Brown, Ms. 26 ドイツ舞曲 変イ長調 Deutscher in As D365-2 タイトル:Deutscher von Franz Schubert
日付:1818年3月
所蔵:大英図書館(資料番号 Zweig MS 80)
→デジタルデータ Brown, Ms. 25 と同じD365-2を書きつけたこちらの紙片は、作曲家のイグナーツ・アスマイヤーに贈られた。
楽譜の下には長い献辞がある。「
ここに君にドイツ舞曲を贈る、最愛のアスマーくん! さもないと君はなお僕をせかそうとする、忌々しいアスマーくん! 」続けてラテン語で「
最も輝かしく、最も博識で、最も聡明で、最も思慮深い、偉大なる作曲家に、謙虚と畏敬の念をこめて献呈に供さる、しもべの中のしもべフランシスコ・セラフィコまたの名をシューベルトより 」。
ヨーロッパにおけるラテン語は古めかしい「古典」言語であり、この擬古典調のおかしな献辞にもやはりシューベルトのユーモアが宿っている。
イグナーツ・アスマイヤー Ignaz Aßmayer (1790-1862)はザルツブルク生まれで、同地でミヒャエル・ハイドンに師事。1815年にウィーンに移り、サリエリの門下に入ってシューベルトと同門となった。1824年のディアベリの「ワルツ変奏曲集」には、シューベルトやチェルニーらとともに選ばれていることから、当時ウィーンで活躍中の作曲家と認められていたのだろう。彼はその後教会音楽の分野に進み、1824年にはショッテン教会の合唱指揮者、1825年には第2宮廷オルガニスト(首席はシューベルトが晩年に対位法の教えを請うた大家シモン・ゼヒター)、1838年に宮廷副カペルマイスター、そして1846年にはカペルマイスターに登り詰めた。在職中の1854年にはオルガニストに志願してきたアントン・ブルックナーの採用試験も行っている。1862年、彼の多くの作品が演奏されたショッテン教会で死去し、ヴェーリング墓地に埋葬された。作品のほとんどはミサ曲、オラトリオといった教会音楽である。
ところでこの楽譜の裏面には、「ヨハネ福音書」第6章第55-58節に付曲した、独唱声部と通奏低音のための作品(D607)の第1-33小節が書かれている。続きの第34-57小節の自筆譜の紙片はウィーン市立図書館に所蔵されており、バラバラに保管されている。こちらの裏面には「Quartetto」(?)と題された変ホ長調の断片が記されている。シューベルトはD607を書き上げたあと、その2枚の紙片の裏面を再利用し、1枚に舞曲を書いてアスマイヤーに贈り、もう1枚には別の作品のスケッチを書きつけた、ということらしい。
ドイツ語の献辞は例によってDeutschen(ドイツ舞曲)とpeitschen(せかす)の押韻となっているが、文字通り受け取るならば、アスマイヤーがシューベルトにこの曲のコピーを再三依頼してようやく実現したものとも考えられる。
ドイツ舞曲 変イ長調 →D365-2 変イ長調 1818年3月14日の日付がある
Brown, Ms. 25 とほとんど違いはない。[8]の左手にEsが追加されているのと、後半のアクセントの大部分がなくなっている程度の違いである。一方を参照しながらもう一方を書き写した、と思えるぐらいに一致している。
あえて言うならば、
Brown, Ms. 25 は大譜表3行の途中までとなっているが、この自筆譜は2行にきれいに収まっており、レイアウトを計算しながら書いたのではないかと思われる。
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2019/03/25(月) 21:23:17 |
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Brown, Ms. 25 ドイツ舞曲 変イ長調 Deutscher in As D365-2 タイトル:Deutscher von Franz Schubert
日付:1818年3月14日
所蔵:アメリカ議会図書館、ホイットール財団コレクション(資料番号 PhA1030)
→デジタルデータ この紙片はアンゼルム・ヒュッテンブレンナーに献呈されている。
楽譜のあとには「
私のカフェ・ワイン・パンチ仲間である、世界的著名作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーのために書かれた。ウィーン、主の年1818年3月14日、家賃30フローリンの彼の非常に個人的な住居にて 」とある。
たかだか16小節の舞曲を贈るのに「世界的著名作曲家」だの「主の年」(西暦を示すラテン語表現のドイツ語訳)だの、果ては「家賃30フローリン」なんていうことまで明記されているところに、シューベルトならではの諧謔精神を感じ取ることができる。同門の作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、シューベルトにとってそれだけ気の置けない「カフェ・ワイン・パンチ仲間」だったのだろう。
