2020年3月1日(日)音楽の友ホールにて開催予定の「佐藤卓史シューベルトツィクルス第12回 ピアノ・ソナタⅣ ―はじめてのソナタ―」公演は、新型コロナウイルスに関する2月26日の政府発表を受けて開催中止となりました。楽しみにご予定下さった皆様には申し訳ございません。下記の通り振替公演を実施いたします。
2020年9月6日(日)14時開演 音楽の友ホール
佐藤卓史シューベルトツィクルス第12回 ピアノ・ソナタⅣ ―はじめてのソナタ― (振替公演)
公演内容・出演者には変更ありません。ご購入済みのチケットは振替公演でそのままご使用いただけます。
代金の払い戻しをご希望の場合は各プレイガイドへお問い合わせ下さい。
(イープラス・チケットぴあでは3月2日~31日の期間に払い戻し可能となります。)
ご不明の点はアスペン 03-5467-0081 までお問い合わせ下さい。
振替公演の実施にあたってご配慮をいただきました音楽の友ホール様、また関係各位に心より御礼申し上げます。
佐藤卓史
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- 2020/02/27(木) 18:00:00|
- シューベルトツィクルス
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30のメヌエット Dreißig Menuette D41
作曲:1813年 出版:1889年(旧全集)
はじめに自筆譜の問題に触れておこう。ウィーン市立図書館に所蔵されており、
SCHUBERT onlineでも閲覧可能である。
全30曲のうち、第9・10曲、第19曲、第24~30曲が消失しており、現存するのは残る20曲である。つまり全体で合計3カ所の消失部分があるということになる。現存するすべての曲に通し番号が降られていることから消失曲が判明しているのだが、冒頭に「30曲」と明示されているわけではないので、最後の7曲は散逸したのか最初から書かれなかったのかは判然としない。
自筆譜は、時折書き間違いを修正している他は推敲の跡のない整然とした筆跡で、おそらく下書きを見ながら清書したものと思われる。
トリオを伴うメヌエットは、各曲とも五線紙の片面に収まるように書かれており、裏面にはみ出す曲は1つもない。第1曲と第16曲では収まらなかった部分を、余白部分に手書きで五線を補って書き終えている。
はじめの16曲、つまり最初の消失部分の第9・10曲をまたぐ第1~18曲については、奇数番号曲と偶数番号曲が1葉の五線紙の表裏に書かれていて、合計8枚の自筆譜にまとめられている。消失した第9・10曲も同様に1枚の紙の表裏に記されていたと想定して差し支えないだろう。
(1) 表 メヌエット D41-1 / 裏 メヌエット D41-2
(2) 表 メヌエット D41-3 / 裏 メヌエット D41-4
(3) 表 メヌエット D41-5 / 裏 メヌエット D41-6
(4) 表 メヌエット D41-7 / 裏 メヌエット D41-8(おそらく1枚が消失)
(5) 表 メヌエット D41-11 / 裏 メヌエット D41-12
(6) 表 メヌエット D41-13 / 裏 メヌエット D41-14
(7) 表 メヌエット D41-15 / 裏 メヌエット D41-16
(8) 表 メヌエット D41-17 / 裏 メヌエット D41-18ところがこのスタイルが変化するのは次の消失部分を越えた第20曲からの4曲である。それぞれ片面にメヌエットが書かれ、その裏面には違う作品のスケッチが書き付けられているのだ。全部で13枚からなる自筆資料のうち、上述した8枚のあと、9枚目からの内容はこうなっている。
(9) 表 メヌエット D41-20 / 裏 フーガD41Aの断片、続けて歌曲「子守歌」D498のピアノ独奏用編曲(ハ長調)
(10) 表 メヌエット D41-21 / 裏 ピアノ曲D459A-3(Allegro patetico)の最後の8小節、完結後同じ段からアダージョD349の第1-31小節
(11) 表 アダージョD349の第32-84小節 / 裏 歌曲「憧れ」D516のスケッチ(ピアノパートの前奏(決定稿には存在しない)の右手の他は歌唱パートのみ・未完)
(12) 表 メヌエット D41-22 / 裏 アンダンティーノD348の第42-71小節
