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ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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即興曲の起源 (1’)1810年代の即興曲

前回の記事を書き上げたあと、クラーマー周辺の「即興曲」の出版事情について新たにわかったことがあったので追記しておきたい。

ジョン・マイケル・クーパー John Michael Cooper著の"Historical Dictionary of Romantic Music"(Google Books)の記述によると、クラーマーの「クトゥーゾフの勝利、ピアノのための即興曲(ヘンデルの「危難を顧みず」(オラトリオ「ユダス・マカベウス」より)による)」は1813年にチャペル社 Chappell & Co.より出版された、とある。
更に同じ年に、フランシス・タットン・ラトゥール Francis Tatton Latourの「フルートオブリガート付き、ピアノのための2つの即興曲」なる作品も、同じくチャペル社から出版されている。
このラトゥールという人物については不明な点が多い。IMSLPでは(ジャン・)テオドール・ラトゥール (Jean) Théodore Latourと同一人物とされていて、WikipediaのJean Théodore Latourの項には、「1766年生誕、1837年没のフランスの作曲家、ピアニスト。初級・中級者向けのピアノのソナチネをいくつか作曲し、後のイギリス国王ジョージ4世の摂政王太子時代にピアニストとして仕えた」とある。
ところが別の資料には、Francis Tatton Latourの生没年について「1766年パリ~1845年パリ」と記されていて、Wikipediaの記述とは違いがある。「1795年から、少なくとも1837年までロンドンで活動。はじめサミュエル・チャペルと協働し、後に出版社として独立(1826-1830)、1830年にチャペルに権利を売却した。1845年4月28日から5月4日の間に死去」とあって、ここまで死去の年月日が限定されているとなると、1837年没説はどうも怪しい。ロンドン・フィルハーモニック協会のディレクターを務めたという資料もある。Cooperは、どういうわけか彼を「アイルランドの作曲家」と形容しているが、少なくとも名前から判断すると確実にフランス系である。
Francis Tatton Latourの業績で最も有名なものは、サミュエル・チャペル Samuel Chappell (1782?-1839) と、前から話題に上っているヨハン・バプティスト・クラーマーとの3人で共同して、1810年にChappell & Companyを設立したことである。チャペル社はピアノの製造販売、楽譜出版を手がけていた。1824年にクラーマーが独立、上の資料の記述を信じるならば1826年にラトゥールが独立してしまったわけだが、サミュエル死後もチャペル社は順調に業績を伸ばし、1858年にはロンドンのRegent Streetにセント・ジェイムズ・ホールを建設、多くの演奏会を催した。1987年にワーナーブラザーズに買収されている。
件の、クラーマーとラトゥールの即興曲が出版された1813年、チャペル社はまだ創業したばかりで、共同出資者である2人の作曲家が、これぞという自信作を世に問うたのではないだろうか。揃ってそこへImpromptuという新奇なタイトルを持ってきたことは非常に興味深い。Cooperによると、クラーマーの作品は「即興的」ではあるが、どちらかというと「幻想曲」と呼べるような性格の作品で、それに比べるとラトゥール作品は短くカジュアルで、現在私たちが知る「即興曲」のスタイルに近い、ということである。
ラトゥールの、チャペル社との関わりについてはWikipediaでは触れられていない。更に別の資料によると、Théodore Latourの生没年について「1763-1837」との情報がある。
あくまでも私の推測だが、おそらく
Jean Théodore Latour 1763-1837
Francis Tatton Latour 1766-1845

二人のLatour氏がいて、その経歴が混ざってしまったのではないだろうか。ひょっとしたら二人は兄弟や、親戚だったのかもしれない。出版譜の表紙に、「Latour」とだけ大書されていて、ファーストネームの記載がない場合があるのも混乱の原因になった。フルートやヴァイオリンのオブリガート付きのサロン曲を作ったのが、チャペル社共同設立者のFrancis Tattonであるのは間違いないだろう。ソナチネの作者は、たぶんThéodoreの方なのだろう。ジョージ4世に仕えたのがどちらなのかはわからない。
余談ではあるが、私がCDで取り上げた練習曲作曲家のフリードリヒ・ブルクミュラー(1806-1874)と、その弟で夭逝したノルベルト・ブルクミュラー(1810-1836)も、古い音楽事典や楽譜の解説などでは経歴が混同されていたことがあった。こういう例は他にも意外とたくさんあるのかもしれない。