ドイツ舞曲 変イ長調 →D365-2 変イ長調 ここに書きつけられているのは、有名な
「悲しみのワルツ」 である。作曲家の名前すら知られぬままにウィーン中のヒットチューンとなったこの曲の、数奇な物語についてはまた別記事で紹介しよう。
Op.9-2とは細部に多くの違いがある。まず冒頭のアウフタクト、Op.9-2ではEs-D-Esという8分音符3つだが、この自筆譜ではEsの4分音符1つだけとなっている。[9]のアウフタクトも同様である。他は左手の伴奏型の違いで、[6]のバスAsがEsになっていること、[5]-[7][9]-[12][14][15]のバスが付点2分音符で伸びていること、[9][14]の2・3拍目の和音の構成音が少ないこと、また[8][16]の終止形に2拍目がなく、2分音符で停止していることなどである。[9]以降にたびたび付されているアクセントはOp.9-2には採用されていない。
他人の手になるものも含めて多くの異稿が作られた本作の、現存する中では最も古い自筆譜であり、その初期の姿を知ることのできる貴重な記録である。
2019/03/24(日) 20:33:02 |
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Brown, Ms. 24 2つの舞曲 Zwei Tänze タイトル:Ecossaise / Deutsch
日付:なし
所蔵:ウィーン市立図書館(資料番号 MH 16840)
→デジタルデータ 1枚の紙片の表と裏に、それぞれ
エコセーズ(D511) と
ドイツ舞曲(D365-3) が書かれている。
興味深いのは、それぞれの楽譜の下にシューベルトによるユーモラスな献辞が添えられていることである。
エコセーズの下には「
このエコセーズで跳ぶのだ、嬉しいときも悲しいときも。あなたの最良の友人、フランツ・シューベルト 」、ドイツ舞曲の下には「
いつもこのワルツで踊るのだ、そうしたらあなたはロシア人にも、あるいはプファルツ人にさえなれる。あなたの最高の友人 」とある。プファルツというのは南ドイツのプファルツ地方のことだが、特段の意味はなく、Walzer(ワルツ)とPfalzerの押韻(語呂合わせ)に用いられたに過ぎない。
実はこれが、
シューベルトが自作について「ワルツWalzer」という呼称を用いた唯一の資料 なのである。しかし曲題には「ドイツ舞曲 Deutsch」とあるし、同じD365-3の他の自筆譜の中には「レントラー Ländler」と題されているものすらある。
シューベルトが、
自作の舞曲について「ドイツ舞曲」「レントラー」「ワルツ」を区別していなかった と考える重要な証拠である。
自筆譜には献呈先についての情報はないが、J.P.ゴットハルト J. P. Gotthard (1839-1919)による筆写譜が残っており(オーストリア国立図書館所蔵 Mus. Hs. 34814)、そこには
「エティエンヌ(父)氏のために作曲された」 とある。
この人物は、
クロード・エティエンヌ Claude Etienne と同定されている。エティエンヌはショーバーの兄アクセルの使用人で、1821年の
アッツェンブルックのパーティー にも参加したという。この譜面はそれよりも以前、1817年頃に成立したと推定されており、同年の8月に赴任先で病気になったアクセルをエティエンヌが迎えに行く際に、ショーバー経由で渡されたものと考えられている(アクセルは実家に戻ることになって、
シューベルトは居候していたショーバー邸から出払わなければならなかった )。
1. エコセーズ 変ホ長調 D511 どの曲集にも収録されず、単独のドイチュ番号が与えられた。詳しくは別記事で解説する。
2. ドイツ舞曲 変イ長調 →D365-3 変イ長調 Op.9-3とは細部に多くの相違がある。冒頭のアウフタクトが8分音符のEs-Desではなく、4分音符のEsのみになっている。[6][14]のバス音がEsではなくAsになっており、主和音の基本形となる(Op.9-3では第2転回形)。またこの自筆譜にある多くのデュナーミク、アクセントはいずれも出版譜には反映されず、逆に出版譜には自筆譜にはない多くのスラーが追加されているが、逆に[10][12]の右手の1拍目から2拍目へのスラーはOp.9-3には存在しない。
友人へのプレゼントとして書かれた舞曲の紙片の中で、最も初期のものといえる。
2019/03/23(土) 11:44:17 |
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Brown, Ms. 43 4つのドイツ舞曲 Vier Deutsche タイトル:Deutsche
