佐藤卓史シューベルトツィクルス第6回「ピアノ・ソナタII ―20歳のシューベルト―」 が無事終了しました(10月15日、東京文化会館小ホール)。ご来場下さった282名のお客様、ご支援・ご協力をいただいた皆様に心より御礼申し上げます。
シューベルトがいかにして「完成作」D568を作り上げていったのか、その軌跡を追体験するかのような90分となりました。弾き手としては「同じようなソナタを違う調性で2曲暗譜」という悪夢のような課題でしたが、破綻なく終わって一安心、といったところです。
第7回公演
「人生の嵐 ―4手のためのピアノ曲―」 は、2005年シューベルト国際コンクール覇者の
川島基 さんをゲストにお招きし、
2017年6月22日(木)、東京文化会館小ホール にて開催いたします。詳細はまもなく当ブログでも発表します。
次回も皆様のご来場をお待ちしております。
[第6回公演アンコール曲]
♪シューベルト/リスト:水の上で歌う D774 (S.558-2)
♪シューベルト/佐藤卓史:エルラフ湖 D568
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2016/10/19(水) 16:41:20 |
シューベルトツィクルス
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発売中の「
音楽の友 」誌10月号(音楽之友社)、ならびに「
ショパン 」誌10月号(ハンナ)に、「シューベルトツィクルス第6回」に関する佐藤卓史のインタビュー記事が掲載されています。是非お読み下さい。
2016/10/10(月) 07:37:01 |
メディア情報
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ピアノ・ソナタ 第5番 変イ長調(/変ホ長調) Sonate Nr.5 As-dur(/Es-dur) D557 作曲:1817年5月 出版:1888年
このソナタは調性の配列が奇妙である。第1楽章は変イ長調で始まるが、第2楽章は変ホ長調、第3楽章も
変ホ長調のままで曲を終える 。第3楽章は明らかにフィナーレの特徴を備えており、後続楽章があるようには思われないため、ソナタとしては完結するのだが、
属調で終わるソナタというのは例がない 。
シューベルトの死後、兄フェルディナントはこのソナタをディアベリ社に送ったが、おそらく調性に疑念があるせいで完成作とは見なされず、出版はされずじまいだった。その後自筆譜はオークションにかけられ、現在ニューヨークのメトロポリタン・オペラ・ギルドの所蔵となっている。この自筆譜は第3楽章の[28]以降が欠落しているが、「
ヴィッテチェク=シュパウン・コレクション 」の筆写譜で第3楽章の完成形を知ることができる。
この筆写譜も楽友協会資料室で実際に閲覧したが、自筆譜に基づく新全集とは細部にいくつかの相違がある。とりわけ第1楽章の[29]では、新全集では右手がオクターヴのトレモロになっているが、筆写譜では上声部のみの単音である。この作品も
「2つのスケルツォ」D593 同様、ニューヨークにある自筆譜とは別の自筆譜がかつて存在し、筆写譜の元となったその自筆譜は消失したものと考えられる。
ところで、「ヴィッテチェク=シュパウン・コレクション」の中には、「断片」などと明記されている作品もあるのだが、D557は特に注記もなく、
3楽章構成のソナタ として記されている。
本当にこの状態で完成しているのか、あとで第1楽章または第3楽章を移調するつもりだったのかはわからない。ハンス・ケルチュ Hans Költzschは「シューベルトの書き間違い」と断じているが、アンドレア・リントマイヤー=ブロンドルAndrea Lindmayr-Brondlは意図的な調性配置とみて「形式や楽章構成は古典的だが、調性だけが異常という実験作なのではないか」と論じている。
リントマイヤー=ブロンドルの指摘の通り、モーツァルトに通じる古典派の趣があり、全体的にソナチネ風のこぢんまりしたソナタである。
