FC2ブログ


シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

シューベルトの旅 (4)1821年9-10月、ザンクト・ペルテン、オクセンブルク城

「双子の兄弟」の上演が1820年7月に終わった後も、シューベルトのオペラ(舞台作品)への挑戦は続いた。

1820年8月19日には魔法劇「魔法の竪琴」D644がアン・デア・ヴィーン劇場で初演。当時流行っていた魔法劇の新企画に、レオポルト・ゾンライトナーがシューベルトを推薦したことで実現したが、台本(「双子の兄弟」と同じくゲオルク・フォン・ホフマンの作)が錯綜している上に、魔法のスペクタクルを演出する大がかりな舞台装置が動作せず、惨憺たる評判であった。それでも8回上演されたが、劇場は財政難を理由にシューベルトに支払うべき報酬を踏み倒したらしい。
10月にはインド古代劇に基づくオペラ「サクンターラ」D701に取りかかるが、翌年の初めに未完のまま投げ出した。

劇場関係者にも名が知られてきたシューベルトは、1821年2月にケルントナートーア劇場の臨時のコレペティトーアとして雇われる。同月、モーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」でデビューする18歳のアルト歌手カロリーネ・ウンガーに下稽古を付けるという役目だったが、毎回遅刻してくる上に歌唱指導もおざなりで、劇場関係者の心証をだいぶ悪くした。6月にはエロルドのオペラ「鐘」への挿入曲を2曲(D723)作曲し称賛を得たものの、シューベルトがコレペティトーアとして雇われることは二度となかった。

この怠慢さと倫理観の欠如の一因として取り沙汰されているのが、他ならぬフランツ・フォン・ショーバーとの交友関係である。
ショーバーは「風景画家になる」という夢を抱いて修行に出ていたが、1821年の初めにそれを諦めてウィーンに戻っていた。彼は芸術全般において多才な人物だったが、ひとつのことを極めるだけの忍耐力がいささか以上に欠けていた。外交的でお調子者のショーバーは、知り合って間もない人には魅力的な人物に映るが、やがてその薄っぺらさや胡散臭さが目に付き、みな距離を取るようになるのだった――ただひとり、シューベルトを除いて。純粋なシューベルトがショーバーに丸め込まれているのだと周囲は思っていたが、あるいは心のもっと深い部分で繋がりを感じていたのかもしれない。シューベルトは死ぬまでショーバーを信頼し続けていた。
ともかく、久々に街に帰ってきたショーバーと、シューベルトは以前よりも親密な関係となった。ショーバーの流儀に倣って享楽的な生活を送り、創作量は減り、決められた時間に職場に通うような仕事はすっぽかすようになった。2人が嗜んでいた麻薬の影響だと唱える研究者もいる。

1821年7月のアッツェンブルック城でのパーティーから戻った2人は、新たな共同作業を始めることになる。シューベルトのオペラへの取り組みがことごとく失敗してきたのは、何よりも台本が稚拙だったからだ。ショーバーが「それなら僕が台本を書いてあげよう」とシューベルトに持ちかけたのだろうか。


ブルーがウィーン、オレンジがザンクト・ペルテン、赤がオクセンブルク城

9月の初め、2人はウィーンを離れた。アッツェンブルックに数日滞在したあと、ウィーンから西に約50kmのところにあるザンクト・ペルテンの街に到着する。同地の司教、ヨハン・ネポムク・フォン・ダンケスライター Johann Nepomuk von Dankesreither (1750-1823)はショーバーの親戚だった。2週間あまりの滞在の間、彼らは毎晩のようにショーバーの友人の家に招かれ、舞踏会が開かれた。ショーバーによれば3回のシューベルティアーデが開催され、そのうち2回は司教の邸宅だった。そうした忙しい毎日でいくらか稼ぎを得たのだろうか、9月20日に彼らは司教の所有する郊外のオクセンブルク城に移動する。約1ヶ月間、2人はこの屋敷に籠もってオペラ「アルフォンソとエストレッラ」D732の創作に取りかかった。
シュパウンは2人がウィーンを離れて仕事を忘れ、遊び呆けるのでは(そして良からぬことに手を染めるのでは)と心配したようだが、実際のところ2人は本気でオペラ制作に没頭したらしい。自筆譜には、冒頭に「9月20日」、第1幕の終わりに「10月16日」、第2幕の始めに「10月18日」との日付があり、ショーバーが報告したところによると、ウィーンへ戻る頃には「台本は第3幕、音楽は第2幕まで完成」していた。彼らはおそらく毎日顔を突き合わせながら、台本と音楽を並行して進めていったのだろう。人気作家や脚本家が「ホテルに缶詰になる」という話があるが、それと似たようなもので、外部から隔絶された、仕事に集中できる環境をショーバーがシューベルトと自分自身に提供したわけである。

