シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

即興曲集 D899・D935 自筆譜の所見と出版事情

4つの即興曲 D899 (作品90)
作曲:1827年夏? 出版:1827年12月(第1曲・第2曲)、1857年12月(第3曲・第4曲)
4つの即興曲 D935 (作品142)
作曲:1827年12月 出版:1839年4月
楽譜・・・IMSLP(D899/D935


2集の即興曲の決定稿の自筆譜は、いずれもニューヨークのピアポント・モルガン・ライブラリーに収められていて、そのデジタルデータが無料で公開されている(D899/D935)。

D899の自筆譜には日付がなく、五線紙の鑑定で1827年夏頃の作曲と推定されている。第1曲の冒頭にある"Impromptu"以下の表題と作曲者名はシューベルトの筆跡ではない。新全集の解説によるとこの書き込みは出版社のトビアス・ハスリンガーによるもので、これを根拠に、「即興曲」は出版社が販売促進のために勝手に名付けたタイトルであると考えられてきた。
D935の自筆譜には、シューベルト自身の筆跡でサインと、「1827年12月」の日付がある。これがD935の完成時期と考えて間違いないだろう。更に、2曲目以降の通し番号が書き直されており、「No.2」「No.3」「No.4」は本来「No.6」「No.7」「No.8」と番号が振られていたことがわかる。1曲目は書き直していないように見えるが、よく見ると「No.」と「1」の間が不自然に詰まっていて、「1」の右側に薄く「5」の文字が見える。どうやらインク消しのようなもので「5」を消して、その左脇に「1」と書き加えたようだ。
つまりD935の4曲は、当初はD899の続編としてまとめられたらしいことが、ここから見えてくる。
"Vier Impromptu's"のタイトルを書いたのはシューベルト自身であると、新全集は断言しているが、少し不自然な点がある。まずVierに薄いインクで消したような跡があること、その右に「8」の文字がやはり薄く書き加えられていること。"Impromptu's"の最初のIの文字も上から二度書きしたような形跡があり、シューベルト自身の筆跡とは若干異なるように見受けられる。ドイツ語の前置詞inと定冠詞demの融合形"Im"で始まるタイトルを持つ歌曲作品がいくつかあり、モルガン・ライブラリーならびにschubert-onlineで計3曲自筆譜が公開されているのだが(D710の"Im Gegenwärtigen Vergangenes"、D799の"Im Abendrot"、D880の"Im Freyen")、いずれもIとmは一続きの筆記体で書かれている。しかしImpromptuのIとmは分かれているし、Iの字形がいささか異なっている。
私個人としては、これがシューベルトの筆跡であるとは断言できないと考える。新全集では、D935はシューベルト自身によって「即興曲」と命名された、と解説しているが、その真偽には留保をつけたい。

1827年12月、D935の4曲の仕上げとほぼ時を同じくして、D899の第1曲と第2曲がハスリンガーから出版された。近いうちに8曲全部がハスリンガーから出版されると見込んで、シューベルトは気をよくしたことだろう。ところがD899の第3曲以降は一向に出版されなかった。
1828年2月、シューベルトはマインツのショット社に、D935を含むいくつかの作品の出版を持ちかけた。ショット社はすぐに積極的な姿勢を見せ、シューベルトはハスリンガーを通してD935の譜面をショット社に送った。この時点で、ハスリンガーは既にD935の出版に興味を失っていたようだ。しかし楽譜を受け取ったショット社もまた押し黙ってしまった。死の前月、10月にシューベルトはショットに催促の手紙を送り、その中でD935の作品番号として「101」を提案している。
しかしショットからの返答は期待外れのものだった。返事が遅れたのは、出版の可能性をパリに打診していたからだが、小品にしてはこの曲は重すぎて、需要がないとして送り返されてきた。提示の金額が高すぎるわけではないが、フランスでの不評により出版は不可能と判断し、譜面はハスリンガーに返送した、というものだった。

新全集の解説では、1828年にショットに送った譜面は新たに作成した筆写譜で、現在は所在不明としているが、私はモルガン・ライブラリーに残っている自筆譜をショットに送ったのではないかと見ている。その際に通し番号を付け直し、「4つの即興曲」のタイトルを冠したのではないだろうか。シューベルト自身がD935を明確に「即興曲」と命名したのはこの時点であり、ショット社への手紙の中にも「即興曲」の言葉が出現している。

