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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲 D576 概説

アンゼルム・ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲 イ短調 13 Variationen über ein Thema von Anselm Hüttenbrenner a-moll D576
作曲:1817年8月 出版:1867年
楽譜・・・IMSLP

独立した変奏曲以外にも、多楽章器楽曲の中間楽章にしばしば変奏曲形式を用いるシューベルトだが、その主題の多くは自作の歌曲である。他人の主題を借用することは非常に珍しく、連弾のための
フランスの歌による8つの変奏曲 D624(オルタンス妃の主題)
・エロルドのオペラ『マリー』の主題による8つの変奏曲 D908
と、独奏のための
ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲 D576
(・ディアベリのワルツによる変奏 D718(オムニバスに寄稿した単独変奏))
を数えるのみである。友人の主題を用いた変奏曲はD576が唯一ということになる。

イェンガー、ヒュッテンブレンナー、シューベルト
ヨーゼフ・エドゥアルト・テルチャーが描いた「3人の友人たち」。画面右からイェンガー、ヒュッテンブレンナー、シューベルトが並ぶ。イェンガーもヒュッテンブレンナーと同じシュタイアーマルク出身の作曲家だった。

アンゼルム・ヒュッテンブレンナー(1794-1868)はグラーツの裕福な地主の息子として生まれた。グラーツ大学で法律を学ぶが、その楽才に感心したモーリツ・フォン・フリース伯爵の援助を受けて1815年4月にウィーンに進出しサリエリの門を叩く。ベートーヴェンからも認められた若き作曲家は早々に頭角を現し、シュタイナー社から次々に作品が発表されていった。まさに注目の新進作曲家であり、この時点でシューベルトとは段違いのキャリアを築いていたといえる。
1817年に作曲されたこの「13の変奏曲」の主題は、前年に作曲されたヒュッテンブレンナーの最初の弦楽四重奏曲から採られている。第3楽章「アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニ」は、原曲そのものが変奏曲形式(主題と4つの変奏)になっている。シューベルトは同じ主題に新たに13もの変奏を書いて本人に見せたのだ。それは友情の証か、遥か先を行く朋友への憧れだったのか、それとも自負心の表れだったのだろうか。弦楽四重奏曲は翌1818年にOp.3として出版され、ヒュッテンブレンナーの出世作となった。
2年前に作曲されたピアノ独奏のためのもうひとつの変奏曲、創作主題による「10の変奏曲」D156に比べると、変奏の自由度は減り、厳格変奏の趣が強い。中には高度な演奏技術を要する場面もあり、技巧派ピアニストだったヒュッテンブレンナーの前作「6つの変奏曲」Op.2の影響も見てとれるが、同時にこの年にシューベルト自身がピアノ・ソナタの制作に打ち込んだ、その書法研究の成果が反映されているともいえるだろう。

