(承前) シューベルティアーデの前身として、近年発掘され注目されているのが
Unsinnsgesellschaft である。和訳すれば
『ナンセンス協会』 または
『狂騒クラブ』 (訳©堀朋平)といった意味になる。
このグループの解明は、カナダ出身の学者
リタ・ステブリン (1951-2019)が独力で成し遂げ、著書「Die Unsinnsgesellschaft」(1998)にまとめられた。
メンバーたちは
Unsinniaden と自称している。Unsinn「無意味」に接尾辞-iade(n)が付いたもの、「無意味愛好者」「ナンセンス主義者」。
Schubert-iade(シューベルト主義者、シューベルト党員)の語構成と似通っている 。構成員たちはコードネームで呼び合い、たとえば中心メンバーのアンシュッツAnschütz (Anschuetz)兄弟はシュナウツェSchnautze(鼻)と号している。アナグラム(文字の入れ換え)で作られた二つ名である。これはまだわかりやすいが、レオポルト・クーペルヴィーザーのDamian Klexなどはもはやどういう由来なのかよくわからない。
彼らの活動の痕跡として残されているものは、1817年4月から1818年12月にかけて週刊で制作・発行された同人誌で、「人間の狂騒の記録」と題されている。全体のおよそ3分の1にあたる29点が散逸を免れウィーン市立図書館に収蔵された。
紙面を満たすのは不思議な図像や文章たちだ。たとえば1818年8月13日の日付を持つある記事を引用しよう:
スペインからの報告によると、異端審問所は黒魔術に没頭した罪状で著名な画家フアン・デ・ラ・チンバラを逮捕した。彼は逮捕される前に魔術によってひどい火傷を負ったということで、無事の生還が望まれる。 一見デタラメかつ意味不明な内容だが、この時期シューベルトは人生で初めて
ウィーンを離れハンガリーのツェリスに出かけて いて、そのことをネタにした記事だとステブリンは推測する。チンバラはツィンバロンやシンバルといった楽器を連想させる名前であり、作曲家を画家に、ハンガリー(ヨーロッパの東端)をスペイン(ヨーロッパの西端)に置き換えたというわけだ。そしてスペインといえば異端審問、異端審問といえば火あぶりというのはもう枕詞のようなものである。
このように、仲間内だけで通じる隠語や言い換えを駆使した言葉遊びが展開されており、その作法を知らない部外者には「無意味」にしか思えないのだが、時にはそれが下ネタや醜聞の隠れ蓑になることもあったようだ。
例えば、こちらは1818年7月16日付で、近年よく見かけるようになった「万華鏡と自転車」のイラストである。
クーペルヴィーザーによる水彩で、万華鏡を手にした肥った男は見るからにシューベルトであろう。そこへ自転車で突っ込んでいるのはクーペルヴィーザー自身だ。E・アンシュッツによる注釈には
最近発明された万華鏡や自転車は危険。夢中で万華鏡を覗きながら道を歩いていると自転車に轢かれるぞ などとあり、数号あとの記事にはこれを引いてG・アンシュッツが
万華鏡を覗くと道行く人の服が透けて見えるらしい。グラーベンを歩くのが好きな若い男には最適 、
J・クーペルヴィーザーは
万華鏡は目だけではなく鼻にも悪影響がある と警鐘を鳴らす。
最新のトレンドを題材にしたナンセンスなジョークのようだが、深読みすればグラーベン(ウィーン中心部の目抜き通り)は当時売春窟として知られており、そんなところをうろうろしていると梅毒にかかって鼻を失うぞ、という警告とも受け取れる。
シューベルトが25歳頃に梅毒を発症したことは現在では周知の事実である。過去にはツェリスの館のメイドから伝染されたという説もあったが、ステブリンはこの記事をもとに、
シューベルトが若い頃売春街通いをしていたことは友人たちの間では公然の秘密 で、それが感染源に違いない、と論じて話題を呼んだ。
『狂騒クラブ』のメンバーの多くは
ウィーン人の画家の卵たち だった。後のシューベルティアーデの中核に残ったのは
レオポルト・クーペルヴィーザー とその兄弟だけだが、ウィーン美術アカデミーを拠点とする彼らのネットワークの中から、より年下の世代のシュヴィントやリーダーがシューベルティアーデに参加するようになり、それによってシューベルト周辺に関する多くの絵画やスケッチが残されることになった。
ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー(1796-1880)によるシューベルトの肖像画(1825、水彩)。ある日画家が突然の土砂降りに遭い雨宿りをした家にたまたまシューベルトが住んでいて、そのときスケッチして仕上げたもの、という伝説がある。右下にはシューベルト自身の署名と、その下に画家の筆跡で「1828年11月19日に死去」と記されている。この水彩を元に50年後、79歳のリーダーが完成させた立派な油彩画はシューベルトの最も有名な肖像画となり、今も音楽の教科書を飾っている。クーペルヴィーザーらが描いたシューベルトに比べるといずれもずいぶん美化されており、リーダーにとって1歳年下のシューベルトが「崇拝すべき相手」だったことが窺える。 彼らとシューベルトの接点と思われるのが、他ならぬ
フランツ・フォン・ショーバー である。ステブリンは「狂騒の記録」にたびたび登場する「Quanti Verdradi」(完全にごちゃ混ぜ)というコードネームの人物をショーバーと特定した。美術指向が強かったショーバーが、画家の面々と懇意だったとしてもまったく不思議はない。
現存する『狂騒クラブ』の会員名簿にはショーバーの名前も、シューベルトの名前もないが、彼らが中心的な役割を担っていた状況証拠は揃っている。もしかしたら、貴族のショーバーやコンヴィクト出のエリートであるシューベルトの名は意図的に隠されていたのかもしれないし、他にも名簿から漏れているメンバーが相当数いるのかもしれない。
『狂騒クラブ』のバンカラな連中は、インテリエリートのコンヴィクト組とは異質のカルチャーをシューベルティアーデにもたらすことになった。
ブルク劇場の俳優として活躍したハインリヒ・アンシュッツ(1785-1865)は、後年このように述べている。
カトリックの国では人はクリスマスに何の注意も払わない。この(1821年の)クリスマスが忘れがたいのは、シューベルトが初めて我が家を訪れたからだ。フランツ・シューベルトはかつてのUnsinnsgesellschaft(狂騒クラブ)で最も活発なメンバーのひとりだった。弟たちはそこで何年も彼と仲良くしていたので、その縁で我が家に来てくれたのだ。 ドイチュ編の「回想録集」にも採用されているこの証言を読めば、シューベルトが『狂騒クラブ』の中心メンバーだったことはもう疑い得ないのだが、ドイチュはこのUnsinnsgesellschaftを固有の団体名とは考えず、別の結社
『ルドラムの洞窟』 を指していると推定してしまった。しかも「この団体にシューベルトが所属したことはない」と注釈しており、早速アンシュッツの証言と齟齬を来している。
『ルドラムの洞窟』 は、1819年に劇作家のイグナーツ・フランツ・カステッリとアウグスト・フォン・ギュムニヒが中心となって発足した文芸サークルである。入会にあたっては独特の試問や儀式が課され、合格すると「ルドラム・ネーム」というコードネームと記念の歌を授けられるという、
秘密結社 的な性格が強いものだった。『ルドラムの洞窟』はウィーンの文化人たち、具体的には文学者、音楽家、俳優らの交流の場となり、作曲家では
サリエリ (ルドラムの歌を多数作曲した)、モシェレス、カール・マリア・フォン・ヴェーバー、文学者のレルシュタープやリュッケルトといったビッグネームから、シューベルトの周囲にいたアスマイヤー(作曲家)、前述のアンシュッツ(俳優)やクーペルヴィーザー(画家)、グリルパルツァーやザイドル(詩人)などもメンバーに名を連ねている。こうした面々を見れば、確かに『ルドラムの洞窟』もまたシューベルティアーデの前身のひとつといえるだろう。
しかし当時は、こうしたサークルがおおっぴらに活動できる状況ではなかった。宰相メッテルニヒによる保守体制が敷かれたウィーンでは、自由主義思想に繋がりかねない言論や結社は厳しく取り締まられ、この状況はウィーン会議後の1814年から1848年の三月革命まで続いた。だから結社の構成員たちはコードネームで素性を隠匿し、立場のある者は会員名簿に名を連ねなかったのだ。
『ルドラムの洞窟』はそもそも政治運動を目的としていたわけではなかったが、それでも1826年4月18日の夜に「国家反乱罪」で警察に一斉検挙され解散を命じられた。
