|
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ヴァイオリン・ソナタ(ソナチネ 第1番) D384 概説

ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ニ長調 Sonate D-dur für Violine und Klavier D384
作曲:1816年3月 出版:1836年(「3つのソナチネ」作品137 第1曲として)
楽譜・・・IMSLP


1816年の3曲のソナタの中で最もウィーン古典派の様式に近く、シンプルで明朗な響きと規則的な楽節構造、冒頭の両楽器のユニゾンなど、モーツァルトの作品と言われれば納得する人も多いだろう。
一方で各楽章の調性や拍子など、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第1番(ニ長調Op.12-1)をモデルにしたと思われる点も多い。

第1楽章の冒頭を印象づける上行する分散和音音型は第1主題にも第2主題にも共通して現れ、結果的に両主題の卓立性は不明瞭となる。展開部ではこのモティーフを両楽器が交互に執拗に繰り返しながら、半音階的に転調を重ねていく。この反復による転調のシークエンスはシューベルトの展開部を特徴づける要素といえる。
イ長調の第2楽章の主部は5小節単位という不規則な楽節ながら、やはりモーツァルトのオペラの一場面を思わせるような清楚な主題が歌い交わされる。対照的に、イ短調の中間部での纏綿たる歌謡性と半音階的進行には濃厚なロマンが漂う。
第3楽章はロンド=ソナタ形式のフィナーレで、舞曲のリズムに乗って一点の曇りもない溌剌とした音楽が続いていく。
  1. 2023/05/14(日) 23:18:46|
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シューベルトとヴァイオリン ―消えたヴァイオリニストの影

ヴァイオリンは少年時代のフランツ・シューベルトが初めて手にした楽器だったという。
多少なりとも音楽の心得のあった父親フランツ・テオドールが最初の手ほどきをし、その後の教育を担った教会音楽家のホルツァーもヴァイオリンのレッスンを欠かさなかった。家庭内での弦楽四重奏の機会には、フランツはヴィオラを担当することが多かったと伝えられるが、いずれにしてもヴァイオリン属の奏法には少年期から慣れ親しんでいたと考えて間違いないだろう。
そのわりにはシューベルトの書くヴァイオリンパートは妙に弾きにくい、というのは多くのヴァイオリニストが口を揃えるところだ。

ひとつ興味深い事実がある。
シューベルトは生涯にわたって「協奏曲」というものを作曲しなかった。独奏楽器が華やかな技巧を誇示してオーケストラと渡り合う、その協奏原理がシューベルトの音楽性と合致しなかったのだ、と人は言う。しかし少し視野を広げて、独奏楽器と管弦楽のための「協奏的作品」を作品表から探すと、3曲がヒットする。それらはすべて、ヴァイオリンと管弦楽のための作品なのだ。

・コンツェルトシュテュック(小協奏曲) ニ長調 D345(1816年)
・ロンド イ長調 D438(1816年6月)
・ポロネーズ 変ロ長調 D580(1817年9月)


いずれも単一楽章であるため「協奏曲」とは呼ばれないが、内容的には明らかに協奏原理に則っており、とりわけD345はヴァイオリン協奏曲の第1楽章として構想されたものであろう。若き日のシューベルトにとって、ヴァイオリンは考え得る限り最も「ソリスティックな」楽器だったのである。

これら3曲の間隙を縫って、ヴァイオリンとピアノのための4曲の「ソナタ」が続々と書かれた。後に「ソナチネ」として世に出る最初の3曲(D384・D385・D408)を書いた時点では、シューベルトはまだピアノ・ソナタを1曲も完成させていない(最初の完成作は1817年3月のイ短調D537)。
2段譜のピアノ独奏よりも、ヴァイオリンを加えた3段譜の方が先に書法が熟したというのは意外な気もするが、よく考えれば「独奏楽器+ピアノ伴奏」という組み合わせは歌曲(独唱+ピアノ伴奏)と同じことだから、若いシューベルトにとってはなじみ深かったのかもしれない。
その仮説を裏付けるように、ヴァイオリンが声楽的に扱われ、歌曲をそのまま器楽に置き換えたようなシーンも随所に見受けられる。2つの楽器は、対話することはあっても対決するようなことはなく、かといって無遠慮にもたれかかるのでもなく、礼儀正しく寄り添いながら音楽を進めていく。初期の(未完成の)ピアノ・ソナタに聴かれるようなオーケストラ的な広がりや、無鉄砲なほどの大胆さや野心、その裏返しでもある冗長さとは無縁の、箱庭のようにコンパクトで洗練された中庸の世界。ビーダーマイヤーの典型といってもいいだろう。
同じように初期の交響曲や弦楽四重奏曲も、新しい時代の感覚を盛り込みつつも、古典的・保守的な枠組みからはみ出す気配はない。それは、作曲の時点で実際に演奏の機会が想定されていたからだろうと思われる。
とすると、これらのヴァイオリンとピアノのためのソナタも、実演の機会があったのだろうか。