日付:1821年8月
所蔵:
ウィーン楽友協会資料室 (資料番号 A260)
シューベルト自身の筆跡で番号付けされた4曲は、後に
D365 と
D145 に2曲ずつ分かれて収録された。
1. ト長調 →D365-32 ヘ長調 出版譜のOp.9-32、また嬰ヘ長調で記譜された
Brown, Ms. 39 (1821年3月8日)と比べると、細部に多くの相違がある。[2][18]の右手1拍目の短前打音がなく、[5][6][21][22]のオクターヴ重複もない。[9]-[16]の左手の伴奏型が、より簡素な形に変わっている。また全曲を通してデュナーミク指示がなく、アーティキュレーションもほとんど書かれていない。
2. ト長調 →D365-33 ヘ長調 前曲同様、Op.9-33、
Brown, Ms. 39 とは細部の相違が認められる。[8]2括弧(延べで書かれているOp.9-33では[16])後半、右手に次小節へのアウフタクト音型が追加されており、[20](Op.9-33では[28])の3拍目に音が加えられているほか、左手の伴奏型には多数の異同がある。アーティキュレーションの点では、Op.9-33では3拍目のアクセントから次拍へのスラーが掛かっているが、この自筆譜はスタッカートで分離されている。デュナーミクの点では、冒頭のpの指示はなく、後半のppに向けて[6]2括弧からdecresc.と指示されているのが興味深い。[17](Op.9-33では[25])はfではなくffとされている。
3. ロ長調 →D145-W2 ロ長調 7月成立の
「アッツェンブルック舞曲」Brown, Ms. 42 とほぼ同じ内容であり、若干デュナーミクの指示が少ない程度である。
4. 変ホ短調 →D145-W5 ホ短調 こちらも5月成立の、カロリーネ嬢の名のある
Brown, Ms. 41 とほぼ一致している。[1]3拍目のsfはなく、[8]の3拍目の左手は休符。また[9]のデュナーミクはpではなくppとなっている。
いずれも先行する自筆譜が存在するが、とりわけ最初の2曲に関してはよりシンプルな書法となっており、出版譜とも一致しない。舞踏会のためのメモ、あるいは他人が弾くことを想定した別ヴァージョンと考えられる。
Brown, Ms. 39 の嬰ヘ長調から、簡単なト長調への移調を考えると、読譜力の低いアマチュアを想定した写本なのかもしれない。
また、他の自筆譜や出版譜では延べで書かれている第2曲(D365-33)・第3曲(D145-W2)において、1括弧・2括弧を伴う繰り返し記号が使用されていることから、少ないスペースにぎっしりと書こうとした形跡が窺える。
2019/03/22(金) 01:11:44 |
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Brown, Ms. 42 6つのアッツェンブルックのドイツ舞曲 Sechs Atzenbrugger Deutsche タイトル:Atzenbrucker Deutsche 日付:1821年7月 所蔵:ウィーン楽友協会資料室(資料番号 A259)
1821年夏 のアッツェンブルック城 滞在中に作曲されたとみられる。
アッツェンブルック城での、ショーバーたちとの楽しい催しについては以前紹介した。 滞在中、シューベルトはほとんど創作を行っていなかったと思われるが、その唯一の例外といえるのがこの舞曲集である。
6曲は、
D365(「36のオリジナル舞曲」作品9) と
D145(「12のワルツ、17のレントラーと9つのエコセーズ」作品18) に順不同に収録されたが、この自筆譜の存在は古くから知られていて、連作としてしばしば演奏されてきた。
1. ホ長調 →D145-W1 ホ長調 前半16小節の間じゅう、右手に掛かっている8va(1オクターヴ高く)の指示が目を引く。結果的に[9]アウフタクト~[13]以外の前半のすべての小節で、右手はOp.18-W1よりも1オクターヴ高く奏され、結果的に[14]-[16]の左手も低域に移動せずに同じ音域に留まっている。
後半、[17]のアウフタクトから3拍間の右手上声の音型に違いがあり、Op.18-W1とは逆のH-H-H-Fisという進行をとる。Op.18-W1では冒頭の音型を模倣するように改変されたともいえる。前半と同様、[29]以降が両手とも1オクターヴ上がっている。
全体として、右手が高音域を多用する傾向がある。