第1楽章 の、勢いある付点を伴ったオクターヴユニゾンの開始は、
メヌエットD380-3 との関連性が指摘されている。第1主題はポロネーズ風の威勢の良さを感じさせるもので、しなやかなメロディーが両手で平行して歌われる第2主題と対照をなしている。短い展開部に用いられているモティーフはひとつだけで、第1主題と第2主題の間の経過句から採られている。
第2楽章 は三部形式の緩徐楽章。8分音符の訥々とした伴奏型の上で、アウフタクトから始まるメロディーが歌われる。このメロディーは時に対旋律を伴いながらさまざまな音域に登場し、オーケストラの楽器間の対話、交響曲の一場面を想起させる。中間部では変ホ短調に転調し、32分音符の無窮動のパッセージが嵐のように鍵盤を駆けめぐる。
第3楽章 はソナタ形式。第1主題・第2主題とも、シューベルト十八番の舞曲の要素が採り入れられ、ウィーンの軽やかな風を感じさせる。展開部では左手の速いパッセージに乗って激しい表現も聴かれる。再現部での転調も手際よく、勢いよく終幕へ駆け抜ける。
2016/10/09(日) 03:20:10 |
楽曲について
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前回の記事 に登場した、
「ヴィッテチェク=シュパウン・コレクション Sammlung Witteczek-Spaun」 について解説しよう。
フランツ・シューベルトの死去の前後から、「シューベルティアーデ」の友人たちの間で、彼の作品を収集しようという動きが起きていた。
最初にまとまった量の譜面を収集したのは、
カール・ピンテリクス Karl Pinterics (?-1831)という人物である。彼はハンガリーの貴族パールフィ=エルデードPálffy-Erdőd家の私設秘書を務める傍ら、シューベルティアーデに出入りし、オシアンの詩のドイツ語版をシューベルトに提供したりしていたようだ。彼はおそらくシューベルトの生前から、
歌曲 の譜面を収集しており、1831年に死去したとき、その数は505曲に上っていたという。
このコレクションを受け継いだのが、
ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ヴィッテチェク Josef Wilhelm Witteczek (1787-1859)である。彼は1816年にシュパウンの紹介でシューベルトに出会い、やがてその音楽の熱心な崇拝者になった。宮廷の財務官僚でありながら、「シューベルティアーデ」の常連となり、彼の邸宅にフォーグルらを招いて集いが開かれたことも多々あったという。
ヴィッテチェクは、ピンテリクスのコレクションを拡大する形で、シューベルトの譜面を次々に収集していった。1850年までに出版された
声楽曲、ピアノ曲、室内楽曲 の初版譜のほか、
未出版の作品の筆写譜 を多額の私費を投じて制作した。このとき共同作業者となったのが、
ヴァイザー氏Weiser と呼ばれる詳細不明の愛好家で、彼はこの筆写譜の写譜者とも見なされている。結果的に、1831年から1841年までの間に、
ヴィッテチェック・コレクションとして77巻、ヴァイザー・コレクションとして11巻 のシューベルト作品が集められた。
1859年にヴィッテチェクが死去し、これらの貴重な資料は遺志に基づいて
シュパウン が譲り受けることになった。シュパウンが1865年に死去すると、やはり遺言によりコレクションは
ウィーン楽友協会 に寄贈されることとなった。こうして「ヴィッテチェク=シュパウン・コレクション」は今に至っているわけだが、シュパウンは収集そのものに特に関与したわけではない。
さて、このコレクションも楽友協会資料室で閲覧することができるのだが、これは作曲家の自筆というわけではないので、現物を目にすることができた。
非常に大きなサイズの本で、分厚い紙に美しい筆跡で文字と楽譜が書き込まれている。時折赤字で訂正の書き込みがあり、アンドレア・リントマイヤーAndrea Lindmayrの研究によれば、そのいくつかはシューベルトの兄フェルディナントの筆跡だという。