若い頃のシューベルトの周囲にヴァイオリンの名手がいたという確かな記録は残っていない。ただそれを匂わせるような資料はある。
たとえばピアノのための「8つのレントラー」D378(1816年2月13日)と1段譜の「11のレントラー」D374には共通した(同一の)舞曲がいくつかあり、同時期の作品と見做されている。1段譜の方は、楽器名は指定されていないものの、断片的に書かれたアーティキュレーションからヴァイオリン独奏譜(=パート譜)という見方が強い。普段はシューベルトがピアノソロで伴奏していた仲間内の舞踏会に、ヴァイオリン奏者が加わることになったのだろうか。
その直後から、前述の3つの協奏的作品と、ピアノとの二重奏ソナタ4曲が立て続けに書かれる。弦楽四重奏のヴァイオリンパートとは明らかに異なるソリスティックな書法から察するに、相当に腕のあるヴァイオリニストだったのだろう。

しかしヴァイオリンの時代は1817年9月の「ポロネーズ」D580を最後に唐突に終わる。
1年後の1818年9月29日にウィーンの孤児院でこのポロネーズが初演されたとき、ヴァイオリン独奏を務めたのは兄フェルディナントだった。コンツェルトシュテュックD345の筆写譜にも「兄フェルディナント・シューベルトのために」との注記がある(ただしその筆跡はフェルディナント本人のものとされているが)。そんなわけで、これらの一連のヴァイオリン曲はフェルディナントのために書かれたものと考えられてきた。
しかし、兄弟の中で最も仲の良かったフェルディナントのためであれば、シューベルトはこのあとも続々とヴァイオリン曲を書いたに違いない。突然の終焉から読み取れるのは、想定されていたヴァイオリニストが急にシューベルトの前から姿を消した、ということではないだろうか。


テレーゼ・グロープ Therese Grob (1798-1875)はシューベルトの「初恋の人」として知られる。
シューベルトの作品が初めて公の場で演奏されたのは1814年7月、リヒテンタール地区教会での「ミサ曲」ヘ長調D105の初演だった。そのときソプラノ独唱を務めたのがテレーゼである。テレーゼは決して美人ではなかったが、美しい声と瞳を持った16歳の少女だった。
シューベルトは彼女のためにたくさんの歌曲を書き、アルバムに綴って弟のハインリヒ Heinrich Grob (1800-1855)に託した。テレーゼの2歳年下のハインリヒも音楽の才能に恵まれ、ヴァイオリンとピアノを弾きこなした。
グロープ家はシューベルト家のすぐ近くで、頻繁に行き来があったという。確証はないものの、シューベルトはハインリヒのために一連のヴァイオリン曲を書いたのではないか、という説もある。
メッテルニヒ体制下、家族を扶養する能力のない一般市民男子の結婚は認められていなかった。シューベルトは彼女との結婚のために職を得ようと奮起し、1816年4月にはライバッハ(リュブリャナ)の教員採用試験に応募するも不合格に終わる。

むかし僕はある人を愛していて、彼女も僕を愛してくれていた。3年間、彼女は僕との結婚を待ち続けた。でも、結局僕は自分たちを養えるだけの職を得ることができなかったんだ。
(1854年、アンゼルム・ヒュッテンブレンナーの回想)

3年間。仮に1814年7月のミサ曲初演を機にふたりが交際し始めたとすれば、1817年の半ばまでということになる。
彼女との結婚が現実的ではなくなったシューベルトは、グロープ家を訪れることがなくなった。ハインリヒとも会わなくなった。
そしてヴァイオリンの時代が終わる。

そのままでは曲がもったいないというのでフェルディナントが「ポロネーズ」を初演することになったのだろうが、この独奏パートを十分に弾きこなせるだけの技量が彼にあったのだろうか。
テレーゼ・グロープは1820年11月21日、シューベルトと同い年のパン職人に嫁いでいった。


それから10年近く経って「(華麗なる)ロンド」D895(1826年10月)、「幻想曲」D934(1827年12月)という超弩級の大作が生まれるまで、独奏楽器としてのヴァイオリンは封印されることになる。ヴァイオリニストにとってもピアニストにとってもハードなこの後期の2作は、ヨーゼフ・スラヴィクとカール・マリア・フォン・ボクレットという2人の名手によって初演され、そのプライベートな空間に居合わせた人々を驚かせた。
一方で若い頃に書かれた4つのソナタは、弾き手を見失ったまま長い眠りにつき、再び世に出たときには作曲者はとうに没していた。
D384・D385・D408は「3つのソナチネ」Op.137として1836年に、D574は「デュオ」Op.162として1851年に、いずれもディアベリ社から出版された。
  1. 2023/05/13(土) 23:33:08|
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林悠介インタビュー (4)きっとチャンスだと思って

(第3回はこちら)