主題 イ短調 8+8の16小節からなるシンメトリカルな主題は、シューベルトが偏愛した長短短のダクティルスのリズムに支配されている。ベートーヴェンの交響曲第7番(1812)の第2楽章からの影響や、シューベルトの弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」D810 (1824)の第2楽章との類似が指摘されている。第8小節の空虚5度の響きは意表を突くが、ヒュッテンブレンナーの原曲を踏襲したもので、これも前出ベートーヴェン(第2楽章の第5小節、第3音を欠くドミナント和音)のオマージュという説もある。
第1変奏 イ短調 バスがスタッカートで細かく動き始める。そのモティーフも縮小されたダクティルスである。
第2変奏 イ短調 3度で重ねられた左手の主題の上で、右手が16分音符のオブリガートをなめらかに奏でる。減七の和音の多用がより濃厚な表情を生む。
第3変奏 イ短調 ダクティルスの逆行、すなわち短短長(アナペスト)のリズムによる和音連打が強調され、後半では音域を変えて毎小節登場する。
第4変奏 イ短調 左手に16分音符のパッセージが現れる。中央のラ(A4)から始まり、第6小節で3オクターヴ下のラ(A1)にまで降りていくという音域の広さは圧倒的だ。
第5変奏 イ長調 早くも長調の変奏が登場。右手は16分音符の3連符に装飾音がついた細やかなパッセージを優雅に奏でる。移旋による和音の表情の変化は驚くべきもので、楽園のような安らぎに包まれている。
第6変奏 嬰ヘ短調→イ長調 前変奏の平行調から始まる変則的な調性配置はシューベルトの真骨頂。コラール風の厳かさと温かさを湛えている。
第7変奏 イ短調 主調に戻り、右手は冒頭主題をそのまま再現するが、左手の3連符のパッセージは非常に技巧的で、もはやエチュードの域である。
第8変奏 イ短調 3声の対位法的なテクスチュア。両外声は主題と同型だが、中声部が16分音符で細かく動く。右手の伸張を要求するため、地味な曲調のわりに演奏は難しい。
第9変奏 イ長調 2度目の同主調へ。前変奏と同じく3声の書法で始まるが、動的な中声部(16分3連符)は分散和音音型で、「無言歌」に似たロマン派的な書法を見せる。左手は次第に和音に膨らんでいき、さらに甘い響きに満たされていく。
第10変奏 イ短調 一転して激しくデモーニッシュな変奏。オクターヴでダクティルスの主題を強奏する左手の上で、右手が32分音符のアルペジオの嵐を繰り広げる。
第11変奏 イ短調 左手の3度重音の主題を2小節遅れで右手が模倣し、しかしその後は和声的に展開される。後半に登場する付点リズムがだんだん全体を支配していくなど自由な発想に満ちている。
第12変奏 イ短調 第8変奏に似た3声の書法だが、左手がリズミカルな動きを見せる。弾むような短長リズムは即興曲D935-3(いわゆる「ロザムンデ変奏曲」)の第4変奏を想起させる。
第13変奏 イ長調 フィナーレで3度目の同主調へ。はじめて拍子が3/8に変わり、繰り返し時にオクターヴ高くなるため延べで書かれている、という特徴は前作D156のフィナーレと一致する。型どおりの変奏に続き、第241小節でイ短調に戻って付点リズムのモティーフに基づく自由なコーダが展開される。嬰ハ短調から突如ハ長調に転じ、しばらくハ長調のドミナントペダルが続いた後、再びイ長調(4度目)へ。高音域で変奏冒頭の8小節を反復し、突如怒り狂ったようにイ短調の和音を叩きつけて驚愕の幕切れとなる。

シューベルトが贈った清書譜をアンゼルム・ヒュッテンブレンナーは大事に保管していた。シューベルトの死から25年後の1853年、そこに「フランツ・シューベルトが作曲し、友人であり共に学んだアンゼルム・ヒュッテンブレンナー氏に献呈された」との注記を加筆した。しかしウィーン市立図書館に残るオリジナルの自筆譜にはそのような献辞はない。
ヒュッテンブレンナーが秘蔵していた「未完成交響曲」のスコアが発見されたのはそれからさらに12年後の1865年のことだった。
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  1. 2022/09/30(金) 10:55:11|
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アルバムの綴り D844 概説

アルバムの綴り(ワルツ) ト長調 Albumblatt (Walzer) G-dur D844
作曲:1825年4月16日 出版:1897年(旧全集)
楽譜・・・IMSLP