オクセンブルク城
現在のオクセンブルク城

オクセンブルクが「本当に美しい環境だった」というショーバーの報告以外、2人が同地でどんな日々を過ごしたかについての詳細な記録は残されていない。彼らがオペラ完成を目前にウィーンに帰ってきたのは、おそらく11月3日にケルントナートーア劇場で行われたヴェーバーのオペラ「魔弾の射手」のウィーン初演に立ち会うためだったと思われる(検閲対策の改竄のせいで、この初演は大失敗に終わった)。その前日にシュパウンに宛てた手紙で、シューベルトはイタリアの辣腕オペラ興行師、ドメニコ・バルバヤがウィーンの2つの劇場、すなわちケルントナートーア劇場とアウフ・デン・ヴィーデン劇場の支配人に12月に就任するというニュースを伝えている。バルバヤはウィーンでのロッシーニ大フィーバーを仕掛けた張本人だったが、就任直後にヴェーバーとシューベルトに対し、翌シーズンに上演するためのドイツ語オペラを提供するよう依頼した。イタリア・オペラでウィーンを侵略するつもりだという保守層からの批判をかわす思惑もあったと思われる。シューベルトは意を強くして「アルフォンソとエストレッラ」の仕上げの作業に取りかかり、年が明けて1822年2月27日に脱稿した。
舞台は中世のスペイン。王位を奪われた国王フロイラの息子アルフォンソと、王位簒奪者マウレガートの娘エストレッラが恋に落ちる。台本こそドイツ語だが、娯楽的なジングシュピールとは一線を画した本格的なイタリア・オペラの様式が採用された。
当時のシューベルトにとって、最大の自信作が完成した。

僕たちはこのオペラに大きな期待をかけている。
(1821年11月2日、シューベルトからシュパウンに宛てて)

ところが事はそう簡単には運ばなかった。シューベルトの最大の理解者であり、フロイラ役を演じることを想定していたフォーグルが、この作品を全く評価しなかったのである。オペラそのものの出来に満足しなかったことに加え、フォーグルはシューベルトがこのような重要な局面で、オペラ界の重鎮である自分に何の相談もなく、ショーバーの稚拙な台本を扱ったことにおそらく憤慨していた。ショーバーの帰還以降、他の友人たちと疎遠になっていたシューベルトだったが、この件を契機にフォーグルと決裂してしまう。その年の夏にシュタイアーでフォーグルと会ったアントン・フォン・シュパウン(ヨーゼフ・フォン・シュパウンの弟)は、「オペラ(「アルフォンソ」)は失敗作であり、全体的にシューベルトは間違った方向に進んでいる」というフォーグルの言葉を聞いて心を痛めた。
自信作だった「アルフォンソとエストレッラ」は、結局バルバヤにも受け取りを拒否されてしまう。

あのオペラはウィーンではどうにもならない。提出した楽譜は返却してもらったし、フォーグルは本当に舞台から引退してしまった。僕は近いうちにあのオペラを、ヴェーバーが好意的な手紙をくれたドレスデンか、ベルリンにでも送ってみようと思っている。
(1822年12月7日、シューベルトからシュパウンに宛てて)