楽譜は余裕を持って書かれていて読みやすいが、スラーのかけ方やデュナーミクの位置がずいぶん適当だったり、明らかな写し間違いがあったりもする。完成度からいって、職業的な写譜業者の手になるものではないと想像される。
この筆写譜の元となった自筆譜は、おそらく大部分はフェルディナントのもとから借り出したものと思われる。対象は小規模な編成の作品に限られ、交響曲、ミサ曲、オペラは含まれず、さらに「舞曲」も対象外である。
このコレクション以外に一次資料のない作品や、D593のように初版譜と違う内容が記録されている場合もあり、シューベルト研究にとって極めて重要な資料となっている。
2016/10/08(土) 09:24:56 |
用語解説
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2つのスケルツォ Zwei Scherzi D593 作曲:1817年11月 出版:1871年
旧全集よりも早く、1871年にウィーンのゴットハルト社から出版された。自筆譜は残っていないが、
「ヴィッテチェク=シュパウン・コレクション」 と呼ばれる1840年代の筆写譜がウィーン楽友協会に所蔵されている。「ヴィッテチェク=シュパウン・コレクション」については次回の記事で詳しく紹介したい。
楽友協会資料室を訪問した際 にこの筆写譜も閲覧してきたのだが、1871年の初版譜とはずいぶん違いがある。最も大きな相違点は、第1曲の[15]の2拍目、上声の2つ目の16分音符が、
筆写譜ではd、初版譜ではc となっていることだ(平行箇所の[49]も同様)。
スケルツォ D593-1 第13-16小節、ベーレンライター版新シューベルト全集。「ヴィッテチェク=シュパウン・コレクション」に基づく。 スケルツォ D593-1 第13-16小節、ブライトコプフ版旧シューベルト全集。初版譜に基づく。 ミスプリントや、出版社による勝手な改変の可能性もなくはないが、おそらくは内容の異なる
2種類の自筆譜が存在 し、ひとつが筆写譜の元となり、もうひとつが初版の製版に使われ、その後
2つとも消失した とみるのが自然だろう。
「スケルツォ」はイタリア語で「冗談」を意味する。ピアノ曲としてはソナタの中間楽章、メヌエットの代替としてベートーヴェンが導入したが、
ソナタに属さない単独のスケルツォ は、大作曲家の作品としてはこれが最初ではないだろうか。
既に述べたとおり 、
第2曲 のトリオがソナタD568の第3楽章(メヌエット)のトリオとほぼ一致しており、
この作品がD567の中間楽章のスケッチとして書かれた可能性 はあるものの、D567の清書譜にはスケルツォが差し挟まれる余地はなく、この説を採ればスケルツォはかなり早い段階で捨てられた、ということになる。
筆写譜・初版譜の両方に記されている「1817年11月」という作曲時期を素直に信じれば、8月にこの年6曲目のソナタD575を書き終えた(これについても諸説あるものの)シューベルトが、ソナタとは関係なく生み出した
単独小品 、という見方もできる。私自身は、とくに第1曲の明快でキャッチーなキャラクターを考えると、ソナタの中間楽章として構想されたものとは思えないので、それ以上の根拠はないものの「単独小品説」を採りたいと考えている。
いずれにせよ、変ロ長調と変ニ長調のスケルツォが2曲セットになった状態で伝承されてきたわけで、当時のピアノ作品としては珍しい体裁であったことは確かだろう。
2曲とも、
|:A:|:BA:||:a:|:ba:| Da capo の
複合三部形式 で書かれている。
特徴的なのは、スケルツォとはいえ
テンポは中庸 で、むしろ一部のメヌエットよりも遅いテンポが想定されていることである。しかし、とりわけ第1曲の左手のリズムはメヌエットとも、ワルツとも違う軽妙なもので、これが一種の「スケルツォ=冗談」感を演出していると言えるかもしれない。また、両曲の主部には2分割(8分音符)と3分割(3連符)が共存しているのが特徴で、リズミカルな活発さをもたらしている。その主部に比べると、トリオは両曲とも穏やかであり、第2曲のトリオが移植された先が「メヌエット」だというのも納得できる。