シュヴィントとアンナ・ヘーニヒ
アンナ・ヘーニヒ(1803-1888)の記念帳に書き残された小品。
同じアルバムの中にはモーリツ・フォン・シュヴィントが1827年8月7日に作曲したという変ロ長調の「アンダンテ」の自筆譜も収められている。シュヴィントは本業は画家だったが、ピアニストとしてもなかなかの腕前で、シューベルティアーデで「歌い手シューベルト」の伴奏者も務めたというから、作曲の心得もあったのだろう。
アンナは弁護士フランツ・ヘーニヒの娘で、シューベルティアーデのメンバーのひとりだった。仲間内では「かわいいアン・ペイジ」(シェイクスピア『ウィンザーの陽気な女房たち』の登場人物)と呼ばれ、特に美人というわけではなかったが気立てが良く聡明な女性だったという。シューベルトは1824年の末に初めてヘーニヒ邸を訪れ、アンナのことを気に入ってたびたび出入りするようになった。そんな折に頼まれて彼女のアルバムにこの無題の小品を書いて渡したのだろう。日付は1825年4月16日とある。
ところがもっとアンナに夢中になったのがシュヴィントであった。猛烈なアタックが実って1828年春に婚約に漕ぎ着けたが、自由人シュヴィントと堅実なアンナがうまくいくはずはなかった。いざこざの末1829年10月に婚約は破棄されたが、1828年11月に死んだシューベルトはそのことを知らない。アンナはその後、やはりシューベルトの仲間だった軍官のフェルディナント・マイアホーファー・フォン・グリュンビューエルと1832年に結婚した。シュヴィントはその後も夫妻と友情を保ったという。
シュヴィントが1868年に描いた有名な「シュパウン邸でのシューベルティアーデ」の図の中に、シュヴィント自身とアンナも描かれている。シュヴィントは画家仲間のクーペルヴィーザーやリーダーと一緒に壁際に立ち、そのすぐ前で微笑みを浮かべている女性がアンナ・ヘーニヒだといわれている。

8+8の16小節、3拍子ということで確かに舞曲の要件は満たしているが、新全集をはじめとして「ワルツ」というタイトルが正式に認められているのは甚だ疑問である。シューベルト自身が自作を「ワルツ」と題したことはほぼないので、シューベルトの考えるワルツのスタイルはよくわからないが、一般的なワルツの様式とは大きく異なっている。むしろレントラーやドイツ舞曲といった方がしっくりくるだろう。「アルバムの綴り」の通称の方がふさわしいと筆者は考える。
和音が連続するコラール風の書法は同じト長調のソナタD894を連想させる。静かに揺れるような、優しさに満ちた佳品である。
  1. 2022/09/29(木) 08:00:48|
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ドイツ舞曲とエコセーズ D643 概説

ドイツ舞曲 嬰ハ短調 と エコセーズ 変ニ長調 Deutscher cis-moll und Ecossaise Des-dur D643
作曲:1819年 出版:1889年(旧全集)
楽譜・・・IMSLP

ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナー Josef Hüttenbrenner(1796-1888)はアンゼルム・ヒュッテンブレンナーの2歳下の弟で、兄と同様に故郷グラーツで音楽を学んだが、それを本職にすることはなかった。官吏の職を得るために22歳のときにウィーンに進出し、シューベルティアーデの仲間に加わった。
ヨーゼフの作曲能力はシューベルトもある程度認めていたようで、交響曲第1番やオペラ『魔法の竪琴』第1幕のピアノ編曲といった下仕事を任せたりしている。
この2つの舞曲はヨーゼフに献呈されている、という以上にヨーゼフと深い結びつきがある。ヨーゼフの作品の自筆譜の裏面に書きつけられているのだ。

ヨーゼフの作品は『怒りの踊り』というタイトルのピアノ曲で、♯4つ・♭3つという変わった調号のついた4分の3拍子の舞曲だ。この調号は、嬰ハ短調またはハ短調のどちらでも演奏可能、ということだろう。オクターヴを駆使した技巧的な小品だが、楽想は野暮ったくアマチュアの域を出ない。
五線紙にはくしゃくしゃに丸められたような跡があり、おそらくヨーゼフ自身が作曲後に破棄したものと考えられる。シューベルトがそれを拾ってきて、表裏と上下をひっくり返し、同じ嬰ハ短調の「ドイツ舞曲」(Teutscher)と、その下に同主長調(異名同音)の変ニ長調の「エコセーズ」を書いてヨーゼフに贈った、ということらしい。単なるプレゼントというよりは、作曲スキルの差を見せつけているような感じがしなくもない。
ヨーゼフはシューベルトの熱心な崇拝者だったが、少々度が過ぎるきらいがあり、シューベルトからは逆に疎まれていたようだ。