ビーダーマイヤー期のウィーンには、こうしたいくつものサークルが生まれては消えていった。シューベルティアーデは、1820年のゼンの逮捕・国外追放などの危機がありながらも、比較的長い命脈を保ったグループだったといえるだろう。それも1828年のシューベルトの死によって終わりを告げた。
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2022/09/26(月) 23:30:09 |
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モーリツ・フォン・シュヴィントが1868年に描いた「シュパウン邸でのシューベルティアーデ」の図。シューベルティアーデの主要メンバーが全員揃っていて、これはさすがに「盛った」想像図と思われる。 シューベルティアーデ について、「シューベルトが自宅に友人たちを招いて催した音楽会のこと」という注釈をしばしば見かけるのだが、この説明は私の知る限り正しくない。シューベルトが、友人たちを招けるような空間のある「自宅」に暮らしていたことなど、おそらく一度もない。そもそも人生のほとんどを居候や共同生活で乗り切ってきたのがシューベルトである。
1815年から24年までのシューベルティアーデの大部分は、パトロンで宮廷官吏の
イグナーツ・フォン・ゾンライトナー の邸宅の大広間で開催されたと伝えられる。シュパウンやショーバーら裕福な友人たちも自宅のサロンを提供し、時には
郊外のアッツェンブルック城まで遠征 して開催することもあった。
しかし「シューベルティアーデ」はそうしたイヴェントの名称というより、むしろそこに集う仲間たちから構成される
「サークル」の名前 と解釈した方が適切に思える。
時にこの集まりは、
「カネヴァスCanevasの集い」 の別名で呼ばれた。カネヴァスとは"Kann er was?"、つまり「彼には何ができるの?」という疑問文の口語形。新入りを紹介されると、シューベルトはまずこの問いを投げかけたという。ある者は詩を作り、ある者は絵を描き、そんな才能のない者は会場を提供したりして、シューベルトとサークルの皆に何らかの形で貢献できる人だけが入会を許された。
シューベルティアーデは、単なるシューベルトのファンの集いではないのだ。 このような内輪の集まりを創作活動のベースにしていた作曲家は、少なくとも大作曲家の中ではシューベルト以外には見当たらない。シューベルトの音楽の特異性のいくつかは、この特殊な集団の内部で活動が完結していたことから説明できる。膨大な歌曲、その多くが友人たちの詩によるものであること、また自作の歌曲の主題による器楽変奏曲を多く手がけたこと、これらはシューベルティアーデの仲間たちの好みや趣味を反映したものだったのだろう。そもそも、隣に寄り添う人だけにそっと語りかけるような、共感を前提にしたプライベートな音楽はこの環境なくしては生まれなかったに違いない。
しかし別の見方をすれば、シューベルトがあまりにも若くして死んでしまったことを考えざるを得ない。事実、晩年には当時随一の新進作曲家として、その名は外国にも知れ渡っていた。あと10年、20年と長生きしていたら、友人たちの輪から大きく羽ばたいて、大交響曲を次々に発表したり、オペラの注文が殺到するような人気作曲家になっていたかもしれない。そして、「あのシューベルトは若い頃は仲間内でこんな歌曲を書いたりしていたのだよ」などと語り草になったかもしれない。仲間たちが願ったような大成を遂げるには、31年10ヶ月という人生は短すぎた。
シューベルティアーデの中核メンバーは大きく2つのグループに分けられる。ひとつはシュパウン、シュタットラー、ゼン、ホルツアプフェル、ヒュッテンブレンナーといった
コンヴィクト (シューベルトが11歳から16歳まで通った帝室寄宿学校)時代の仲間たちで、もうひとつはレオポルト・クーペルヴィーザー、モーリツ・フォン・シュヴィント、有名な肖像画を描いたヴィルヘルム・アウグスト・リーダーといったウィーンの
画家 のグループである。それぞれのメンバーが友人知人を招待して、シューベルティアーデはどんどん拡大していった。
グラーツ生まれの作曲家
アンゼルム・ヒュッテンブレンナー はコンヴィクト出身ではないが、サリエリ門下の同輩という意味ではティーンエイジャー時代からの仲間である。その弟