スケルツォ D593-1 冒頭 第1曲(変ロ長調) は、先述した冒頭の左手のリズムが、明らかに舞曲の性格を帯びている。主部のB部分では、同種短調の変ロ短調を経由して変ニ長調へと転調し、そこから半音階的に変ロ長調へ戻っていくあたりに、その後のシューベルトにも通じる巧みな転調技法が垣間見える。変ホ長調のトリオはレントラー風だが、b部分のバスの独立した動きが興味深い。
全体として溌剌とした魅力に溢れており、技術的に平易なため、こどもの教材としてもよく用いられている。
スケルツォ D593-2 冒頭 第2曲(変ニ長調) は、前曲と比べると落ち着いた印象の、中低音の重厚な和音で始まるが、すぐに高音域に移っていき、音階やアルペジオを駆使して鍵盤の端から端まで自由に行き来する、なかなか忙しい曲である。B部分では、前曲と同様に短3度上のホ長調(異名同音)に転調して、ここでやはり舞曲風の音楽になる。
ところでこの曲は主部からトリオに入る際に、拍節の繋がりがうまくいっていない。主部は強起(アウフタクトなし)だが、トリオは弱起(アウフタクトあり)なので、そこで余計な1拍が入ってしまうわけだ。
スケルツォ D593-2 主部の終わりからトリオ冒頭。主部の最終小節もきっちり3拍あるので、トリオのアウフタクトが入る余地がない。 旧全集では、3拍子を守るために主部最後の2分音符を抜くという改変まで行っている。
このことから考えて、主部とトリオは別々の機会に作曲されたものを繋ぎ合わせた、という可能性もあると思われる。
2016/10/07(金) 16:39:15 |
楽曲について
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ピアノ・ソナタ 第7番 変ニ長調 Sonate Des-Dur D567 作曲:1817年6月 出版:1897年
ピアノ・ソナタ 第8番 変ホ長調 Sonate Es-dur D568 作曲:不明 出版:1829年5月(作品122)
今回は、D567/D568を実際に演奏する際に問題になってくる事柄について述べる。
今後この曲を演奏しようという人の参考になればと思い記すので、ピアニスト以外の方々には興味のない話かもしれないが、少々お付き合いいただければ幸いである。
●D568第1楽章の提示部末尾について D568の初版譜では、第1楽章の提示部の繰り返し記号直前の小節に問題がある。
繰り返しで冒頭に戻るためにアウフタクトが付いているのだが、繰り返しの2回目、
展開部へ進むときにはこのアウフタクトがあるとおかしい 。
現行のヘンレ版や新全集では、この
アウフタクトを消去した「2括弧」(セコンダ・ヴォルタ)を挿入 してから展開部へ入るという方法を提案している。これが現在のところ標準的な解決方法であろう。
D568 第1楽章 提示部末尾([109]-[112])、ベーレンライター版新シューベルト全集による。編集者により挿入された「2括弧」は小音符で記されている。 しかし、
D567の平行箇所 を参照すると、
ちゃんと1括弧・2括弧が設定 されていて、[109][110]で左手が下降していった先で短調のドミナントが鳴る、という構成になっている。
D567 第1楽章 提示部末尾([109]-[111]) そもそもD568で新たに挿入された[111][112]の変ホ長調の属七は、提示部冒頭に戻るために必要なのであって、展開部に入るためには不要の措置なのだ。
D567の進行を参考にして、D568の[111][112]を1括弧に入れてしまえば、2回目は[110]から[113]に飛ぶことになる。
初版譜はこの1括弧・2括弧の表記を忘れたのではないだろうか。 そう思ってウィーン原典版(ティリモ校訂)を見てみたら、全く同じ解決策が書かれてあったので、いささか意を強くした次第である。今回の公演ではこの案に基づいて演奏する。