(13) 表 メヌエット D41-23 / 裏 アンダンティーノD348の第1-41小節11枚目の紙片は、鉛筆でそのようにナンバリングされているが(おそらくその主は
例によってサインを残している以前の所有者ニコラウス・ドゥンバ)、後から挿入されたものと見られ、紙の縁の形状が若干異なる。これについてはD349の項で詳述したい。
2つ目の消失部分が第19曲1曲のみであることから、第19曲以降、シューベルトは書式を変更して、五線紙の表面だけにメヌエットを記し、その時点では裏面を空白のまま空けておいたようなのだ。そして後年、おそらく1816年頃に新しい作品のスケッチに「裏紙」を再利用したと考えられている。
裏面に書き付けられた作品のうち、作曲年代が判明しているのは子守歌D498のみであり、
ヴィッテチェク=シュパウン・コレクションの記述により1816年11月とされている。ただしこのピアノ用編曲の筆跡は、いつものフランツ・シューベルトのものとは異なるように見受けられ、ドイチュによると兄フェルディナントのものだという。フェルディナントはおそらくこの主題でピアノの変奏曲を書こうとしたのだろうとドイチュは推測している。だが、最上段に1小節だけペン入れされているフーガD41Aは、その後も4段目まで薄く鉛筆で下書きされていて、子守歌の編曲はその上を塗りつぶすように書き始められているのだ。もしかしたらこのフーガの下書きを実施したのもフェルディナントだったのだろうか? いずれにしても、ここに登場するD348、D349、D459A-3、D516がすべて1816年の作品という推定はあまり説得力のあるものとはいえない。
メヌエットの中で他と明らかに状況が異なるのが第22曲である。1段目がまるごと削除されていて、2段目から新たに書き直され、その際に通し番号にも訂正の跡がある(訂正前は何番と書かれていたのかは丹念に塗りつぶされているため判読できない)。つまりこの自筆譜は清書稿ではなく、推敲を含む段階の稿のようなのだ。
そう考えると、現存する最後の4曲、
第20~23曲は初期稿であり、後で清書譜を作ろうとしたか、あるいは作ったとも考えられ、さらにその後(不要になった)裏紙として再利用された、と見るのが妥当かもしれない。再利用の時点ではメヌエットはバラバラになっていて、適当な順番で使用されていったと思われる。アンダンティーノD348の続き、アダージョD349の続きを含め、消失してしまったメヌエットの裏に未知の作品が書き付けられていた可能性も高い。
このメヌエット集の来歴を明かしているのは、フェルディナントが作成したフランツの作品リストである。1813年の作品の中に「ピアノのための30のメヌエットとトリオ(消失)」とあり、長兄イグナーツのために作曲されたという。この記述を信じた上で、20曲のみが現存するD41をこれと同定したわけなのだが、若干怪しいところがある。この自筆譜の束はフェルディナントの所有物の中から発見されたのだが、にも関わらずなぜわざわざ「消失」と書いたのだろうか?
実は第4・6・12・13・22曲のトリオを、フェルディナントは(他の作品も含めて)「自作」のパストラール・ミサ(1833)に盗用し、1846年に初演・出版までしている。フェルディナントは既に弟の生前からその作品を盗用しては自作として発表し、時にそれを弟に直接詫びたりしているのだが、弟の死後はおおっぴらにこれを行うようになったようだ(同様に盗用されたD968については
こちら)。とすると、フェルディナントはこのメヌエット集を消失したことにして、自分の作品に転用するためのマテリアルとして死蔵しようとした可能性すらある。「1813年」「30曲」という数字の信用性も揺らいでくるではないか。
全20曲はいずれも1つのトリオを持つメヌエットで、主部・トリオの前半部と後半部にそれぞれ繰り返しが設定されている(第11曲のトリオの後半のみ例外で、繰り返しがない)。
D91(1813年11月22日)以降のシューベルトのメヌエットが、「2つのトリオ」を持つABACAという特異な構成を採っているのと比較すると、より一般的なスタイルといえる。