結局、D899の残る2曲とD935全4曲の計6曲は日の目を見ないままシューベルトは他界し、「作品101」はライプツィヒのプロープスト社が「3つの歌曲」の作品番号として無断で使用してしまった。D935はそれから11年後の1839年に、ディアベリ社から「作品142」として出版され、出版社によってフランツ・リストに献呈された(自筆譜冒頭の「Op.142」の書き込みはディアベリによるもの、ということになる。確かにシューベルトの数字の筆跡とは異なる点が見受けられる)。
D899の第3曲・第4曲の出版は更に遅れ、作曲後30年経過した1857年まで待たなくてはならなかった。ハスリンガー社からようやく出版されたD899の第3曲は、原曲の変ト長調からト長調に移調され、拍子も2分の4拍子ではなく、2分の2拍子に変えられていた。ハスリンガーによると思われる、この改変の指示は自筆譜にも鉛筆で書き込まれているが、"Im ganzen Takt und in G-dur um zu schwinden"と書いてあるように読める。「(通常の)2分の2拍子で、そしてト長調で」というところまではいいのだが、"um zu schwinden"「減少する・消滅するために」というところが意味がよくわからない。難しさを減らす、という意味合いなのだろうか? schwindenの部分は非常に読み取りづらく、schreiben(書く)としている文献もあったが、原資料を見ればschreibenでないことは明らかである。この書き込みの真意は更に研究が必要であろう。

今ではシューベルトのピアノ曲の中でも最も人気の高い「即興曲」が、これほど困難な出版状況に直面していたのは意外な感じもするが、ここまでの記述からその理由はおわかりいただけるだろう。
「即興曲」のようなピアノ小品として出版社が期待していたのは、アマチュアピアニストが楽しんで演奏できるような、短く、技術的に易しく、内容の軽い作品だった。しかしシューベルトの「即興曲」は芸術性に重点を置きすぎて、アマチュアの手には負えない代物だったのだ。D935-1はシューマンが「ソナタの第1楽章であることは疑いない」と論評したようにあまりに重厚長大であり、D899-3の譜面の、調号にフラットが6つも並び、1小節に全音符が2つ入るような記譜は当然ながら敬遠された(だからハスリンガーが勝手に、変ト長調から譜読みしやすいト長調に、2分の4拍子から数えやすい2分の2拍子に、難易度を下げて書き直したのである)。
シューベルトの「即興曲」は、それまでのアマチュア向け「即興曲」を基にしたプロ仕様の楽曲だったのだが、そんなどっちつかずのコンセプトの楽曲に需要があるとは、当時の出版社はまったく思っていなかったのだ。

曲集全体の構成や、タイトル「即興曲」の命名については次の記事に譲りたい。
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  1. 2015/03/31(火) 15:33:34|
  2. 楽曲について
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即興曲の起源 (3)マルシュナー

ヴォジーシェクの作品7の「6つの即興曲」と並んで初期の代表的な即興曲として知られているのが、ハインリヒ・マルシュナーの「12の即興曲」作品22・23である。

マルシュナー
ハインリヒ・アウグスト・マルシュナー Heinrich August Marschner (1795-1861)は、ドイツ・オペラの重要な作曲家として音楽史に登場する。現在のチェコ・ポーランドとの国境に近いドイツのツィッタウで生まれ、ボヘミア系の家庭で育った彼は、早くから作曲を始め、初期のオペラで注目を集める。1821年ドレスデンに移住し、1824年に同地の歌劇場音楽監督に就任。ライプツィヒ歌劇場指揮者を経て、1831年からはハノーファー宮廷歌劇場の楽長を務めた。1833年のオペラ「ハンス・ハイリング」の成功で、ヴェーバーの後を継ぐドイツ語オペラの第一人者としての地位を勝ち得る。メンデルスゾーンやシューマンらからも尊敬を集めたが、その影響下から出発したヴァーグナーの台頭によりやがて存在感が薄れ、1861年にハノーファーで死去したときにはほとんど忘却されていたという。主要作品の多くはオペラや劇音楽だが、室内楽曲やピアノ曲なども多数残している。

「12の即興曲」は、第1曲から第6曲までが作品22、第7曲から第12曲までが作品23としてまとめられ、1822年のヴォジーシェクの作品7とほぼ同じ時期に出版されたとみられている。IMSLPにある楽譜は初版譜かどうかわからないが、ライプツィヒのホフマイスター社から出版されている。
作品番号を少し遡ると、作品18が「パピヨン、ピアノのためのカプリス」(同じくホフマイスター社)、作品19から21までが「ピアノのための3つのロンド」(ライプツィヒのブライトコプフ&ヘルテル社)となっていて、どうやらドレスデンに移住したばかりのマルシュナーは、おそらくライプツィヒの出版社から依頼を受けて、サロン風のピアノ曲を次々と書いていたようだ。