ヨーゼフ や、同じくシュタイアーマルク出身の作曲家
ヨハン・バプティスト・イェンガー もシューベルティアーデで大きな役割を担い、
1827年のグラーツ旅行 のきっかけにもなった。
シュパウン をはじめとするコンヴィクト組はリンツやシュタイアーなど
オーバーエスターライヒの地方貴族の子弟 で(だからウィーンの全寮制のコンヴィクトにこどもが単身でやってきたのだ)、長じて法律を修め
公務員 になった者が多い。シューベルトが
たびたびオーバーエスターライヒに演奏旅行に出かけた のは彼らの地縁があったという理由も大きい。
彼らは知的階級に属する
「インテリ」 である。総じて
文学 への造詣が深く、その繋がりから詩人の
マイアホーファー 、劇作家の
バウエルンフェルト といった面々がやがてシューベルティアーデに加わっていく。前述のゾンライトナーの息子
レオポルト や、その従兄弟である詩人
グリルパルツァー もウィーン文芸界のエリートたちだ。
シュパウンの紹介で親交を結んだ重要人物が
フランツ・フォン・ショーバー である。スウェーデン出身の貴族だが、少年期をオーバーエスターライヒで過ごす間にシュパウン一族と親しくなり、1815年にウィーンに進出してシューベルティアーデの一員となった。コネクションを駆使して
大歌手フォーグル をシューベルトに引き合わせた のはショーバーの最大の功績といえる。また歌曲『音楽に寄す』等の詩や、オペラの台本を手がけたことから詩人と称されることも多いが、絵画や石版画にも手を染める多才な人物だった。
官吏として働きながら余暇に創作活動に勤しんでいたコンヴィクト組と比べると、ショーバーは同じようなディレッタントでありながら定職に就かずふらふらと遊び暮らしていたところに決定的な違いがある。そのくらい経済的に余裕があったということなのかもしれない。
一方で金がなくとも芸術に人生を捧げようという若者たちもいた。他ならぬシューベルト自身がそうだったし、シューベルティアーデに参加した
画家の一派 もそんな無頼な若者たちだった。彼らの話題は次の記事で触れよう。
2022/09/25(日) 22:44:23 |
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1824年5月7日、音楽史に残る一大イヴェントがウィーン・ケルントナートーア劇場で行われた。
ベートーヴェンの「交響曲第9番」(いわゆる『第九』)の初演 である。完全に聴力を失っていた作曲者は、それでも10年ぶりの交響曲の初演の指揮台に立ち、実際に演奏を取り仕切るミヒャエル・ウムラウフにテンポの指示を与えたという。演奏終了後、背後の聴衆の反応がわからずステージ上で立ち尽くすベートーヴェンに、アルトソロの歌手が近づき、喝采する聴衆を「見せた」というエピソードはあまりにも有名である。
ウィーン楽壇の大事件だったこの『第九』初演を、ウィーンに住むシューベルトが知らなかったはずはない。果たして彼はこの歴史的瞬間に居合わせたのだろうか?
普通に考えれば聴きに行ったはずだ。崇拝してやまないベートーヴェンの新作初演、何を措いても駆けつけただろう。
終演後にベートーヴェンの手を取って後ろを振り向かせた21歳のアルト歌手
カロリーネ・ウンガー も知己だった。
3年前に彼女のオペラデビューのコレペティトーアを務めた 縁もあり(もっとも毎回稽古に遅刻するシューベルトは劇場関係者の不評を買うことになるのだが)、
彼女の父親はツェリスのエステルハーツィ家の音楽教師の職を紹介してくれた恩人 でもある。ちなみにカロリーネは若くしてなかなかのやり手だったらしく、『第九』のウィーン初演に尻込みをするベートーヴェンを焚き付け、この大興行を実現させた陰の功労者だったことが会話帳の書き込みからわかっている。歴史に名を刻んだあの行動も、もしかしたら巨匠と示し合わせてちょっとした芝居を打ったのではと思えなくもない。オペラ歌手ならそのくらい朝飯前だろう。
ところが、
シューベルトが『第九』初演を聴いたという記録は何も残っていない のだ。聴いていたら、きっとはしゃいで友人たちに触れ回ったり、手紙を書きまくったりするだろうに(最晩年にパガニーニの演奏を2回も聴きに行ったことはよく知られている)、そういう資料も証言も残されていない。
