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ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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D567/568緩徐楽章の「草稿」について・楽友協会資料室訪問記

承前
シューベルトのソナタD567(D568)の第2楽章には、ニ短調で書かれた草稿がある。
この稿は途中までしか書かれておらず、細部も他の2稿と比べて練り上げられていないことから、これが最も古い稿だとみられる。推敲を加えた上で、D567の第2楽章に収まる際に半音低い嬰ハ短調に移調され、更にD568においてはト短調に移調された、という経緯のようだ。印刷譜としては、やはり2000年の新全集で初めて公開された。

<第1稿> ニ短調(スケッチ、未完)
<第2稿> 嬰ハ短調(D567の第2楽章)
<第3稿> ト短調(D568の第2楽章)


ところで、この草稿は資料的に極めて珍しい特徴を備えている。なんと、ベートーヴェンの自筆譜の裏面に書かれているのだ。
この自筆譜がウィーン楽友協会の資料室に収められているというので、実際に見に行ってきた、という見聞録が今回の記事の主な話題である。

楽友協会外観

ウィーン楽友協会といえば、「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」でおなじみの「黄金の間」(大ホール)が有名だが、同じ建物の上階に「資料室」(アルヒーフArchiv)という施設がある。開室日時は限られており、10月から翌年6月までの月曜・水曜・金曜の午前9時から午後1時のみ。この時間帯にはもちろん演奏会はやっていないので、壮麗な正面玄関ではなく、裏手の楽屋口から入れてもらう。暗い通路の奥の階段を上っていくと、途中で大ホールの上手側ホワイエに抜ける。更にもう1階上ったところに、ひっそりと「Archiv」と書かれた扉がある。

楽友協会資料室

扉は閉まっていて、ブザーを鳴らして開けてもらう。中にはもう1枚ガラスの扉があって、これより先は撮影厳禁である。
手前のスペースは、いわゆる図書館の「読書室」のようなところで、机が並び、それぞれに読書灯が置かれている。隅の方にはマイクロフィルムの映写機が2台ある。
読書室の奥に受付があって、入館者はまずここを訪れて、身分証明書を提出し、研究目的などを申請書に記入する。申請が認められると、ようやく資料の請求をすることができる。ただし入館者が自由に閲覧できるのはカタログのみで、書架には立ち入れない。目当ての資料のカタログ番号を短冊のような紙に書いて、部屋の隅の箱に入れておくと、何分かおきに職員が回収して、その資料を奥の閉架から読書室に出してきてくれる。資料の貸し出しは一切許されない。コピー機もないし、資料をカメラで撮影したりされないように、読書室には何台もの監視カメラが設置されている。
要するに、ここは非常に厳重に管理されていて、公共の図書館のように気軽に立ち寄れる雰囲気ではない。楽友協会は任意団体であって、その所蔵品はあくまで彼らの固有の財産なのだ。調査目的ならば見せてくれるが、気前よく複写を取らせたりはしないし(目的によっては認められるようだが有料)、デジタルデータにしてウェブ上で公開するなどもってのほかであろう。ウィーン市立図書館所蔵のシューベルト自筆譜がSCHUBERT onlineで無料で公開されているのとはえらい違いである。

「A13」というのが、今回のお目当ての自筆譜のカタログ番号である。私は申請書の研究テーマの欄に「シューベルトのピアノ曲」と書いていたのだが、受付のおばさんが「A13はシューベルトの自筆譜じゃないんじゃないの?」と言い出す。「いえいえ、これはベートーヴェンとシューベルトの二重自筆譜です」と言うと「ああ、あれのことね!」との返事。どうやら有名な資料らしい。
しかし自筆譜は非常に貴重かつ脆弱なので、実物には触らせてもらえないという。複写したマイクロフィルムを映写機で見ることになった。

マイクロフィルムの1枚目は、横長の五線紙に書かれたベートーヴェンの自筆譜である。
この作品は、歌曲「君を愛す Ich liebe dich」(WoO123)、ベートーヴェンの歌曲の中でも特に有名な1曲だ。詩はカール・フリートリヒ・ヘルロゼー Karl Friedrich Herrosseeの「優しき愛 Zärtliche Liebe」の一節を抜き出したもので、1795年に作曲、1803年に作品番号なしで出版された。
この自筆譜は清書譜ではなく、書き直しの跡がある。間奏のあとのニ長調に転調した部分、「Auch waren sie für dich und mich」のあたりのメロディーがあとから手直しされていて、推敲の跡が窺える。冒頭から第21小節までがこのページに書かれている。