佐藤 それで聞こうと思ったんだけど、オケの人たちにとってシューベルトの曲をやるっていうのはどんな感じなのかなと。どういう反応っていうか。
林  反応。
佐藤 まず、結構やるものなの? ドイツだとたまにやるとか。
林  シューベルトはやっぱりそれなりに、といってもよく弾くのはなんといっても「未完成」。日本ほどは弾かないけど。日本は結構弾くよね、未完成。
佐藤 日本はまあそうだね。
林  読響はよく弾くんだけど。あと「グレート」とかね。
佐藤 うん。「グレート」になるとちょっとやっぱり回数としては少ないかなと。
林  そんなにしょっちゅう弾くものではないね。長い曲だし。僕はシューベルトが好きだから楽しいんだけど、ただ例えば「グレート」にしても、繰り返しっていうかひたすらぐるぐるぐるぐる…
佐藤 反復が非常に多い(笑)
林  お経を唱えてるようなところ(笑)。まあそれが心地いいんだけど、ちょっとしんどいところもないわけじゃないけど。コンサートで弾けば良さって、伝わってくると思うんだけど。
佐藤 逆にそれより前のシンフォニーとかってやることある?
林  時々。5番は美しくて特に印象に残っているな。だけどどうだろう、僕にとってはオーケストラの作曲家っていうよりも、どっちかというとピアノ曲とか歌曲とか、室内楽とか、そういうところでより良さが伝わってくるような。シューベルトらしさというかね。
佐藤 確かにね。歌曲はやっぱり独特で、彼が始めた、創始したジャンルみたいなところがあるから、もちろんメロディーも素晴らしいんだけど。でも本人的にはやっぱりシンフォニーと書きたかったらしいんだよね。
林  らしいよね、でもなんせまあ、ベートーヴェン様っていうのがいたし。
佐藤 まあ書いたところでなかなか演奏もされないし。でもどうやらその初期のシンフォニーは、当時ハトヴィヒっていうパトロンみたいな人がいて、その人がオーケストラ持ってて、その邸宅で初演したっていう話で。だからシューベルトが自分で指揮するなり、少なくともたぶん聴いたはずだと。ところが今演奏されてるその「未完成」とか「グレート」とかいうのは、生前には少なくとも演奏されてないんだよね。
林  うーん。
佐藤 だから楽譜は書いたけれども、実際に耳にすることはなかったんだろうといわれている。最後の「グレート」に関しては、楽友協会から、何か弾いてあげるから楽譜を出しなさいって言われて、書いて出したんだけれども、結局却下されて。で、その演奏会の前に本人は死んじゃうんだけれども、実際に演奏されたのは6番だったかな、C-durの違うシンフォニーで。だから結局「グレート」もその後ずっとお蔵入りになって、シューマンが発見するまで10年間ぐらいそのままだったというから、不運というかね。まあそういう曲はたくさんシューベルトの場合あるんだけど。
林  もうちょっと長生きっていうか、長生きとまでいかなくてももう少し生きていれば、大きな曲ももっと作れたかもしれないよね。
佐藤 そうだね、やっぱりキャリアを積むには、あまりにも人生が短かったとは思う。
林  もう少し生きていたらどういうふうになってたんだろうなって考えると、面白いけど。



佐藤 今回は、ヴァイオリンとピアノのソナタっていうか、多楽章構成のものをお願いするということで、全部で4曲あるわけだけど、何か印象とか。
林  シューベルト好きな割にはそこまでたくさん弾いてきたわけじゃないから、オールシューベルトで、さらにソナチネとソナタで固めるプログラムで、もう本当に大好きな、美しい曲なんだけど、果たしてこのプログラムで曲の魅力をうまくお客さんに伝えられるだろうかという不安はあった。でも実際に練習してみたり、合わせてみたりすると…このソナチネ3曲は同じ年に書いてる。
佐藤 そうだね。
林  だけど、1番・2番・3番で全然違うしね。後半のグランデュオは、翌年かな?
佐藤 そう。
林  同じ時期に書いた曲をいろいろ聴き比べられるのも面白いかもしれない。19歳・20歳で書いたとは思えない、深い部分もあるし。すごく楽しみになってきた。なかなかの挑戦ではあるんだけど。
佐藤 なんか本当に、こんなプログラムにお付き合いいただいてありがとうございます。なかなかやってくれる人いないと思うんだよね(笑)。毎回そうなんだけどこのシリーズにお呼びする人は結構いろいろ考えてお声がけしていて。今のところまだ断られたことはないんだけど、最初に話すと「えっ?」みたいな感じで。
林  自分ではなかなか言い出せないプログラムだよね、よほど自信があるとかじゃないと。
佐藤 ヴァイオリンのソリストでも、シューベルト4曲でって言われたら「へぁ?」みたいな感じじゃないかと。
林  「ちょっとそれは…」って人がおそらく多いんじゃないかな。でもやっぱりお互いウィーンつながりっていうこともあるし、やっぱり長年ウィーンに住んだ身としてはすごく価値ある挑戦かな。これは逃げてはいけないな。これはきっとチャンスだ、と思って取り組むことにしました。お声がけありがとうございます。
佐藤 じゃあ良い演奏会になるように。よろしくお願いします。