実は、1824年4月・5月のシューベルトの足跡はほとんどわかっていないのだ。前年から続く体調不良は一進一退だったようで、たとえウィーンにいたとしても演奏会に行けるような健康状態ではなかったのかもしれない。
4月半ばの友人たちの報告には、
シューベルトはあまり良い体調ではない。左腕に痛みがあって、全然ピアノが弾けないんだ。それを除けば、機嫌は良さそうだ。 (1824年4月15日、シュヴィントからショーバーに宛てて)
とある。
遡って3月31日に、シューベルトはローマのクーペルヴィーザーに手紙を書いている。自らの病状を悲観し、「糸を紡ぐグレートヒェン」の冒頭の歌詞を引用して
「『私の安らぎは去った、私の心は重い。私はそれを、もう二度と、二度と見出すことはない』、そう今僕は毎日歌いたい。毎晩床に就くときは、もう二度と目覚めることがないように祈り、朝になると昨日の苦悩だけが思い出される」という憂鬱な文章 はよく知られているが、実はこの手紙に書かれているのはそんな愚痴ばかりではない。
歌曲では新しいものはあまり作っていないが、その代わり器楽ものはずいぶん試してみた。2つの弦楽四重奏曲と八重奏曲を作曲し、四重奏をもう1曲書こうと思っている。この方向で、なんとか大交響曲への道を切り開きたいと思うんだ。―ウィーンのニュースといえば、ベートーヴェンが演奏会を開いて、そこで新しい交響曲と、新しいミサ曲からの3曲と、新しい序曲をかけるということだ。―できることなら、近い将来僕も同じようなコンサートを開きたいと思っている。(中略)5月の初めにはエステルハーツィと一緒にハンガリーに行くので、そうなると僕の住所はザウアー&ライデスドルフ社気付ということになる。 (1824年3月31日、シューベルトからクーペルヴィーザーに宛てて)
シューベルトが『第九』初演を事前に知っていたことがちゃんと書かれている。なんと、巨匠のこのイヴェントに触発されて、「個展」を開催する気になったわけだ。自分の作品だけを集めた演奏会は、それから4年後の1828年、ベートーヴェンの一周忌にあたる3月26日に楽友協会でようやく開催されたが、その8ヶ月後に帰らぬ人となるシューベルトにとってはそれが生涯で唯一の機会になる。
ところが、手紙にあるように5月の初めにツェリスへ旅立ったとすると、5月7日の『第九』初演時には既にウィーンにいなかった可能性がある。1824年春、ウィーンでのシューベルトの最後の足跡は、4月に男声4部のための「サルヴェ・レジナ」D811を書き上げているのみだ。ドイチュはウィーン出立の日を5月25日前後と推察しており、多くの伝記がそれに倣って「5月末頃にウィーンを発ちツェリスへ」と書いているが、その確かな根拠はない。もしドイチュ説を採るならば、5月23日にレドゥーテンザールで行われた『第九』の再演に立ち合った可能性すらある。ちなみに再演は散々な失敗だったと伝えられる。
6月末に両親がシューベルトに書いた手紙には
5月31日付のお前の手紙を6月3日に受け取った。お前が健康であること、伯爵の館に無事到着したことを知って嬉しく思っている。 (1824年6月末、父フランツ/継母アンナからフランツ・シューベルトに宛てて)
とある。この5月31日付の手紙は行方不明だが、その時点でシューベルトがツェリスに到着していたことは確実のようだ。
そういうわけで資料的な裏付けは何もないのだが、私は
シューベルトは確かに『第九』をリアルタイムで聴いたはずだ と考えている。なぜなら1826年出版の
「フランス風の主題によるディヴェルティメント」D823 の中に、『第九』がこだましているのが聴き取れるからだ。
「ディヴェルティメント」第1楽章の第2主題後半、この情緒的な旋律線はどこかで聴いたことがあると思っていた。
記憶をたどってようやく思い当たった。『第九』の第2楽章スケルツォである。
そう考えると、妙に符合するところがいくつかある。「ディヴェルティメント」第2楽章「アンダンティーノ・ヴァリエ」の第2変奏と、『第九』スケルツォ主部のスタッカートの音型。
「アンダンティーノ・ヴァリエ」第4変奏と、『第九』第3楽章の再現部。
音型そのものが酷似しているというわけではないが、全体の拍子感やメロディーが6連符で細かく装飾されるさまはとてもよく似ている。