ドイツ舞曲で嬰ハ短調という珍しい調性をとったのは、ヨーゼフの原曲に寄せたからなのだろう。調性ともども、ショパンのワルツを彷彿とさせる繊細な音使いに驚かされる。後半ではイ長調、嬰ハ長調へと転調していき、そのまま次の変ニ長調のエコセーズに繋がる。
エコセーズは3度重音を駆使した技巧的な曲で、第5-7小節の右手の下降3度音階、それを左手で模倣する第13-15小節は特に演奏至難である。ピアノの名手だったアンゼルムが難しい嬰ハ長調のピアノ・ソナタ」(D567?)を弾きこなして献呈を受けたというエピソードを思い起こさせる。
  1. 2022/09/28(水) 11:59:46|
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トリオ D610 概説

あるメヌエットの放蕩息子とおぼしきトリオ ホ長調 Trio zu betrachten als verlorener Sohn eines Menuetts E-dur D610
作曲:1818年2月 出版:1889年
楽譜・・・IMSLP



シューベルトのピアノ作品の中でも特に奇妙なタイトルがついた曲である。
ドイチュ目録では1929年を最後に所在不明とされている自筆譜(Brown, Ms.23)は、どうやらその後発見されて現在モルガン・ライブラリーに収められているようだ。

Trio zu betrachten als verlorener Sohn eines Menuetts.
von Franz Schubert für seinen geliebten Herrn Bruder eigens niedergeschrieben im Feb. 1818


2行目はわかりやすい。「フランツ・シューベルトによって、愛する兄上のために1818年2月にわざわざ書き記された。」兄というのはおそらく次兄フェルディナントだろう。フェルディナントの手になる筆写譜も残っている。
問題は1行目である。直訳すれば「あるメヌエットの失われた息子と見做されるトリオ」となる。
トリオとは三部形式の中間部のことで、古典的なメヌエットは「メヌエットとトリオ」で1セットである(「メヌエット - トリオ - メヌエット」の順で演奏される)。シューベルトの初期のメヌエットの中には、2つのトリオを持つものも多い。
ここにあるのはそのうちの「トリオ」部分のみである。主部のメヌエットがどんな音楽だったのかは知られていない。つまり現実に失われているのは「メヌエット」の方なのだが、これはどういうことなのだろうか。
字義通り解釈すれば、もともとフェルディナントの手元に「メヌエットとトリオ」のセットで楽譜が揃っていたのだが、何らかの理由でトリオだけを紛失してしまった。そこで弟に頼んで、トリオ部分を再度「わざわざ」書いてもらったのだが、そのあと主部のメヌエットの楽譜も散逸してしまい、新たに書き留められたトリオの譜面だけが残った、というストーリーが考え得る。
モーリス・ブラウンは、失われたメヌエットは嬰ハ短調のD600と推定したが、新全集は作曲年代(D600は1813-14年頃と推定)からこの説に否定的であり、筆者も様式的にD600+D610という組み合わせはないだろうと考えている(詳しくはD600の概説を参照)。

しかし、もし単に散逸したトリオの復元なのであれば「あるメヌエットの失われたトリオ」と書けば足りる。「息子」と「見做される」とはどういうことだろうか。
Verlorener Sohn(失われた息子)は、ドイツ語では「放蕩息子」を意味する成句である。聖書の「放蕩息子」の喩え話を、ここであえて引用する必要はないだろう。
思い当たるのは、この時期のシューベルト自身の境遇である。専業の作曲家として生きようとするシューベルトは、教職に就かせたい父親と関係が悪化し、仲間たちも心配して一時の住まいや働き口を斡旋するほどだった。シューベルト自身が父に背き、安定した暮らしを捨てて、「放蕩息子」と「見做され」ようとしていたのである。
5年前、シューベルトは30曲ものメヌエットを書いて長兄イグナーツに捧げた(D41)。そのうち10曲は現存していない。もしかしたらその中の、兄たちが特に気に入っていたトリオを、まだ家庭が温かかった頃を思い出しながら書き留めて、家族でただひとり彼の望みを理解してくれた次兄フェルディナントに託したのかもしれない。「放蕩息子」の身代わりとして―。
夏にツェリスに赴任したシューベルトは、それきり実家に戻ることはなかった