(インタビュー完・2022年10月25日、さいたま市にて)
  1. 2023/05/12(金) 23:45:04|
  2. シューベルトツィクルス
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林悠介インタビュー (3)コンマスのお仕事

(第2回はこちら)

佐藤 そこ(レックリングハウゼン)はどんな感じでした? オケの仕事としては。
林  合併したオケだったから、人数多くて130人ぐらいいて。日本にも似たようなオケがあるけど、二つの部隊に分かれて並行してやるようなところだった。
佐藤 へえ。
林  とにかく忙しくて、当時は。シンフォニー中心の定期演奏会は、周辺の小さな街でも行われたから回数が多かったし、もちろん歌劇場でのオペラ、ポップスコンサート、あと各地の教会で所属の合唱団との宗教音楽コンサート、ネトレプコなどの有名歌手とのガラコンサートでドイツ中回ったりもした。僕がオケの曲全然知らなかったのもあるんだけど、もう次から次へとひたすら譜読みで。そういう意味では大変だったけど、すごく鍛えられていい経験にはなったと思う。色々な曲弾けたからね。それこそオペラは、初めて弾くオペラが「サロメ」で。リヒャルト・シュトラウスの。
佐藤 (笑)そりゃまた大変だな。
林  それが最初の仕事だったかな。「はい、まずはサロメお願いします」って。
佐藤 いきなりハイレベルなところから始まった。
林  最初のオケの曲はブルックナーの9番だった。それもまたマニアックな曲で。
佐藤 (笑)まあブルックナーはオーストリアではおなじみですけど。
林  その後ハノーファーに移って。
佐藤 あ、その次がハノーファーなんだ。
林  そう。NDRっていう、北ドイツ放送の所属のオーケストラで、そこは第1コンサートマスターじゃなくて、副コンサートマスターだったんだけど。そこは僕がハノーファーのヴァイオリンコンクールを受けたときに、本選でそのオケがブラームスの協奏曲を伴奏してくれて、すごく良かった記憶があって。より世界的なソリストとか、有名な指揮者が来るオケだったから、それを経験したいという気持ちもあって、移った。充実した2,3年間だったんだけど、当時結婚して子供ができて、でも妻の所属しているオーケストラが遠くて通うには難しい距離で。
佐藤 うん。
林  ちょうど妻が働いてた街の近くのオーケストラ、ヴッパータールの第1コンサートマスターがずっと空いてると聞いて。それに僕自身もやっぱり第1コンサートマスターをまたやりたい気持ちがあったから、オーディションを受けたら受かって。その後4年間ほど在籍していたよ。
佐藤 じゃあドイツは3箇所。
林  3箇所だね。3つのオケを合わせて9年間。だからウィーンも9年、ドイツも9年。
佐藤 すごいな。それで帰ってきたのは去年(注・2021年)かな?
林  そうだね、縁があって読響からコンマスのお誘いを受けて。

林悠介インタビュー3

佐藤 これはどこまで聞いていいのかわからないけど、日本のオケで2年ぐらいやってみて、ドイツ時代と働き方って結構違うものですか?
林  うーん、そうね。
佐藤 どんなところが違う?
林  もちろんドイツもいろんなオーケストラがあるから、一概に言えないとは思うんだけど。ドイツのオケの方が、割と時間をかけてリハーサルするっていうか、リハーサル日程に余裕がある感じはあるかな。回数も多いし。
佐藤 そうなんだ。
林  それもね、日数があると団員も最初ちゃんと準備してこなかったりするから、割とスロースタートな感じはある。最初好き勝手に弾いていて、最後の方になってぐわーっとまとまってくる。まとまらないこともあるけど(笑)。そういう感じ。
佐藤 そうなんだ。
林  あとプログラムも違うかな、結構。プログラムの内容も。
佐藤 曲はそうだろうね。
林  指揮者(シェフ)にもよると思うけど、ドイツは全体的にはあんまりロシアものをやらない
佐藤 ああ、確かにその印象はあるかもね。
林  今の戦争は関係なくね。だから日本のオケの人は暗譜するほど弾いていると思う、チャイコフスキーの4番5番6番とかも、1回弾いたことあるかな、くらいの感じで。
佐藤 あっそうなんだ。
林  第九とかもね、それこそドイツのオケはそんなに弾かないから。何年かに1回。
佐藤 まあ第九は、日本は毎年やらざるを得ない。
林  「新世界」も滅多にやらない。
佐藤 あっそう?
林  7番8番は意外に弾くんだけど、9番は滅多にやらない。
佐藤 なんでなんだろうね。なんでこんなに日本人は9番が好きなんだろう。逆にドイツのオケでこれはしょっちゅうやるとかっていうのはある?
林  というのはなかったかな。もちろんその土地のお客さんの好みの傾向はあったけど、お客さんを飽きさせないように、新しい発見があるようにと多種多様なプログラムが組まれていた気がする。
佐藤 僕はドイツのオーケストラの定期演奏会とかあんまり聴いたことないからわからないんだけど。そう言われれば、なんかブラームスとかよく見たような気が。
林  あ、それこそハノーファーはブラームスよくやる
佐藤 やっぱりそうなの?
林  ハノーファーっていうか北ドイツのものという意識が。
佐藤 ハノーファーはゆかりがあるらしくて、確かブラームスのピアノコンチェルト1番ってハノーファーで初演したっていう。
林  すごい弾いた、あれは。
佐藤 そうでしょ(笑)
林  3年間で5回ぐらい弾いた、日本の新世界なみに。「あれ、また?」みたいな。それでお客さんも入るんでね。ブラームスだとすごい入る。すぐ売り切れる。
佐藤 ハノーファーの駅のすぐ近くにヨアヒムシュトラーセ(ヨアヒム通り)っていうのがあって、そこにヨアヒムが住んでたのかどうか知らないけど、とにかくヨアヒムはずっとハノーファーにいたので、それこそコンクールもヨアヒムコンクールなわけだ(注・ハノーファー国際ヴァイオリンコンクールの正式名称はInternationaler Joseph Joachim Violinwettbewerb, Hannover)。それでブラームスがコンチェルトを書いたときに、まだ当時はブラームスってたいしたキャリアがあったわけじゃないので、ヨアヒムがだいぶ尽力して。ブラームスとしてはあれがほぼ初めての大編成の作品で、その初演をハノーファーでやったっていうんで、なんかハノーファーの音楽家からするとそれが誇りらしくて。
林  そうなんだ。ピアノコンチェルト1番、あとシンフォニー1・2・3・4は弾いたね。確かにハノーファーではブラームスはやった。
佐藤 自分たちのものだと思っているんだろうね。ご当地もの。
林  そうだね。オケも得意だったし、いっぱい弾いてるっていうのもあるんだろうけど。