D568 第1楽章 提示部末尾([109]-[116])、ウィーン原典版。[111]からが1括弧になっている。 ●第2楽章の「3分割+2分割(または付点)」リズム問題 「3連符と付点」を同期させるかどうかは、シューベルトに限らず、古典~初期ロマン派の作品でしばしば問題になる。
有名な例は「冬の旅」の第6曲「溢れる涙」の冒頭のピアノパート。
歌曲集「冬の旅」D911 第6曲「溢れる涙」冒頭 考証的には、
付点を3連符に合わせて「2:1」の緩いリズムで弾く のが正しい、とされているが、名伴奏者のジェラルド・ムーアはそれを知った上であえて3連符と付点を同期させずに演奏し、「旅人の重く疲れた足取り」を表現した。
同じ問題が第2楽章の[43]以降に現れているが、ここでは上例よりもテンポが速いこともあって、左手の付点は右手の3連符と揃えるということで問題ないだろう。この時代には「2:1」の3連符の書法はまだ一般的ではなかったし、D567の自筆譜を見ても一目瞭然である。
D567 第2楽章自筆譜([39]-[52])。付点リズムは3連符に揃えて記譜されている。 問題は[43]1拍目などに現れる、休符を伴う2分割の処理である。これは、左手のオクターヴ音型に付点が付けられていなかったニ短調初稿から引き継がれたものなのだが、D567自筆譜を見ると、こちらも右手の3連符と揃えて音符が書かれている。つまり、
ここも3連符に合わせて「2:1」のリズムで弾く 、ということになる。
この奏法についてはD568でも同様に敷衍して問題ないだろう。
●D567第3楽章のコーダ(欠落部分)について D567の最終ページ消失に伴う欠落については、ヘンレ版、ウィーン原典版ともに、D568のコーダ部分をそのまま移調して完成させている。
だが、これがD567の欠落部分を忠実に再現しているという確証はなく、むしろたぶん違うだろうと私はみている。
[167]の中断以降、少なくとも5小節間は提示部のコデッタを参照して再現可能であるが、問題はその後である。
D568 第3楽章 コーダ([213]以降) とりわけ注目すべきはD568の[219]の右手の
16分音符の上行形 。これは第1主題のヴァリアントであり、D568の再現部([133])で初めて登場した音型である。
D567の再現部にはこのヴァリアントは登場しておらず、そのためコーダにも使われなかった 可能性が高い。
さらに、
[218]と[220]の倚和音 、とくに複雑な表情を持つ[220]の和音を、20歳のシューベルトが果たして思いついただろうか? この1点だけ取っても、私は改訂作業が晩年に近い時期に行われたという説に1票を投じたいと思っている。
もっと想像をたくましくすれば、終結部[217]からの第1主題の回想自体、D568で新たに書き足されたのであって、
D567はこんな洒落たコーダではなく、もっとあっさり終わっていた 可能性すらあると思う。
とはいえども、上記の推測に基づく第三者の補筆と、晩年に近いとはいえシューベルト自身が残したD568のコーダ、どちらがよりオーセンティック(正統的)かと考えると、やはり後者だろうということで、今回はオリジナルの補筆は行わず、D568のコーダを移調したヴァージョンでお届けする。
2016/10/06(木) 22:17:26 |
楽曲について
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D568はもちろんのこと、D567についても、成立状況を教えてくれる文献は残っていないのだが、ひとつ面白い証言がある。
ニ短調の緩徐楽章初稿の記事で登場 した、シューベルトの友人
アンゼルム・ヒュッテンブレンナー は、1854年にフランツ・リストの求めに応じて
「歌曲作曲家フランツ・シューベルトの生涯の断片 Bruchstücke aus dem Leben des Liederkomponisten Franz Schubert」 という回顧録を残していて、その中で
「嬰ハ長調のピアノ・ソナタ」 について言及している箇所があるのだ。
