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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

アダージョ ト長調 D178 概説

アダージョ ト長調 Adagio G-dur D178
作曲:1815年4月8日 出版:1897年
楽譜・・・IMSLP

D178のアダージョには2つの全く異なる稿が存在する。
第1稿の自筆譜は2枚のバラの五線紙に書き付けられ、冒頭に「アダージョ」、作曲年月日と作曲者の署名があり、末尾に「Fine」(完)と記されている。第2稿は新しい五線紙に書かれていて、やはり「アダージョ」とタイトルがあり、同じテーマで始まるのだが、3小節目から全く違う展開を見せる。第2稿は第1稿よりも和声の変化が多く、ドラマティックな音楽になっている。こうなってくると、第2稿というよりは全く別の作品としてカウントした方がいいようにも思うが、残念なことに第2稿は1枚だけしか楽譜が現存せず、続きがどうなるのかわからない。おそらく「未完」ではなく、最後まで書いたのだが2枚目以降の譜面が「散逸」したものと思われる。
本記事では第1稿について解説する。

曲はABAの明確な三部形式で、A部分の再現は変奏されている。
弦楽四重奏風の静かな主題は、シューベルトの愛した「ダクティルス」のリズムで始まる。半音階を多用した和声進行が、繊細でセンティメンタルな情感を掻き立てる。A部分の特徴は3小節ごとに区切られる楽節構造で、これによりボツボツと独白をしているような独特のフレーズ感が生まれている。
A部分じたいが|: a :|: b a :|の三部形式であり、その意味では「複合三部形式」と言っても間違いではない。
B部分は主題の半音階進行のモティーフを用いてさまざまな調へ転調していく、「展開部」的な中間部である。連打のリズムが8分音符(2分割)から3連符(3分割)へと細かくなり、それとともにドラマ性を増していくのは後年の作品にも共通する特徴である。
Aの再現では、3連符の伴奏形が基本となり、よりピアニスティックな書法へと変化している。素速い音階のパッセージやフェルマータのついた和音の強奏など、ヴァリアントの手法はシューベルト独特のものである。コーダはごくあっさりと締めくくられる。

新全集の解説によると、作曲の日付として記された1815年4月8日は、異母妹のヨゼファ・テレジアが生まれた日なのだそうだ。
シューベルト最愛の母エリザベートは1812年に亡くなり、父フランツ・テオドールは翌年23歳年下の職人の娘アンナと再婚する。この年、息子フランツは全寮制学校コンヴィクトを退学し実家に戻るが、父は彼が音楽家になることを許さなかった。親子の衝突は絶えず、実家を飛び出して友人たちの家を転々とし始めたのがこの頃である。父とその新しい妻との間の娘の誕生を、18歳のフランツ・シューベルトはどんな思いで見ていたのだろうか。
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  1. 2014/03/30(日) 22:48:10|
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12のウィーン風ドイツ舞曲 D128 曲順に関する考察

12のウィーン風ドイツ舞曲 D128
作曲:1812年頃? 出版:1897年
楽譜・・・IMSLP

舞曲作曲家として生前から成功を収めていたシューベルトの、おそらく最初のピアノのための舞曲集である。
舞曲の種類や各曲の解説は、今回は行わない。本稿では「曲順」についてのみ考察する。

実はこの舞曲集には、確定した曲順がない。自筆譜の各舞曲の冒頭にさまざまな番号が書き込まれていて、どれが「決定版」であるのかわからないのだ。
たとえば自筆譜3ページ目の最初の舞曲にはこのように:
D128_manuscript_5
上からインクで9(鉛筆で∟マーク付き)、鉛筆で73(上から消されている)、5と、4つも番号が書き込まれている。
自筆譜は下記のサイトで閲覧することができる。
http://www.schubert-online.at/
直接リンクが張れないのだが、上部タブのNotenmanuskripte→左側メニューの2番目Alle Titel und Deutschnummern→本作D128→音符マークのzum Notenmanuskriptとクリックすると本作の自筆譜閲覧ページに到達する。
このサイトは大変貴重なプロジェクトだと思うのだが、チェックが適当なのか、何か理由があってなのか
P1・2・・・自筆譜1枚目
P3・4・・・自筆譜3枚目
P5・6・・・自筆譜4枚目(P6は空の五線)
P7・8・・・自筆譜2枚目
と順番がずれてしまっているので注意が必要である。

まず自筆譜の状態について言及しておくと、バラの五線紙4枚から成る。もともとは綴じられていたのかもしれないが、紙の左端が直線状に切り取られていて、右端がブサブサの状態なのが「表」で、その逆が「裏」である。
1枚目の自筆譜は「清書譜」である。書き直しがなく、立派なローマ数字で番号が振られている。
1枚目の表には「序奏」と、ヘ長調の「第I曲」、同じくヘ長調の「第II曲」、裏にはニ長調の「第III曲」、変ロ長調の「第IV曲」が記されている。
2枚目以降はおそらく「下書き」で、随所に書き直しの跡があり、曲順も明確には記されていない。おそらく1枚目にも同様の下書き譜があって、それを浄書したのだろう。2枚目の表の最初に書かれているのは、「第IV曲」と同じ舞曲である。これを下書きとして1枚目裏の清書譜を作ったのかもしれないが、下書き譜にも書き直しはなく、むしろ1枚目の清書譜よりもスマートに記譜されている。かつ、1枚目は改行の前後で第7小節を誤って2回ダブって書いてしまっていることがわかる。以降、番号は振られていないが、便宜上ローマ数字を使用することにして、ハ長調の「第V曲」。2枚目の裏は変イ長調の「第VI曲」と、ロ短調で始まるがニ長調で終わる「第VII曲」である。
3枚目の表の、ニ長調の「第VIII曲」の前には大譜表の波括弧の前に「Clav:」と楽器指定が入っている(もちろんClavierの略である)。続いてハ短調の「第IX曲」。裏にはヘ長調の「第X曲」と、ここから番号が復活し(ただし算用数字)ホ長調の「第XI」曲。
4枚目にはハ長調の「第XII曲」のみが書かれ、裏は白紙である。

ドイチュによるカタログでは、自筆譜に書き付けられた通りの順番でインデックスが付けられている。
I(F) - II(F) - III(D) - IV(B) - V(C) - VI(As) - VII(D) - VIII(D) - IX(c) - X(F) - XI(E) - XII(C)
という配列である(括弧内は各曲の調性をドイツ音名で示したもの)。