2. イ短調 →D145-W3 イ短調 この曲においても、[9]-[12]、[17]-[20]、[33]-[36]、[41]-[44]の右手でOp.18-W3より1オクターヴ高い音域が指示されている。細かく見ていくと、[4]の後半がレガートではなく、スタッカートの付いたオクターヴ連打になっていること、[14][22][38][46]の右手のリズムに付点がないこと、[25]-[27]、[29]-[31]の各小節1拍目にsfが付いていること、[33]以降のバスのA音がオクターヴで重ねられておらず単音であること、などが出版譜との主な相違点である。
3. ニ長調 →D365-29 ニ長調 Op.9-29との相違点はほとんどない。[9][11]のデュナーミク指示が若干異なるのみである。決定稿と言って差し支えないだろう。
4. ロ長調 →D145-W2 ロ長調 1821年5月20日に成立したBrown, Ms. 39(第7曲)とほとんど違いはない。Op.18-W2と比べると、左手の伴奏型の2拍目に2分音符がない、[17]3拍目~[18]1拍目・[19]3拍目~[20]1拍目の右手のタイがない、最終小節に2括弧がないのが相違点である。Brown, Ms. 39では出版譜と異なる内声を持っていた[14]は、Op.18-W2と同型になっている。
5. イ長調 →D365-30 イ長調 音符とデュナーミクはほぼ一致。最終小節[16]の2括弧がないだけである。[9][11]ではOp.9-30にはない1小節間のスラーが右手に付加されており、この曲の主要モティーフであるオクターヴトレモロの奏法を示唆している。[13]の2・3拍目にスラーがかけられているのも興味深い。
6. ハ長調 →D365-31 ハ長調 音符とアーティキュレーションは完全に一致。Op.9-31にある、p・fなどのデュナーミク指示は書き込まれておらず、[2][4][6]の3拍目のfzはffzと記されている。[11][13][15]の右手2拍目のアクセントもない。
第6曲の末尾には「
Fine 」と明記されており、この曲集が連作として完結したことを示している。
これら6曲、とりわけD365に収録された3曲は決定稿に非常に近い。この自筆譜の成立時期と、D365の出版時期(1821年12月)が近いことを考えれば、当然のことかもしれない。
2019/03/21(木) 00:44:36 |
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Brown, Ms. 41 2つのドイツ舞曲 変ホ短調 Zwei Deutsche in es タイトル:Deutsche für
die Comtesse Caroline 日付:1821年5月(表紙に)
所蔵:パリ国立図書館(資料番号 MS-299)
→デジタルデータ 大変興味深い自筆譜である。
この資料の大部分のページは、
歌曲「憩いなき愛」D138 の第2稿で占められており、表紙にも「憩いなき愛、ゲーテによる、音楽はフランツ・シューベルト、1821年5月」と大書されている。表紙の右下の隅にはSchönsteinと署名があり、この自筆譜が歌手のカール・フォン・シェーンシュタイン男爵のために作成されたことを物語っている。
「憩いなき愛」は1815年5月19日に作曲された、シューベルト初期の代表的歌曲のひとつであり、1821年7月9日にゲーテの詩による「5つの歌曲」作品5の第1曲としてディアベリ社から出版された。これらはホ長調で書かれた第1稿であり、本自筆譜に記されているのはニ長調の第2稿である。中声用の移調譜と考えてよいだろう。
歌曲が書かれたあとの、残りのページに2つの舞曲が書きつけられている。注目すべきは献呈先であるはずの、
カロリーネ伯爵令嬢 の名前が入念に消されていることだ。実際に公開されているファクシミリのデータを見ても、判読しがたいほど徹底的に塗りつぶされている。
新全集の解説でヴァルブルガ・リッチャウアーが推測するところによれば、この自筆譜はエステルハーツィ邸での夜会のために作成され、そこではシェーンシュタインが「憩いなき愛」を、そしてカロリーネ嬢がドイツ舞曲を演奏した。そしてシューベルトは後にこの譜面をシェーンシュタインに譲渡し、その際にカロリーネの名前を消したのではないかということである。モーリス・ブラウンはこの自筆譜はヨハン・エステルハーツィ伯爵のために作成されたと推測しているが、だとするとシェーンシュタインの署名があるのは不自然である。
いずれにしても、これほど入念にカロリーネの名前を塗りつぶしたのはなぜなのだろう。そして、最終ページの下部中央から右側にかけて、紙が大きく切り取られているのも気になる。どの段階で切り取られたのか不明だが、ここに何か重要な情報が書かれていた可能性もある。
2つの舞曲はD145-W5とD145-W8であり、調性も含めて
Brown, Ms. 40 の第1曲・第2曲と一致するだが、細部には相違がある。