マルシュナーの「12の即興曲」は、ヴォジーシェクの作品7と比べると、曲想やテンポの幅が広く、技巧の見せ場もあって、非常にヴァラエティに富んでいる。ポロネーズ風の第7曲やカンティレーナ風の第10曲などキャラクター性の強い曲もある。
構造的に分析すると、やはり一番多いのは「エクローグ」型のダ・カーポ形式であり、この単純な三部形式が初期「即興曲」の基本形であったことがわかる(シューベルトの即興曲では、D935-2がこの初期形式に則っている)。
しかしマルシュナーでは、ヴォジーシェクにはなかった新たな構造の「即興曲」が登場する。たとえば、ほぼダ・カーポ形式だが、冒頭に荘重で古典的な序奏がついた第12曲や、ヴォジーシェクの変ロ長調の「即興曲」に似た二部形式で、かつ長いコーダが付された第1曲。更に特異なのは「ロマンス」という標題を持つ第6曲で、これは明確な変奏曲形式である。冒頭の注釈によると、主題を作ったのはマルシュナーの妻でピアニストとして活躍したオイゲニー(1798-1825)で、これに基づいて夫ハインリヒが変奏曲を書いた、ということだ。主題と4つの変奏からなり、最終変奏はかなり長く華やかで、第1巻の最後を飾る大曲となっている。言うまでもなくこれはシューベルトのD935-3、「ロザムンデ変奏曲」のモデルになった可能性が高い。
また右手の3連符のパッセージが無窮動風に続いていく小規模な三部形式の第11曲は、変ホ長調という調性も相まって、D899-2に酷似している。

こうしてみると、シューベルトがマルシュナーの「即興曲」を知り、影響を受けたということも大いに考え得る。マルシュナーはドイツ楽壇で活躍したが、ルーツ的にはトマーシェクやヴォジーシェクと同じボヘミア系だったというのも興味深い。
  1. 2015/03/23(月) 18:48:23|
  2. 楽曲について
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即興曲の起源 (2)ヴォジーシェクと、トマーシェクの「エクローグ」

今回はシューベルトの即興曲の直接の先行作品ともいわれている、ヴォジーシェクの即興曲について取り上げたい。

vorisek
ヤン・ヴァーツラフ・(フーゴー・)ヴォジーシェク(ヴォルジーシェク) Jan Václav (Hugo) Voříšekは1791年5月11日にボヘミア(現在のチェコ)のヴァンベルクという町で生まれた。音楽教師の父親から手ほどきを受け、9歳にしてボヘミア各地で公開演奏を行う。ヴァンベルクの領主コロヴラツ=リプテインスキー伯爵の夫人がパトロンとなって、プラハでの勉学の機会が与えられ、13歳頃からボヘミアの巨匠ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェクに作曲とピアノを師事した。頭脳明晰だったヴォジーシェクはプラハ大学に進学し、哲学・美学・数学・法学を修めたが、音楽への情熱が次第に比重を増していった。1813年、22歳のときにウィーンに進出したのは、表向きは法学を更に学ぶためだったが、内心では尊敬するベートーヴェンに近づきたいという理由もあったようだ。ヴォジーシェクはまずピアニストとして楽壇に登場する。1815年12月、新設されたウィーン楽友協会の第1回演奏会でフンメルの「華麗なるロンド」作品56を演奏。彼の演奏技術やすぐれた即興能力は高く評価され、その後も定期的に楽友協会に出演するようになる。1818年には楽友協会管弦楽団の指揮者にも就任、精力的な活動を通して、ピアニストのモシェレスやフンメル、作曲家のシュポーアなど音楽界の重鎮たちと知己を得、ベートーヴェンとも念願の面会を果たした。一方で法学の勉強も怠らず、1821年に学位を取得して軍法裁判所諮問員の弁護士のポストを得るが、1年後の1822年に宮廷オルガニストに任命され、法律の仕事から離れて音楽活動に専念するようになる。しかし残された時間はわずかだった。1825年11月19日、結核のため34歳の若さで死去。尊敬するベートーヴェンが2年後に、そしてシューベルトが奇しくも3年後の同月同日に死去したあと葬られることになるヴェーリング墓地に、亡骸は埋葬された。

ヴォジーシェクと、6歳年下のシューベルトの間に交友関係があったことはほぼ確実とみられる。シューベルトが楽友協会の委員に選出された1825年はヴォジーシェクの最晩年だったが、病床のヴォジーシェクもシューベルトを上回る得票で再選されている。ヴォジーシェクは、早世だったこともあって決して多作の作曲家ではなかったが、優れたピアニストだった彼のピアノ曲が、演奏技術の点では劣っていたシューベルトに影響を与えたことは大いに考えられることである。