2枚目は、シューベルトの自筆譜である。マイクロフィルムなので確認はできなかったのだが、おそらくこれが1枚目の裏、ということなのだろう。例のニ短調の緩徐楽章草稿で、ページの上部中央には「Andante」のタイトルがあり、上から訂正線で消されている(新全集校訂者のヴァルブルガ・リッチャウアーは「中央にタイトルが記されているということは、この作品ははじめ単独作品として構想され、後にソナタの緩徐楽章に転用されたのではないか」と推測している)。改めて開始部(用紙の左上)に書かれた速度表示は「Andantino」(Andanteより少し早く)で、D567やD568の緩徐楽章が「Andante molto」(通常は「Andanteよりゆっくり」を示す)であるのと対照的である。草稿は五線紙に隙間なくびっしりと書かれていて、書き直しの跡はほとんどない。となるとこれは「清書稿」であり、これに先んじて下書きが存在していた可能性も大いにある。このページには、冒頭から第59小節までが記されている。

3枚目は、再びベートーヴェンの自筆譜で、「君を愛す」の残りが書きつけられている。そして最下部にドイツ語でこのような書き込みがある。

不滅なるベートーヴェンの
自筆譜
・・・(判読不能)1817年8月14日
ヨハネス・ブラームス、1872年4月。


これはおそらく、この自筆譜の以前の所有者だったブラームスが書き込んだものなのだろう。「不滅なるベートーヴェン」という主観的な表現に、書き手のベートーヴェンへの崇拝の念が感じられる。1枚の紙片にベートーヴェンとシューベルトとブラームスの筆跡が同居しているとは、なんと奇跡的な資料であろうか。

そして4枚目。このページを見て私は衝撃を受けた。このことについては、私の知る限りどの文献でも触れられていない。
最上部の2段(大譜表で1段)に、シューベルトの緩徐楽章の続きが4小節だけ(第60~63小節)書かれている。中断箇所はちょうど中間部の終わりで、ここからは冒頭の繰り返しになる。シューベルトがこういうキリの良いポイントで筆を置くことはよくあることだ。
問題はここから下である。3段目から最下段まで、子供のようなひどく拙い筆跡の、アルファベットと白音符の羅列で埋め尽くされているのだ。よく見ると、音符の上下のアルファベットは、上段はト音記号、下段はヘ音記号で読んだときの音名になっていて、おそらくソルフェージュの練習に使ったのだろう。
シューベルトがベートーヴェンの自筆譜の裏に自作のスケッチを書きつけたことも不可思議だが、その空段が子供の音符ドリルに供されるとは・・・この自筆譜はあまりにも異様である。いったいどんな環境に置かれていたのだろうか。

5枚目にはタイプされた文字で、この資料の説明がある。マイクロフィルムのデータとはページ番号に相違があるが、以下のような内容だ。

ベートーヴェンとシューベルトの二重自筆譜
2・3ページ目:ベートーヴェンの歌曲「君を愛す」。(中略)
フランツ・シューベルトがこの自筆譜の1・4ページ目に、1817年のピアノ・ソナタのアンダンティーノ(ニ短調)を書き込んだ。
1870/72年にヨハネス・ブラームスが両方の紙片を入手し、1893年10月25日に楽友協会に寄贈した。