シューベルトは諦めず、ドレスデンでの上演を期待して1824年にヴェーバーにスコアを送ったが、返答はなかった。ヴェーバーの次作「オイリアンテ」についてシューベルトが否定的な見解を口にしたことが彼の機嫌を損ねた、とも伝えられるが、本当のところはわからない。
同年末にはベルリンのソプラノ歌手アンナ・ミルダー=ハウプトマンからの依頼を受けてスコアを提出するも、「この台本は当地の趣味に合わない」と体よく断られた。実際には彼女が演じるべき役がこのオペラの中に無かったからだと思われる。
1827年のグラーツ旅行のホストであったパハラー夫妻にも本作の上演を働きかけたが、これも徒労に終わった。
結局このオペラが日の目を見たのはシューベルトの死後25年以上が経過した1854年6月24日のことだった。場所はドイツのヴァイマール、指揮したのはかのフランツ・リストである。上演にあたって作品を大幅に短縮したリストは、歴史的初演を経て次のように述べている。

この歌劇の一連のアリアは軽やかで美しく、幅広い旋律を持っている。これらすべてにシューベルトの叙情性を読み取ることができ、その多くは彼のリートの最高のものとも考えられる。また、彼が愛用した音程、終止法、フレーズの処理方法が多用されている。
しかし、至るところに情景描写や劇把握の欠点が目に付く。これらの欠点を補うために、オーケストレーションの利点が生かされることはなく、音楽が効果を発揮している箇所はどこにも見いだせない。管弦楽法は極めて控えめな役割を演じるだけで、実際はピアノ伴奏のオーケストラ用編曲に過ぎない。特にしばしば用いられるヴィオラのアルペジオと、さまざまな楽器で和音・装飾・パッセージを重ね合わせる(しかも他の楽器は少しも気分転換をもたらすことがない)その単調さは、聴き手を飽きさせる。(略)劇場はシューベルトの視野にはあまりに広すぎ、突如として湧き上がる彼の霊感にとっては、舞台が要求する織物はあまりに複雑すぎたのだ。

(1854年9月1日、フランツ・リストによる「新音楽時報 Neue Zeitschrift fuer Musik」の記事)

シューベルトの熱烈な崇拝者であるリストでさえも、「アルフォンソとエストレッラ」を佳作と認めることはできなかったのである。台本作家ショーバーはシューベルトの死後、リストの秘書を務めていて、そのことがこのヴァイマール初演のきっかけとなった可能性が高い。そのショーバーもまた、このオペラについて後年、「ひどい台本で、シューベルトの天才をもってしても、生き返らすことはできなかった」と顧みた。

意気盛んな2人の若者の、儚い夢の舞台となったオクセンブルク城。提供の返礼として、ダンケスライター司教には連作歌曲「ヴィルヘルム・マイスターの竪琴弾き」(D478-480)が献呈され、1822年に献辞とともに出版された。
スポンサーサイト
  1. 2018/03/31(土) 16:29:07|
  2. 伝記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

シューベルトの旅 (3)1820年7月、アッツェンブルック城

1820年からの数年間にわたる、シューベルトの創作数の激減にはさまざまな原因が考えられるが、ポジティヴなものとしては「大規模な劇場用作品の作曲に注力していたから」という理由が挙げられる。
フォーグルの口利きで委嘱されたジングシュピール「双子の兄弟」D647は1819年1月に既に完成していたが、初演にはそれから更に1年半を要した。
1820年6月14日、ケルントナートーア劇場で行われた初演ではフォーグルが一人二役の双子を演じ、シューベルトの友人たちやサポーターが熱烈な喝采を送ったが、大成功というほどの支持を得られたわけではなかった。初演時の通例として最後のカーテンコールに呼び出されるべき作曲者シューベルトは、みすぼらしい襤褸の服を纏って桟敷席に座っていて、見かねたヒュッテンブレンナーが自分の夜会服と交換するよう申し出た。しかしシューベルトは結局ステージに上がらず、仕方なく代わりに主演のフォーグルが聴衆に礼を述べて「あいにく作曲家は本日劇場に来ておりません」とアナウンスするのをニコニコしながら聞いていたという。
こうしたシューベルトの態度は、今では「控えめで目立つことを嫌う性格」と好意的に理解されているが、当時シューベルトの名を世に広めようと躍起になっていた友人や支援者の中には不可解に思ったり、はっきりと苛立ちを覚える者もいたようだ。
そもそもシューベルトはこの「劇場デビュー作」のリハーサルに一度も姿を見せなかった。もし立ち会っていたら、この作品の弱点を初演前に発見し、修正することもできたかもしれない。
「双子の兄弟」は7月までに合計6回上演されたが、夏の劇場のシーズンオフのあと、再演されずに打ち切りとなった。

