2018年4月18日(水)19時開演 東京文化会館小ホール
♪グラーツのギャロップ ハ長調 D925 ♪12のグラーツのワルツ D924
♪ピアノ・ソナタ 第10番 ロ長調 D575 作品147 ♪ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 D850 作品53
一般4,000円/学生2,000円
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2018/04/18(水) 19:00:00 |
シューベルトツィクルス
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1828年9月、シューベルトはしばらく暮らしていた市中心部のショーバーの家を出て、兄フェルディナントの住まいに引っ越す。彼はこの頃、持病の頭痛とめまいに加え、食欲不振にも悩まされていた。兄の新居は少し郊外のヴィーデン地区にあり、その新鮮な空気が体調に良い影響を与えるだろうと、医者に勧められたのである。この家は現在のウィーン4区・Kettenbrückengasseにあり、「シューベルトの最期の家」として公開されている。
4区・ケッテンブリュッケンガッセにある「シューベルトの最期の家」 シューベルトは死去する11月19日までの間、「冬の旅」の校訂などを行いながらほとんど床に伏せっていたというイメージで語られるが、実は10月の初め、シューベルトはフェルディナントとその他2人の友人とともに、徒歩でブルゲンラント州の
アイゼンシュタット へ出かけている。
ウィーンと、やや南方に位置するアイゼンシュタット アイゼンシュタットはエステルハーツィ家の本拠地であり、ハイドンが同家に仕えて長年暮らしたことでも知られる。そのハイドンの墓所に参ったほか、行き帰りでは当時ハンガリー領だったブルゲンラントや、ニーダーエスターライヒ州内の街々にも立ち寄ったという。
この3日間の小旅行についてはただフェルディナントの証言があるのみで、詳しいことはほとんどわかっていない。
それにしても、常識的に考えて驚くべきことである。瀕死の病人が、ウィーンからアイゼンシュタットまで24kmもの道のりを徒歩で行き帰りできるものなのだろうか。
そう考えると、少なくともこの時点ではシューベルトは死に至るような病状ではなく、それなりの体力が残っていたと推測するのが自然だろう。
病状がいよいよ重篤になるのは10月31日以降のことで、それから3週間も経たずにシューベルトは最期の時を迎えたのである。おそらく本人を含め周りの誰もが、彼がこれほど速やかに死に向かうとは想像していなかったに違いない。
2018/04/17(火) 08:31:09 |
伝記
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シューベルトがグラーツの「シュタイアーマルク楽友協会」の名誉会員に推挙されたのは、1823年の春のことだった。ウィーンよりも早くグラーツでこのような名誉を受けたのは、ひとえに協会の会長が同門の作曲家
アンゼルム・ヒュッテンブレンナー であったためだろう。その返礼として「未完成交響曲」D759が贈られたが、ヒュッテンブレンナーはそれを私蔵し、シューベルトの死後40年近く公表しなかったという話はよく知られている。
シューベルトは名誉表彰を受けるためにグラーツには行かなかったし、その後も長い間グラーツのアンゼルムに会いに行こうとはしなかった。
ところがシューベルト30歳の年に、突然グラーツ行きの話が持ち上がったのである。
ウィーンと、その200kmほど南南西に位置するオーストリア第2の都市グラーツ シューベルトをグラーツに招いたのは、
マリー・パハラー Marie Pachler (1794-1855)という女性だった。彼女はピアニストで、弁護士で音楽愛好家の夫カール Karl Pachler (1789-1850)とともにグラーツの音楽界では有名な存在だった。マリー夫人のピアノの腕前は確かなもので、ベートーヴェンに「私の作品をあなたほど見事に演奏してくれる人に出会ったことはない」と激賞されたほどだった。
夫妻は崇拝するベートーヴェンを何とか自宅に招こうと企んでいたが、1827年3月に巨匠が死去したため、この計画は果たせなかった。そこで代わりに誰かウィーンの高名な作曲家をということで、シューベルトに白羽の矢が立ったのだった。
仲介の労を執ったのは官僚でピアニストでもあった