(つづく)
  1. 2023/05/06(土) 20:50:26|
  2. シューベルトツィクルス
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林悠介インタビュー (2)ウィーンらしさ、とは

(第1回はこちら)

佐藤 今回シューベルトをご一緒したいなと思ったのには、やっぱりウィーンの音楽っていうものを理解している人っていうのはすごく僕の中では大事なことだったので。それが何なのかっていうのは、難しいところなんだけど…どう思う? ウィーンの独特の音楽の伝統、語法っていうか。
林  確かにあるとは思うよね、やっぱりウィーンらしさ、ウィーンならではというか、ウィーンだけのものっていうのは。やってみてくださいって言われるとものすごく難しいことなんだけど。そのあと僕、オーケストラの仕事でドイツに移ったけど、ウィーンの作曲家、モーツァルトとかハイドンとかシューベルトとかやると、全然感じ取り方が違うんだよね。
佐藤 そうなんだよね。
林  求めている音も全然違うし。だからなんだろうな、音楽ってすごく幅があって、懐が深いというか、いろんな解釈があって、どれが正しいと断言はできないけど、やっぱりウィーンの作曲家に合う、ウィーン風の演奏スタイルは確実にあるよね。それが他の町や国で必ず喜ばれるかどうかわからないけど。
佐藤 確かにそれはそうだ。
林  やっぱり9年間住んでいた身からすると、そういうスタイルや音色、センスに接するとやっぱりその、ほっとするっていうか、これだよなっていうような気持ちになる。
佐藤 僕は逆にドイツ時代が先にあってさ、5年間ドイツにいて、その後ウィーンに行ったので、その違いみたいなものを強烈に感じたっていうか。
林  そうかもね、ドイツが先だと特に。
佐藤 ウィーンは、音楽を聴く機会がすごく多い街で。例えばオペラとかオーケストラとかいっても、もちろん全部ウィーンの人たちがやってるとも限らないし、ウィーン風なわけでもないんだけれども、たまにウィーンフィルとかあるいはシンフォニカー(ウィーン交響楽団)とかを聴くと、なんか独特のセンスがあるよね。音色感もちょっと違うところがあるような気がするし、他の街とはどうも違う感覚があるような…何なんだろうなと思うんだけど。僕はウィーンで勉強したのは2年間だけだったから、長くいた人はどう思うのかなと。ドーラ先生は別にウィーン出身というわけではないよね?
林  そうそう、ロシア系の人だから。
佐藤 ウィーンの伝統的なことについて指導があったわけではない?
林  そうだね、指導があったわけじゃないけど、とはいえやっぱり長年住んでるから、ものすごく影響というか、共感してる部分はあったんだなって、離れてから感じたね。
佐藤 なるほどなるほど。
林  同じロシア系で、同じ年代の先生とかと比べても、全然アプローチが違うなと思う。やっぱり長年住んで、それこそウィーンフィルも何回も聴いてるわけだし、あと同僚の先生たちもウィーンの人が多かったから。アルバンベルク・カルテットのピヒラーとも仲良かったし、そういうところから、先生自身も学んでたみたいだから。
佐藤 そうなんだ。なんかウィーン時代の思い出とかあります? 一言では言えないと思うけども。
林  それこそコンサートをいっぱい聴けたのは、すごく良かったなと思う。当たり前のようにウィーンフィル聴いて、オペラにしても、もちろんお金なかったから立ち見が多かったけど。そういうのを聴いて感動した思い出とか…あと、ウィーンも最近はいろいろ変わったけどやっぱり昔のものが残ってるね、旧市街だったり。それこそ、父親の影響で僕も「冬の旅」を散々CDで聴いたけど、冬に自宅に帰るとき、当時結構郊外の、Ober St.Veitっていう地下鉄の終点の近くに住んでたんだけど。
佐藤 おお、だいぶ遠いね。
林  帰り道に雪の中歩いていると、ふと「冬の旅」のメロディーが浮かんできて、ああこういう雰囲気っていうか空気感なんだなって、はっとする瞬間とか。だからといって簡単に演奏に生かせるわけじゃないけど、その感覚を味わえたっていうか、覚えられたっていうのは、大きいかな。今でも自分が演奏していてそういう記憶が蘇ってくると、やっぱり楽しいし音楽が身近なものに感じるかな。
佐藤 うーん、長年住んだ人ならではの感覚だね。