他の文献も参照して補足すると、以下のようになる。
ベートーヴェンの「君を愛す」の自筆譜は、1817年の時点で、何らかの理由でシューベルトの手元に来ていた。シューベルトはその裏面に自作をスケッチした(この頃までは、もしかしたら2枚の紙片は横にくっついていて、とても横に長い1枚の用紙を二つ折りにしたものだったのかもしれない。すると、資料の説明文の通り、内側の「2・3ページ目」をベートーヴェンが、外側の「1・4ページ目」をシューベルトが使用したということになる。しかしいずれかの時点で横長の用紙は切り離され、2つの紙片になった)。
そして後半の1枚、両作品の終結部が書かれた方(3・4ページ目)は、1817年8月14日に、シューベルトの友人アンゼルム・ヒュッテンブレンナーの所有となり、その後作曲家で自筆譜収集家だったヨハン・ネポムク・カフカ(1819-1886)のコレクションに入った。前半の1枚(1・2ページ目)はシューベルトが所持し続け、死後は他の自筆譜同様、兄フェルディナントから甥シュナイダーへと渡った。自筆譜コレクターのブラームスが1872年に両方の紙片を買い取り、再びこの2枚は一緒に保管されることになった、という経緯のようである。前述の子供の筆跡を伴う譜面はヒュッテンブレンナー経由の紙片ということになる。
1893年10月というと、ブラームスは60歳。老いを自覚し身辺を整理していた時期で、この自筆譜もそのような中で楽友協会に贈られたのだろう。ブラームスはそれから3年半後の1897年4月に死去する。

歴史的にも類を見ない、この「二重自筆譜」がどうして生まれたのか、合理的な説明はほとんどつかない。
オットー・エーリヒ・ドイチュは、1817年にこの自筆譜をシューベルトに与えたのはサリエリだったのではないかと推測している。1817年の時点で、シューベルトとベートーヴェンを結ぶ接点は、サリエリぐらいしか考えられない。しかし、確かにシューベルトはベートーヴェンを尊敬していたが、サリエリにとってそれは愉快なことではなかったはずだ。そもそもシューベルトが「野蛮な」ドイツ語詩の歌曲制作に熱中するのを牽制しようとしたサリエリが、ベートーヴェンの「ドイツ語歌曲」、それも当時既に人気で、直近の1816年にも再版されたという「君を愛す」の自筆譜を、どうして所有していたのだろうか? そう考えると説得力に欠けるが、理由はどうあれ、この自筆譜がシューベルトの手元に渡ったのは事実なのだ。
更にドイチュは、シューベルトが誤って、その貴重な自筆譜の裏面を使ってしまい、途中で気づいて唖然としたのではないかと推測している(若いシューベルトは常に五線譜不足に悩まされており、過去作の裏面を再利用していたことは前の記事でも紹介した)。しかしこれも推測の域を出ない。ベートーヴェンの自筆譜であることを承知で、それでも自らの楽想を書き残したくて、致し方なく書いてしまったのかもしれないし、あるいは自筆譜というものの価値が今とは違う当時、既に出版された有名曲の自筆譜にそんなに価値があるとは考えなかったのかもしれない。


さて、珍奇な資料のことでずいぶん長くなってしまったが、最後にこのニ短調のヴァージョンの音楽的な内容について少し触れておきたい。
音楽の基本的なつくりは、第2稿以降と大きく変わらない。しかし、このニ短調の譜面は、私に弦楽四重奏の響きを想起させる。単に調性が違うだけなのだが、嬰ハ短調やト短調では弦楽四重奏には聞こえないのが不思議なところである。第43小節以降の、左右のリズムが2:3で食い違うところ(第2稿ではリズムは揃えられている)はピアノでは弾きにくいが、弦楽四重奏ならば不自然ではない。もちろんチェロの音域外の音もあるので、弦楽四重奏曲のスケッチとまではいえないが、これに限らず、初期のシューベルトには弦楽四重奏的な発想の作品が少なくない、ということは言えるだろう。少年期のシューベルトが、家庭でのカルテット演奏に親しんでいたことを思えば当然かもしれない。

もうひとつ、D567の「嬰ハ短調」からD568の「ト短調」への移調は極めて突飛な印象を受けるが(理論的には最も遠い調性である)、その大元に「ニ短調」の初稿があると知れば納得できる。ニ短調→嬰ハ短調(理論上は遠いが鍵盤上では隣)、ニ短調→ト短調(下属調へ)の移調はどちらもさほど不思議ではない。逆に言うと、この楽想が最初にニ短調で誕生しなかったなら、シューベルトはD568の緩徐楽章に「ト短調」を選ぶことはなかったかもしれないのだ。
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  1. 2016/07/10(日) 20:15:48|
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最終稿から遡る:ソナタD567とD568について