ヨハン・バプティスト・イェンガー Johann Baptist Jenger (1792-1856)で、彼は1823年のシュタイアーマルク楽友協会のときの功労者でもあった。
尊敬する令夫人! 友人イェンガーを通してお寄せ下さったご招待に対し、私のような者が果たしてご厚意に値するものであるか、またどのようにして報いることができるのかわかりません。しかし、名高いグラーツの街をついに見ることのできる喜び、それ以上に奥様とお近づきになる名誉を思うと、ご招待をお受けしないわけには参りません。 最高の敬意を持って 忠実なるしもべ フランツ・シューベルト (6月12日、シューベルトからパハラー夫人に宛てて)
シューベルトとイェンガーは、9月2日に馬車でウィーンを発ち、1日がかりでグラーツに到着して、パハラー家の歓迎を受けた。
到着の数日後にはグラーツの大劇場でシュタイアーマルク楽友協会主催の慈善演奏会があり、シューベルトも自作の合唱曲・重唱曲の伴奏者としてステージに現れた。パハラー邸での数度にわたるシューベルティアーデのほか、郊外のヴィルトバッハ城やハラー城でも催しが開かれ、グラーツの人々とすっかり仲良くなった。アンゼルム・ヒュッテンブレンナーとも再会を果たしたと伝えられている。
グラーツ郊外のハラー城 シューベルトはパハラー邸で、
昔のオペラ「アルフォンソとエストレッラ」 の一部をピアノで演奏してみせ、パハラー氏や劇場監督のヨーゼフ・キンスキーに上演を働きかけた。彼らも乗り気になり、シューベルトがウィーンへ戻ったら台本と総譜を送るという約束になった。
イェンガーとシューベルトは9月20日にグラーツを離れ、来たときとは別のルートを通ってウィーンへの帰途に就いた。途中フュルステンフェルト、ハルトベルク、フリートベルク、シュラインツなどの街を経由し、それぞれの名所をたっぷり見て回って、4日後にウィーンに到着した。
それから3日後、シューベルトはパハラー夫人に親密な礼状をしたためた。
令夫人様! グラーツがあまりにも居心地が良かったので、ウィーンがまだ頭に入らないでいます。もちろんウィーンは少しばかり都会ではありますが、優しい心、率直さ、実のある思考、理性ある言葉、何より精神性溢れる行動というものにいささか欠けています。利口なのか馬鹿なのかわからなくなるほど、いろんなことをごちゃごちゃとしゃべって、それでいて心が朗らかになることは滅多にありません。もっとも私が人と打ち解けるのに時間がかかるせいかもしれませんが。 グラーツでは、人と交わる自然で率直な方法がすぐにわかりました。もっと長くいられたら、もっと溶け込めただろうにと思います。特に決して忘れることができないのは、親愛なる奥様、力強いパハレロス氏、そして小さいファウスト君のいる心温まる宿のことです。これほど満ち足りた日々を過ごしたことは、長い間ありませんでした。私の感謝の気持ちを、しかるべき形で表明させていただきたく筆を執りました。 あなたを尊敬する フランツ・シューベルト 追伸 オペラの台本は、2,3日中にお送りできると思います。 (9月27日、シューベルトからパハラー夫人に宛てて)
「パハレロス氏」というのは一家の主カールのことだが、おそらく屈強な彼をギリシャ神話の登場人物にでも喩えたのだろう。そういえば、ずんぐりむっくりのシューベルトが「シュヴァンメル」(きのこ)という渾名を賜ったのはグラーツ滞在中の宴席でと伝えられているので、「パハレロス」もそうした遊びの一環だったのかもしれない。
シューベルトは夫人の求めに応じ、当時7歳だった長男ファウスト君のために連弾曲「こどもの行進曲」D928を作曲し、グラーツに送った。
グラーツでの忙しい日々の間にも、数曲の歌曲が書き上げられた。翌年の初めに出版された舞曲
「12のグラーツのワルツ」D924、「グラーツのギャロップ」D925 も、この滞在中の舞踏会の折に作曲されたものと考えられている。
シューベルトにとって最後の長い旅行となったグラーツ行きは、とても楽しく充実した旅だった。
ウィーンに戻るとシューベルトは再び体調が悪化しはじめ、もっと残念なことに、グラーツでのオペラの上演計画は翌年に頓挫してしまった。
2018/04/16(月) 16:07:45 |
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1825年5月から10月にかけての、オーバーエスターライヒへの3度目の旅は、シューベルトの生涯の中でもひとつのハイライトと言うべき大イヴェントだった。
1819年 ・