Cooperの著書に戻って、次の「Impromptu」の出版記録として記されているのは1815年、フランソワ=ジョゼフ・ゴセック François-Joseph Gossec (1734-1829)のモテット(宗教声楽曲)「おお、救いの生贄」の副題「無伴奏の3声部のアンプロンプテュ」である。ゴセックというのはあの「ゴセックのガヴォット」の作曲者で、現在ではガヴォット以外の作品はきれいに忘れ去られてしまったが、当時は交響曲やオペラ、宗教曲も多く手がけたらしい。声楽曲に「Impromptu」の語が冠された珍しい例である。

続いて、1818年、ギタリストのフェルナンド・ソル Fernando Sor (1778-1839)が「スペインの万聖節の午後の鐘の大音響の主題によるボレロ様式の即興曲」という作品を発表した。スペイン出身で、後にフランスで活動したソルはギター曲「モーツァルトの『魔笛』の主題による変奏曲」の作曲者として知られている。ソルは1815年にイギリスを訪問したらしいので、そこでクラーマーやラトゥールの「即興曲」を知った可能性がある。「スペインの~大音響」というのが、文字通りに教会の鐘の旋律を指すのか、それともそのようなタイトルの固有の歌があるのかはわからないが、とにかくすこぶる長くわかりにくいタイトルである。

同じく1810年代にダニエル・シュタイベルト Daniel Steibelt (1765-1823)が「出発、ピアノのための即興曲」なる作品を出版している。シュタイベルトは1790年代からヨーロッパ中で活躍したピアニストであり、初期ロマン派ピアノ音楽の歴史上重要な人物である。ドイツ生まれで、最後はロシアで亡くなったが、ロンドンにも活動拠点があり、クラーマーと面識があったのは確実だと思われる。1814年にいったん演奏活動から退き、1820年にペテルブルクで復帰するのだが、その間の彼の動向はよくわかっていない。

Cooper氏の徹底したリサーチには驚嘆を禁じ得ないが、これらの記述を元にすると、「即興曲」のタイトルを持つ作品は1813年頃ロンドンで発生し、少しずつヨーロッパ中に拡散していったが、1810年代にはわずかな作例しかなく、作品内容もまちまちであったと考えられる。「即興曲」のスタイルが整備されていくのは1820年代以降のことになる。
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  1. 2015/02/18(水) 01:51:51|
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即興曲の起源 (1)クラーマー

ツィクルス第3回では「即興曲」を取り上げるということで、まずはこのジャンル全体について解説しておきたい。

即興曲、あるいは原語でアンプロンプテュという妙に可愛い語感の読まれ方をする場合もあるが、impromptuはもともとフランス語である。promptuの部分は、英語のpromptの語源にもなったラテン語のpromptus(用意できた)を元にしているので、これに打ち消しのimが接頭されて、「用意できていない」という意味合いになる。類義語のimprovise(即興する)はprovidere(予見する)が語幹になっているので、「見通しが立っていない」という意味になり、impromptuとは若干の意味の違いがあるようだが、実際にはほぼ同義として扱われている。