この記事では、1817年6月に作曲された変ニ長調のソナタ(D567)と、1829年5月に「作品122」として出版された変ホ長調のソナタ(D568)の関係と、その一次資料について簡単に述べる。

まずはシンプルな事実から。
D568は、D567の「改訂稿」、ヴァージョンアップ版である。

これら2つのソナタには、現行のドイチュ作品目録では同じ「D568」という番号が割り振られている。オットー・エーリヒ・ドイチュは当初、変ニ長調にD567、変ホ長調にD568を充てたのだが、ドイチュ没後の1978年に行われたカタログの改訂時に、変ニ長調を「第1稿」、変ホ長調を「第2稿」として、どちらもD568にまとめることになった。D567は現在「欠番」扱いである。
しかしながら、
・変ニ長調ソナタは末尾に欠落があるとはいえ、極めて完成に近い形を示しており、独立した作品として扱うことができること
・変ニ長調ソナタから変ホ長調ソナタへの改訂時には、メヌエット楽章が追加されているほか、両端楽章にかなり手が加えられており、同一の作品の別稿と見なすには無理があること
・変ニ長調ソナタそのものに「草稿」と「決定稿」が存在し、呼称がややこしくなること
などの理由により、このブログでは今後も旧カタログの通り、変ニ長調をD567、変ホ長調をD568と表記することを断っておく。

では「最終稿」たるD568から、徐々に過去に遡る形で話を進めていこう。

ピアノ・ソナタ 第8番 変ホ長調 Sonate Es-dur D568
作曲:不明 出版:1829年5月(作品122)
 I. Allegro moderato 変ホ長調
 II. Andante molto ト短調
 III. Menuetto. Allegretto 変ホ長調
 IV. Allegro moderato 変ホ長調

D568は、1829年5月、ウィーンのペンナウアー社から「第3グランド・ソナタ 作品122」として出版された。シューベルトの死の半年後のことである。シューベルトの生前に既に3曲のピアノ・ソナタが出版されている(D845、D850、D894)が、このうちD894は「幻想曲、アンダンテ、メヌエットとアレグレット」という小品集の体裁を取ってしまったため、死去のすぐ後に出版されたD568が「第3」の呼称を獲得したわけだ。実質的には4曲目に出版されたピアノ・ソナタということになる。
この初版譜以外に、D568の存在を伝える資料はない。自筆譜も筆写譜も一切残っていないのだ。ゆえにD568の作曲、すなわちD567からD568へのヴァージョンアップの作業がいつ頃どのように行われたのかについては、確たる証拠は何もない

D568は4楽章構成のソナタで、このうち3つの楽章はD567を下敷きにしている。新たに挿入された第3楽章は三部形式の「メヌエット」で、主部は書き下ろしのようだが、トリオ(中間部)は1817年に作曲された「2つのスケルツォ」D593の第2曲のトリオを、ほとんどそっくりそのまま転用したものである。
まとめると、

D568 - I Allegro moderato 変ホ長調(258小節)← D567 - I Allegro moderato 変ニ長調(238小節)
D568 - II Andante molto ト短調(122小節)← D567 - II Andante molto 嬰ハ短調(122小節)
D568 - III Menuetto. Allegretto 主部 変ホ長調(36小節)← 書き下ろし
       Trio 変イ長調(28小節)← D593-2 Trio 変イ長調(28小節)
D568 - IV Allegro moderato 変ホ長調(223小節)← D567 - III Allegretto 変ニ長調(167小節、未完)

ということになる。
第2楽章はD567の緩徐楽章をほとんどそのまま増4度(!)上に移調したものだし、第3楽章のトリオもD593-2とほぼ同一である。
しかし両端楽章に関して言えば、長2度上に移調されたというだけではなく、ソナタ形式の展開部に当たる部分がどちらもほぼ2倍に拡張され、大規模に作り直されている。
つまりD568は、D567を拡大する形でアップグレードされた、ということができる。

では、「原曲」であるD567に話題を移そう。

ピアノ・ソナタ 第7番 変ニ長調 Sonate Des-Dur D567
作曲:1817年6月 出版:1897年
 I. Allegro moderato 変ニ長調
 II. Andante molto 嬰ハ短調
 III. Allegretto 変ニ長調(未完)