しかしながら、この通りの順番で出版された譜面はおそらくない。
1897年のブライトコプフ版旧全集(初版)以降、現在最も普及しているウィーン原典版(1973)やヘンレ原典版(1984)が踏襲している配列は次の通りである。
I(F) - XII(C) - VI(As) - XI(E) - V(C) - IX(c) - X(F) - IV(B) - VIII(D) - VII(D) - III(D) - II(F)
ウィーン原典版・ヘンレ原典版のどちらにも、なぜこの曲順を採用したのかについての説明は一切ないが、自筆譜を参照すると、どうやら鉛筆で「∟」のマークが付けられた番号を優先的に採用していったようである。
この配列の強みは、ヘ長調で始まった楽曲が同じくヘ長調の第II曲で終わっていることである。冒頭に「序奏」が付いているということは、シューベルトがこの舞曲集を一連の連作として考えていたことを意味する。すると、最初と最後は同一の調性であるのが望ましい。だが個人的には、第II曲は全体の「締め」になるような曲とは到底思えない。

一方で、最も権威あるとされるベーレンライター版新シューベルト全集(1987)の曲順は全く違う。
I(F) - IV(B) - III(D) - II(F) - VIII(D) - VII(D) - X(F) - V(C) - VI(As) - IX(c) - XI(E) - XII(C)
前例をまるっきりひっくり返すとあって、さすがに新全集の解説には曲順についての言及がある(解説はヴァルブルガ・リッチャウアー)。
曰く、いくつもの番号付けが残っているのは、シューベルトが常に新しい配列を試していた証拠で、新全集ではその中で「一番下に書かれた鉛筆書き」を採用したとのこと。これにより「ロジカルな調性配置」が実現し、「弱起と強起の曲がグループを成す」(1曲目は強起(アウフタクトなし)だが、2~6曲目がアウフタクト付き、7~12曲目がアウフタクトなし)ことになった。更に第VIII曲冒頭の「Clav:」の表示について解説があり、少しわかりにくい文章なのだが、要するに決定版の自筆譜を作るにあたり、一部を清書し、途中から下書きをそのまま採用する場合、シューベルトは下書きの採用パートの頭に「Clav:」と書いた、ということらしい。本作の場合1枚目の清書譜に4曲が記されているので、続く5曲目は第VIII曲ということになる。

なるほど新全集の配列は大変美しく秩序だっており、自然に聞こえる。音楽的に考えれば、ここまで挙げた3つの配列の中で最も理想的なものといえるだろう。
だが正直に言うと、新全集の解説を読んで、私はどうも疑わしく感じたのである。「Clav:」云々のくだり、私は研究者ではないので、こうしたことは学者の間では常識なのかもしれないが、もしこの説明が正しいとすると、まず下書きを書き上げたあとで、1枚目の清書譜を作り、しかるのちに下書きの3枚目表の第VIII曲の頭に「Clav:」と書き込んだことになる。
しかし、少なくともこの画像で見る限り、「Clav:」の文字は後から書き加えられたようには見えない。それに、もしこの箇所から下書きを決定版に採用するのだったら、「Clav:」などではなく、「No.V」と堂々と書き入れたのではないだろうか。
更に、4曲目にあてがわれている第II曲には、「2」と「12」の番号は見つかるが、4曲目という指示はどこにも見当たらない。他を埋めていった結果、余ったポジションに押し込めただけである。
どうも、これまでと違った(そしてより美しい)曲順を提案することに躍起になって、「一番下の鉛筆書きの数字」にどれほどの正統性があるのか、充分に検討していないのではないかと思えるのだ。

私も大いに悩み、各出版譜と自筆譜を並べてああでもない、こうでもないと検討を重ねていたのだが、突然あることに気がついた。
1枚目(清書譜)のローマ数字の4曲と、3枚目・4枚目の「11」「12」、これら以外の数字は、シューベルトの筆跡ではない。鉛筆書きはすべて別人が書き込んだものである。
上の画像をもう一度見ていただきたい。上から消されてはいるが、鉛筆書きの「3」の数字、書き始めが左側に大きく突き出ていて、どちらかというと左から右への水平方向の筆跡で始まっている。一方、五線上に書かれた拍子記号の「3」の数字は、書き始めが左に突出していない。むしろ下から上への垂直方向の筆の走りで書き始められており、全体的に左に傾いでいるような独特の角度がついている。2つを比べてみると、全く別の筆跡だとおわかりいただけるだろう。
他のシューベルトの自筆もいくつか見てみたが、鉛筆書きの「3」と同じ特徴を持つ「3」は確認できなかった。ほぼ確実に、この鉛筆書きは別人の手によるものなのである。
シューベルトは貧困のボヘミアンというイメージが定着しているが、もともと教師の息子で、幼少時から読み書きを鍛えられ、本人も教職に就いたことのある「インテリ」である。その素養が滲み出ているのか、彼の筆跡はとても美しく知性的である(少年期にまともな学校教育を受けられなかったベートーヴェンの悪筆と好対照である)。極めて主観的かつ不適切な表現かもしれないが、鉛筆書きの筆跡はいささか粗野で、深い教養が感じられない。
この鉛筆書きの主が誰なのか、はっきりしたことはわからないが、候補者の一人になりそうなのが、3枚目と4枚目の下部の余白にわざわざ「鉛筆で」サインを残しているニコラウス・ドゥンバ Nicolaus Dumba (1830-1900)という人物である。彼はギリシャ系の資本家で、紡績工場を経営して財を成した。芸術に造詣が深く、クリムトらと親交を結んだが、中でも音楽に情熱を傾け、ヴァーグナー、ヨハン・シュトラウス、ブラームスらと交際し、一時期自らが代表を務めていたウィーン男声合唱協会に50000グルデンという大金を寄付している。彼はシューベルトの大ファンで、遺言により200以上ものシューベルトの自筆譜がウィーン市に寄贈された。現存するシューベルトの自筆譜の多くがウィーンに残っているのは彼の功績によるところが大きい。
本作もおそらく、ドゥンバ氏のコレクションだったのだろう。貴重な自筆譜の余白に自分のサインを書き込むぐらいだから、番号も勝手に付け直していたとしても不思議ではない。彼にどれほどの読譜や演奏の能力があったのかわからないが、この12曲を眺めて「ああでもない、こうでもない」と曲順をいじって悦に入っていたという可能性は否定できない。
ちなみに、細いインクで控えめに書かれた数字も、おそらくシューベルト本人の筆跡ではない。「2」「4」などの数字の特徴がシューベルトのものと大きく異なるのだ。これは鉛筆書きよりも早い段階で付けられた数字のようで、あるいはドゥンバ氏が所有する前に既に書き込まれていた可能性もある。