非常に難しくて、シューベルト本人も間違えずに弾くことができなかった。私は3週間、熱心に練習して、彼と友人たちの前で演奏したところ、彼はこの曲を私に献呈してくれた。その後ある外国の出版社に送付したのだが、「こんなひどく難しい作品は、売れ行きが期待できないので、あえて出版しようとは思わない」という内容のメッセージとともに返送されてきた。 嬰ハ長調(!)のソナタというのは知られていないので、きっと変ニ長調のソナタ(D567)を指しているのだろう、ということで、この証言は新全集のD568の解説にも引用されている。
この時期にシューベルトがピアノ・ソナタをヒュッテンブレンナーに献呈したという事実も、外国の出版社に送ったという事実も、この証言以外には知られていない。ヒュッテンブレンナーという人は以前
「グラーツ幻想曲」D605Aの記事 でも述べた通り、ちょっと怪しげなところがある人物で、とりわけシューベルトの死後26年も経った1854年の証言を信用できるかどうかは微妙なところなのだが、もし本当だとすると、いろいろ符号が合うことがある。
まず第一に、D567がヒュッテンブレンナーに献呈されていたとしたら、例のニ短調の草稿の紙片を、ヒュッテンブレンナーが持っていたことも説明がつく。「これは君にあげたソナタのスケッチだから、あげるよ。ベートーヴェンの自筆譜の裏に書いちゃったんだけども」なんて言って渡したのかもしれない。その紙片をヒュッテンブレンナーは生徒の記譜練習に使わせてしまうわけなのだが・・・。
そして第二に、なぜシューベルトがD567を改訂しようと思い立ったのか、その理由の一端がこのエピソードには示されている。自分では弾けないような難曲だったが、ヒュッテンブレンナーが弾いてくれたら良い曲で、友人たちにも好評だった。それで自信がついて、外国の出版社に送ってみたが、「難しすぎてダメ」と言われた。
ならば、
♭5つの変ニ長調から、♭3つで読譜しやすい変ホ長調に直せば、受け入れられるのではなかろうか 。つまり、作曲家自身の内的欲求というより、
受容を優先し、出版を視野に入れた上での改訂作業 、という可能性があるのだ。緩徐楽章を同主短調の変ホ短調にしなかったのも、♭が多すぎる(6個)から避けた、という理由もあるだろう。
実際にD568が現在も演奏会の主要レパートリーに君臨しているところを見ても、シューベルトの目算は当たったということになる。
さて、肝心の改訂の時期については特定されておらず、1817年(D567の作曲年)から1828年(シューベルトの最期の年)までさまざまな説がある。
1817年説 を唱えたのは著名なシューベルト学者の
モーリス・ブラウン である。
ブラウンはD593の2つのスケルツォを、D567の挿入楽章の習作と捉えている。D567が1817年6月に完成したあと、すぐにシューベルトはD568への改訂作業に着手し、11月までに完成させて、そのとき捨てられた2つのスケルツォを譜面にまとめて、11月の日付を書き込んだ。つまり
D593の作曲日付の「1817年11月」は、D568の完成時期を示している 、という見立てである。
なぜそのようなロジックが成り立つのか、原文を何度読んでもさっぱりわからないのだが、おそらくは「D568は1817年作曲」という希望的観測が最初にあって、論を進めているだろう。
「1817年の6曲のソナタ」 の、失われた第3番・第4番のいずれかにD568を当て込みたかったものと思われる。
現在ではこの説の信憑性は低い。まず、
D567の清書稿 では、第2楽章の最終ページの裏面に第3楽章(フィナーレ)が書かれていて、その間にスケルツォ(あるいはメヌエット)が入り込む余地はない。D567は3楽章構成のソナタとして完成したのであり、D593のスケルツォがD567のために書かれたのだとしたら、1817年6月以前の時点で捨てられていたはずである。D567からD568への改訂作業の途中でスケルツォが書かれたとすると、変ロ長調の第1番はともかく、第2番の変ニ長調という調性はD568には合致しない。