まだ「双子」の上演が続いていた7月の初旬に、シューベルトはウィーンから35km離れたアッツェンブルック城に姿を見せた。


ウィーンと、そのやや西に位置するアッツェンブルック

アッツェンブルック城の起源は12世紀にまで遡るが、1820年当時はL字型のバロック様式の佇まいとなっており、ショーバーの伯父で弁護士のヨーゼフ・デルフェル Joseph Derffel (1766-1843)がこの館を管理していた。ショーバーとその親戚や友人たちは1817年からこの別荘で夏にホームパーティーを開催していて、シューベルトは招待客のひとりとしてこの年初めて参加したのである。

アッツェンブルック城
現在のアッツェンブルック城。内部は「シューベルト博物館」となっている。

アッツェンブルック城での催しの内容を描いた絵が残っている。シューベルトの友人の画家レオポルト・クーペルヴィーザーが描いたもので、「ジェスチャーゲーム」をやっているところだという。すなわち、参加者が二組に分かれ、一方が演じる無言劇の内容を、知らされていないもう一方が当てる、というゲームである。シューベルトはピアノの前に座り、左手で何やら弾いているようにも見える。

アッツェンブルック城でのジェスチャーゲーム

ちなみに彼らが演じているのは創世記の「アダムとイヴ」と林檎と蛇のシーンである。しかしショーバーが後年解説するところによると、ゲームのお題は「Rheinfall」(ライン川の滝)。どういうことなのだろうか? これは同音異義を使った駄洒落のようなもので、ドイツ語でRheinには「純潔」(現代ドイツ語ではrein)、Fallには「転落」という意味もあるので、「純潔からの転落=Rhein-Fall」、すなわち蛇の誘惑によってアダムとイヴが「堕落する」シーンを演じることで、「ライン川の滝=Rheinfall」に代えたのだ。ずいぶん難解な謎かけである。おそらく正解することより、演じ手によるお題の解釈まで含めて、そのセンスを楽しむハイブローな遊びだったのだろう。アッツェンブルックではこんなふうにゲームに興じたり、遠足に出かけたり、夜はダンスをしたりして遊び呆けるのが常だった。
城でのこの享楽的なパーティーが何日間ぐらい続いたのか、詳しいことは記録されていない。今では通称「アッツェンブルックのシューベルティアーデ」と呼ばれているが、少なくとも1820年の初回は「シューベルティアーデ」とは呼ばれていなかっただろうし、そもそもシューベルトがメインの催しでもなかったはずだ。
シューベルトは翌年以降も何度か、この夏のパーティーに参加した。あくまで休暇中だったので、滞在中に作曲された作品はほとんど知られていないが、例外が「6つのアッツェンブルックのドイツ舞曲」と呼ばれる舞曲集である。1821年7月の日付を持つ自筆譜は、おそらくアッツェンブルックの夜の舞踏会で演奏した舞曲を書き起こしたものなのだろう。これら6曲は、後にD145とD365の2つの舞曲集の中にバラバラに収録されて出版された(D145-1, D145-5, D365-29, D145-2, D365-30, D365-31)。
1821年の夏にシューベルトが再訪したことは確実だが、その後については確たる記録もなく、よくわからない。1822年が最後だったという文献もあれば、23年だとか、最晩年28年に至るまで毎年シューベルトは姿を見せたという情報もある。
アッツェンブルックでの様子を描いたクーペルヴィーザーの絵としては、もう1枚有名なものがあり、アッツェンブルックからアウミュール(詳細不明)へ向かう馬車に乗り合う男女が描かれている。画面の左奥、馬車には乗らず、画家自身と何やら話し込んでいるのがシューベルトである。楽しい遠足の1シーンなのだろうが、その構図はどことなく意味深な気がしなくもない。