となると、「一番下の鉛筆書き」を基準にしていた新全集はもちろん、鉛筆の「∟」マークに頼っていた旧全集以降の楽譜の曲順も全く根拠を失うことになる。
よって、ドイチュの作品目録と同じく、自筆譜に書かれた通りの曲順がシューベルトのオリジナルだという判断を下し、今回のツィクルスではこの曲順で演奏することにした。この曲順による出版譜はないので、おそらく非常に珍しい実演の機会になるのではないかと思う。
各曲の解説は改めて別の記事にしたい。
  1. 2014/03/27(木) 05:41:59|
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幻想曲 ハ長調 D605a「グラーツ幻想曲」 概説

幻想曲 ハ長調 Fantasie C-dur D605a 「グラーツ幻想曲」 "Grazer Fantasie"
作曲:1818年頃? 出版:1969年
楽譜・・・IMSLP(2つ目のBärenreiter版の楽譜。1つ目の楽譜は別作品(D605))

シューベルトのピアノ作品中極めつけの「問題作」である。以下、新シューベルト全集の序文(校訂者ヴァルター・デューアWalther Dürrによる)を参考に本作にまつわるエピソードをまとめてみたい。

まずは主要登場人物を紹介しよう。
アンゼルム・ヒュッテンブレンナー Anselm Hüttenbrenner (1794-1868)
 オーストリアの作曲家。グラーツ出身。裕福な地主の長男として生まれ、1815年にウィーンに出てサリエリに作曲を学ぶ。同時に晩年のベートーヴェンのもとに出入りするようになり、1827年には大作曲家の最期を看取った。同門のシューベルトと親しく、du(きみ、ドイツ語の親称(親しい間柄だけの呼びかけ))で呼び合う数少ない作曲家仲間だった。1821年故郷に戻り、シュタイアーマルク楽友協会の会長を務めた。この頃シューベルトから「未完成交響曲」D759の総譜を受け取るが、そのまま私蔵し、シューベルトの死後37年経った1865年に指揮者ヨハン・フォン・ヘルベック(1831-1877)が訪ねてくるまで公表しないという不可解な行動を取った。
ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナー Josef Hüttenbrenner (1796-1882)
 アンゼルムのすぐ下の弟。同じく作曲家で、シューベルティアーデの仲間だったが、兄ほどの才能はなく、シューベルトともそれほど親密にはなれず、ほとんどグループの使いっ走りのような存在だった。多くのシューベルト作品の写譜を担当している。
エドゥアルト・ピルクヘルト Eduard Pirkhert (1817-1881)
 ピアニスト、作曲家。ウィーンでハルムやチェルニーに師事し、20代前半でヨーロッパツアーを敢行。華麗な演奏技巧を誇り、モシェレスらに激賞された。ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの友人で、その膨大なコレクションの中からよく楽譜を借り出していたらしい。
ルドルフ・フォン・ヴァイス=オストボーン Rudolf von Weis-Ostborn (1876-1962)
 グラーツの作曲家、教会合唱指揮者。母はヒュッテンブレンナー家の出身で、アンゼルム、ヨーゼフの下の3番目の弟アンドレアスの娘である。シューベルトと同い年のアンドレアスはグラーツ市長を務めた。

ここからがストーリーの始まりである。
1962年、グラーツの音楽家ルドルフ・フォン・ヴァイス=オストボーンが死去した。遺品を整理していた妻マリア・ルッケンバウアー=ヴァイス=オストボーンと音楽学者コンラート・シュテークルは、1969年にその中から手書きの楽譜と書類の束を発見する。それはヴァイス=オストボーンが大伯父のヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーから受け継いだもので、その中には知られていないシューベルト作品の筆写譜が大量に含まれていた。
その中の1曲がこのハ長調の幻想曲である。ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの手になる非常に丁寧な表紙には、「ピアノフォルテのための幻想曲 フランツ・シューベルト作曲」と記されており、更に鉛筆で「オリジナルはピルクヘルト教授に貸し出した。この筆写譜には作曲の日付がない」とメモされている。ヨーゼフの筆跡は表紙ページのみで、楽譜そのものは別のコピイストが書き写しているが、このコピイストはヒュッテンブレンナー旧蔵の多くの他の筆写譜を担当しており、この1作だけが例外というわけではない。
どうやらヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーは、楽譜や資料を関係者に気前よく貸し出して、そのまま返却されないことがあったらしい。同じ遺品の束の中に発見されたヨーゼフのメモ書きで、シューベルトが兄アンゼルムに宛てた手紙でヨーゼフの歌の才能を評価したものがあったのだが、友人テルチャーとイェンガーに預けたら戻ってこない旨、また作曲家ヴェーバーがヨーゼフに宛てて、シューベルトの歌劇「アルフォンソとエストレッラ」について書いた手紙もショーバーに貸したら返ってこない旨、そしてそれらの「写しもとっていなかった!」という嘆きを記している。そうした失敗に懲りたのか、ピアニストのピルクヘルトにこの幻想曲の楽譜を貸して欲しいと頼まれたとき、写譜して手元に1部保管しておいたのだろう。つまりヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーはもともとこの作品の自筆譜を所有していた可能性が高い。そしてそれをピルクヘルトに貸し出し、予想通り戻ってこなかった。そこで筆写譜の表紙に鉛筆で、この散逸の経緯を書き留めておいたのであろう。願わくば筆写譜の方を貸し出しておいてくれたなら・・・と思わずにはいられないが、今となっては仕方のないことである。ピルクヘルトに渡った自筆譜はどこかに消え失せ、今のところ見つかっていない。1969年にこの筆写譜が発見されるまで、この作品は存在したことさえ全く知られていなかったのである。

1969年のうちにヴァルター・デューアの校訂でベーレンライター社より出版され、シューベルトの新作発見!とニュースになったわけだが、出てきた譜面を見、曲を聴いて、人々はヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの記述の信憑性に疑問を抱くことになる。つまりこれは、シューベルトの真作ではないのではないか、ということである。
以降、この「グラーツ(で発見された新しい)幻想曲」についての議論が巻き起こり、結果この作品は「グラーツ幻想曲」の名で呼ばれるようになったが、オーストリア・シュタイアーマルク州の州都グラーツはこの作品そのものの成立過程とは全く関係がない。