D593が、何らかのソナタの中間楽章として書かれた可能性は否定できないものの、それがD567/D568であるという明確な証拠もなく、その作曲の日付がD568の完成を示すというのはあまりにも飛躍が多い。
さらに言えば、単なる移調だけならともかく、これほどの内容のブラッシュアップを伴う改訂を、D567完成直後のシューベルトが成し遂げたとはちょっと思えない。D567の完成からしばらく時間が経って、過去作を客観的に見ることができるようになった作曲者が校訂したもの、と捉えるのが自然だろう。少なくともこの時期のシューベルトが、いったん完成した作品にさらに手を加えるような習慣を持たなかったことは確かである。
一方で、改訂時期を
シューベルトの晩年 と見なしている学者もいる。
マーティン・チューシッドMartin Chusidは展開部の書法について、「1824年以前のシューベルトは、これほど広範囲における、複雑な転調のシークエンスを書いたことはない」という。さらに、展開部の内容を検討するとピアノ三重奏曲第2番D929や弦楽五重奏曲D956に似ているとして、改訂作業はシューベルト最晩年の1828年、もしかしたらその最期の数ヶ月か、数週間で行われたのかもしれない、と論じている。
論文そのものを参照できなかったので、どの部分を比較しているのかは詳しくわからないのだが、
以前に分析した通り 、D568で新たに書き足された部分は、
終楽章の展開部の前半40小節のみ であり、あののどかな舞曲風の部分の転調が、最晩年のシューベルトにしか書き得なかったものとはちょっと思われない。
マルティーノ・ティリモが編纂した
ウィーン原典版 の解説には、
「改訂作業が1826年に行われたことを示唆するいくつかの証拠がある」 として、複数の論文が紹介されているが、その内容については詳述されておらず、そこに挙げられた論文のオリジナルを参照することもできなかったので、この説の信憑性については詳しい検討はできなかった。
1829年6月にフェルディナントが作成した、弟フランツの遺産台帳によると、1829年1月5日に、ペンナウアー社からの58グルデン36クロイツァーの支払いが記録されている。ドイチュは、これをD568の作曲料とみている。
時期的に考えて、D568の出版契約は、シューベルトの生前に締結されたのだろう。しかし1828年11月19日に急死したシューベルトは、その対価を受け取ることさえできなかったのだった。
2016/10/05(水) 22:44:28 |
楽曲について
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前回 に引き続き、D567からD568への改訂について解説する。
今回は、中間楽章を詳しく取り上げたい。
●第2楽章 第2楽章の構成は、D567もD568も全く変わらず、
展開部を欠くソナタ形式 で書かれている。調性だけが異なっていて、D567は同主短調(異名同音)の
嬰ハ短調 、D568では長3度上の
ト短調 が選択されている。
下の表では、D567とD568、それぞれの調性の経過をドイツ音名で示した。
D567 D568 提示部 第1主題 [1]-[19] cis:→E:→cis: g:→B:→g: 経過句 [20]-[26] cis: g: 第2主題 [27]-[42] A: Es: 小結尾 [43]-[63] A:→・・・→h:→・・・→e:→h:→cis: Es:→・・・→f:→・・・→b:→f:→g: 再現部 第1主題 [64]-[75] cis→E: g:→B: 第2主題 [76]-[91] E: B: 小結尾 [92]-[109] E:→・・・→fis:→・・・→h:→fis:→E:→cis: B:→・・・→c:→f:→c:→B:→g: コーダ [110]-[122] cis:(経過句の再現) g:(経過句の再現)
前に紹介した通り 、この楽章にはニ短調の初稿があり、その稿は提示部の終わり、[63]で中断している。細部においては違いがあるものの(やはり初稿はやや荒削りであり、稿を重ねるごとに洗練されていく)、調性の配置も含めて音楽の流れは全く変わらない。