アッツェンブルックからアウミュールへ

[参考文献]
・Rudolf Klein著「Schubert Stätten」(Elisabeth Lafite, 1972)
・藤田晴子著「シューベルト 生涯と作品」(音楽之友社, 2002)
・村田千尋著「作曲家◎人と作品シリーズ シューベルト」(音楽之友社, 2004)
  1. 2018/03/20(火) 16:42:21|
  2. 伝記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

シューベルトの旅 (2)1819年7-9月、シュタイアー・リンツ

フォーグルとシューベルト
毀誉褒貶の絶えない「シューベルトの親友」、フランツ・フォン・ショーバー Franz von Schober (1796-1882)の、生前のシューベルトへの最大の貢献といわれるのが、オペラ歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグル Johann Michael Vogl (1768-1840)の知己を取り付けたことだ。
フォーグルは26歳でケルントナートーア劇場にデビューして以来、圧倒的な人気と実力を誇ったスーパースターだったが、シューベルトと知り合う頃には、その四半世紀に及ぶオペラ歌手としてのキャリアに終止符を打とうとしていた。ショーバーは、この大ベテランにシューベルトを紹介しようと画策し、早世した姉の夫でやはり劇場の歌手を務めていたジュゼッペ・シボーニ Giuseppe Siboni (1780-1839)のコネクションを使ってフォーグルに接触した。フォーグルは当初「若き天才現るという話はこれまで何度も聞いたが、そのたびに失望してきた。もうそういうことには関わりたくない」と突っぱねたが、他の友人たちの口添えもあって渋々面会を承知し、当時シューベルトが居候していたショーバーの家を訪れた。1817年の春から夏にかけての出来事と思われる。
シューベルトの伴奏に合わせて、はじめは気乗りせずに歌っていたフォーグルだったが、何曲か歌うにつれて次第に熱が入り、この若い作曲家に興味を持つようになった。
「君はいいものを持っているが、コメディアン的、山師的な部分が少なすぎる。素晴らしいアイディアが、充分に磨かれずに浪費されている」
と助言して退去したが、その後しばしばシューベルトに会いに来て、やがてその熱烈な信奉者、サポーターとなり、リート演奏を通してシューベルトの天才を世に知らしめる広告塔を買って出た。大柄で恰幅の良いフォーグルと、風采の上がらないシューベルトが連れ立って歩くカリカチュアはあまりにも有名である。

1819年、23年、25年の3度にわたるオーバーエスターライヒへの旅行は、いずれもフォーグルの同伴で実現したものだった。
オーバーエスターライヒとは、現在はオーストリアの9つの連邦州の1つとなっているが、元来は地域名である。現在のオーバーエスターライヒ州と、その東側にあり首都ウィーンを取り囲むように広がるニーダーエスターライヒ州の両州に相当する地域が、古くからオーストリアの国土の中核を成してきた。15世紀の半ばに、エンス川を境に2つの地域に分かれ、オーバーエスターライヒ Oberösterreich(英語でUpper Austria、「上部(高地)オーストリア」)とニーダーエスターライヒNiederösterreich(英語でLower Austria、「下部(低地)オーストリア」)と呼ばれるようになった。ウィーンから見ると、オーバーエスターライヒは真西におよそ200kmといったところである。
1818年秋、ツェリスから帰郷したシューベルトのところに、フォーグルが大きな仕事を持ってきた。なんと、ケルントナートーア劇場から新作オペラの依頼を取り付けてきたのである。この1幕物のオペラ「双子の兄弟」D647は2年後の1820年に上演されることとなる。
そしてフォーグルは、翌1819年の夏の休暇に一緒にシュタイアーへ旅行しようと、シューベルトに持ちかけたのだ。