1. 変ホ短調 →D145-W5 ホ短調 Op.18-W5では前半は「mf」、後半は「pp」と指定されているが、本自筆譜では前半は「f」、後半は「p」となっている。また[1]の3拍目にsfが付けられており、これはOp.18-W5での[1]-[7]における3拍目左手のアクセントに受け継がれていると考えられる。これらは
Brown, Ms. 40 には見られない特徴である。一方で、Op.18-W5にある[4]のクレシェンド・デクレシェンド記号、また後半の右手のスラーは本自筆譜にはない。
2. 変ホ短調 →D145-W8 変ホ短調 Op.18-W8や
Brown, Ms. 40 には存在する、右手の上声のメロディーを示す上向きの符桁が欠けており、単純な8分音符の連続として記譜されている。演奏するにはこちらの方がやさしいだろう。[8]3拍目には、
Brown, Ms. 40 にはなかったアウフタクトが出現しており、これはOp.18-W8に受け継がれている。[4]の左手がワルツ型を維持しているのは
Brown, Ms. 40 と共通するが、1拍目のバスは1オクターヴ低い。また[15]の伴奏型が単純なワルツ型に変わっている。
表紙の「1821年5月」という日付が、この舞曲にも適用されるのか疑義を呈する説もあるが、細部を検討すると
Brown, Ms. 40 よりも決定稿に近い自筆譜と考えられる。
2019/03/20(水) 04:16:33 |
舞曲自筆譜
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Brown, Ms. 39 7つのドイツ舞曲 Sieben Deutsche タイトル:なし
日付:1821年3月8日(第1~6曲)、1821年5月20日(第7曲)
所蔵:ベルリン国立図書館(資料番号 Mus. ms. autogr. Schubert 23)
→デジタルデータ タイトルはないが、通し番号はシューベルト自身の筆跡で記されている。
嬰ヘ長調で書かれた第1~4曲・第6曲はヘ長調に移調されてD365の締めくくりに、第7曲はD145に収録され、残った第5曲にはD722のドイチュ番号が与えられた。
1. 嬰ヘ長調 →D365-32 ヘ長調 出版譜との相違点は、(調性を除けば)極めて少ない。[9]の左手の和音が微妙に異なるが、これはむしろOp.9-32(A-Cis-G)では「導音重複」という禁則を犯しており、この自筆譜の和音(As-Es-Ges)の方が正当である。製版時のミスかもしれない。[13][21]などのスラーの有無、2度のcrescの位置が若干異なる以外は、決定稿と言ってよい。
2. 嬰ヘ長調 →D365-33 ヘ長調 テクスト上の相違点はごくわずかだが、[17]-[32]にOp.9-33にはない繰り返し記号がついているのは大きな違いかもしれない。[25][27][29][31]1・2拍目の和音連打にスタッカートを欠いているが、これは単なる省略とも考えられる。
3. 嬰ヘ長調 →D365-34 ヘ長調 音符は完全に一致。冒頭2小節の前奏で、3拍目にfpが付けられているのは興味深い相違点である。他に[3]右手の半音階にスラーが付されているのを除けば出版譜と違いはない。
4. 嬰ヘ長調 →D365-35 ヘ長調 後半の右手のスラーを欠いている他は出版譜と一致しており、決定稿といえる。
5. 変ト長調 D722 この自筆譜の中で唯一、生前の出版に含まれなかった曲である。詳しくは別記事で解説したい。
6. 嬰ヘ長調 →D365-36 ヘ長調 [2][4][14]で、Op.9-36よりも和音の構成音が多い。またアーティキュレーションに多くの違いがあり、とりわけ後半にはスタッカートによる分断がなく、長いスラーがかけられているのが目を引く。デュナーミクにおいては、[11]にcresc.の指示があるのが興味深い。
7. ロ長調 →D145-W2 ロ長調 日付を見るに、この曲だけが後から書き込まれたようだ。
Op.18-W2との相違は少ない。左手の伴奏型の2拍目の音を保持する2分音符がないこと、[14]3拍目右手の内声がないこと、[17]3拍目~[18]1拍目、[19]3拍目~[20]1拍目の右手のタイがないこと、最終小節の2括弧(左手が停止)がないことが指摘できる。またアーティキュレーション、アクセント等にも微妙に違いがある。
D365に収録された5曲については出版譜との相違が極めて少なく、決定稿に近い段階と思われる。
2019/03/19(火) 19:49:55 |
舞曲自筆譜
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Brown, Ms. 40 4つのドイツ舞曲 Vier Deutsche タイトル:なし
日付:なし
所蔵:ベルリン国立図書館(資料番号 N. Mus. ms. 54)