なぜ人々はこの作品に疑念を抱いたのであろうか。
一言で言えば、シューベルトの作品としては非常に異色であり、もっと言えば、響きがより新しい感じがするのだ。
まずシューベルトはこんな構成の「幻想曲」を書いたことはない。「さすらい人幻想曲」D760以降の幻想曲は、いわば「切れ目のないソナタ」であり、論理的で秩序だった構成が取られている。それ以前の幻想曲、たとえば前に取り上げたD2eや、連弾用のD1、D9などは「さまざまな楽想が脈絡なく続いていく」スタイルで、一見すると「グラーツ幻想曲」もこのグループに含まれるように思われる。
しかし細かく分析すると、そう単純ではない。この作品はハ長調の静かな主題で始まり、次のセクション([55]-)はなんと嬰ヘ長調(!)のAlla polacca、すなわちポロネーズになるわけだが、ポロネーズの3拍子を保ちながら嬰ヘ短調、ニ長調へ到達したところで冒頭主題がわかりやすく引用されるのである([93]-)。次のセクションは変イ長調で、ここも冒頭主題の変奏([129]-)。そしてその中の2度下行のモティーフ(冒頭部では第6小節に登場する「呼びかけ」のような表情豊かな音型)を操作して、そこから変ホ長調の新しい主題が生まれる([159]-)。変イ長調からホ長調に至り、行進曲のような付点リズムが印象的なセクションに到達するが([213]-)、ここでは冒頭主題の後半([39]-)のメランコリックな和声進行が引用されている。ト長調のパッセージが続く12/8拍子のセクション([244]-)は一見新しい楽想だが、ひとしきり落ち着いたところで例の2度下行のモティーフが現れる([253]-)。そしてハ長調に戻り、冒頭主題がそのまま回帰して([283]-)美しい余韻とともに曲が終わる。
つまりこの幻想曲のうち「ポロネーズ」を除くすべてのセクションは冒頭主題のモティーフを使った変奏なのだ。しかしそれは「さすらい人幻想曲」のようなあからさまな主題労作とは違ってさりげなく展開されるので、一聴しただけでは気がつかず、気まぐれに転調が続いていくとりとめのない楽想の羅列のように聴かせてしまう。
これは作曲技法としては相当に高度なもので、プロフェッショナルな作曲家のみが書きうる作品である。決して無名の素人が趣味的に書いたものではない。

更にこの曲の信憑性に疑念をもたらすのが、響き、もっと開いて言えば「聴き面」の新しさである。
冒頭主題の回帰部分で頻出する左手の幅の広い分散和音、右手の高音域での輝かしいパッセージ、半音階の多用とそれを利用した転調は、ほとんどショパンのノクターンの世界に重なる。先入観なしで鑑定すれば、ショパンと同時代か、それ以降の作曲家の作品と判定されるのではないだろうか。そのくらい、ピアノでしか表現できない新しい響きを追求した作品なのだ。
上に列挙した要素は、それぞれ単独ではシューベルトのピアノ曲に登場しないこともない。しかしこれほどまとまって現れるのは非常に稀で、それゆえにシューベルト作品としては聴いたことのない響きが立ち現れる。

これがシューベルトの作品だという根拠は、ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの表紙しかない。となると、彼の故意の偽装か、あるいは不注意によるミスで、別人の作品にシューベルトの名を被せたのではないかという疑惑が生じてくる。
しかし、本作が名曲であるがゆえに、真の作曲者として挙げることのできる名はかなり限られてくる。ヴァルター・デューアが挙げた候補は、フンメル、ヴェーバー、そしてヨーゼフの兄アンゼルム・ヒュッテンブレンナーの3人だ。
最初の2人はビッグネームである。ヨハン・ネポムク・フンメル(1778-1837)は当時のピアノ界の巨匠で、1816年に「気まぐれな美女、幻想曲風ポロネーズ」作品55というピアノ曲を発表している。本作の第2セクションが流行のポロネーズであることを考え合わせると、少なくともこの「気まぐれな美女」が本作の下敷きになった可能性はある。「魔弾の射手」で名高いオペラ作曲家のカール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)も、「この時代にこんな曲を書けるとすれば・・・」ということで挙がってきた名前だと思われるが、フンメルとヴェーバーに関して言えば、彼らのような大家がこうした作品を書いて、筆写譜1部だけがヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの手元に残り、他の全ての資料が消え失せるという事態はちょっと考えにくい。
そこで有力な候補となったのがアンゼルム・ヒュッテンブレンナーである。

アンゼルムはシューベルトの親しい友人で、シューベルト同様に相当な多作家だった。250曲を超える歌曲を含む総計500曲以上の声楽曲、80曲あまりのピアノ曲などを書いている。サリエリのもとで学び始めたのはシューベルトよりも遅いが、歳は3つ上で、おそらく門下の優等生だったのではないだろうか。シューベルトは尊敬のあまり近づくこともできなかったベートーヴェンのところへ出入りし、「君(ヒュッテンブレンナー)に訪ねてきてもらうほど、私(ベートーヴェン)は価値のある人間ではない」という謎の言葉を賜っている。まさか才能のことを言っているとは思えないし、身分の高い家柄だったのだろうか。1827年3月26日の大作曲家の臨終の床に、女中のサリとともに居合わせ、雷鳴に向かって拳を突き上げ云々という有名なエピソードを語ったのもこのアンゼルム・ヒュッテンブレンナーである。彼のレクイエム ハ短調は、1825年のサリエリの死、1827年のベートーヴェンの死、そして1828年のシューベルトの死のあと、それぞれ追悼ミサで演奏された。当時その才能が認められていたのは、故郷グラーツに戻った直後、20代半ばの若さでシュタイアーマルクの楽友協会の会長を務めたという経歴からもよくわかる。何の地位も得られず仲間内で作品を発表するばかりだったシューベルトとは大きな違いである。
シューベルトが1823年にシュタイアーマルク楽友協会から名誉表彰を受けたのは、おそらくアンゼルムの口利きによるのだろう。その返礼としてシューベルトがヨーゼフを通じてアンゼルムに送ったのがあの「未完成交響曲」である。しかし彼がこの曲の存在を長年公表しなかったことは上に書いた通りである。2楽章で終わっていたので続きを待っていたのかもしれないが、シューベルトが死んだらもう続きはないのだから、少なくとも周囲の人間には存在を明かしてもよいようなものである。あるいは後続楽章の譜面も持っていたのだが紛失し、その露見を恐れて秘匿していたのかもしれない。あるいはもっと根深い嫉妬や複雑な感情が絡んでいたのかもしれない。アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは1840年から神秘主義者ヤーコプ・ローバー Jakob Lorberの新興宗教にはまり、彼の口から発される「神の言葉」を書き留めることに尽力したと伝えられている。
さて、ヨーゼフは本作を兄アンゼルムの作品と知りながら、その表紙に「シューベルトの作品」と記すという詐欺行為を行ったのだろうか。だとすると、「ピルクヘルトに貸し出して云々」という鉛筆書きも悪質な虚偽かもしれない。ヴァルター・デューアはさまざまな可能性についてずいぶん詳細に検討を行っている。
デューアはこの可能性を否定する。もしアンゼルムの作品をシューベルト作と騙るとすれば、それはシューベルトの名を使ってこの作品を出版しようとするときだけだ(音楽作品の偽作はほとんどそのようなビジネス上の方便で行われる)。しかし本作を出版しようとした形跡は見当たらない。もし出版しようとしたならば、その過程でもっと多くの筆写譜や校正譜が残っているはずである。デューアは、もし詐欺を行うとすれば「シューベルトの作品を兄アンゼルムの作品と騙って発表する」のであって、その逆は考えにくいとしている。
では不注意によるミスだろうか。もしそうだとしたら、シューベルトの真作のピアノ用の幻想曲があって、それとこのアンゼルムの作品の表紙を付け間違ったということになる。しかしこの仮定に該当するようなアンゼルム・ヒュッテンブレンナーの(実際にはシューベルトが作曲した)作品は知られていないし、遺品の束にも見当たらない。とするとこの「ミス説」も可能性は薄い。
更にデューアは、何らかの既存の作品のシューベルトによる編曲ではないか、などという説を提案しているが、これは考えるまでもなく現実的ではない。