ウィーンと、オーバーエスターライヒの各都市。三角形の上の点がリンツ、右下がシュタイアー、左下がクレムスミュンスター。

シュタイアー Steyrは州都リンツに次ぐオーバーエスターライヒの街で、ニーダーエスターライヒ州との境目に位置する。エンス川とシュタイアー川の間に広がる市街地には10世紀から続く美しい街並みが残されており、シューベルトの時代に既に古都として知られていた。
フォーグルはもともとシュタイアーの生まれであったので、要するに毎夏恒例の里帰りにシューベルトを同行させた、という格好になる。シューベルトにとって、シュタイアーはフォーグルだけでなく、当時の同居人のヨハン・マイアホーファー、コンヴィクト同窓生のアルベルト・シュタートラーの生まれ故郷でもあり、是非訪れてみたい土地であったに違いない。
旅行の手配と支払いはフォーグルの自腹だったが、旅行中に自由に使える小遣いも欲しかろうと、オペラの委嘱料の一部を劇場から前借りし、シューベルトに持たせてやるほどの親切ぶりだった。

7月中旬、フォーグルの休暇が始まるやいなやふたりはシュタイアーへ向かった。シュタイアーでのシューベルトの滞在先は、旧友シュタートラーの叔父で弁護士のアルベルト・シェルマン Albert Schellmann (1759-1844)の大邸宅で、そこにはシュタートラーとその母も住んでいた。1階のシェルマン家には5人の娘がいて、隣のヴァイルンベック家の3人と合わせて8人の少女たちがわいわいと生活していた。

僕が住んでいる家には8人もの娘たちがいて、しかもほとんどみんな可愛い。僕が忙しいのがわかるだろう?
(7月13日、シューベルトから兄フェルディナントへ)

シューベルトはシュタートラーとともに2階の部屋に住んで、シェルマン氏のピアノを借りて仕事をした。
一方でフォーグルは、シェルマン家のすぐ近く、鉄鋼商のヨーゼフ・フォン・コラー Josef von Koller (1780-1864)の邸宅に滞在していたらしい。

毎日フォーグルと食事をご馳走になっているフォン・コラー氏のところには娘がいて、とても可愛い。ピアノが上手で、僕の歌曲をいくつか歌ってくれることになっている。
(同前)

当時18歳だったこの娘はヨゼフィーネ Josefine (Josefa) (1801-1874)といい、シューベルトのシュタイアー滞在中の「ミューズ」であった。シューベルトは彼女を「ペピ」の愛称で呼んだ。
コラー家ではたびたびプライベートの音楽会が開かれ、あるときにはシューベルトの「魔王」の歌唱パートを人物ごとに分担して、ヨゼフィーネがこどもを、シューベルトが父親を、フォーグルが魔王を演じ、シュタートラーが伴奏する、なんていう楽しい一幕もあったらしい。また8月10日のフォーグルの誕生日には、シュタートラー作詩、シューベルト作曲の新作カンタータ「歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグルの誕生日に寄せて」(D666)をコラー邸で披露。ヨゼフィーネがソプラノ、地元の歌手ベルンハルト・ベネディクトがテノール、シューベルトがバスを担当し、ピアノ伴奏のシュタートラーとの4人で51歳になった歌手を祝福した。
シュタートラーによると、シューベルトはこの滞在中に、直近で書き上げたピアノ・ソナタの楽譜をヨゼフィーネにプレゼントしたという。これはD664のイ長調ソナタのことだと考える向きが多い。