1823年 の旅行先だったシュタイアーとリンツの両都市を根城にして、グムンデン、バート・ガスタインといった名勝地に長期滞在を果たし、その間にはザルツブルクにまで足を伸ばしたのである。今回もまたフォーグルと連れ立っての旅行だったが、フォーグルは既に4月の初めからシュタイアーに滞在中で、シューベルトは1ヶ月半ほど遅れてウィーンを発ち、フォーグルと合流した。
旅行中の彼らの足取りは、かなり詳しく判明している。順を追って見ていこう。
水色がウィーン。オレンジがシュタイアー、赤がリンツ、紫がその近郊のシュタイアエック。 緑がグムンデン、黒がザルツブルク、紺がバート・ガスタイン。 [1] 5月20日~6月3日 シュタイアー→リンツ→シュタイアー 5月20日にシュタイアーに到着したシューベルトは、フォーグルと共にパウムガルトナー宅に宿泊した。24日にリンツに移動したが、同地に住んでいた親友ヨーゼフ・フォン・シュパウンはそのほんの数日前にポーランドのレンベルク(現在のウクライナのリヴォフ)への赴任に出立してしまった後だった。
僕は5月20日からオーバーエスターライヒにいるのに、君がその2~3日前にリンツを去ってしまったというので腹立たしい限りだ。僕はもう一度君に会いたかったよ、君がポーランドの悪魔に引き渡される前に。 (7月21日リンツにて、シューベルトからシュパウンに宛てて)
リンツではシュパウンの義弟オッテンヴァルト宅に滞在したが、シュパウンがいないので意気消沈したのだろう。早々にそこを出て、26日にサンクト・フローリアンの修道院、27日には以前も訪れたクレムスミュンスターの修道院を経由してシュタイアーに戻った。この2つの修道院では演奏の機会を得た。
オーバーエスターライヒでは至るところで自分の作品を演奏することができました。特にフローリアンとクレムスミュンスターの修道院では、素晴らしいピアニストに協力してもらって、4手のための変奏曲と行進曲を演奏して賞賛を得ました。特に好評だったのは僕が一人で弾いた、新しい独奏用ソナタの中の変奏曲で、何人かの人が「あなたの手にかかると、鍵盤がまるで歌声を発しているかのようだった」と言ってくれました。もしそれが本当なら嬉しいことです。なぜなら、優秀なピアニストにもありがちな、忌々しい打撃奏法には、僕は我慢できないし、耳も心も喜ばないからです。 (7月25日シュタイアーにて、シューベルトから両親に宛てて)
文中の独奏用ソナタの変奏曲というのは、
ソナタ第16番イ短調D845 の第2楽章、ハ長調の変奏曲形式の緩徐楽章のことである。シューベルトの演奏ぶりと、それに対する当時の人々の評価を示す貴重な記録である。
シュタイアーにはそれから1週間ほど滞在し、顔なじみのシェルマン家やコラー家を再訪、彼らは再会を祝して毎晩のように音楽会を開いた。
[2] 6月4日~7月12日 グムンデン 6月4日、シューベルトとフォーグルはリゾート地の
グムンデン へ移動し、同地に6週間にわたって滞在した。主要な温泉地を巡る今回の旅行には、痛風を患っていたフォーグルの湯治という目的があったようだ。
グムンデン滞在中の2人の宿は
フェルディナント・トラヴェガー Ferdinand Traweger の邸宅だった。トラヴェガーはグムンデンの熱心な音楽愛好家で、2人を歓待し、快適な住居を提供した。
・・・僕ら(フォーグルと僕)はグムンデンに行き、6週間実に快適に過ごした。僕らはトラヴェガーのところに泊まっていたが、彼は素晴らしいピアノフォルテを所有していて、君も知っているように、この小生の信奉者なのだ。あそこでは僕はとても快適に気兼ねなく過ごしたよ。 (7月21日リンツにて、シューベルトからシュパウンに宛てて)
僕は今再びシュタイアーにいますが、6週間グムンデンに行っていました。そこの景色は本当に天国のようで、それだけでなく、そこに住んでいる人たち、特に善良なトラヴェガー氏に心から感動しました。彼には本当に良くしてもらいました。トラヴェガー邸にいると、まるで家にいるかのようにくつろげるのです。 (7月25日シュタイアーにて、シューベルトから両親に宛てて)
トラヴェガーの息子エドゥアルトEduard Traweger (1820-1909)は、このとき4歳だった。シューベルトの巻き髪に指を突っ込んで遊んでもらったことや、水車屋の「朝の挨拶」(D795-8)を「お小遣いをあげるから歌ってごらん」と言って教え込まれたりしたことなどを後年生き生きと回想している。エドゥアルトは長じて警察署長になり、20世紀を迎えても存命で、シューベルトを直接知る者の中では最も長生きしたといわれている。