→デジタルデータ 公的施設に保管されている自筆譜の多くは、デジタルデータとしてオンラインで公開されており、いつどこからでも閲覧できるのは有り難い限りである。
1枚の紙片の両面に書かれた4つの舞曲は、2曲ずつ
D145(「12のワルツ、17のレントラーと9つのエコセーズ」作品18) と
D365(「36のオリジナル舞曲」作品9) に収録された。4曲の通し番号はシューベルト自身の筆跡である。
モーリス・ブラウンはこの自筆譜の成立時期を「1821年(?)」、ラインハルト・ファン・ホーリックスは「1820年5月(?)」と推定しているが・・・。
1. 変ホ短調 →D145-W5 ホ短調 Op.18-W5よりも
半音低い変ホ短調 で記譜されている。音符の相違は少なく、[8]の左手の3拍目が休符になっている、[12]の右手の8分休符がない、[16]の右手の音価が短いといった、いずれも本質的ではない部分。一方、アクセント、デュナーミク、アーティキュレーションなどは全く記されていない。
2. 変ホ短調 →D145-W8 変ホ短調 左手の伴奏型に違いが多い。Op.18-W8では右手に合わせて変則的なリズムになっている[4]は、ここでは前後と同じワルツ型を続けている。[6]の2・3拍目の音が変わっている上、バスからの音域が1オクターヴ内に収まる場合はバス音が1小節間ずっと伸びている([1][3][5][6])。[8]の終止の音型も違う。後半の終結部[15][16]もOp.18-W8では改訂されたようだ。
第1曲とは違い、デュナーミクの指定があり、とりわけ[5]のppはOp.18-W8にはない。一方でOp.18-W8にある[13][14]のクレシェンド・ディミヌエンド記号はここにはない。
3. 変イ長調 →前半:D365-6 変イ長調、後半:D365-7 変イ長調 前半8小節はOp.9の第6曲の前半、後半8小節は第7曲の後半にそれぞれ収まった。このように前半と後半がのちに別々の舞曲に組み合わされることはしばしばあったようだ。
前半はOp.9-6と音符はほぼ一致している。[1]から[7]までの毎小節、左手の1拍目から2拍目にかけてスラーが付されているほか、[2][4]の長いスラー、[8]の2拍目の和音などは
Brown, Ms. 33 の第1曲と同じ特徴がある。
後半はOp.9-7とは微妙に違いがある。まず[9]アウフタクトのEsの4分音符が、Es-Eの8分音符になっていて、D365-1を思わせる開始になっている。[10][14]のリズムも異なり、付点4分音符の後に3つの8分音符が並ぶ。またOp.9-7には見られない多くのスラーが記されている。
4. 変イ長調 →前半:D365-7 変イ長調 この曲の前半が、前曲の後半と組み合わされてD365-7になった。[1]3拍目から[2]にかけてのオクターヴの下降形が8分音符のトレモロになっており、この書法は
D820 -1を彷彿とさせる。[5]3拍目から[6]についても同様。
そして後半8小節は、その後
出版されることなく消えてしまった 。II度調のドミナントから始まる4小節間の和声進行はD365-6の後半と同じアイディアだが、メロディーは全く違う。
後にD145に収録される第1曲・第2曲は決定稿に近いが、D365収録の第3曲・第4曲は決定稿とはほど遠い姿をしている。同じくD365-6, D365-7の自筆譜を含む
Brown, Ms. 33 が決定稿に近いことを考えると、Brown, Ms. 33が成立した
「1819年11月12日」より以前 に書かれた自筆譜である可能性が高い(つまりブラウンやホーリックスの推定よりも古い)。
そして、その時点で既にD145-W5、D145-W8はほとんど完成していたようだ。
2019/03/18(月) 22:03:50 |
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Brown, Ms. 33 9つのドイツ舞曲 変イ長調 Neun Deutsche in As タイトル:Deutsche
日付:1819年11月12日
所蔵:
ウィーン楽友協会資料室 (資料番号 A257)
各曲の通し番号はシューベルト自身の筆跡である。
この自筆譜に含まれる9曲は、すべて
D365(「36のオリジナル舞曲」作品9) に、第5~13曲として収録された。以下、出版譜の稿(決定稿)をOp.9と表記する。
1. 変イ長調 →D365-6 変イ長調 音符はOp.9-6とほぼ一致する。相違点としては、[2][4][15]などで、1小節全体をカバーする長いスラーがかけられていること。また[8]の左手の2拍目の和音に小さな違い([16]同様にEs音が追加されている)があるが、和声進行としてはむしろこちらの方が適正で、出版時に何らかの理由で削除された可能性が高い。
