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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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ベートーヴェンとシューベルト

狭いウィーンの街とはいえ、大貴族をパトロンとし人々の尊敬を集めたベートーヴェンと、友人たちの閉じられたサークルで細々と創作活動を行っていただけのシューベルトとの間に、具体的な接触があったのかどうかははっきりしていない。
「ベートーヴェンの後に生まれた者に、何ができるというのだろう…」
という嘆息混じりの台詞を後世に伝えたのはコンヴィクト時代の親友シュパウンだが、本当にそのような言葉を吐いたかどうかはともかく、少年時代のシューベルトの偽らざる心境であったことは間違いないだろう。
47歳年上の老師サリエリに比べて、26歳差(1770年12月生まれのベートーヴェンと1797年1月生まれのシューベルトはほぼ26歳の差といってよいだろう)のベートーヴェンはシューベルトにとってもっと近しい、「父親世代」ロールモデルだったに違いない。その圧倒的な創作力と影響力に、限りない尊敬と畏怖と、そしていくぶんの煙たさを感じていたのは想像に難くない。

二人の数少ない接点といえるのは、シューベルトがピアノ4手のための『フランスの歌による変奏曲』D624を、出版に際してベートーヴェンに献呈していることだ。とはいえこのときに作曲家同士の直接のやりとりがあったかどうかは定かではない。これに関連して、「ある日シューベルトがベートーヴェンを訪ね、自作の変奏曲の筆写譜をおずおずと差し出したが、ベートーヴェンは作曲上のいくつかの誤りを発見して指摘し、シューベルトは恐れ入って逃げるように帰っていった」というエピソードが時折伝記に登場する。これはベートーヴェンの“無給の秘書”シントラーが語ったエピソードで、他のシントラー証言と同様に信憑性は限りなく低い。晩年のベートーヴェンがシューベルトの歌曲集の譜面を見て「シューベルトには神々の火花が宿っている」と評した(「神々の火花」といえば『第九』のテキストに出てくる言葉だ)とか、病床のベートーヴェンをシューベルトが見舞ったとかいう逸話も、「こうだったらいいな」という後世の願望が反映されたもの、と考えるのが適当かもしれない。

ベートーヴェンがシューベルトをどうみていたかはわからないが、シューベルトはたびたび友人宛の手紙でベートーヴェンについて言及している。

歌曲では新しいものはあまり作っていないが、その代わり器楽ものはずいぶん試してみた。2つの弦楽四重奏曲と八重奏曲を作曲し、四重奏をもう1曲書こうと思っている。この方向で、なんとか大交響曲への道を切り開きたいと思うんだ。―ウィーンのニュースといえば、ベートーヴェンが演奏会を開いて、そこで新しい交響曲と、新しいミサ曲からの3曲と、新しい序曲をかけるということだ。―できることなら、近い将来僕も同じようなコンサートを開きたいと思っている。
(1824年3月31日、シューベルトからローマ滞在中の友人クーペルヴィーザーに宛てて)

ここには、偉大な先達の影に嘆息するだけではない、意欲的で野心に溢れた若者の姿がある。そして宣言した通り、翌年夏のオーバーエスターライヒ大旅行の間に「大交響曲」に着手することになる(この「グムンデン=ガスタイン交響曲」は、現在ではD944の大ハ長調『グレート』と同一視する説が有力だ)。

 * * *

巨匠は1827年3月26日、嵐の晩に力尽きた。3日後の葬儀でその棺を担いだシューベルトは、いよいよベートーヴェンの後継者として名乗りを上げようとする。
それまでシューベルトが主要な器楽曲の調性としてはほとんど選ぶことがなかった「ハ短調」。ところが1827年を境に、堰を切ったようにハ短調の鍵盤楽曲が増えていく。それはあの『運命』交響曲や、最後の作品111を含む3つのピアノ・ソナタ(作品10-1、作品13『悲愴』)でベートーヴェンが用いた調性でもあった。いくつかの試作の後、ハ短調→ハ長調というベートーヴェン的な調性配置を持つ即興曲D899-1が完成し、そして最晩年のソナタD958へと結実する。それは音楽上の「父」ベートーヴェンへのオマージュであり、その高い壁をついに突破する記念碑的な作品であった。