林悠介インタビュー2


佐藤 ウィーンを離れるきっかけになったのは、オーケストラに入るっていう。
林  そうね、コンサートマスターになりたいっていう夢が元々あって。それこそ日本を発つときに、原田先生に「ただ留学しても意味がない、何かはっきりした目標を持ちなさい」と言われ、「ヨーロッパのオケのコンサートマスターになりたいです」と話したら、「おおそれは立派な夢じゃないか。必ずやりなさい、やり遂げてきなさい」と言われ出てきたんだけど。
佐藤 へえ。
林  だけどウィーンの先生も教え子にコンサートマスターは多かったけど、それに特化した先生ではなかったし、僕もコンクールに挑戦する傍ら室内楽にも力を入れていたんだけど、ある程度の年齢になって、どうしてもコンサートマスターに挑戦してみたいなと思って。ドイツ、オーストリア、スイスのドイツ語圏のオーケストラで、コンサートマスターの募集のかかっているところはレベル関係なくほとんど全部応募してみたんだけど、20箇所出して、確かオーディションの招待状が来たのが2箇所で。
佐藤 うーん。
林  もともとドイツは書類選考が厳しいけど、オーケストラの経験がほとんどない人がいきなりコンマスに応募しても難しいと思うよ。でもドイツはなにせオーケストラの数も多いから、その招待してくれたオーケストラもドイツで、早速オーディション受けに行って。
佐藤 もう最初から第1コンサートマスターで。
林  そう、そこは運良くそれで受かったけど、今思うと経験がない人をよく取ってくれたなと思うよ(笑)
佐藤 すごいな。そのコンサートマスターの試験って、試験勉強とかどういうことをするの?
林  いわゆるオケスタ(オーケストラスタディ)ね。コンサートマスターだと有名なソロの部分の抜粋。ウィーンの音大でも教えてくれる先生がいて、授業の枠で個人レッスンもしてもらっていたよ。
佐藤 ああそうなんだ。
林  うん。クロイザマーというウィーンフィルのメンバーの先生に習ってた。
佐藤 それってみんな取らなきゃいけないの?
林  みんな取らなきゃいけない。数ゼメスターは。
佐藤 じゃあみんなとりあえずはやってるんだね。どのくらいやったかは別にして。
林  別に演奏は義務じゃないから、ただレッスンを聴講してサインだけもらえばいいんだけど、せっかくだから僕は順番を待って演奏するようにしていたよ。あ、でも卒試でもオケスタを弾かなきゃいけないのよ、ウィーンは。トゥッティのオケスタと、最後の修士の試験は、コンマスのオケスタ弾かなきゃいけない。
佐藤 なるほど。じゃあみっちりやらなきゃだね。
林  あと大事なのは必ず一次予選に出るモーツァルトのコンチェルトね。でも実際のオケのオーディションだと、コンクールと全然違って時間がすごく限られていて、5分くらいしか弾けない。全曲通して弾いた中で総合的に見てもらえるわけではなくて、「はい次の人」って呼ばれて、ぱっと弾いて、最初ミスしたら「はいおしまい」って世界だから。
佐藤 (笑)
林  それは言い過ぎだけど。最初から、限られた時間で見せなきゃいけないっていうのはまた違うトレーニングが必要なんだよね。だから人前で弾く練習も繰り返したけど、最初はなかなかうまくいかなかったね。オーディションはやっぱり独特の雰囲気があるし、衝立があって向こう側が全く見えないこともある。
佐藤 あ、ブラインドでやるんだ。
林  ブラインドでやるオケもあって、逆に何か変な感じだった。
佐藤 そうだよね(笑)どこ向いて弾けば良いのか。
林  衝立の向こうがどのくらいの広さで、何人が聴いているのか全然見えない。ある意味コンクール以上に緊張したかもしれない。
佐藤 そうか、なるほどね。一番最初に行った街はどこ?
林  レックリングハウゼンというドイツの西部の街で、ドルトムントやエッセンの近く。あの一帯はルール工業地帯といって以前は石炭工業で栄えていたんだよ。だから、ウィーンから来たこともあったと思うけど、あまり街並みが美しいとは感じなかったかな。
佐藤 (笑)
林  僕が在籍していたオーケストラは、そのレックリングハウゼンのシンフォニーオーケストラが、隣町のゲルゼンキルヒェンという町の歌劇場オーケストラを吸収合併してできたオーケストラ。歴史的にいえば労働者の街だけど、かつてのドイツの政策で、娯楽と芸術的な施設を各都市に作ろうというものがあったらしく、サッカー場と歌劇場をドイツ各地に作ったらしいんだよね。それこそ、ゲルゼンキルヒェンにはシャルケっていう、僕がいた頃に内田選手が活躍していた有名なサッカーチームがあって、日本人ファンも時々見かけたよ。
佐藤 はいはい。
林  サッカーチームと歌劇場が地方都市にも揃っているのが、ドイツらしいところだね。
佐藤 面白いね。日本だとさ、工業都市とか労働者の街っていうのはあんまり文化的なことをやらない。なぜかっていうとナイトライフみたいなものがなくて、朝早く工場行って、仕事終わったら帰って寝るだけだから。
林  うん。
佐藤 だからレストランとかが閉まるのも早いし、夜にコンサートを聴きに行くような文化が生まれないっていう話なんだよね。コンサートを聴きに来る人たちっていうのは割とホワイトカラーで。
林  そうか。
佐藤 大都市で、あんまり朝早く仕事に行かなくてよくて、そんなに疲れずに夕方仕事を終えた人たちが、その後繰り出してコンサート聴きに行く、みたいな感じだと。そこらへんがやっぱり違うよね。娯楽としての歴史の長さもあるんだと思うけど。