D567には自筆の清書譜があり、これが一次資料となっている。12の紙片からなるこの自筆譜は、兄フェルディナントからその甥エドゥアルト・シュナイダー(フランツの妹マリア・テレジアの息子)を経て、シューベルト自筆譜の収集家として知られるニコラウス・ドゥンバのコレクションとなった。現在ウィーン市立図書館に所蔵されており、SCHUBERT onlineで画像が閲覧可能である。前記事で触れた通り、「Sonate II」とタイトルが記され、1817年6月の日付もある。
第3楽章は完結していないが、自筆譜の最終ページは最下段まで書き込まれており、その中断箇所は音楽的にもキリの良いポイントではない(コーダの第1小節までで、あと20小節ほどで音楽は完結する)。おそらくこの楽章は記譜の時点では完成していたが、その後最終ページが散逸してしまったと見るのが妥当だろう。次作のD571(第1楽章)のような明らかな「未完作品」ではない。
コーダは、D568の平行箇所をそのまま移調して接着することで修復可能であり(細部についてはD568への改訂時に手を加えられた可能性もあるものの)、D567は第三者による補筆を必要とせずに「完成品」として演奏することができる。

さて、このうち第1楽章と第2楽章の一部には、草稿(スケッチ)たる自筆譜が残されている。
いずれも、印刷譜としては2000年刊行の新全集で初めて公にされた。

第1楽章の草稿は2つに分かれている。(1)第1~179小節までと、(2)第180~235小節(末尾)までである。この2つの草稿は全く違うフォーマットの紙に書かれていて、興味深い。いずれもSCHUBERT onlineで閲覧可能である。
(1)は縦長の五線紙3枚に書かれていて、例の「Sonate X」の記入跡がある草稿である。これが本当にXなのか、だとすると「第10ソナタ」は何を意味するのかなど疑問は尽きないが、いずれにせよ上から「II」と訂正されている。決定稿でいうところの第34~35小節と第67小節にあたる部分がなく、全体の小節数が3小節短くなっている。ドイチュカタログではこのことには触れられていないが、清書時にシューベルトが加筆したのだろう。
(2)は一転して横長の五線紙で、歌曲「月に寄す」D468(1816年8月7日作曲)の自筆譜の裏にぎっしりと書かれている。途中まで書いたところで五線紙が尽きて、過去作の裏面を利用したのだろう。シューベルトは若い頃、ほとんど常に五線紙不足に陥っていたといわれており、このように表裏で別々の作品が書きつけられた自筆譜は珍しくない。
草稿は、前述の通り清書稿より3小節少ないことと、細部の相違を除けば、音楽の基本的な流れは清書譜とほとんど変わらない。

一方で第2楽章には、「ニ短調」の草稿が存在する。この草稿のことについては次の記事に譲ろう。
  1. 2016/07/03(日) 21:50:12|
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1817年のピアノ・ソナタと2つの謎

(シューベルトのピアノ・ソナタの一覧はこちら。)

シューベルト20歳1817年は、「ピアノ・ソナタの年」と言ってもよいだろう。生涯で最も多い、6曲のピアノ・ソナタ(D537、D557、D566、D567、D571、D575)に着手している。しかもこの6曲は3月から8月までの半年間に集中して書かれているのだ。
このピアノ・ソナタへの集中は、ひとつには彼の創作環境が変化したことと関係しているようだ。前年1816年の秋、シューベルトは実家を出て、親友フランツ・フォン・ショーバーの邸宅に身を寄せることになった。教職を捨てて専業の音楽家になろうとしたシューベルトは父親の逆鱗に触れて家に居づらくなり、そこへショーバーが住まいを提供した、という事情らしい。友人の家を転々と渡り歩く、ボヘミアン暮らしの始まりであった。ショーバー邸には6オクターヴのピアノがあって、それを自由に使えたことが、ピアノ曲の創作意欲を高めたと考えられている。
もうひとつ、シューベルトはプロの作曲家として認められるための第一歩として、ピアノ・ソナタを発表したいと考えていたふしがある。当時ウィーンでフリーランスの作曲家として成功していたロールモデルは、何と言ってもベートーヴェンだった。若きベートーヴェンがウィーン進出後に最初に出版したのは、室内楽曲やピアノ・ソナタであり、それらの成功は彼に新進作曲家としての名声と、潤沢な収益をもたらした。シューベルトはもちろんそのことを知っていたのだろう。それまでにシューベルトが作曲していた歌曲や自由な形式の器楽曲では、プロを名乗るには不十分だった。より大規模な古典様式の書法をマスターしなければ、という思いも強かったに違いない。
シューベルトが作曲した「6曲」という数は、ハイドンやモーツァルトがピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲を出版する際の基本セット数であり、既に失われつつあったウィーンの伝統に倣おうとしたとも考えられる。