グムンデンでは宮中顧問官でザルツカンマーグート領主のフォン・シラーの館に招かれ、食事をご馳走になったり、音楽会を開いたりしたほか、学校教師のヨハン・ネポムク・ヴォルフの家では、同家の娘ナネット(アンナ)と一緒に演奏を楽しんだりもした。
7月12日頃にシューベルトとフォーグルはグムンデンを後にし、途中プフベルクという街に寄って、フォーグルの友人たちに会った。フォーグルはそのままそこにしばらく残るというので、シューベルトは彼と別れてリンツへ向かい、15日に到着した。
[3] 7月15日~8月10日頃 リンツ→シュタイアー 一足先にリンツに戻ったシューベルトは、ヴァイセンヴォルフ伯爵夫妻に招かれ、彼らの夏の別荘であった郊外のシュタイアエック城に数日滞在した。
シュタイアエックではヴァイセンヴォルフ伯爵夫人のところに泊めてもらいました。彼女はこの小生の信奉者で、僕の作品を全部持っていて、たくさんの歌をとても素敵に歌ってくれるのです。ウォルター・スコットの歌曲は彼女に深い感銘を与えたようで、自分に献呈されるなんてもったいない、と明言されたほどです。 (7月25日シュタイアーにて、シューベルトから両親に宛てて)
19日には再びリンツに戻り、23日にプフベルクから帰ってきたフォーグルと合流して、25日頃までオッテンヴァルト家に滞在したあと、シュタイアーに向かった。シュタイアーでの2週間ほどの滞在については、ほとんど何も知られていない。
[4] 8月11日~9月4日 ザルツブルク→バート・ガスタイン おそらく8月10日頃、彼らはシュタイアーからクレムスミュンスター経由で
ザルツブルク へ向かった。ザルツブルクに到着する直前、ヴァラー湖のほとりの田園風景と遠くの山々とのコントラストは、シューベルトに筆舌に尽くしがたい感動を与えた。
ザルツブルクでも、フォーグルとシューベルトの名前は知れ渡っていて、州知事のフォン・プラッツ伯爵の邸で、地元の名士たちを前に演奏して大喝采を浴びた。特に評判だったのはやはりスコット歌曲の中の1曲で、今も名高い「アヴェ・マリア」だった。演奏のないときは、メンヒベルクやノンネンベルクの丘に登り、大聖堂や修道院を訪れるなど元気に歩き回って大いに観光をした。
14日に2人はザルツブルクを発ち、
バート・ガスタイン に向かう。ガスタインは古くから知られた温泉場で、王侯貴族が訪れたことも知られている。途中のザルツベルクの岩塩採掘場を見物したいというシューベルトの願いは、痛風の痛みで一刻も早い湯治を必要としていたフォーグルに却下され、シューベルトは少なからずがっかりしたようだ。ザルツブルクからガスタインへ至る旅の行程について、シューベルトはとても詳しく描写力に富んだ紀行文を兄フェルディナントのために書いていて、すこぶる興味深いのだが、あまりにも長文なのでここでは割愛する。とにかく、山越えはなかなかの悪路だったようだ。
フォーグルがガスタインで3週間の「温泉療法」に取り組む間、シューベルトは演奏に追われることもなく、作曲に精を出した。彼がグムンデン滞在中からずっと、交響曲の作曲に取りかかっていたことは本人や友人たちの手紙から明らかである。その交響曲は次の冬のシーズンにウィーンで演奏される予定で、翌年にはオーストリア音楽協会に贈られて受領された。
D849 のドイチュ番号を与えられ、
「グムンデン=ガスタイン交響曲」 と呼ばれるこの作品は、しかし楽譜が散逸したため内容が不明で、幻の交響曲とされてきた。
現在ではこれは、D944のハ長調交響曲(いわゆる「ザ・グレート」)と同一であるか、もしくはその初稿であろうと考えられている。1982年にシュトゥットガルトで発見された、D849に相当すると思われるホ長調の交響曲は、もし真作であるとすればD944の初稿と思われるが、偽作という意見もある。
ガスタインでの音楽的成果として確実に存在しているのは
D850のニ長調のピアノ・ソナタ である。交響曲に携わった余韻からか、シンフォニックな音響感と、「天国的な長大さ」を湛えた、シューベルトのピアノ・ソナタの中でも異色の作品となっている。
湯治を終えたフォーグルとシューベルトは、9月4日にガスタインを離れ、途中ヴェルフェンの丘に登ったりしながら、再びグムンデンを目指した。
[5] 9月12日~16日 グムンデン 彼らは9月12日までにグムンデンに到着した。トラヴェガー家の面々をはじめ、多くの友人たちが彼らの再訪を喜んだ。シューベルトはあと2~3週間、ここに滞在しようと考えていたが、フォーグルは15日に突然、翌日シュタイアーに帰ると言い出した。そもそも旅費はフォーグル持ちだったので、シューベルトはそれに付き従うしかなかったのだが、シューベルトはフォーグルの(スター歌手ならではの)独断的なやり方にストレスが溜まっていき、2人の間にはわだかまりが生じていった。