(第3回につづく)
  1. 2023/05/04(木) 23:08:43|
  2. シューベルトツィクルス
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林悠介インタビュー (1)周りに誰もいなかった

佐藤卓史シューベルトツィクルス第18回のゲスト、林悠介さんにお話を伺いました。
ヴァイオリニストをお迎えするのはシリーズ初。佐藤とは昔からの友達ではあるのですが…

佐藤 林くんのインタビューみたいなものは、ネット上にはあまりないようだから。
林  そうだね。
佐藤 オーソドックスな質問からお聞きしていいでしょうか?
林  はい。
佐藤 いつぐらいから、なぜヴァイオリンを始めたのかという。
林  ヴァイオリンを始めたのは、ちょうど4歳になる頃だったかな。僕の両親は音楽家じゃないけど、父親が音楽好きというか、もう相当な愛好家で。
佐藤 言ってたよね、フィッシャー=ディースカウのレコードとかたくさんお持ちだったと。
林  そう、それこそ今回のと繋がるんだけど、こどもの頃はシューベルトの「ます」(ピアノ五重奏)とか。
佐藤 へえ!
林  「ます」が一番気に入っていて、好きだった。でもヴァイオリンのところじゃなくて、一番喜んでいたのはピアノが出てくるところで。

林悠介インタビュー1

佐藤 まあ「ます」はピアノが一番おいしい曲だから(笑)
林  そうそう。シューベルトに限らず室内楽が多かったかな、父親の趣味もあって。
佐藤 なんか渋いですね。
林  バルトークの弦楽四重奏全曲なんか聴きすぎて、小学生のときにはほとんど覚えていたね。
佐藤 すごい。
林  シューベルトだとそれこそ「冬の旅」とか、渋いものが好きだったけど。そういうこともあって、楽器をやらせたいと。父親は自分が子供の頃にヴァイオリン弾きたかったようだけど、当時はなかなか難しかったらしくて。
佐藤 はあなるほど。
林  転勤族だったから、ずっと地方を転々としてたんだけど、その土地土地で先生を見つけて、最初は趣味っていうか、遊びでやっていたかな。
佐藤 でもあるときに、ヴァイオリニストとしてプロになろうと。
林  そう、だんだん大きくなってきて小学校高学年ぐらいから東京の先生に見てもらったりして。それで中学1年生のときに原田幸一郎先生に演奏を聴いてもらったら「1日3時間以上練習すると約束できるなら、僕のところに来なさい」といわれて。
佐藤 それまでは何時間ぐらい練習してたの?
林  どのくらいやってたのかな、はっきりとは覚えてないな。
佐藤 3時間って言われたらちょっと多いなって感じ?
林  「毎日かあ」って。でも先生が言ったのはその3時間に見合った内容っていうことで。そのためには最低3時間は要るよっていうだけで、3時間でいいっていう話じゃなかったんだけど。
佐藤 確かにそうだ。
林  そこから、桐朋に進んでプロを目指すっていう道が見えてきたかな。勉強も並行してやってたし、僕はどっちかというと夢は宇宙とか。
佐藤 へえ!
林  宇宙飛行士になりたいわけじゃなかったんだけど、宇宙関係のことやるのが夢で、外国に出るのも夢だったね。でも中2ぐらいで桐朋に進むって決めたときに、腹を決めたというか。
佐藤 じゃあ、ヴァイオリニストになりたいっていうのは半分ぐらい、みたいな感じ?
林  そうね、半分ぐらい。ただ両親も音楽家じゃないから、ヴァイオリニストで食べていくって実際どういうことなのか、具体的にわかるわけじゃないし、あと地方だったのもあって、周りにヴァイオリンやってる人なんて誰もいなかったんだよね
佐藤 そうなの?
林  転校しても、いつもその学校でヴァイオリン弾く人は僕1人。先生たちも「ヴ、ヴァイオリン!」「見たこともない」みたいな感じで。
佐藤 ちなみにどんな街で暮らしてたの?