しかし、1817年の作品として知られる6曲のソナタを、シューベルトがそのままセットとして出版しようとしていた、とは考えにくい。その理由は、シューベルト本人が書き記した通し番号にある。

<謎・1>
1817年の最初のソナタは、3月に完成したD537(イ短調)である。この楽譜の冒頭に、シューベルトは自ら「5te Sonate」(第5ソナタ)と記している。
しかし、シューベルトのピアノ・ソナタとして知られているものは、これ以前には3曲しかない。よってD537は現在「第4番」とされている。
もっと遡ると、ソナタの第2作として知られるD279(ハ長調)の自筆譜には「Sonate I」(第1ソナタ)との標題もある。
まとめると、
(第1番)ホ長調 D157
(第2番)ハ長調 D279 → Sonate I
(第3番)ホ長調 D459
(第4番)イ短調 D537 → 5te Sonate
ということになる。
シューベルト自身の通し番号を信じるなら、D279とD537の間に、知られていないソナタが少なくともあと2曲存在していたことになる。

<謎・2>
1817年の2作目は5月の日付を持つD557(変イ長調)である。このソナタの自筆譜には通し番号はない。
6月に作曲した第3作D566(ホ短調)には「Sonate I」、第4作のD567(変ニ長調)には「Sonate II」とある。D567の草稿には、「Sonata X」と書いて上から「II」に訂正したような跡もある(清書稿には明瞭に「II」と記されている)。
D566を起点として、シューベルトは新たにソナタの通し番号を付け始めた。ここから新たなソナタセットを書き始める予定だったのかもしれない。
ところがここからが問題である。第5作、7月の日付を持つD571(嬰ヘ短調)の自筆譜に記されているのは「Sonate V」。更に第6作(この年の最後のソナタ)、8月完成のD575(ロ長調)の草稿には通し番号はないものの、筆写譜の方に「Sonate VI」と記されているのだ。
つまり、
Sonate I → D566
Sonate II → D567
Sonate III → 
Sonate IV → 
Sonate V → D571
Sonate VI → D575
となって、IIIとIVに比定しうるソナタがない、ということになる。D567とD571の間に、もう2作ソナタを書いたのだろうか? いくら速筆のシューベルトとはいえ、6月にD566とD567を仕上げ、7月にはD571に取り組んでおり、その間にあと2作というのはちょっと無理ではないだろうか。

この2つの謎を解くために、多くの研究者がさまざまな説を唱えている。後々ご紹介する機会もあるかもしれない。
<謎・2>に関して言えば、私はこれらの番号は必ずしも作曲した順に付けられたのではないと思う。シューベルトは初めから6曲のソナタセットを構想していて、D571とD575をその「第5曲」と「第6曲」に据えるつもりで書いたのだろう。IIIとIVは結局計画倒れで書かれなかったか、または、シューベルトの脳内ではなんとなく新ソナタの構想ぐらいはあったのかもしれず、その構想が翌年以降のソナタに結実した可能性もある。以前に書いたD537やD557を充てるつもりだったという可能性もなくはない(個人的には、D557を手直しして入れた可能性は十分にあると思う)。

いずれにしても、この「ソナタセット」は完結せず、1曲たりとも生前に日の目を見ることはなかった。
着手した6曲のうち、完結した形で残されたのは2曲のみ(D537とD575)で、これらはそれぞれ作品164と作品147として、シューベルトの死後にようやく出版された。
さらに、「Sonate II」と題された変ニ長調のD567は、後に手直しされて変ホ長調のD568として完成し、シューベルトの死の翌年、1829年に作品122として出版されている。次回以降は、このソナタの話題から始めていきたい。
  1. 2016/07/02(土) 00:07:12|
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