[6] 9月17日~10月5日 シュタイアー→リンツ フォーグルが早くシュタイアーに帰ろうと言い出したのは、すっかり体調が良くなったのでイタリアへ旅行しようと思い立ち、その準備を早々に始めたいと思ったからだったようだ。さすがにフォーグルはシューベルトを更に連れ回すつもりはなく、友人のハウクヴィッツ伯爵と同行することを決め、10月の初めに旅に出ることを告げた。共演者でありパトロンでもあったフォーグルがいないことには、シューベルトは旅を続けることができず、当初の予定よりも早くウィーンに戻らざるを得なくなった。
シューベルトはシュタイアーでフォーグルと別れ、リンツへ向かう。オッテンヴァルト家に再び滞在し、シュタイアエック城でも何度も演奏会を開いた。10月3日にはアントン・フォン・シュパウン邸でコンサートがあり、やはりスコット歌曲が賞賛を集めた。ウィーンからこの日のために駆けつけた友人ヨーゼフ・フォン・ガヒーと連弾を楽しんだ後、シューベルトはガヒーの帰りの馬車に便乗してウィーンへ戻った。10月5日のことであった。
シューベルトとフォーグルは、
1821年の「アルフォンソとエストレッラ」事件 のときのような大衝突には至らなかったものの、旅行が終わる頃にはだいぶギスギスした関係になってしまっていた。フォーグルがイタリアから戻り、昔の生徒と結婚してからはさらに疎遠になり、ふたりが会う機会も少なくなった。フォーグルと連れ立ってのオーバーエスターライヒ旅行はこれが最後となった。
最晩年の1828年の夏、シューベルトは単独でグムンデンへの旅行を計画し、トラヴェガー家に宿泊しようとしていたらしい。体調の悪化により、残念ながらそれは果たせなかった。
2018/04/15(日) 20:12:06 |
伝記
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1824年5月、シューベルトは
6年ぶりにハンガリー・ツェリスのエステルハーツィの館 を訪れた。
令嬢姉妹の姉マリーは16歳から22歳になり、婚約者のアウグスト・フォン・ブロインナー=エンケヴォイルト伯爵 Graf August von Breunner-Enkevoirt (1796-1877)を連れてツェリスにやってきた(彼らは1827年に結婚する)。13歳だった妹カロリーネは19歳に、そして駆け出しの作曲家だったシューベルトは、今やウィーン中にその名を知られるようになっていた。
そんな変化を、互いにこのとき初めて知ったということはないだろう。ウィーンに戻ってからも、市内のエステルハーツィ邸で姉妹へのレッスンはしばらく続いており、定期的なレッスンが必要なくなってからもシューベルトはしばしば彼らを訪ねていたらしい。
シューベルトが再び夏のツェリスに招かれたのは、家庭教師というより、一家の客人としてという性格が強かった。もちろん姉妹へのレッスンは必要に応じて行われたが、今回は使用人の住む管理棟ではなく本館の中に1室が与えられ、報酬も増額された。シューベルトと若い頃から懇意にしていたことは、彼が有名になった今、エステルハーツィ家にとっても名誉なことだったに違いない。
シューベルトが1824年のツェリス滞在中に家族・友人へ宛てた手紙は3通残っている。その一部を紹介しよう。
もちろん、どんなものでも僕らには青春の栄光に包まれて輝いて見えた、あの幸せな時代はもう戻ってこないし、その代わりに今やみじめな現実を致命的に認識しなければならないのだが、僕はそのことをファンタジーを駆使して(ありがたいことに)できる限り美化しようと努めている。人は、昔幸せだった場所には今も幸せの拠り所があると思っているが、本当の幸せは僕ら自身の中にしかないものだ。それで僕は、不快な妄想を経験し、以前シュタイアーでした体験にまた直面することになったが、それでもそのときよりは、幸せと安らぎを自分の中に見出すことができるようになった。 その証拠として、大ソナタと創作主題の変奏曲を供することができる。どちらも4手のための作品で、ちょうど作曲したばかりだ。変奏曲は特別な称賛を得ている。 (7月16~18日、シューベルトから兄フェルディナントに宛てて)