林  ヴァイオリン始めたときは、宮崎県の延岡市。
佐藤 おお! だいぶ南の方だね。
林  そう。その後熊本に移って、熊本にはもちろんヴァイオリンの先生は何人かいたんだけど、学校にはヴァイオリン弾く子はいなかったんじゃないかな。その後長野県上田市に。
佐藤 かなり距離が。
林  そこもヴァイオリンを弾く友達はいなかったね、学校には。みんなの前で弾いてみせたら目を丸くしていたのを覚えているよ。実物を見たことなんてなかったんじゃないかな。
佐藤 でも長野っていったらスズキメソッドのイメージが。
林  そうそう、今は上田って良いホールもできたしね、盛んだけど当時はそうでもなかったのかな。
佐藤 そうなんだ。
林  その後宇都宮に移って。その頃はもう中学2年生で原田幸一郎先生のところに毎週末通っていた。その後桐朋に入って東京に。
佐藤 なるほど。高校から桐朋なんだよね。
林  そう、桐朋の高校に入って、そこで初めて音楽をやる仲間に出会えたっていうか、一緒に室内楽とか演奏することができて、楽しいなと思った。
佐藤 桐朋ってあれでしょ、男の子少ないんでしょ?
林  少ないね(笑)。当時1学年に100人ぐらいいて、僕の学年は男が12人。3クラスあったから1クラスに4人、それでも割と多い方だった。
佐藤 あ、まあそうだね。
林  女の子たくさんいていいねと言う人いるんだけど、そうでもない(笑)。男でいつも固まって行動していた。
佐藤 (笑)そうだろうね。
林  今でも仲いいのだけどね、その男子たちは。
佐藤 でも、大学は行かずに?
林  ソリストディプロマコースに行くつもりだったけど、高校3年生の2月か3月にウィーン音大教授のドーラ・シュヴァルツベルク先生のレッスンを受けて。最初は、そのアシスタントのソロコフ先生に日本の講習会で習って、その流れでウィーンに習いに行ったんだ。
佐藤 へえ。
林  そこで当時の自分に必要な先生はこの人だっていう、ものすごい確信を持ったからその年の5月に入試受けに行って、無事に合格。だからもう日本で大学行かずにウィーン音大へ。
佐藤 ってことは高校3年終わってその年の春にウィーンに行って、その年の秋から。
林  そう。まだ19歳になる前だった。
佐藤 そうか。僕が林くんに出会ったときは、僕があのとき21歳かそのぐらいだったから、ウィーンに行って3年ぐらい?
林  3年目かな?
佐藤 確か2005年に会ってるんだけど。
林  そしたら、ちょうど丸2年経ったところだね。ゴスラーの講習会だったよね。
佐藤 そうそう。その頃は自分史的にはどんな感じ? まだまだウィーンにいようかな、みたいな?
林  そうね、講習会は色々受けていたけど、あの頃はまだしばらく、自分の先生のところで習っていこうと思っていたかな。2005年だと、それこそコンクールとかもいろいろ挑戦していたし、具体的にソリストを目指しているわけではなかったけど、まだ勉強していろいろ経験を積みたいという段階だったね。
佐藤 結局ウィーンには何年間?
林  結局ね、9年間もいたんだ。
佐藤 長かったね。
林  9年間いたねえ、なんかそんな実感が全然ないんだけど。
佐藤 最後ちょっとかぶってたもんね確か(注・佐藤は2011年にウィーンに移住)。
林  そうだよね。修士課程まで修了したんだけど、最後の方はカルテットの演奏活動をしていたからウィーンからもちょくちょく離れてて、卒業も延ばしていた。でもなんだろう、あそこはあそこで別の時間が流れてるっていうか。たぶんわかると思うんだけど。
佐藤 うん、そうだね。
林  別に何年でも住めるっていうか、なんだろうね。9年いたんだけど、あっという間というか。

(第2回につづく)
  1. 2023/05/03(水) 20:12:28|
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