曲はわずか16小節(8+8)で、確かにメヌエットのトリオたる特徴を有している。付点のアウフタクトから始まりひらひらと下降するメロディーと、主和音に落ち着かず浮遊するようなハーモニー、そして時折登場する装飾音がどこか可憐な印象を残す。第13小節のアウフタクトから、冒頭のモティーフが左手に登場するところなどは技法的にも凝っている。ホルン五度の使用も相まって、管楽合奏の趣もある。
あるメヌエットの放蕩息子とおぼしきトリオ」の和訳は堀朋平氏の提案によるもので、ワードチョイスが素晴らしいと思って拝借した次第である。
  1. 2022/09/27(火) 23:47:43|
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『狂騒クラブ』、知られざるシューベルティアーデの前身

(承前)

シューベルティアーデの前身として、近年発掘され注目されているのがUnsinnsgesellschaftである。和訳すれば『ナンセンス協会』または『狂騒クラブ』(訳©堀朋平)といった意味になる。
このグループの解明は、カナダ出身の学者リタ・ステブリン(1951-2019)が独力で成し遂げ、著書「Die Unsinnsgesellschaft」(1998)にまとめられた。
メンバーたちはUnsinniadenと自称している。Unsinn「無意味」に接尾辞-iade(n)が付いたもの、「無意味愛好者」「ナンセンス主義者」。Schubert-iade(シューベルト主義者、シューベルト党員)の語構成と似通っている。構成員たちはコードネームで呼び合い、たとえば中心メンバーのアンシュッツAnschütz (Anschuetz)兄弟はシュナウツェSchnautze(鼻)と号している。アナグラム(文字の入れ換え)で作られた二つ名である。これはまだわかりやすいが、レオポルト・クーペルヴィーザーのDamian Klexなどはもはやどういう由来なのかよくわからない。
彼らの活動の痕跡として残されているものは、1817年4月から1818年12月にかけて週刊で制作・発行された同人誌で、「人間の狂騒の記録」と題されている。全体のおよそ3分の1にあたる29点が散逸を免れウィーン市立図書館に収蔵された。

紙面を満たすのは不思議な図像や文章たちだ。たとえば1818年8月13日の日付を持つある記事を引用しよう:

スペインからの報告によると、異端審問所は黒魔術に没頭した罪状で著名な画家フアン・デ・ラ・チンバラを逮捕した。彼は逮捕される前に魔術によってひどい火傷を負ったということで、無事の生還が望まれる。

一見デタラメかつ意味不明な内容だが、この時期シューベルトは人生で初めてウィーンを離れハンガリーのツェリスに出かけていて、そのことをネタにした記事だとステブリンは推測する。チンバラはツィンバロンやシンバルといった楽器を連想させる名前であり、作曲家を画家に、ハンガリー(ヨーロッパの東端)をスペイン(ヨーロッパの西端)に置き換えたというわけだ。そしてスペインといえば異端審問、異端審問といえば火あぶりというのはもう枕詞のようなものである。
このように、仲間内だけで通じる隠語や言い換えを駆使した言葉遊びが展開されており、その作法を知らない部外者には「無意味」にしか思えないのだが、時にはそれが下ネタや醜聞の隠れ蓑になることもあったようだ。
例えば、こちらは1818年7月16日付で、近年よく見かけるようになった「万華鏡と自転車」のイラストである。
万華鏡と自転車
クーペルヴィーザーによる水彩で、万華鏡を手にした肥った男は見るからにシューベルトであろう。そこへ自転車で突っ込んでいるのはクーペルヴィーザー自身だ。E・アンシュッツによる注釈には