僕はありがたいことに元気で、もし君やショーバーやクーペルヴィーザーも一緒にいたらかなり楽しく暮らせると思うが、例の魅力的な星がいるにもかかわらず、僕はしばしばウィーンへの渇望を感じてしまうのだ。9月の終わりには君にまた会えると願っている。 4手のための大ソナタと変奏曲を作曲した。後者は特別な称賛を得たが、ハンガリー人の趣味は完全には信じられないので、君たちやウィーン人たちの判断に委ねることにしたい。 (8月、シューベルトからシュヴィントに宛てて)
残念ながら2度までも誘い出されてきてしまった、このハンガリーの奥地に今僕はいる。ここには知的な言葉が話せるような人間はひとりもいない。君が行ってしまってから歌曲は1曲も作曲していないが、器楽ものにはいくらか挑戦してみた。 (9月21日、シューベルトからショーバーに宛てて)
ここからいくつかのことが見えてくる。
まず、滞在中の創作活動について。言及されている「大ソナタ」とは「グラン・デュオ」とも呼ばれる
ハ長調 D812 、「変奏曲」とは
創作主題による8つの変奏曲 D813 を指している。
1818年のツェリス赴任時 に書かれた数多くの4手作品と同様に、マリーとカロリーネの姉妹との共演を目的に生み出されたと考えて間違いないだろう。いずれも大作だが、他のジャンル―当時のシューベルトにとって喫緊の課題だったオペラや交響曲―に手を付けた形跡は全くない。おそらく夜の舞踏会の伴奏用に、いくつかの舞曲が書かれた。
他に特記すべきなのは、ピアノ独奏のための小品
「ハンガリー風のメロディー」D817 、それを元にした連弾のための大作
「ハンガリー風ディヴェルティメント」D818 であろう。D818についてはツェリス滞在中に完成したかどうかは定かではないが、こうしたハンガリー風のエッセンスはウィーン帰郷直後の「アルペジオーネ・ソナタ」D821や後の「即興曲」D935-4などにたびたび顔を出し、以後のシューベルト作品にエキゾティックな彩りを添えていくことになる。
1818年の手紙 にはあった、到着当初のうきうきした気分を描いた言葉はない。とにかくこの辺鄙な場所にいなければならない退屈さだけが伝わってくる。引用部分には含めなかったが、不在中のウィーンの取次先になってくれた出版社ライデスドルフが何の手紙も転送してこないというのでずいぶん苛立っている。
フェルディナント宛の手紙から窺われるのは、シューベルトが前年のシュタイアー旅行時に深刻な精神の危機に陥っていたことだ。一種の鬱のような症状だったのだろうか。
1823年の旅行中の記録 がほとんど残されていないのもそのせいかもしれない。
そして、シュヴィント宛の手紙に一言触れられているだけの「
例の魅力的な星 」、つまりエステルハーツィ伯爵令嬢
カロリーネへの恋 について言及しなければなるまい。
実際のところ、シューベルト本人がカロリーネのことを書いた手紙はこの1通しか残っていないのだが、シューベルトの友人たちは揃って彼がカロリーネに恋をしていたことを証言しているから、友人たちの間ではよく知られた話だったのだろう。
この恋について最も多くを語っているのは作家のエドゥアルト・フォン・バウエルンフェルトである。1828年2月の日記には
「シューベルトは伯爵令嬢Eに真剣に恋をしている。私はそのことを喜んでいる。彼は彼女にレッスンをしている。」
とある。後にもっと詳しく、次のように回想した。
彼は実際のところ、弟子の若きエステルハーツィ伯爵令嬢に首っ丈で、最も美しいピアノ曲のひとつ、連弾のための幻想曲ヘ短調を彼女に捧げた。レッスンとは別に、彼はパトロンの歌手フォーグルの庇護下にたびたび伯爵家を訪ねていた。・・・そんなとき、彼は後方の席に甘んじて座り、崇拝する生徒のそばに静かに佇んで、恋の矢をますます深く自分の心に突き刺すのだった。・・・カロリーネ嬢は彼にとって目に見える、慈悲深いミューズであり、この音楽のタッソーにとってのレオノーレだった。 (ドイチュ編「シューベルトの友人たちの思い出」より)
一方で、1858年に記した回顧録には、こんな意味深長な詩を載せている。
Verliebt war Schubert; der Schülerin シューベルトが生徒に恋をした、 Galt's, einer der jungen Comtessen それは若い伯爵令嬢のひとりだった。 Doch gab er sich einer ― ganz andern hin, ところが彼はとある―全然別の人に自らを捧げた、 Um die ― Andere zu vergessen. それは―もうひとりを忘れるためだった。 Ideell, daß uns das Herz fast brach, 理想は私たちの胸を裂いた、 So liebt auch Schwind, wir Alle; だからこそシュヴィントや私たちはみんな理想を愛した。 Den realen Schubert ahmten wir nach (でも結局)現実的なシューベルトを私たちは真似たのだ、 In diesem vermischten Falle. こういう複雑な局面においては。