はじめの数曲、同じような付点のアウフタクトのモティーフが続くので、並べて聴くとやや面食らうのだが、次第に作風が変化していく。勇ましい軍隊風の曲想が次第に後景に退き、室内楽風のインティメイトな楽想や、モーツァルトを思わせる古典的なテクスチュアが増加してくる。またメヌエットというよりはポロネーズに近いようなリズムパターンも登場し、第16曲・第20曲(トリオ)・第23曲(トリオ)ではもはやエチュード的ともいえる16分音符のパッセージに埋め尽くされている。はじめは単純極まりなかった和声も、後半に近づくに従って複雑な色合いを帯びてくる。
このようなことから想像するに、この長大な曲集は1813年という一時期に一気に作曲されたのではなく、
数年間にわたって書き続けてきたメヌエットを整理したものなのではないだろうか。その最初の数曲は少年期に遡るものかもしれない。
第18曲までで過去の下書きが尽き、そこからは五線紙の片面に、新たに書き下ろしたのだろう。その成立時期は、シューベルトが「2つのトリオ」を持つメヌエットに取り組む直前、すなわち1813年と仮定しても大きく間違っていないと思う。
もうひとつ特徴的なのは、第1曲のトリオで既に4小節単位のフレーズを逸脱していることで、その後もたびたびこの基本を踏み外しているのだ。このことはこれらのメヌエットが、
舞踏を目的として書かれたのではないことを物語っている。曲調から言っても通常のメヌエットのスタイルとは根本的に異なっている。「イグナーツのために書かれた」というフェルディナントの注記、そして特に最初の数曲に顕著な祝祭的な雰囲気を鑑みると、何らかの慶事(誕生日など?)に際して作曲されたのかもしれない。
- 2020/02/26(水) 22:00:56|
- 楽曲について
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ピアノ・ソナタ ホ長調(第1楽章の断片) Sonate E-dur D154
作曲:1815年2月11日 出版:1897年(旧全集)
ピアノ・ソナタ 第1番 ホ長調 Sonate Nr.1 E-dur D157
作曲:1815年2月18日~ 出版:1888年(旧全集)
1815年2月11日の日付を持つソナタ断片D154は、1週間後に作曲開始したD157の第1楽章の第1稿とする見方が強い。ヘンレ版ソナタ集第3巻(バドゥラ=スコダ校訂)でも「D157の初期稿」と断定している。
しかし、別々のドイチュ番号を与えられているのにはそれなりの理由がある。ひとつは作曲日が明示されていて、
この1週間の間に少なくとも1曲の作品を仕上げているということだ。歌曲「絵姿」Das Bild D155の日付はD154と同じ2月11日なので、この2作の前後関係は不明だが、ピアノのための
10の変奏曲D156は2月15日に完成しており、その3日後の18日からD157に取りかかった、ということになる。
そして「D154=第1稿」・「D157-I=第2稿」と断定するには、両者には
差異が大きすぎるという問題がある。ソナタ形式の第2主題と展開部はほぼ同じだが、第1主題や推移部は全く異なる音楽である。そのためD154はD157-Iと共通する素材を用いた、別個のソナタ楽章とする見解もある。
D154の自筆譜は展開部の終わり近く(D157の並行箇所と比較すると残り1小節の時点)、第118小節で途切れており未完となっているが、中段箇所は五線紙の末尾に当たるため、続きのページは書かれたものの散逸したとも考え得る。
ともあれ、筆者としては
D154はD157の初期稿であり、一度は(おそらく)完成させたものの更なる改良を意図して1週間後に書き直したのだろう、と考えている。
その理由のひとつは、ほとんど同内容の
展開部が、D157において10小節分
拡大されていることである。展開部の貧弱さを補強しようという意識が既にこの時点で働いているのは興味深い(
D567→D568の改訂時にも同様の展開部の拡大が行われている)。
さらに注目すべきなのは
主要主題の扱いである。展開部の唯一の動機となる前打音を伴う重要な主題は、D157では属調のロ長調で提示されるため、それが第2主題であることは明確なのだが、D154においては主調のホ長調で始まり、途中でロ長調に転調するため、楽式的には主要主題といえるかどうか疑わしい。
 ソナタD154 [28]-[43] |  ソナタD157 第1楽章 [42]-[58] |