最近発明された万華鏡や自転車は危険。夢中で万華鏡を覗きながら道を歩いていると自転車に轢かれるぞ

などとあり、数号あとの記事にはこれを引いてG・アンシュッツが

万華鏡を覗くと道行く人の服が透けて見えるらしい。グラーベンを歩くのが好きな若い男には最適

J・クーペルヴィーザーは

万華鏡は目だけではなく鼻にも悪影響がある

と警鐘を鳴らす。
最新のトレンドを題材にしたナンセンスなジョークのようだが、深読みすればグラーベン(ウィーン中心部の目抜き通り)は当時売春窟として知られており、そんなところをうろうろしていると梅毒にかかって鼻を失うぞ、という警告とも受け取れる。
シューベルトが25歳頃に梅毒を発症したことは現在では周知の事実である。過去にはツェリスの館のメイドから伝染されたという説もあったが、ステブリンはこの記事をもとに、シューベルトが若い頃売春街通いをしていたことは友人たちの間では公然の秘密で、それが感染源に違いない、と論じて話題を呼んだ。

『狂騒クラブ』のメンバーの多くはウィーン人の画家の卵たちだった。後のシューベルティアーデの中核に残ったのはレオポルト・クーペルヴィーザーとその兄弟だけだが、ウィーン美術アカデミーを拠点とする彼らのネットワークの中から、より年下の世代のシュヴィントやリーダーがシューベルティアーデに参加するようになり、それによってシューベルト周辺に関する多くの絵画やスケッチが残されることになった。
シューベルト・リーダー水彩画1825
ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー(1796-1880)によるシューベルトの肖像画(1825、水彩)。ある日画家が突然の土砂降りに遭い雨宿りをした家にたまたまシューベルトが住んでいて、そのときスケッチして仕上げたもの、という伝説がある。右下にはシューベルト自身の署名と、その下に画家の筆跡で「1828年11月19日に死去」と記されている。この水彩を元に50年後、79歳のリーダーが完成させた立派な油彩画はシューベルトの最も有名な肖像画となり、今も音楽の教科書を飾っている。クーペルヴィーザーらが描いたシューベルトに比べるといずれもずいぶん美化されており、リーダーにとって1歳年下のシューベルトが「崇拝すべき相手」だったことが窺える。

彼らとシューベルトの接点と思われるのが、他ならぬフランツ・フォン・ショーバーである。ステブリンは「狂騒の記録」にたびたび登場する「Quanti Verdradi」(完全にごちゃ混ぜ)というコードネームの人物をショーバーと特定した。美術指向が強かったショーバーが、画家の面々と懇意だったとしてもまったく不思議はない。
現存する『狂騒クラブ』の会員名簿にはショーバーの名前も、シューベルトの名前もないが、彼らが中心的な役割を担っていた状況証拠は揃っている。もしかしたら、貴族のショーバーやコンヴィクト出のエリートであるシューベルトの名は意図的に隠されていたのかもしれないし、他にも名簿から漏れているメンバーが相当数いるのかもしれない。
『狂騒クラブ』のバンカラな連中は、インテリエリートのコンヴィクト組とは異質のカルチャーをシューベルティアーデにもたらすことになった。

ブルク劇場の俳優として活躍したハインリヒ・アンシュッツ(1785-1865)は、後年このように述べている。

カトリックの国では人はクリスマスに何の注意も払わない。この(1821年の)クリスマスが忘れがたいのは、シューベルトが初めて我が家を訪れたからだ。フランツ・シューベルトはかつてのUnsinnsgesellschaft(狂騒クラブ)で最も活発なメンバーのひとりだった。弟たちはそこで何年も彼と仲良くしていたので、その縁で我が家に来てくれたのだ。