友人に宣言したもう一つの目標、ベートーヴェンと「同じようなコンサート」はその一周忌の命日に実現する。1828年3月26日、楽友協会ホールにおいて、全曲シューベルト作曲による個展演奏会が開催された。D929のピアノ・トリオをプログラムの中心に据えた当夜は大評判となり、シューベルトは名実ともにウィーンにおけるベートーヴェンの後継者として認知されたのだった。
しかしシューベルトの個展はそれが最初で最後だった。8ヶ月後、シューベルトは31歳10ヶ月というあまりにも短い人生を終える。病床で熱に喘ぎながら口にした「ここにはベートーヴェンが眠っていない」といううわごとを聞いた次兄フェルディナントの尽力により、亡骸はヴェーリング墓地のベートーヴェンの墓の隣に改葬された。中央墓地に移転された今でも、ベートーヴェンとシューベルトの墓は名誉区32Aの中央に並びその威容を誇っている。
ベートーヴェンの葬儀を終えて、「この中で最初にベートーヴェンに続く者に乾杯」と声を上げたシューベルト。それは図らずも自分への餞の言葉になった。

ベートーヴェン・シューベルトの墓
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  1. 2023/10/21(土) 23:14:36|
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『狂騒クラブ』、知られざるシューベルティアーデの前身

(承前)

シューベルティアーデの前身として、近年発掘され注目されているのがUnsinnsgesellschaftである。和訳すれば『ナンセンス協会』または『狂騒クラブ』(訳©堀朋平)といった意味になる。
このグループの解明は、カナダ出身の学者リタ・ステブリン(1951-2019)が独力で成し遂げ、著書「Die Unsinnsgesellschaft」(1998)にまとめられた。
メンバーたちはUnsinniadenと自称している。Unsinn「無意味」に接尾辞-iade(n)が付いたもの、「無意味愛好者」「ナンセンス主義者」。Schubert-iade(シューベルト主義者、シューベルト党員)の語構成と似通っている。構成員たちはコードネームで呼び合い、たとえば中心メンバーのアンシュッツAnschütz (Anschuetz)兄弟はシュナウツェSchnautze(鼻)と号している。アナグラム(文字の入れ換え)で作られた二つ名である。これはまだわかりやすいが、レオポルト・クーペルヴィーザーのDamian Klexなどはもはやどういう由来なのかよくわからない。
彼らの活動の痕跡として残されているものは、1817年4月から1818年12月にかけて週刊で制作・発行された同人誌で、「人間の狂騒の記録」と題されている。全体のおよそ3分の1にあたる29点が散逸を免れウィーン市立図書館に収蔵された。

紙面を満たすのは不思議な図像や文章たちだ。たとえば1818年8月13日の日付を持つある記事を引用しよう:

スペインからの報告によると、異端審問所は黒魔術に没頭した罪状で著名な画家フアン・デ・ラ・チンバラを逮捕した。彼は逮捕される前に魔術によってひどい火傷を負ったということで、無事の生還が望まれる。

一見デタラメかつ意味不明な内容だが、この時期シューベルトは人生で初めてウィーンを離れハンガリーのツェリスに出かけていて、そのことをネタにした記事だとステブリンは推測する。チンバラはツィンバロンやシンバルといった楽器を連想させる名前であり、作曲家を画家に、ハンガリー(ヨーロッパの東端)をスペイン(ヨーロッパの西端)に置き換えたというわけだ。そしてスペインといえば異端審問、異端審問といえば火あぶりというのはもう枕詞のようなものである。
このように、仲間内だけで通じる隠語や言い換えを駆使した言葉遊びが展開されており、その作法を知らない部外者には「無意味」にしか思えないのだが、時にはそれが下ネタや醜聞の隠れ蓑になることもあったようだ。
例えば、こちらは1818年7月16日付で、近年よく見かけるようになった「万華鏡と自転車」のイラストである。
万華鏡と自転車
クーペルヴィーザーによる水彩で、万華鏡を手にした肥った男は見るからにシューベルトであろう。そこへ自転車で突っ込んでいるのはクーペルヴィーザー自身だ。E・アンシュッツによる注釈には

最近発明された万華鏡や自転車は危険。夢中で万華鏡を覗きながら道を歩いていると自転車に轢かれるぞ

などとあり、数号あとの記事にはこれを引いてG・アンシュッツが

万華鏡を覗くと道行く人の服が透けて見えるらしい。グラーベンを歩くのが好きな若い男には最適

J・クーペルヴィーザーは

万華鏡は目だけではなく鼻にも悪影響がある

と警鐘を鳴らす。
最新のトレンドを題材にしたナンセンスなジョークのようだが、深読みすればグラーベン(ウィーン中心部の目抜き通り)は当時売春窟として知られており、そんなところをうろうろしていると梅毒にかかって鼻を失うぞ、という警告とも受け取れる。
シューベルトが25歳頃に梅毒を発症したことは現在では周知の事実である。過去にはツェリスの館のメイドから伝染されたという説もあったが、ステブリンはこの記事をもとに、シューベルトが若い頃売春街通いをしていたことは友人たちの間では公然の秘密で、それが感染源に違いない、と論じて話題を呼んだ。