むしろ[46]からの3連符のパッセージのセクションを第2主題と考える方が自然かもしれない。最初の29小節間を第1主題とすると、この重要な主題は推移部ということになってしまうし、あるいは、冒頭29小節を「序奏」的なセクションと考えるならば第1主題ともいえる。いずれにせよ、D154は楽式が曖昧になってしまっていて、D157ではその欠点を克服していることからも、D157がD154よりも決定稿に近づいた段階の稿であると考えてよいのではないだろうか。
とはいえ、D154には初期着想ならではの新鮮な魅力があることも確かである。冒頭の16分音符で駆け上がる音階のパッセージとそれに続くトリルは、華麗で即興的なヴィルトゥオーゾスタイルを示しており、まるでベートーヴェンのようですらある。前述した[46]以降の3連符のパッセージも技巧的な見せ場となっており、またリズム分割のさまざまな方法が提示されていることもダイナミックな効果を生んでいる。この点においてD157は冒頭に3連符のアルペジオのパッセージがある他は8分音符(2分割)のリズムに画一化されていて、比較すると躍動感に欠ける印象はあるかもしれない。一方でD157は強弱の対比や音響像の変化に意識がおかれており、ピアニスティックなD154に比べるとオーケストラ的といえる。
D154で聴く人を驚かせるのは第2主題部、3連符のパッセージが駆け上がった先で2度にわたって待ち受けているコラール風の和音で、その半音階を駆使した奇妙な響きと、妙に間延びした拍節、そしてそれを受ける付点の下降音型が一種の破調として機能している。

ソナタD154 [48]-[75] 言及されている和音は[54]-[56]、[69]-[70]にある
D157ではナポリの六の和音をフィーチャーした2番目のコラールだけが生き残っているが、リズムは1/2に縮節されており、フレーズ的にはやはり奇妙ではあるものの推進力を止めるには至っていない。
展開部の冒頭ではドミナントモーションの連続により、ロ長調からヘ長調という遠隔調へ強引に転調し、その属七の和音を異名同音でドイツ六の和音に読み替えることでホ長調へ戻るという手法が取られている。その後のドミナントペダルの部分を9小節伸ばし、第1主題が回帰する期待感を高めたのはD157の最大の改良ポイントと言って良いだろう。
D154の補筆に当たっては、D157のディテールを参考にしつつ、再現部は一時的に下属調(イ長調)へ転調することで主調を保つ方法を採った。
補筆にあたって注意したのは音域の問題である。展開部が最高音Fを頻繁に使用しつつそれを越えないのは、おそらく当時普及していたFからFまでの5オクターヴの楽器を念頭に作曲されたからではないかと考えたのだが、D157の再現部ではその半音上のFisが登場し、さらにコーダではAまで出てくるので、実際のところどんな楽器を想定して書かれたのかは不明である。
D157自筆譜の第1楽章の末尾には「1818年2月21日」とあり、4日間でこの楽章を完成させたことを示している。このあとにさらに2つの楽章が後続する。
第2楽章は同主調のホ短調、ABACAのロンド形式による緩徐楽章である。主題はシチリアーノのスタイルで、簡素ながら独特の寂寥感がある。第1エピソードはト長調、平易なメロディーがフレーズの枠を越えて連綿と続いていく。次の主題再現ではシチリアーノのリズムが消え、和声の骨組みとバスのスタッカートだけが残されて、孤独感が際立つ。第2エピソードはハ長調、低音部での分厚い和音連打が聴き手を驚かせる。3度の重音音型などの技巧的なパッセージを経て、16分音符による同音連打のモティーフが繰り返されながら推移していき、主題の最後の再現時にも遠雷のように続いている。
第3楽章は属調ロ長調のメヌエットで、ト長調のトリオを持つ複合三部形式。メヌエットとは題されているがかなり急速な印象で、実質的にはスケルツォといって差し支えないだろう。オーケストラ的な華やかな響きを持ち、時に急激な転調でドラマティックな表現を見せている。長3度下のト長調のトリオはsempre staccatoと指示された和音が連続し、剛健な主部とは対照的に高音部に偏った軽い響きと、頻繁な半音階進行も相まって浮遊感漂う不思議な音楽になっている。
本来であれば主調ホ長調のフィナーレが続くはずなのだが、作品はここで終わり未完結となっている。
10の変奏曲D156と同様に、サリエリのもとでの卒業制作という意図があったのではともいわれている。
- 2020/02/25(火) 15:03:34|
- 楽曲について
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