ドイチュ編の「回想録集」にも採用されているこの証言を読めば、シューベルトが『狂騒クラブ』の中心メンバーだったことはもう疑い得ないのだが、ドイチュはこのUnsinnsgesellschaftを固有の団体名とは考えず、別の結社『ルドラムの洞窟』を指していると推定してしまった。しかも「この団体にシューベルトが所属したことはない」と注釈しており、早速アンシュッツの証言と齟齬を来している。
『ルドラムの洞窟』は、1819年に劇作家のイグナーツ・フランツ・カステッリとアウグスト・フォン・ギュムニヒが中心となって発足した文芸サークルである。入会にあたっては独特の試問や儀式が課され、合格すると「ルドラム・ネーム」というコードネームと記念の歌を授けられるという、秘密結社的な性格が強いものだった。『ルドラムの洞窟』はウィーンの文化人たち、具体的には文学者、音楽家、俳優らの交流の場となり、作曲家ではサリエリ(ルドラムの歌を多数作曲した)、モシェレス、カール・マリア・フォン・ヴェーバー、文学者のレルシュタープやリュッケルトといったビッグネームから、シューベルトの周囲にいたアスマイヤー(作曲家)、前述のアンシュッツ(俳優)やクーペルヴィーザー(画家)、グリルパルツァーやザイドル(詩人)などもメンバーに名を連ねている。こうした面々を見れば、確かに『ルドラムの洞窟』もまたシューベルティアーデの前身のひとつといえるだろう。

しかし当時は、こうしたサークルがおおっぴらに活動できる状況ではなかった。宰相メッテルニヒによる保守体制が敷かれたウィーンでは、自由主義思想に繋がりかねない言論や結社は厳しく取り締まられ、この状況はウィーン会議後の1814年から1848年の三月革命まで続いた。だから結社の構成員たちはコードネームで素性を隠匿し、立場のある者は会員名簿に名を連ねなかったのだ。
『ルドラムの洞窟』はそもそも政治運動を目的としていたわけではなかったが、それでも1826年4月18日の夜に「国家反乱罪」で警察に一斉検挙され解散を命じられた。

ビーダーマイヤー期のウィーンには、こうしたいくつものサークルが生まれては消えていった。シューベルティアーデは、1820年のゼンの逮捕・国外追放などの危機がありながらも、比較的長い命脈を保ったグループだったといえるだろう。それも1828年のシューベルトの死によって終わりを告げた。
  1. 2022/09/26(月) 23:30:09|
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「シューベルティアーデ」とコンヴィクトの仲間たち

Schubertiade
モーリツ・フォン・シュヴィントが1868年に描いた「シュパウン邸でのシューベルティアーデ」の図。シューベルティアーデの主要メンバーが全員揃っていて、これはさすがに「盛った」想像図と思われる。

シューベルティアーデについて、「シューベルトが自宅に友人たちを招いて催した音楽会のこと」という注釈をしばしば見かけるのだが、この説明は私の知る限り正しくない。シューベルトが、友人たちを招けるような空間のある「自宅」に暮らしていたことなど、おそらく一度もない。そもそも人生のほとんどを居候や共同生活で乗り切ってきたのがシューベルトである。
1815年から24年までのシューベルティアーデの大部分は、パトロンで宮廷官吏のイグナーツ・フォン・ゾンライトナーの邸宅の大広間で開催されたと伝えられる。シュパウンやショーバーら裕福な友人たちも自宅のサロンを提供し、時には郊外のアッツェンブルック城まで遠征して開催することもあった。
しかし「シューベルティアーデ」はそうしたイヴェントの名称というより、むしろそこに集う仲間たちから構成される「サークル」の名前と解釈した方が適切に思える。
時にこの集まりは、「カネヴァスCanevasの集い」の別名で呼ばれた。カネヴァスとは"Kann er was?"、つまり「彼には何ができるの?」という疑問文の口語形。新入りを紹介されると、シューベルトはまずこの問いを投げかけたという。ある者は詩を作り、ある者は絵を描き、そんな才能のない者は会場を提供したりして、シューベルトとサークルの皆に何らかの形で貢献できる人だけが入会を許された。シューベルティアーデは、単なるシューベルトのファンの集いではないのだ。
このような内輪の集まりを創作活動のベースにしていた作曲家は、少なくとも大作曲家の中ではシューベルト以外には見当たらない。シューベルトの音楽の特異性のいくつかは、この特殊な集団の内部で活動が完結していたことから説明できる。膨大な歌曲、その多くが友人たちの詩によるものであること、また自作の歌曲の主題による器楽変奏曲を多く手がけたこと、これらはシューベルティアーデの仲間たちの好みや趣味を反映したものだったのだろう。そもそも、隣に寄り添う人だけにそっと語りかけるような、共感を前提にしたプライベートな音楽はこの環境なくしては生まれなかったに違いない。
しかし別の見方をすれば、シューベルトがあまりにも若くして死んでしまったことを考えざるを得ない。事実、晩年には当時随一の新進作曲家として、その名は外国にも知れ渡っていた。あと10年、20年と長生きしていたら、友人たちの輪から大きく羽ばたいて、大交響曲を次々に発表したり、オペラの注文が殺到するような人気作曲家になっていたかもしれない。そして、「あのシューベルトは若い頃は仲間内でこんな歌曲を書いたりしていたのだよ」などと語り草になったかもしれない。仲間たちが願ったような大成を遂げるには、31年10ヶ月という人生は短すぎた。