『狂騒クラブ』のメンバーの多くはウィーン人の画家の卵たちだった。後のシューベルティアーデの中核に残ったのはレオポルト・クーペルヴィーザーとその兄弟だけだが、ウィーン美術アカデミーを拠点とする彼らのネットワークの中から、より年下の世代のシュヴィントやリーダーがシューベルティアーデに参加するようになり、それによってシューベルト周辺に関する多くの絵画やスケッチが残されることになった。
シューベルト・リーダー水彩画1825
ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー(1796-1880)によるシューベルトの肖像画(1825、水彩)。ある日画家が突然の土砂降りに遭い雨宿りをした家にたまたまシューベルトが住んでいて、そのときスケッチして仕上げたもの、という伝説がある。右下にはシューベルト自身の署名と、その下に画家の筆跡で「1828年11月19日に死去」と記されている。この水彩を元に50年後、79歳のリーダーが完成させた立派な油彩画はシューベルトの最も有名な肖像画となり、今も音楽の教科書を飾っている。クーペルヴィーザーらが描いたシューベルトに比べるといずれもずいぶん美化されており、リーダーにとって1歳年下のシューベルトが「崇拝すべき相手」だったことが窺える。

彼らとシューベルトの接点と思われるのが、他ならぬフランツ・フォン・ショーバーである。ステブリンは「狂騒の記録」にたびたび登場する「Quanti Verdradi」(完全にごちゃ混ぜ)というコードネームの人物をショーバーと特定した。美術指向が強かったショーバーが、画家の面々と懇意だったとしてもまったく不思議はない。
現存する『狂騒クラブ』の会員名簿にはショーバーの名前も、シューベルトの名前もないが、彼らが中心的な役割を担っていた状況証拠は揃っている。もしかしたら、貴族のショーバーやコンヴィクト出のエリートであるシューベルトの名は意図的に隠されていたのかもしれないし、他にも名簿から漏れているメンバーが相当数いるのかもしれない。
『狂騒クラブ』のバンカラな連中は、インテリエリートのコンヴィクト組とは異質のカルチャーをシューベルティアーデにもたらすことになった。

ブルク劇場の俳優として活躍したハインリヒ・アンシュッツ(1785-1865)は、後年このように述べている。

カトリックの国では人はクリスマスに何の注意も払わない。この(1821年の)クリスマスが忘れがたいのは、シューベルトが初めて我が家を訪れたからだ。フランツ・シューベルトはかつてのUnsinnsgesellschaft(狂騒クラブ)で最も活発なメンバーのひとりだった。弟たちはそこで何年も彼と仲良くしていたので、その縁で我が家に来てくれたのだ。

ドイチュ編の「回想録集」にも採用されているこの証言を読めば、シューベルトが『狂騒クラブ』の中心メンバーだったことはもう疑い得ないのだが、ドイチュはこのUnsinnsgesellschaftを固有の団体名とは考えず、別の結社『ルドラムの洞窟』を指していると推定してしまった。しかも「この団体にシューベルトが所属したことはない」と注釈しており、早速アンシュッツの証言と齟齬を来している。
『ルドラムの洞窟』は、1819年に劇作家のイグナーツ・フランツ・カステッリとアウグスト・フォン・ギュムニヒが中心となって発足した文芸サークルである。入会にあたっては独特の試問や儀式が課され、合格すると「ルドラム・ネーム」というコードネームと記念の歌を授けられるという、秘密結社的な性格が強いものだった。『ルドラムの洞窟』はウィーンの文化人たち、具体的には文学者、音楽家、俳優らの交流の場となり、作曲家ではサリエリ(ルドラムの歌を多数作曲した)、モシェレス、カール・マリア・フォン・ヴェーバー、文学者のレルシュタープやリュッケルトといったビッグネームから、シューベルトの周囲にいたアスマイヤー(作曲家)、前述のアンシュッツ(俳優)やクーペルヴィーザー(画家)、グリルパルツァーやザイドル(詩人)などもメンバーに名を連ねている。こうした面々を見れば、確かに『ルドラムの洞窟』もまたシューベルティアーデの前身のひとつといえるだろう。