ヴォジーシェクの「即興曲」としてよく知られているのは、1822年にウィーンのピエトロ・メチェッティ社から作品7として出版された「6つの即興曲」である(IMSLP)。
曲はいずれもABAの三部形式で、トリオBのあとダ・カーポ(曲頭に戻る)と指示されており、再現時のAは記譜されていない。古典派のソナタなどに現れる「メヌエットとトリオ」と同じ記譜法である。第1曲ハ長調、第2曲ト長調、第3曲ニ長調、第4曲イ長調、第5曲ホ長調、第6曲ロ長調と、すべて長調で、調号のシャープが1つずつ多くなるように並んでいる。ヴォジーシェクのデビュー作品となった「12のラプソディー」作品1も、同様にダ・カーポを伴う三部形式(ダ・カーポ形式)の小曲集だが、調整配列はランダムであり、これと比べると「6つの即興曲」の規則的な配置は意図的なものと考えられる。
ベートーヴェンの注目を惹いたともいわれる「ラプソディー」はかなりヴィルトゥオーゾな書法の作品だが、「即興曲」の曲想は穏やかで、技術的にも平易である。しかし本来の意味での「即興的」な雰囲気はほとんど感じられない。
それもそのはずで、カナダの学者Kenneth Delongの研究によれば、これらの「即興曲」は本来「エクローグ」と題されていたのだという。ベルリン国立図書館に所蔵されている即興曲作品7-3の自筆譜には「エクローグIII」の表題があり、似た書法で書かれている「エクローグVII」の表題を持つハ長調の小品の自筆譜も確認された。ここからわかることは、ヴォジーシェクは作品7の6つの小品を「エクローグ」として作曲したが、何らかの事情、おそらく出版社メチェッティのアイディアで「即興曲」と改題して出版されたということ、そしてヴォジーシェクは更にエクローグを書き足すつもりだったことだ。6曲ずつ2巻にわけて刊行された「12のラプソディー」に倣って、おそらくあと6曲追加した「12のエクローグ」を構想していたのではないかと思うのだが(その調整配列は、今度はフラット方向へハ長調から変ニ長調までの6曲だったのではないかと想像する)、こちらも何らかの理由(「エクローグ」が「即興曲」として出版されてしまったことで、続編の作曲に興味を失ったか、あるいは筆を執る前に死去したか)で放棄されたのだろう。

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エクローグ Eclogue (Eglogue)は、ヴォジーシェクの師トマーシェクが創始したピアノ小品のジャンル名である。
ヴァーツラフ・ヤン・(クルシュティテル・)トマーシェク Václav Jan Křtitel Tomášek (1774-1850)は、当時ボヘミアで最も尊敬を集めていた作曲家・教師で、ヴォジーシェクと同じように法律を学びつつ、ほぼ独学で音楽を修め、貴族にピアノを教えながら各地を旅し、ハイドン、ベートーヴェン、ゲーテらと親交を持った。1824年プラハに開校した音楽学校はボヘミア楽壇の中心地となり、門下からはヴォジーシェクのほか、ピアニストのアレクサンダー・ドライショクや、後に保守派の批評家として有名になるエドゥアルト・ハンスリックらが輩出している。トマーシェクは古典音楽の重要性を生徒たちに説いたが、自身独学だったこともあり、基礎理論よりも実践を重視したと伝えられている。
作曲家としてはモーツァルトの影響から出発したが、やがてロマンティックな傾向を強め、とりわけピアノ曲の分野で「エクローグ」「ラプソディー」「ディテュランボス」といった小品、いわゆる性格小品を多作した。その意味ではシューベルトやショパンの先達といえる。
「エクローグ」とは耳慣れない言葉だが、「田園詩」という意味合いのフランス語である。もともと古代詩の用語で、ディオニソス神を讃える詩「ディテュランボス」の援用もあわせて考えると、トマーシェクはギリシャ・ローマの古典に造詣が深かったのかもしれない。
トマーシェクの42曲の「エクローグ」は、6曲ずつ7集にまとめられている(IMSLP)。いずれもヴォジーシェクの「即興曲」と同じダ・カーポ形式で、曲想は実に多岐にわたっている。自由な楽想の展開という面では、ベートーヴェンの「バガテル」のスタイルに似ていると言えるかもしれない。現代の感覚ではやや冗長に過ぎる曲も見受けられるが、室内楽風・ノクターン風の作品や、高度な技巧を要求する作品もあって面白い。しかしそのぶん、三部形式という構造以外に、トマーシェクが「エクローグ」の定義をどのように捉えていたのかはよくわからない。
師の影響下に「エクローグ」を書いたヴォジーシェクの場合、その曲想はある程度共通しており、前述した平明さや温和さに「田園」的なもの、より広げて解釈すれば「自然への憧れ」のようなものを象徴させたのかもしれない。