(ルスティコカンピウス(バウエルンフェルトの筆名)著「我らウィーン人の本」中の詩「若き日の友人たち」より抜粋)
この詩は何を意味しているのだろうか。
シューベルトと、
ヨゼファ(ペピ)・ペックルホーファー Josefa (Pepi) Pöcklhofer との関係をここに見出そうという見方もある。ペピはツェリスの館で働く小間使いで、
1818年の手紙で「可愛くて、よく僕と連んでいる」と書かれている 人物である。シューベルトが彼女と関係を持っていたことをシェーンシュタイン男爵が証言しているが、シュパウンは否定している。シューベルトは彼女から梅毒を感染されたという説が一時期盛んに唱えられていた。
シューベルトの病についてはまた別の機会に取り上げることがあると思われるが、少なくとも事実関係から言えば、バウエルンフェルトの言う「別の人」がペピを指すとは思えない。シューベルトがペピと出会ったのは1818年のツェリス滞在のときのことで、当時カロリーネは13歳だった。シューベルトのカロリーネへの恋が語られるようになるのはもっと後のことで、おそらくこの1824年の滞在中にカロリーネへの想いが深まったのだろうと考えられている。
バウエルンフェルトの認識が事実かどうかは別として、彼の詩はこのように読み取れる。シューベルトはカロリーネに恋をしていたが、それが叶わぬ恋であることを十分に知っていて、別の女性と関係を持っていた。若き日のシュヴィントやバウエルンフェルト自身は、シューベルトのように手近な女性で済ませることを良しとしなかったが、結局最後は「現実的な」シューベルトと同じようなことをしてしまっていた、ということだろう。だからこそカロリーネはシューベルトの「現実の」恋の相手ではなく、「理想の」憧れの対象であり続けたのだ。
それにしても詩の中で2度も使われている「―」(ダッシュ)は極めて意味深である。なぜそこまで言い淀む必要があったのだろうか。
いずれにせよ、1824年のツェリス滞在中にシューベルトとカロリーネの間にどんなことがあったのか、確かなことはわかっていない。
シューベルトは約5ヶ月の滞在を経て、10月17日にウィーンに帰着した。
2018/04/14(土) 22:18:19 |
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フォーグルとの断絶 は、長くは続かなかった。
オペラに関する屈辱的な出来事に苛まれていないときは、僕は元気にやっている。フォーグルは劇場を辞め、僕ももうそういうことに未練がなくなってしまったので、フォーグルとは仲直りした。来年の夏には彼と一緒に、あるいは彼を追ってまたそちらへ行ってみようとさえ思っている。君や友達とまた会えるのを楽しみにしているよ。 (1822年12月7日、シューベルトからシュパウンに宛てて)
というわけで1823年の夏、第2回のオーバーエスターライヒ旅行が計画されたわけだが、シューベルトに
梅毒 の症状が現れたのはその間の出来事だった。
梅毒の診断を受けたのは1822年の暮れとも、23年の初頭ともいわれている。シューベルト本人による体調不良の最初の記録は、1823年2月28日に音楽学者のイグナーツ・フォン・モーゼルに宛てた手紙の中にある。
またしてもこのようなお手紙を差し上げてご迷惑をおかけしなければならない失礼をお許し下さい。というのも、健康状態が未だ私を家から出すことを許さないのです。 (1823年2月28日、シューベルトからモーゼルに宛てて)
仲間内ではシューベルト発病のニュースはすぐに知れ渡ったが、病の性質からいってその病名を公にすることは憚られた。
人々はシューベルトを称賛していますが、しかし本人は引きこもっているそうです。 (1823年8月、ベートーヴェンの会話帳への甥カールの書き込み)
シューベルトはこの年に総合病院に入院したといわれるが、その時期については5月とも10月とも言われており定かではない。
7月25日、シューベルトはウィーンを発ち、3日後の28日の午後早く
リンツ に到着、先に行っていたフォーグルと合流し、シュパウンやシュタートラーと再会を果たした。
今回の滞在ではリンツのシュパウン家を拠点に、2度ほど
シュタイアー に足を伸ばし、パウムガルトナー宅に宿泊したようだが、
1819年 や