もうひとり、1819年のシュタイアー滞在でシューベルトが出会った、忘れてはならない人物はシルヴェスター・パウムガルトナー Silvester Paumgartner (1764-1841)である。彼は鉱山組合の役員で、アマチュアのチェリストでもあり、豪邸でのサロンコンサートをたびたび催していた。地元出身のスターであるフォーグルと、シューベルトによるパウムガルトナー邸での歌曲の夕べは大喝采をもって迎えられた。
パウムガルトナーの委嘱によって作曲され、彼に献呈されたのがかの名曲、ピアノ五重奏曲「ます」D667である。おそらく歌曲「ます」の旋律を気に入ったパウムガルトナーが、チェロの入った編成で楽しく演奏できる室内楽曲を、とシューベルトに頼んだのだろう。パウムガルトナー邸に設置された記念碑には「この家で『ます』五重奏曲が作曲された」とあるが、これはどうやら誤りで、シューベルトは依頼を受けてからいったんウィーンに戻り、完成させた譜面をシュタイアーに送ったようだ。1819年暮れから1820年初めにかけての冬のシーズンに、パウムガルトナー邸で初演されたが、そこにシューベルトは立ち会わなかった。

さてシューベルトとフォーグルは、シュタイアーを根城にしてリンツにも足を伸ばしている。8月19日付の、ウィーンでの同居人マイアホーファーに宛てた手紙はリンツから出された。

僕は現在リンツにいる。シュパウン家に滞在し、ケンナー、クライル、フォルストマイアーに会った。シュパウンの母親、それからオッテンヴァルトと知り合い、彼の詩に作曲した「子守歌」を歌ってあげた。シュタイアーではとても良い時間を過ごしたし、このあともそうなると思う。あのあたりはまるで天国だ。リンツもとても美しい。僕たち、つまりフォーグルと僕は、向こう数日間ザルツブルクに旅行するつもりだ。どんなに楽しみにしていることか。
(8月19日、シューベルトからマイアホーファーへ)

リンツはシュパウン家の本拠地だが、残念ながらコンヴィクト時代の親友ヨーゼフ・フォン・シュパウンは他所に赴任中のため不在で、代わりに弟で文学史・民俗学者のアントン・フォン・シュパウン Anton von Spaun (1790-1849)や、彼らの妹の夫アントン・オッテンヴァルト Anton Ottenwalt (1789-1845)らと親交を深めた。
彼らを中心に、コンヴィクト時代の友人ヨーゼフ・ケンナー、シュタイアーのアルベルト・シュタートラー、それにマイアホーファーといった面々が、リンツ=シュタイアー地域の友人グループを形成している。彼らは文学や哲学に精通し、その詩作にシューベルトが付曲したリートも多い。この「リンツ=シュタイアー」一派は、シューベルトのウィーンの友人たち(画家が多い)とともに、後の「シューベルティアーデ」メンバーの中核となっていく。
マイアホーファーに予告したザルツブルク行きは結局このときは実現しなかったようだ。シュタイアーに戻る途中、8月26日にはクレムスミュンスターの修道院に立ち寄っている。修道院のギムナジウムは、フォーグル、そしてショーバーが少年時代を過ごした場所でもあった。
残りの休暇の日々をシュタイアーで過ごし、9月の半ばにウィーンへ帰着した。旅行中にシューベルトが書いた作品は少なく、歌曲に至っては1曲も作曲していない。おそらくフォーグルとの演奏もあって忙しかったのだろう。

フォーグルがこの旅行にシューベルトを同行させた理由は、単に自分の故郷を見せたいというだけでなく、ウィーン以外の地方にもシューベルト・ファンのネットワークを広げるという目的があったと思われる。シュタイアーのシェルマン、コラー、パウムガルトナー、リンツのシュパウン、オッテンヴァルトの各家は、1823年・25年の旅行時にもフォーグルとシューベルトに便宜を図り、さらにシューベルトの没後もその名声を高めることに貢献した。

[参考文献]
・Rudolf Klein著「Schubert Stätten」(Elisabeth Lafite, 1972)
・Otto Erich Deutsch編「Franz Schubert Die Dokumente seines Lebens und Schaffens」(Georg Müller, 1914)
・藤田晴子著「シューベルト 生涯と作品」(音楽之友社, 2002)
・オットー・エーリヒ・ドイッチュ編 實吉晴夫訳「シューベルトの手紙」(メタモル出版, 1997)
  1. 2018/03/06(火) 22:45:11|
  2. 伝記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0