ところが、ヴォジーシェクが作曲した「即興曲」として、更に発表年代の早いものが存在する。1817年11月13日発行の一般音楽時報(1817年第46号)の付録として発表された変ロ長調の「即興曲」である(IMSLP)。
作曲者名はドイツ語風にJ.H.Worzischekと綴られ、「ピアノのための即興曲」と明確に題されている。3/4拍子、付点2分音符(=1小節)が96というメトロノーム指示があって、それ以外に発想標語はないが、かなり早いテンポということになる。全体的に8分音符のパッセージを両手で弾き続ける無窮動風の曲で、構造は|:A:|:BA':|の三部形式ではあるものの、ダ・カーポ形式の作品7やトマーシェクのエクローグとは異なっている。というのは、前半のAと後半のA'の内容が微妙に異なっているからで、具体的には前半部は属調(ヘ長調)で終止し、後半部は属調で始まって主調で終わるという、二部形式ともとれる構造になっている。これはスカルラッティのソナタやバッハの舞曲などと同じ構造であり、ソナタ形式とも土台は共通している。
この作品がどのような経緯で「一般音楽時報」に載ることになったのかわからないが、もともと楽譜を売ることを目的としていない出版物である以上、作曲者ヴォジーシェク自身がこの曲に「即興曲」のタイトルを与えた可能性が高い。

この作品には、「即興」という言葉と共通する要素がある。それは、いわゆる即興演奏のように、さまざまな楽想を「幻想曲」風にとりとめなく繋いでいく、という意味ではない。
ふと思いついた、ある特定の音型を、何度か繰り返すうちに少しずつ形が変わってゆき、まるで蚕が糸を紡ぎ出すように音楽を生み出していくという書法である。この要素は、トマーシェクのいくつかの「エクローグ」の中にも部分的に現れている。
遊び弾きの中から生まれたような、この「紡ぎ出し」はピアノという楽器独特の書法であり、これこそ、シューベルトがヴォジーシェク作品の中に見いだした「即興的なピアニズム」だったのではないかと思われる。シューベルトの、とりわけD899の即興曲集にはこの書法がふんだんに盛り込まれており、それが後世の「即興曲」の方向性を決定づけることとなった。

翻って、ヴォジーシェクの作品7「6つのエクローグ」は、なぜ「即興曲」と改題されたのだろうか。そこには、当時の楽譜出版をめぐる社会的背景が関連していると思われる。
19世紀になって楽譜出版業が大発展を遂げたのは、新興の裕福な市民階級が楽器を習ったり、演奏したりすることが流行しはじめたからだった。彼らは音楽家としての職業訓練を受けたわけではなく、重厚で本格的な大作よりも、わかりやすく洒落た雰囲気の小品を好んだ。いきおい、彼らの好みに合わせた作品が次々と生み出され、大量に印刷・出版されて出回るようになったのだ。
なぜ「エクローグ」のタイトルが捨てられたのかはわからないが、古典詩の知識などない一般人には「エクローグ」よりも、その場の出任せのような「即興」という言葉が格好良く魅力的に感じられたのかもしれない。あるいは、ヴォジーシェク自身や、前記事で触れたクラーマーなどによる初期の「即興曲」が既に人気を博していた、という可能性もある。出版社が作品のタイトルを勝手に変更することは当時は珍しくなかったので、ヴォジーシェクの作品7についてもメチェッティによる改変という説が信じられているが、ヴォジーシェク自身が意図的に改題した可能性も完全には否定できない。
いずれにせよ、「即興曲」というジャンルがヴォジーシェクからシューベルトを通して後世に受け継がれた一方で、「エクローグ」のタイトルを持つ音楽作品は、その後リストやフランク、シベリウスらによっていくつか書かれたものの、ひとつのジャンルとして定着することなく消えていったのだった。

***

3月23日、京都のカフェ・モンタージュでの演奏会では、シューベルトのD899に加えて、本記事で紹介したトマーシェクの「エクローグ」や、ヴォジーシェクの「即興曲」も演奏します。この機会に是非ご一聴下さい。
  1. 2015/03/14(土) 19:59:02|
  2. 楽曲について
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