器楽曲のタイトルとして使用されるようになったのは19世紀のはじめといわれているが、その起源ははっきりとはわかっていない。
私の知る限り、最も古い使用例として確認できたのは1815年3月号の"Allgemeine musikalische Zeitung"(「一般音楽時報」、以下AmZ)の新譜カタログ(Google Books)に掲載されている、ヨハン・バプティスト・クラーマー Johann Baptist Cramer (1771-1858)の「クトゥーゾフの勝利、ピアノのための即興曲」(La Victoire de Kutusoff, Impromptu p. le Pforte.)という作品である。
「クラーマー=ビューロー60の練習曲」でピアノ学習者には馴染み深いクラーマーは、ドイツで生まれたが生涯のほとんどをイギリスで送った。クレメンティに師事しピアニストとして活躍、ウィーン訪問時にはベートーヴェンのライヴァルと目され、技巧面ではベートーヴェンより勝っていると評されるほどのヴィルトゥオーゾだった。後年はピアノ製作・楽譜出版業でも成功し、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番をイギリスで出版するにあたって、「皇帝」(Emperor)の標題を与えた張本人でもある。
同じ年度のAmZのカタログには、「ピアノ・ソナタ (イ短調) 『究極』 作品53」(すごい標題だ)も並んで掲載されていて、Wikipediaによるとこれは1812年の作品とされているので、件の即興曲も1812年頃に作曲されたのかもしれない。タイトルにあるミハイル・クトゥーゾフ Mikhail Kutuzov (1745-1813)はロシアの軍人で、チャイコフスキーの序曲「1812年」でおなじみのナポレオンのロシア侵攻(1812)でロシア軍総司令官を務め、ナポレオンに歴史的敗北を与えた数少ない人物として知られている。この曲の楽譜を入手することはできなかったが、他の資料によると、ヘンデルのオラトリオ「ユダス・マカベウス」の中の合唱「危難を顧みず」(Disdainful of Danger)に基づく、という副題が付いており、この合唱曲の編曲のようなものなのではないかと推測できる。当時ロンドンに住んでいたであろうクラーマーが、ロシア侵攻の帰結にどのような思いを抱いていたのかわからないが、おそらくはクトゥーゾフの戦功を祝う意図で書かれた曲なのだろう。
1815年までに出版された音楽著作物、音楽作品をまとめた、"Handbuch der musikalischen Litteratur oder allgemeines systematisch geordnetes Verzeichniss der bis zum Ende des Jahres 1815 gedruckten Musikalien, auch musikalischen Schriften und Abbildungen, mit Anzeige der Verleger und Preise."(Google Books)という滅茶苦茶長いタイトルのカタログが1817年にライプツィヒで刊行されている(編者はアントン・マイゼル)。この中にも「クトゥーゾフの勝利」は掲載されていて、フランスのAndré社とウィーンのRiedl社から出版されているとのこと。更に、「ヘンデルのエアによる即興曲」という作品も別に載っていて、かのBreitkopf&Härtel社から刊行されているが、これはタイトルが違っただけで、やはり「クトゥーゾフの勝利」と同じ作品を指していると考えられる。つまりこの曲は1817年の時点でフランス、オーストリア、ドイツで別々に出版されているわけで、当時かなり人気を誇っていたようだ。
このカタログでもうひとつ気になるのは、「クトゥーゾフの勝利」の項目にImpromptu. No.13とあることで、文字通り解釈すれば即興曲第13番という意味になる。すなわちクラーマーはこの作品の前に「即興曲」というタイトルの作品を、あと12曲書き上げていたことになる。
クラーマーの「即興曲」としては、他にPTNAのピアノ曲事典に「音楽の題材による即興曲、手記風の資料」(Impromptu sur une matinére musicale, donnée à la memoire Op.93)なる作品が掲載されているが、作品の内容については手がかりがなかった。作品番号から考えると、「クトゥーゾフの勝利」より後の年代の作品と思われる。

クラーマーの「即興曲」の存在は、現在刊行されている音楽事典などではほとんど触れられておらず、クラーマーがどのようないきさつで「即興曲」というタイトルを自作に冠することになったのか、全くわかっていない。「クトゥーゾフの勝利」の楽譜はバイエルン国立図書館などに蔵書があるようなので、何かの機会に是非見てみたいものである。

「即興曲」の暫定創始者・クラーマーの話題でかなり長くなってしまった。次の記事では、シューベルトの即興曲の先行作品として語られることの多いヴォジーシェクについて取り上げたい。
  1. 2015/02/16(月) 19:27:06|
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