25年 のオーバーエスターライヒ旅行と違ってほとんど記録が残されていない。旅の間中シューベルトの体調が悪く、活動が低調だったためとも言われているが、そもそもが転地療養を兼ねての旅行だったという見方もある。
8月14日、ショーバーに宛てた手紙で、その時点ではシュタイアーに移動していたことや、体調がある程度回復していたことがわかる。
親愛なるショーバー! 書くのが少し遅くなったが、君がこの手紙をウィーンで受け取れていると期待する。(医師の)シェッファーと頻繁にやりとりしていて、かなり具合は良くなってきた。でも再び完全に健康になれるかというと、ほとんど疑わしいと思う。ここでの生活はあらゆる点において簡素だ。熱心に散歩に行き、オペラを作曲し、ウォルター・スコットを読んでいる。 フォーグルとはうまくやっている。リンツにお互いがいた間は、彼はずいぶんたくさん、そして美しく歌ってくれた。(略)君が旅から帰る前にまた会うのは難しいだろうから、もう一度君の前途の多幸を祈り、君の不在を最大の痛みとする、僕の君への親愛を約束しておこう。 (1823年8月14日シュタイアーにて、シューベルトからショーバーに宛てて)
彼が当時作曲していたオペラとは、ヨーゼフ・クーペルヴィーザーの台本による
「フィエラブラス」D796 であり、今回の旅行中ずっと彼はその作業に関わっていた。ウィーン帰京後に完成し、シューベルトのオペラとしては最後の完成作となったが、例によって生前に日の目を見ることはなかった。
気になるのは、文中のフォーグルに対するどこか他人行儀な筆致である。「ずいぶんたくさん、そして美しく」歌ったという記述には、「引退後の老歌手にしては」という但し書きが見え隠れしないだろうか。少なくとも巨匠に対する敬意はあまり感じられない。「アルフォンソ」問題で生じた二人の間のわだかまりは、まだいくぶん残っていたのだろうか。
ミュラーの詩集に基づく連作歌曲「美しき水車屋の娘」D795の最初の数曲に着手したのもこの滞在中だったと伝えられるが、結局完成した歌曲集はフォーグルではなくもうひとりのシューベルト歌手、シェーンシュタイン男爵に献呈された。
シューベルトは9月半ばに旅を終えてウィーンに戻ったが、体調は一進一退だった。11月6日、ローマに旅立つ画家のレオポルト・クーペルヴィーザーのために友人たちが催した宴会に、シューベルトは体調不良で参加できなかった。その後の数ヶ月には、シューベルトの回復を報告する記録がいくつか残っている。
「すっかり良くなったので、厳しい生活規則を守るのをやめようという気を起こしている」(12月9日、ヨハンナ・ルッツから婚約者のクーペルヴィーザーへ)、「よほど良くなり、発疹のために丸坊主だった髪も生え揃い、まもなくカツラなしで出歩けるほどになるだろう」(12月26日、シュヴィント)、「具合は大変良い。彼はカツラを取って、巻き髪が生えかけているのを見せてくれた」(1824年2月22日、シュヴィントからショーバーへ)など、シューベルトは自らの病状をおどけて周囲の友人たちに披露していたが、内心は絶望に満ちていた。
一言で言うと、僕は、自分がこの世で最も不幸で惨めな人間だ、と感じているのだ。健康がもう二度と回復しそうにないという、その恐れのために物事を少しも良くしようとせず、悪い方向へ向かわせてしまう人間のことを考えてみてくれ。輝かしい希望が無に帰してしまい、愛や友情の幸せが最大の苦痛にしかならず、(せめて心を励ましてくれる)美に対する感動すら消え去ろうとしている人間、そんな人間は最も惨めで、最も不幸だと思わないか? 「私の安らぎは去った、私の心は重い。私はそれを、もう二度と、二度と見出すことはない」、そう今僕は毎日歌いたい。毎晩床に就くときは、もう二度と目覚めることがないように祈り、朝になると昨日の苦悩だけが思い出される。こんな風に、僕は友達も喜びもなしに毎日を送っている、時々シュヴィントが訪ねてきて、過ぎ去った甘い日々の輝きを僕に分けてくれるとき以外は。 (1824年3月31日、シューベルトからローマのクーペルヴィーザーへ)
「私の安らぎは去った」以降の引用文は、ゲーテの「ファウスト」に登場するグレートヒェンの台詞で、シューベルトが17歳のときに作曲した不滅の名曲
「糸を紡ぐグレートヒェン」D118 の冒頭の歌詞である。
この陰鬱な手紙が書かれたときには、翌々月からの2度目のツェリス赴任が既に決まっていた。
2018/04/04(水) 23:02:39 |
伝記
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