2. 変イ長調 →D365-7 変イ長調 音符はOp.9-7と完全に一致。[1]アウフタクトにスタッカートが付されているほか、[7]-[8]の内声に短いスラーがあり、[9]と[13]のスラーが2拍目まで伸びている。
3. 変イ長調 →D365-8 変イ長調 音符はOp.9-8と完全に一致。右手のスラーが全般的に長く伸びている([1]-[4]、[5]-[8]の4小節にわたるスラー、[9]以降は2小節単位)ほか、後半[9]以降は左手にもスラーがかけられている。[13]1拍目右手のスタッカートも、Op.9にはない。
4. 変イ長調 →D365-9 変イ長調 音符はOp.9-9と完全に一致。全般的に右手にスラーが多くかけられている。
5. 変イ長調 →D365-13 変イ長調 [10][14]の1拍目から3拍目の右手にかけてタイが存在。また[15]の3拍目のEsのオクターヴの前に、単音のBの短前打音が付加されている。例によりスラーはOp.9-13より長め。
6. 変イ長調 →D365-10 変イ長調 [15]の右手内声がDesのまま付点2分音符で留まっている(Op.9-10ではC-D-Desと動く)。その前の[13][14]ではスラーが短く切られ3拍目にスタッカートが付加。全般的にスラーのかけ方に違いがある。
7. 変イ長調 →D365-5 変イ長調 テクストにかなり大きな違いがある。後半の伴奏型が完全に異なり、この自筆譜ではワルツ型をとる。同時に右手内声には和声を補充するための長い音符が付加されている。前半では、[1][5]のアウフタクトからの右手のタイが欠けているほか、[3]左手の低いEsのバスもここにはない。
8. 変イ長調 →D365-11 変イ長調 音符はOp.9-11とほぼ一致。[14][15]の左手の伴奏型に、若干音が多い。また前半の右手にOp.9-11にはないスラーが付加されている。
9. 変イ長調 →D365-12 変イ長調 音符はOp.9-12と完全に一致。[7]3拍目のトリルにアクセントと、次拍へのスラーがかかっているほか、[9]-[10]、[11]-[12]、[13]-[14]の右手にそれぞれ2小節間の長いスラーがある。
全体的にOp.9との相違点は少なく、決定稿に近い時期の自筆譜と考えられる。むしろ出版譜には存在しないアーティキュレーションが多く付されており、出版譜からは読み取れない作曲者のアイディアが垣間見える資料である。
2019/03/17(日) 11:55:33 |
舞曲自筆譜
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(承前) 旧全集出版時、
自筆譜から既刊の舞曲を取り除き、未出版のものだけをまとめた と述べたが、この仕分け作業にはかなりの漏れがあり、既刊の舞曲の別ヴァージョンが(おそらく気づかれずに)再録されることがたびたび起きた。ドイチュも知ってか知らずか、この杜撰な選定に従って目録を作成したので、結果的に
2つの異なるドイチュ番号が与えられた同一の(あるいはよく似た)舞曲がいくつか存在する 。
「さまざまなヴァージョンが存在する舞曲については、そのうちの1つだけを採用する」とわざわざ断っている
ヘンレ原典版 も、結局のところドイチュ目録に準拠しているので、例外的に複数のヴァージョンを収録した曲として
・D145-W7 = D970-2 ・D145-E1 = D299 -1 ・D145-E5 = D421-1 ・D420 -10 = D980B-1 ・D783-D1 = D790 -2 ・D783-D10 = D790 -8 の6曲を巻頭言で挙げている。下の2つはブラームスがD790を出版する際に、あえて取り除かなかった2曲である。
が、このリストも実は不十分で、もっと他にもある。ドイチュ目録で言及されているものだけでも
・D697-5 = D145-E6 ・D783-E2 = D781-1 があるし、私が今回楽譜を眺めていて発見したものには
・D735-E6 = D977-1 ・D145-E4 = D529 -3 がある。500曲にも上るという舞曲の山の中から、同一曲を探し出すのは神経衰弱のようですらある。
ところで断りもなく「D145-W7」とか「D783-E2」とかいう変わったドイチュ番号を用いているが、これは正式に認められた番号ではない。
D145(「12のワルツ、17のレントラーと9つのエコセーズ」)やD783(「16のドイツ舞曲と2つのエコセーズ」)のように、
異なる種類の舞曲が収められた曲集 においては、
舞曲の種類ごとに通し番号が振られている ので、D145の「
ワルツ W alzer (12曲)」の中の第7曲を
D145-W7 、D783の「
エコセーズ E cossaise (2曲)」の中の第2曲を
D783-E2 と便宜的に呼ぶこととした。
自筆譜には、同じ舞曲がたびたび登場する。最も多く、