デューアの結論としては、これはフンメルやヴェーバーなど当時の流行のピアノ曲のフォーマットに則ったシューベルトの真作で、せっかく流行のスタイルで書いたのに出版せず、友情の証としてヒュッテンブレンナー兄弟のもとに預けたのではないか、ということらしい。
確かに、この曲を出版していたら結構売れたかもしれない、と思わなくもない。でもポロネーズの嬰ヘ長調はシャープが多すぎてダメかな・・・。

私自身は、密かに考えている別の説がある。
個人的には、この傑作がシューベルトの真作であって欲しいし、楽想のみずみずしさや美しさは紛れもなくシューベルトの天才の所産だと信じている。しかし、シューベルトがこんな曲を書くだろうかと考えると、一抹の疑問が残るのも否めない。
私は研究者でも何でもないので、全く論拠のない仮説だが、これはシューベルトの楽想を別人、おそらくヒュッテンブレンナー兄弟のどちらかが繋ぎ合わせた合作なのではないだろうか。もしかしたらシューベルティアーデの席で、シューベルトがさらさらと即興で弾いたピアノ曲を、その場で、あるいは後から必死に思い出して記譜したのかもしれない。だから楽想はシューベルトの作だが、伴奏パートなどの細かい書法はヒュッテンブレンナーの手が入っていて、長生きした彼らがショパンの響きを知ってから書き直すこともできたはずだ。ヨハン・ペーター・フォーゲルの指摘通り、シューベルトが生涯に一度も書かなかったModerato con espressioneという発想標語が冒頭に記されている件も、これで説明はつく。
そうして完成した「シューベルトの主題による幻想曲」を、自作として発表するのは気が引けて、いきおい「シューベルト作曲」と書いてしまったのではないだろうか。
ちょっとタイムリーな話題に近づいてしまった気もしないでもない。
  1. 2014/03/25(火) 18:29:48|
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10の変奏曲 ヘ長調 D156 概説

10の変奏曲 ヘ長調 Zehn Variationen F-dur D156
作曲:1815年2月15日 出版:1887年

楽譜・・・IMSLP PTNA(譜例のみ)
完成された初めての大規模ピアノ曲である。清書譜には立派な表紙がついていて、そこにはフランス語でタイトルが綴られ、作曲者「フランソワ・シューベルト」がウィーン帝室音楽院主任教師サリエリの生徒であることが記されている。モーツァルト関連の伝承で名高い(悪名高い?)宮廷楽長アントニオ・サリエリ(1750-1825)は、シューベルトのほとんど唯一の作曲の師であり、1808年から1817年という長期にわたって師弟関係にあった。
自筆譜の末尾に作曲年月日が記入されている。当時シューベルトは交響曲 第2番 変ロ長調 D125の作曲の最中で、新全集の解説では本作の主題が「交響曲の第2楽章(こちらも変奏曲、変ホ長調)の主題と似ている」と指摘しているが、確かにその通りである。
この作品には断片的な第2稿が存在する。これは歌曲「ランベルティーネ」D301の自筆譜の続きにスケッチされていることから、1815年10月頃に書かれたものと考えられ、つまり「2月15日」と明記された清書譜よりもあとに成立したものとみられる。主題と、第2変奏の途中まででこの第2稿は終わっており、第1稿と比べると細部に違いがあるものの、根本的にはほとんど同じといってよい。詳しくは後述するが、むしろ第1稿の方が出来が良く、わざわざ部分的に書き直した理由はわからない。

シューベルトはピアノのための変奏曲はほとんど残しておらず、独奏用の単独作品は本作と「ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲」D576の2作にとどまる。他の形式の作品の一部(即興曲D935-3、「さすらい人幻想曲」D780の第2楽章)や、室内楽曲(ピアノ五重奏曲「ます」D667の第4楽章、フルートとピアノのための「しぼめる花」変奏曲D802、弦楽四重奏曲「死と乙女」D810の第2楽章)などでは変奏の技法を駆使して素晴らしい世界を築いているが、それらのほとんどは既存の主題、それも自作の歌曲を主題に用いている。変奏曲のために書き下ろされた、いわゆる「創作主題」はシューベルト作品としては比較的珍しい。

変奏曲の分類としては古典的な「装飾変奏」に近いのだが、変則的な楽節構成と、変奏を続けていく中での構成の揺らぎがこの作品の特色である。

主題はAndante、ヘ長調、2/4拍子。弦楽四重奏のようなシンプルなテクスチュアである。冒頭からシューベルトの好んだ「ダクティルス」(長短短)のリズムが登場しているのも見逃せない。
主題の前半をA、後半をBとすると、Aは(4+5)の9小節、Bは(7+5)の12小節。こんな自由な楽節構造の主題は古典派には例がない。
A前半は普通の4小節で、ドミナントで半終止する。A後半はその繰り返しのように始まるが、属調のハ長調への転調があり、1小節伸びて5小節となる。
Bの前半はゼクエンツで始まるが、結果的に平行調ニ短調に向かい、4-5小節目でドミナントが確定する。そこから突然ヘ長調のドミナントに進み、2小節でヘ長調へ戻るというちょっとした荒技が繰り広げられる。B後半はA前半とほぼ同じだが、全終止のために1小節伸びて5小節となる。
というわけで、「a-a-b-a」の唱歌形式(というのだろうか?)の変形なのだが、その引き延ばし方がシューベルトらしく歌謡的で、同時にやや無秩序で「とりとめのない」印象を与えているのも否めない。
今後の各変奏との比較のために一覧にすると、
主題 Andante 4+5 | 7+5
ということになる。
ちなみに第2稿では、A部分の終わりにダブルバー(二重小節線)が引かれ、B部分にはリピートの指定がある。また冒頭のアウフタクトのC音が削除されて強起で始まっており、その代わりにB部分にH音のアウフタクトが加えられている(個人的にはこの「H-C」という開始は少々趣味が悪いように感じられる)。第2稿はあくまでスケッチなのだろうが、デュナーミクの指定もほとんどない。