『第九』の楽譜出版は1826年8月で、「ディヴェルティメント」第1楽章の出版はその2ヶ月前なので、楽譜で読んで影響を受けた、ということはない。1824年5月の2度の『第九』の実演のどちらかに接し、その記憶が「ディヴェルティメント」の中に表出したのではないだろうか。
とはいえ、たまたま似ただけ、といわれればそれまでの話ではある。
2020/12/06(日) 21:13:15 |
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1828年9月、シューベルトはしばらく暮らしていた市中心部のショーバーの家を出て、兄フェルディナントの住まいに引っ越す。彼はこの頃、持病の頭痛とめまいに加え、食欲不振にも悩まされていた。兄の新居は少し郊外のヴィーデン地区にあり、その新鮮な空気が体調に良い影響を与えるだろうと、医者に勧められたのである。この家は現在のウィーン4区・Kettenbrückengasseにあり、「シューベルトの最期の家」として公開されている。
4区・ケッテンブリュッケンガッセにある「シューベルトの最期の家」 シューベルトは死去する11月19日までの間、「冬の旅」の校訂などを行いながらほとんど床に伏せっていたというイメージで語られるが、実は10月の初め、シューベルトはフェルディナントとその他2人の友人とともに、徒歩でブルゲンラント州の
アイゼンシュタット へ出かけている。
ウィーンと、やや南方に位置するアイゼンシュタット アイゼンシュタットはエステルハーツィ家の本拠地であり、ハイドンが同家に仕えて長年暮らしたことでも知られる。そのハイドンの墓所に参ったほか、行き帰りでは当時ハンガリー領だったブルゲンラントや、ニーダーエスターライヒ州内の街々にも立ち寄ったという。
この3日間の小旅行についてはただフェルディナントの証言があるのみで、詳しいことはほとんどわかっていない。
それにしても、常識的に考えて驚くべきことである。瀕死の病人が、ウィーンからアイゼンシュタットまで24kmもの道のりを徒歩で行き帰りできるものなのだろうか。
そう考えると、少なくともこの時点ではシューベルトは死に至るような病状ではなく、それなりの体力が残っていたと推測するのが自然だろう。
病状がいよいよ重篤になるのは10月31日以降のことで、それから3週間も経たずにシューベルトは最期の時を迎えたのである。おそらく本人を含め周りの誰もが、彼がこれほど速やかに死に向かうとは想像していなかったに違いない。
2018/04/17(火) 08:31:09 |
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シューベルトがグラーツの「シュタイアーマルク楽友協会」の名誉会員に推挙されたのは、1823年の春のことだった。ウィーンよりも早くグラーツでこのような名誉を受けたのは、ひとえに協会の会長が同門の作曲家
アンゼルム・ヒュッテンブレンナー であったためだろう。その返礼として「未完成交響曲」D759が贈られたが、ヒュッテンブレンナーはそれを私蔵し、シューベルトの死後40年近く公表しなかったという話はよく知られている。
シューベルトは名誉表彰を受けるためにグラーツには行かなかったし、その後も長い間グラーツのアンゼルムに会いに行こうとはしなかった。
ところがシューベルト30歳の年に、突然グラーツ行きの話が持ち上がったのである。
ウィーンと、その200kmほど南南西に位置するオーストリア第2の都市グラーツ シューベルトをグラーツに招いたのは、
マリー・パハラー Marie Pachler (1794-1855)という女性だった。彼女はピアニストで、弁護士で音楽愛好家の夫カール Karl Pachler (1789-1850)とともにグラーツの音楽界では有名な存在だった。マリー夫人のピアノの腕前は確かなもので、ベートーヴェンに「私の作品をあなたほど見事に演奏してくれる人に出会ったことはない」と激賞されたほどだった。
夫妻は崇拝するベートーヴェンを何とか自宅に招こうと企んでいたが、1827年3月に巨匠が死去したため、この計画は果たせなかった。そこで代わりに誰かウィーンの高名な作曲家をということで、シューベルトに白羽の矢が立ったのだった。
仲介の労を執ったのは官僚でピアニストでもあった