3回 にわたって書き残されたのが
D145-W2、D145-W5、D146-2、D365-3、D365-6 の5曲(曲頭の数小節だけを記したインデックスを含めるとD365-3が最多の4回、他にも3回の曲がいくつかある)。製版に用いられたあと破棄された自筆譜があったことを考えると、さらに多くの同一曲の自筆譜が存在したことになる。
なぜシューベルトは、特定の舞曲を何度も五線に書きつけたのだろうか。 細かく検討すると、これらには互いに微妙な違いがある。差異が現れやすいのが
アウフタクトの音型 、そして
伴奏型 。これらについては、Brown, Ms.に基づく各自筆譜の解説の中で触れることになるだろう。
さらに調性の相違も多い。
D779(「34の感傷的なワルツ」) の第1-4曲(
ハ長調 )は、Brown, Ms. 46の中では
ロ長調 で記されている。この場合は、出版にあたって
本人が簡単な調に直した とも言えるし(
ソナタD567/D568の記事 参照)、もしかしたら
出版社による改変 の可能性もある(
即興曲D899-3の記事 参照)。
一方で、D365(「36のオリジナル舞曲」)の第32・33曲(
ヘ長調 )は、Brown, Ms. 39の中ではやはり読譜のハードルが高い
嬰ヘ長調 で記されているが、別の自筆譜Brown, Ms. 43では
ト長調 に移調されているのだ。
こうしたさまざまな移調譜の存在はいくつかの可能性を示唆している。
舞曲の自筆譜の多くは、他のジャンルの作品のそれとは異なり、極めて
実用的な用途 を想定して作成されたと考えられる。すなわち、
(1) 舞踏会の準備 (2) 舞踏会の記録 (3) 友人へのプレゼント (4) 出版の準備 である。
シューベルトと仲間たちの舞踏会については過去の記事で述べた。 即興でいつまでも舞曲を弾き続けられたというシューベルトが、
(1)舞踏会の準備 のために事前に舞曲を書いたかどうかはわからないが、いくつか残っている1段譜の断片やインデックスは、スケッチや準備のためのペーパーとも考え得る。そうした舞踏会で実際に演奏された、時に即興も含む大量の舞曲の中のいくつかが、事後に
(2)記録として残された のは間違いない。いわば、舞踏会のBGMの「セットリスト」が楽譜として記されたわけだ。友人たちに人気だった一部の舞曲は、リクエストに応えて何度も演奏され、その結果
同一の舞曲がヴァージョンを変えて何度も書かれることになった 。16小節程度の短い舞曲は数曲続けて演奏されるのが常だったので、
前後の曲との兼ね合いから移調して演奏 されることも多かったのだろう。実際、自筆譜中ではそれぞれの舞曲の調性が無理なく移り変わるように並べられている。
それとは別の理由で、
(3)友人に贈る譜面 では難しい調を避けて移調することもあっただろうし、
(4)出版に際しての移調や細部の編集 は当然行われただろう。
D420 や
D790 などでは、出版を見越して曲の配列に気を配った形跡が窺える。
歌曲では歌手の声域に合わせて移調することが日常的に行われており、シューベルト自身も自作歌曲の移調譜を作成したりしているが、舞曲においても各曲の調性の固有性については重要視されておらず、機会によって
移調も是認されていた と考えて良いだろう。
「佐藤卓史シューベルトツィクルス」では、こうした自筆譜の重要性については認めながらも、結局
D番号に基づいてプログラムを組む こととなった。
生前に既刊の9集 (新全集「舞曲第2巻」)は、大量の自筆譜の中から選び抜かれたセレクションであり、たとえシューベルト本人による選定かどうか疑わしいものもあるとはいえ、当時から
曲集の形で受容されてきたという歴史的事実 、そして
自筆譜が存在しない舞曲も含まれている ことを鑑みて、出版された通りのフォーマットで演奏することが望ましいと判断した。
その上で自筆譜を1つずつ取り上げるとなると、前述のように特定の舞曲を何度も演奏することになってしまう。そもそも舞踏会のための実用音楽をリサイタルのステージで演奏することにいささかの無理があることを思えば、同じ曲を何度も演奏することに意義があるとは考えにくく、基本的には
「1曲につき1ヴァージョンだけ」 演奏するという、ヘンレ版と同様のスタンスを採ることになった。
しかしながら、たとえばD365の前後には、
D365の収録曲が含まれている自筆譜内の補遺の舞曲 (D972やD511, D722)を配置することにより、作曲時期も含めて関連性の高い舞曲が並ぶプログラミングを試みた。
それぞれの舞曲(集)や自筆譜について、次回以降の記事で紹介していきたい。
2019/03/16(土) 23:33:57 |
シューベルトツィクルス
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