第1変奏 4+5 | 6+5
左手のテノール声部に3連符の伴奏形が現れ、ぐっとピアノっぽい書法になる。右手には古典派風の装飾(ターン)が加わり、優雅な雰囲気が漂う。
意表を突くのは、B前半の小節数が1小節減っていること。主題のB前半の4小節目、ニ短調のドミナントを念押しするような進行が抜け落ちている。主題ではここはとりわけ印象的な部分だったのだが、変奏が難しくて割愛したのかもしれない。

第2変奏 4+5 | 6+5
右手の和音連打と左手の音域の広いアルペジオがスタッカートを伴う16分音符の3連符で登場し、デュナーミクの幅も広く、活気溢れるヴァリエーションである。Bの前半は打って変わって動きが静かになり、コントラストをつけている。前の変奏と同じく、Bの前半を1小節カットしている。
第2稿はこの変奏のBの2小節目で中断されている(第2稿には第1変奏は書かれていない)。目を引くのは活気の源ともいえるアウフタクトのトリルがなくなっていることで、主題のアウフタクトが削除されているから仕方ないのかもしれないが、魅力を減じているように思える。またB部分のはじめにはリピート記号がある。

第3変奏 Più moto |: 4+5 :|: 7+5 :|
テンポが速まり、左手は32分音符の伴奏形、右手は「タタッタ」のリズムで和音を連打する。連打の3音目が休符になるこのリズムパターンはモーツァルトが好んだもので、いきおい古典派風味が濃くなる。A後半ではこのリズムパターンが左手に移り、右手は音階やアルペジオのパッセージを披露する。
前の2つの変奏で省略されたB前半の4小節目は復活するが、この第3変奏ではA・Bがそれぞれリピートされるように指示されている。

第4変奏(ヘ短調) |: 4+5 :|: 7+5 :|
同主短調に転調する、いわゆる「ミノーレ」の変奏である。特に指示はないが、静かな曲調から言って主題と同じAndanteのテンポであり、前の変奏の速度指示は引き継がれないと考えた方がよいだろう。
半音を伴いながらウネウネと蛇行する内声の順次進行が、陰鬱な雰囲気を与えている。主題よりもダクティルスが多く登場すること、Bの前半で変イ短調(平行調の同主短調)が使用されることも興味深い。前の変奏と同様にA・B両部分が繰り返される。

第5変奏 Andante con moto 4+5 |: 7+5 :|
右手の和音連打は伴奏で、主題旋律は左手に現れる。Aの終わりから右手の構成音が徐々に揺らぎ、メロディーを形成していく。きわめてデリケートな天上の音楽である。Bのみリピートがある。

第6変奏 |: 4+5 :|: 7+5 :|
両手のオクターヴ連打であるが、最初はそれぞれ1声であり、2声の対位法実習のようである(途中から和音が追加される)。堂々たるオーケストラ的な発想なのかもしれないし、あるいは突如挿入されるスフォルツァンドや不協和音程はベートーヴェンへのオマージュなのかもしれないが、どちらの解釈も中途半端で、はっきり言ってあまり出来の良い変奏とは思えない。A・Bそれぞれにリピートがあるが、A部分のリピートにのみ「繰り返し時はppで」(1回目はf)と指定がある。

第7変奏 Scherzando |: 4+5 :|: 7+5 :|
ppでスタッカートのついた3連符と、レガートの8分音符の対比が軽快でユーモラスな印象を与える。音楽を主導するのは右手で、左手は伴奏に徹している。A・Bそれぞれにリピートあり。

第8変奏 |: 4+5 :|: 7+5 :|+コーダ9
付点リズムが特徴の、ギャロップ風の愉快な変奏。右手のオクターヴ連打は第6変奏と似ている。末尾にコーダというかブリッジが設けられ、付点のモティーフが展開されたあと、一転して即興カデンツァ風のパッセージとなり、C音のトリルで次の変奏に続いていく。

第9変奏 Adagio 4+5 | 7+5
テンポが遅くなり、右手の長いトリルや素速い音階のパッセージが時間の広がりを感じさせる。調性の一致もあるのだろうか、この変奏と次の舞曲風の第10変奏はベートーヴェンの「6つの変奏曲」作品34の終盤を連想させる。ベートーヴェンの作品34は変奏ごとに調性や拍子が変わっていくという革新的な作品で、本作はそこまで独創的なつくりではないが、シューベルトが本作のモデルにしたのは疑いないと私はみている。
テンポが遅くなった分、リピートは省略され、最後は半終止のまま第10変奏へ続く。

第10変奏(3/8拍子) Allegro 8+10 8+10 | 14+10 14+22 |+コーダ
テンポが上がり、拍子も3/8に(初めて)変更される。主題の1小節が2小節に分割されるため、小節数が倍増しており、かつリピートごとに異なるヴァリエーションが施されるため、上記のような小節数となる。陽気かつ軽快な舞曲風の変奏で、B部分には技巧的な見せ場もあり、フィナーレらしい華やかな盛り上がりを演出する。
Bの最後は左手のFのトレモロ(トニックペダル)上で半終止し、そこから無拍子の即興風の展開が始まる。途中でテンポはPresto、Adagioと変わっていき、最終的にTempo Iで主題が回帰する。最後の8小節で再びPrestoとなり、音階を勢いよく駆け上がって終幕となる。以上のコーダ部分はそれほど独創性豊かでもなく、演奏効果が上がるわけでもなく、素晴らしく書けているとは言い難い。

1814年10月、ミサ曲 ヘ長調 D105の初演の成功を喜んだ父フランツ・テオドールは息子に新しいグラーフのピアノを買い与えたという。本作のある種の技巧的な充実は、おそらくこの楽器がもたらしたものと考えてよいだろう。
  1. 2014/03/24(月) 23:15:05|
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ショパン誌4月号のシューベルト特集に寄稿