D567とD568については、さらに細部の差異が少なく、装飾音の追加や些細なリズムの変更程度なので、ここでは詳述しない。
問題は、
なぜシューベルトはD568において「ト短調」という調性を選んだのか 、ということである。
単純にソナタ全体を長2度上に移調するのであれば、第2楽章も変ホ長調の同主調である「変ホ短調」を採用すればよい。あるいは、変ホ長調の平行調である「ハ短調」を採っても、初稿の「ニ短調」やD567の「嬰ハ短調」に音域的にも近く、違和感は少ない。
しかしシューベルトは、わざわざイレギュラーな「長3度上の短調」を選んだ。
アンドレアス・クラウゼ Andreas Krauseの著書「Die Klaviersonaten Franz Schuberts. Form, Gattung, Ästhetik」(Bärenreiter, 1996)での分析は興味深い。
ト短調で始めると、提示部の第2主題が
変ホ長調 、すなわち
ソナタ全体の調性 と一致する。再現部の第2主題は
変ロ長調 となり、これは第1楽章の属調、つまり
提示部の終結部分の調性 となる。
第2主題部の調性で、第1楽章と関連を持たせ、ソナタ全体の統一感を図ろうとした 、という見立てである。
嬰ハ短調のD567では、該当箇所はイ長調とホ長調。変ニ長調の第1楽章には登場しないシャープ系の調性になってしまい、全楽章を見渡したときに、異質なものが挟まっている感じが拭えない。
もちろん「ト短調」の選択理由はこれだけではないと思うが、非常に有力な根拠のひとつといえるだろう。
ただ、初稿より完全4度、D567よりも減5度高い「ト短調」は、やや使用音域が高く、前2稿に比べるといくぶん軽々しく、据わりの悪い聴感は否めない。D567の嬰ハ短調の、人生の苦悩を背負うような重みや深みは、D568からは聴き取れないだろう。D568のト短調の緩徐楽章を聴き慣れている皆さんは、晩年の境地を垣間見せるD567の深淵に驚かれるかもしれない。
●D568第3楽章 D568で新しく追加された第3楽章は、古典的な複合三部形式(ABA-aba-ABA)の
「メヌエットとトリオ」 である。
この楽章の存在によって、改訂時点でのシューベルトは、舞曲楽章を含む「4楽章構成」をピアノ・ソナタの完成型と捉えていたことが窺える。
変イ長調のトリオ(中間部)は、
前述のように 「2つのスケルツォ」D593の第2曲のトリオ (中間部)とほとんど同じものである。
スケルツォ D593-2 中間部 D568 第3楽章 中間部
「2つのスケルツォ」についてはいずれ改めて取り上げるが、この2つのトリオを比較すると、最も大きな違いはトリオの前半、abaの最初のaの後半部分にある。
D593-2では変イ長調のまま終止し、最後のaと全く同型であるのに対し、D568の第3楽章では7小節目から属調の変ホ長調に転調しており、後半とは違う展開を見せている。それに伴い、bのアウフタクトの音も変えられている。
この改変から、
「先にD593-2が書かれ、そのトリオを改訂してD568の第3楽章に転用した」 と推測するのは妥当だろう。
その上でメヌエットの主部を見てみると、
付点のリズムが多用されている のが目に付く。これは言うまでもなくトリオの主要モティーフである。すなわち、シューベルトは
まずこのトリオをD593-2から持ってきて (もしかしたら既にこの時点でトリオを改訂し)、
それに合うような主部を書き下ろす 、という順番で作業したことが推測できる。
A部分の最後の数小節の巧みな転調で、AとA'に変化をつける手法は主部とトリオに共通していて、これは改訂時のシューベルトの趣味というか、手癖といっても良いものかもしれない。
前回と今回の分析を踏まえて、「いつ」「なぜ」シューベルトが改訂を行ったのか、次の記事で考えてみたい。
2016/10/04(火) 23:17:54 |
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