シューベルティアーデの中核メンバーは大きく2つのグループに分けられる。ひとつはシュパウン、シュタットラー、ゼン、ホルツアプフェル、ヒュッテンブレンナーといったコンヴィクト(シューベルトが11歳から16歳まで通った帝室寄宿学校)時代の仲間たちで、もうひとつはレオポルト・クーペルヴィーザー、モーリツ・フォン・シュヴィント、有名な肖像画を描いたヴィルヘルム・アウグスト・リーダーといったウィーンの画家のグループである。それぞれのメンバーが友人知人を招待して、シューベルティアーデはどんどん拡大していった。
グラーツ生まれの作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーはコンヴィクト出身ではないが、サリエリ門下の同輩という意味ではティーンエイジャー時代からの仲間である。その弟ヨーゼフや、同じくシュタイアーマルク出身の作曲家ヨハン・バプティスト・イェンガーもシューベルティアーデで大きな役割を担い、1827年のグラーツ旅行のきっかけにもなった。
シュパウンをはじめとするコンヴィクト組はリンツやシュタイアーなどオーバーエスターライヒの地方貴族の子弟で(だからウィーンの全寮制のコンヴィクトにこどもが単身でやってきたのだ)、長じて法律を修め公務員になった者が多い。シューベルトがたびたびオーバーエスターライヒに演奏旅行に出かけたのは彼らの地縁があったという理由も大きい。
彼らは知的階級に属する「インテリ」である。総じて文学への造詣が深く、その繋がりから詩人のマイアホーファー、劇作家のバウエルンフェルトといった面々がやがてシューベルティアーデに加わっていく。前述のゾンライトナーの息子レオポルトや、その従兄弟である詩人グリルパルツァーもウィーン文芸界のエリートたちだ。

フランツ・フォン・ショーバー
シュパウンの紹介で親交を結んだ重要人物がフランツ・フォン・ショーバーである。スウェーデン出身の貴族だが、少年期をオーバーエスターライヒで過ごす間にシュパウン一族と親しくなり、1815年にウィーンに進出してシューベルティアーデの一員となった。コネクションを駆使して大歌手フォーグルをシューベルトに引き合わせたのはショーバーの最大の功績といえる。また歌曲『音楽に寄す』等の詩や、オペラの台本を手がけたことから詩人と称されることも多いが、絵画や石版画にも手を染める多才な人物だった。

官吏として働きながら余暇に創作活動に勤しんでいたコンヴィクト組と比べると、ショーバーは同じようなディレッタントでありながら定職に就かずふらふらと遊び暮らしていたところに決定的な違いがある。そのくらい経済的に余裕があったということなのかもしれない。
一方で金がなくとも芸術に人生を捧げようという若者たちもいた。他ならぬシューベルト自身がそうだったし、シューベルティアーデに参加した画家の一派もそんな無頼な若者たちだった。彼らの話題は次の記事で触れよう。
  1. 2022/09/25(日) 22:44:23|
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