月刊ショパン4月号の特集「シューベルトのピアノ作品」内、「ピアニストによるシューベルト主要ピアノ曲解説10」に、解説文を寄稿しています。ソナタ第13番D664、さすらい人幻想曲D760、ソナタ第20番D959の3曲を担当しました。スペースの関係で詳細な解説というわけにはいきませんでしたが、その中で最大限のシューベルトと作品に対する共感を文章に込めましたので、是非お読みいただければと思います。他のピアニストの方々の素晴らしいエッセイやコメント、それに専門家による解説も満載の読み応えのある特集となっています。

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  1. 2014/03/23(日) 03:34:49|
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「クラシック・ニュース」インタビュー動画

藪田益資氏が総合プロデューサーを務めている「クラシック・ニュース」にインタビュー動画が掲載されました。シューベルトツィクルス第1回、4月26日・27日の東京交響楽団との共演、そして次のCDのことなどお話しさせていただきました。


  1. 2014/03/18(火) 23:24:35|
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アンダンテ ハ長調 D29 概説

アンダンテ ハ長調 Andante C-dur D29
作曲:1812年9月9日 出版:1888年

シューベルト初期の作品にしては珍しく、詳細な作曲の年月日がわかっている。曲の冒頭と末尾に、2度も「1812年9月9日」と記されているのだ。「1日で書き上げました!」とわざわざ強調しているようなものである。
これはD3の弦楽四重奏断章の、作曲者自身によるピアノ用リダクションである。D3はしかし、第29小節までの未完成な形でしか残されていない。D3を元に、2段譜の形で全貌をスケッチしたのがD29なのかもしれないし、あるいはD3には失われた完成稿があって、そのピアノ版がD29なのかもしれない。
D3は弦楽四重奏曲 ハ長調 D32の緩徐楽章として作曲が試みられたといわれているが、最終的にはイ短調のシチリアーノ風の緩徐楽章に取って代わられた。また弦楽四重奏曲 変ロ長調 D36(1812年11月)の第2楽章のスケッチにも本作のモティーフが現れているが、結局抹消されて最終稿には姿を見せていない。そういうわけで、この作品のテーマが完全な形で聴けるのはピアノ版のD29のみ、ということになっている。

成立事情から考えて当然だが、いかにも弦楽四重奏風の簡素な響きの作品である。
下行する3音の旋律線が特徴的なテーマは、アンセムのようでもあり、シンプルゆえに心に残る。冒頭の15小節間、長く紡がれていくメロディーはシューベルトならではといったところ。この15小節はリピートされる。
このテーマはこの後、あと4回登場するのだが、どんどんフレーズの展開が短く貧弱になってしまうのが惜しい。とりわけ2回目、ト長調で登場したあとはたたみかけるような転調で「良い線いっている」のだが、結局すぐにハ長調の終止に飛びついてしまい、ドラマティックな展開に至らない。
あくまで私見であるが、私自身作曲を試みた経験から言って、着想というのはある程度天賦の才で何とかなるものだが(そして着想が貧弱な者はもうどうしようもないのだが)、それを展開していく力は「作曲技術」によるところが大きい。これは後天的な訓練によって身につけていくしかない。
この作品も、着想は素晴らしいのだが、展開に難があるという点で、シューベルトの天才的な発想力に、作曲技術が追いついていなかった時期の作品、といっていいだろうと思う。
  1. 2014/03/09(日) 04:01:07|
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幻想曲 ハ短調 D2e 概説

幻想曲 ハ短調 Fantasie c-moll D2e
作曲:1811年 出版:1979年
知られている限り、シューベルトの最初のピアノ独奏曲である。
自筆譜には作曲年は記されていないが、前後にD2dの管楽アンサンブルのための6つのメヌエットの一部が書かれているため、同じ1811年前半の作曲と考えられる。またコンヴィクト時代からの友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンの回想によると、1811年3月に1年ぶりにシューベルトに会った際、「彼はこの1年の間にソナタ1曲、幻想曲1曲、小さなオペラを書き上げ、今はミサ曲を作曲していると言った」とのことで、この「幻想曲」が連弾用のD1やD9ではなくこのD2eを指しているならば、1811年3月以前に完成していたのかもしれない。兄フェルディナントの作品目録には含まれていないが、フェルディナント自身の作品であるこどものための歌芝居「小さな落ち穂拾いの少女」の序曲に、このD2eの最後の19小節が引用されており、おそらく家庭内で演奏され、フェルディナントも耳にしていたのだろうと推測される。
・・・といったことが新全集の解説や付属のドイチュ番号カタログ(1978)に記されている。

幻想曲というのは、基本的には「さまざまな楽想が次々と自由に、脈絡なく続いていく器楽曲」である。秩序だった構成を持たず、ひとつのまとまったストーリーを語るのでもない。古典時代の作例としては、モーツァルトのK397(ニ短調)やK475(ハ短調)、ベートーヴェンの作品77などを挙げることができる。とりとめもない自由な飛翔が「ファンタジー」のタイトルの由来だろう。
シューベルトはこの作品の前に、1つ「幻想曲」と呼ばれる作品を完成させている。連弾用のD1、1810年4月8日から5月1日にかけて作曲された作品である。これは1000小節を優に超える大作で、全体も3つの部分にわけられているが、さまざまな楽想がとりとめもなく出現し繋ぎ合わされていく様子はまさに「幻想曲」である。正直なところ、あまりに長く散漫な印象を受ける。
翻ってD2eは91小節とだいぶコンパクトにまとまっている。おおまかに捉えれば三部形式というか、Largoと書かれたハ短調の序奏・後奏の間にAndantino(ホ長調→イ短調)の主部が挟まっている形、と考えることもできる。

A: [1]-[16] Largo ハ短調→ホ長調
B: [17]-[41] Andantino ホ長調
  [42]-[63] イ短調→ハ短調
  [64]-[72] Allegro ハ短調
A': [73]-[91] Largo ハ短調