ヨハン・バプティスト・イェンガー Johann Baptist Jenger (1792-1856)で、彼は1823年のシュタイアーマルク楽友協会のときの功労者でもあった。
尊敬する令夫人! 友人イェンガーを通してお寄せ下さったご招待に対し、私のような者が果たしてご厚意に値するものであるか、またどのようにして報いることができるのかわかりません。しかし、名高いグラーツの街をついに見ることのできる喜び、それ以上に奥様とお近づきになる名誉を思うと、ご招待をお受けしないわけには参りません。 最高の敬意を持って 忠実なるしもべ フランツ・シューベルト (6月12日、シューベルトからパハラー夫人に宛てて)
シューベルトとイェンガーは、9月2日に馬車でウィーンを発ち、1日がかりでグラーツに到着して、パハラー家の歓迎を受けた。
到着の数日後にはグラーツの大劇場でシュタイアーマルク楽友協会主催の慈善演奏会があり、シューベルトも自作の合唱曲・重唱曲の伴奏者としてステージに現れた。パハラー邸での数度にわたるシューベルティアーデのほか、郊外のヴィルトバッハ城やハラー城でも催しが開かれ、グラーツの人々とすっかり仲良くなった。アンゼルム・ヒュッテンブレンナーとも再会を果たしたと伝えられている。
グラーツ郊外のハラー城 シューベルトはパハラー邸で、
昔のオペラ「アルフォンソとエストレッラ」 の一部をピアノで演奏してみせ、パハラー氏や劇場監督のヨーゼフ・キンスキーに上演を働きかけた。彼らも乗り気になり、シューベルトがウィーンへ戻ったら台本と総譜を送るという約束になった。
イェンガーとシューベルトは9月20日にグラーツを離れ、来たときとは別のルートを通ってウィーンへの帰途に就いた。途中フュルステンフェルト、ハルトベルク、フリートベルク、シュラインツなどの街を経由し、それぞれの名所をたっぷり見て回って、4日後にウィーンに到着した。
それから3日後、シューベルトはパハラー夫人に親密な礼状をしたためた。
令夫人様! グラーツがあまりにも居心地が良かったので、ウィーンがまだ頭に入らないでいます。もちろんウィーンは少しばかり都会ではありますが、優しい心、率直さ、実のある思考、理性ある言葉、何より精神性溢れる行動というものにいささか欠けています。利口なのか馬鹿なのかわからなくなるほど、いろんなことをごちゃごちゃとしゃべって、それでいて心が朗らかになることは滅多にありません。もっとも私が人と打ち解けるのに時間がかかるせいかもしれませんが。 グラーツでは、人と交わる自然で率直な方法がすぐにわかりました。もっと長くいられたら、もっと溶け込めただろうにと思います。特に決して忘れることができないのは、親愛なる奥様、力強いパハレロス氏、そして小さいファウスト君のいる心温まる宿のことです。これほど満ち足りた日々を過ごしたことは、長い間ありませんでした。私の感謝の気持ちを、しかるべき形で表明させていただきたく筆を執りました。 あなたを尊敬する フランツ・シューベルト 追伸 オペラの台本は、2,3日中にお送りできると思います。 (9月27日、シューベルトからパハラー夫人に宛てて)
「パハレロス氏」というのは一家の主カールのことだが、おそらく屈強な彼をギリシャ神話の登場人物にでも喩えたのだろう。そういえば、ずんぐりむっくりのシューベルトが「シュヴァンメル」(きのこ)という渾名を賜ったのはグラーツ滞在中の宴席でと伝えられているので、「パハレロス」もそうした遊びの一環だったのかもしれない。
シューベルトは夫人の求めに応じ、当時7歳だった長男ファウスト君のために連弾曲「こどもの行進曲」D928を作曲し、グラーツに送った。
グラーツでの忙しい日々の間にも、数曲の歌曲が書き上げられた。翌年の初めに出版された舞曲
「12のグラーツのワルツ」D924、「グラーツのギャロップ」D925 も、この滞在中の舞踏会の折に作曲されたものと考えられている。
シューベルトにとって最後の長い旅行となったグラーツ行きは、とても楽しく充実した旅だった。
ウィーンに戻るとシューベルトは再び体調が悪化しはじめ、もっと残念なことに、グラーツでのオペラの上演計画は翌年に頓挫してしまった。
2018/04/16(月) 16:07:45 |
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