Aは低音域のユニゾンでオペラ序曲風に開始される。楽想は断片的・即興的だが、減七の和音が多用され、そこから遠隔調のホ長調へと転調していく。ハ短調→ホ長調。後年に至るまでシューベルトが好んだ「長3度上への転調」である。
Bのホ長調のセクションは、5小節の主題を延々と繰り返しながら変奏を加えていくもの。バス声部がe-fis-gis-a-ais-h-cisと上行していくのが特徴で、下降気味だったA部分と対照的に前向きな気分がある。左手が6連符の伴奏形に変わると(ここから書法が非常に「ピアノ的」になる)、右手の旋律にも細かい音階のパッセージが組み込まれていき、音域も幅広くなっていくが、延々と同じ和声進行がループするだけで発展性はない。この「延々と続く」感じは後年のシューベルトにも引き継がれている。
それを断ち切るように[42]で調号が消え、6小節かけてイ短調のドミナントを確定させる。イ短調ではホ長調部分を回想するが、4小節×2で終わり、[56]からは転調するための「つなぎ」となる。
[64]からの9小節間が、なんだかよくわからない。一見ポリフォニックに書かれているが、テンポは「Allegro」と突如急速になる。デュナーミクはpp。バスは半音階でcからgに降りるだけ。おそらく[64]でいきなり序奏が回帰するのは唐突だと考えたのかもしれないが・・・。
[73]でAが戻ってくる。イ短調とヘ短調を少しかすめながら、ハ短調のまま終結となる。最後のスタッカートつきの付点リズムはまるで葬送行進曲のようだ。兄フェルディナントが自作曲に引用したというのはこのセクションである。

作曲当時シューベルトは14歳。帝室の寄宿制神学校コンヴィクトに在籍し、聖歌隊員として歌いながらサリエリに作曲を習っていた時期である。モーツァルトやメンデルスゾーンほどの早熟の天才ではなかったにせよ、シューベルトの天分の「ファンタジー」が垣間見える習作だと私は感じている。
  1. 2014/03/05(水) 17:29:40|
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シューベルトツィクルスとは

「シューベルトツィクルス」がどんな内容のプロジェクトなのか、ウェブ上にまだちゃんとした形で載せていなかったので、ここにまとめて書いておくことにする。
関係各所やメディア向けに作られた「企画概要」というペーパーがあるのだが、その内容を下敷きにしてちょっと詳しく説明していきたい。

●概要
シューベルトのピアノ関連楽曲のすべてを、佐藤卓史が演奏するリサイタルシリーズ。
概要というのは「おおまかなあらまし」なので、これで問題ないだろう。

●演奏対象作品
今回取り上げる作品は、
・ピアノ独奏曲
・ピアノ連弾曲
・ピアノを編成に含む室内楽曲

のうち、演奏可能な状態で楽譜が現存するもの、である。
これがどの程度の数になるのか、私も現時点では正確には把握していないのだが、ざっと音楽事典の作品表を数えてみると
・ピアノ独奏曲:124
・ピアノ連弾曲:37
・室内楽曲:15
ということで、合計176曲ということになる。この中に含まれていない作品や、楽譜が現存しないのに項目だけ残っている作品もあるので、これは正確な数字とはいえないが、まあだいたい150以上200未満といったところだろう。
「歌曲は取り上げないのか?」とよく訊かれるが、歌曲などという深い森に頭をつっこんだら、私が生きている間にプロジェクトが完結しなくなるおそれがあるので、今回の演奏対象には含めていない。あくまで対象は「器楽曲」。声楽曲は、機会があれば別のプロジェクトとして取り組んでみたいと思っている。実はリートは個人的には大好きなのだ。

シューベルトの作品を取り上げるときに問題になるのは、「未完成作品」の扱いである。たとえばピアノ・ソナタは全部で23曲あることになっているが、半数程度は完成作ではない。これらについては、
・補作可能なものは補作し、音楽として完全な形で演奏する
というスタンスをとる。あくまでも演奏会であり、学術発表の場ではないので、「シューベルトが書いたところまで(途中まで)演奏してストップ」という形はとらない。既に発表されている補筆案を参照した上で、もし私がそれに納得しなければ、自分で補筆を試みる。このことについてはいつかまた詳しく述べる機会があるだろう。一方で、
・断片的なスケッチのみで、完成形が見えない作品は演奏しない。
ある程度の長さのある楽想でなければ、そこから楽曲全体の設計を類推するのは困難だ。もし試みたとして、それは補作者の「創作」になってしまうし、何よりも作曲者自身がそれ以上の作曲の継続を放棄したことを重視して、実演は行わない。

●使用楽譜
基本資料とするのはベーレンライター版のシューベルト新全集 Franz Schubert Neue Ausgabe sämtlicher Werke である。貴重な自筆譜や初版譜にあたれる場合はもちろんのこと、他の出版譜も可能な限り参照する。

●開催予定
年2回、首都圏のコンサートホールで開催する。現時点で
・第1回 2014年4月2日(水)東京文化会館小ホール
・第2回 2014年10月10日(金)王子ホール
まで決定している。シリーズ完結は2030年頃の予定。

●使用楽器
基本的に、ベーゼンドルファー・モデル290「インペリアル」を使用する。
あんまり特定のメーカーと癒着しているみたいに見られるのはピアニストとして得策ではないし、実際に癒着しているわけでもないのだが、個人的にこの部分にはこだわりがあり、今回のツィクルスの特徴でもあると思うので、また追って詳しく述べる予定。

●共演者
連弾曲や室内楽曲は、当然ながら共演者が必要になる。
実際のところ、まだ誰も決まっていないし、お願いもしていない。何回かソロで続けて、軌道に乗ってきた頃にゲストをお迎えする形にしようと思っている。
  1. 2014/03/04(火) 04:34:04|
  2. シューベルトツィクルス
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ブログ開始のごあいさつ

Schubertiade

こんにちは、佐藤卓史です。
このたびシューベルトのピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を開始することとなり、これと連動して本ブログを立ち上げることにしました。「シューベルトツィクルス」では、シューベルトが残したピアノソロ曲、連弾曲、ピアノを含む室内楽曲を取り上げます。準備の過程や楽曲の考察などを中心に、ぼつぼつと綴っていきたいと思います。
「シューベルティアーデ」は、ご存じのようにシューベルトを囲んで友人たちが催したパーティーの名前です。このブログも、シューベルトを愛する人たちの賑やかな交流の場になればと願ってこんなタイトルをつけてみました。応援・励まし・事実誤認の指摘・反論・補足など、読者の皆さんからのコメントを歓迎します(誹謗中傷の類は困りますが・・・)。
「シューベルトツィクルス」は年2回の開催ペースで、完結までおそらく15年以上かかる見通しです。その頃には、この場がシューベルトのピアノ曲に関するある程度まとまったデータベースとして活用されるようになるといいなあ、と、そんなことを夢見つつごあいさつを締めます。
  1. 2014/03/03(月) 02:47:46|
  2. このブログについて
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