しかし当時は、こうしたサークルがおおっぴらに活動できる状況ではなかった。宰相メッテルニヒによる保守体制が敷かれたウィーンでは、自由主義思想に繋がりかねない言論や結社は厳しく取り締まられ、この状況はウィーン会議後の1814年から1848年の三月革命まで続いた。だから結社の構成員たちはコードネームで素性を隠匿し、立場のある者は会員名簿に名を連ねなかったのだ。
『ルドラムの洞窟』はそもそも政治運動を目的としていたわけではなかったが、それでも1826年4月18日の夜に「国家反乱罪」で警察に一斉検挙され解散を命じられた。

ビーダーマイヤー期のウィーンには、こうしたいくつものサークルが生まれては消えていった。シューベルティアーデは、1820年のゼンの逮捕・国外追放などの危機がありながらも、比較的長い命脈を保ったグループだったといえるだろう。それも1828年のシューベルトの死によって終わりを告げた。
  1. 2022/09/26(月) 23:30:09|
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「シューベルティアーデ」とコンヴィクトの仲間たち

Schubertiade
モーリツ・フォン・シュヴィントが1868年に描いた「シュパウン邸でのシューベルティアーデ」の図。シューベルティアーデの主要メンバーが全員揃っていて、これはさすがに「盛った」想像図と思われる。

シューベルティアーデについて、「シューベルトが自宅に友人たちを招いて催した音楽会のこと」という注釈をしばしば見かけるのだが、この説明は私の知る限り正しくない。シューベルトが、友人たちを招けるような空間のある「自宅」に暮らしていたことなど、おそらく一度もない。そもそも人生のほとんどを居候や共同生活で乗り切ってきたのがシューベルトである。
1815年から24年までのシューベルティアーデの大部分は、パトロンで宮廷官吏のイグナーツ・フォン・ゾンライトナーの邸宅の大広間で開催されたと伝えられる。シュパウンやショーバーら裕福な友人たちも自宅のサロンを提供し、時には郊外のアッツェンブルック城まで遠征して開催することもあった。
しかし「シューベルティアーデ」はそうしたイヴェントの名称というより、むしろそこに集う仲間たちから構成される「サークル」の名前と解釈した方が適切に思える。
時にこの集まりは、「カネヴァスCanevasの集い」の別名で呼ばれた。カネヴァスとは"Kann er was?"、つまり「彼には何ができるの?」という疑問文の口語形。新入りを紹介されると、シューベルトはまずこの問いを投げかけたという。ある者は詩を作り、ある者は絵を描き、そんな才能のない者は会場を提供したりして、シューベルトとサークルの皆に何らかの形で貢献できる人だけが入会を許された。シューベルティアーデは、単なるシューベルトのファンの集いではないのだ。
このような内輪の集まりを創作活動のベースにしていた作曲家は、少なくとも大作曲家の中ではシューベルト以外には見当たらない。シューベルトの音楽の特異性のいくつかは、この特殊な集団の内部で活動が完結していたことから説明できる。膨大な歌曲、その多くが友人たちの詩によるものであること、また自作の歌曲の主題による器楽変奏曲を多く手がけたこと、これらはシューベルティアーデの仲間たちの好みや趣味を反映したものだったのだろう。そもそも、隣に寄り添う人だけにそっと語りかけるような、共感を前提にしたプライベートな音楽はこの環境なくしては生まれなかったに違いない。
しかし別の見方をすれば、シューベルトがあまりにも若くして死んでしまったことを考えざるを得ない。事実、晩年には当時随一の新進作曲家として、その名は外国にも知れ渡っていた。あと10年、20年と長生きしていたら、友人たちの輪から大きく羽ばたいて、大交響曲を次々に発表したり、オペラの注文が殺到するような人気作曲家になっていたかもしれない。そして、「あのシューベルトは若い頃は仲間内でこんな歌曲を書いたりしていたのだよ」などと語り草になったかもしれない。仲間たちが願ったような大成を遂げるには、31年10ヶ月という人生は短すぎた。

シューベルティアーデの中核メンバーは大きく2つのグループに分けられる。ひとつはシュパウン、シュタットラー、ゼン、ホルツアプフェル、ヒュッテンブレンナーといったコンヴィクト(シューベルトが11歳から16歳まで通った帝室寄宿学校)時代の仲間たちで、もうひとつはレオポルト・クーペルヴィーザー、モーリツ・フォン・シュヴィント、有名な肖像画を描いたヴィルヘルム・アウグスト・リーダーといったウィーンの画家のグループである。それぞれのメンバーが友人知人を招待して、シューベルティアーデはどんどん拡大していった。
グラーツ生まれの作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーはコンヴィクト出身ではないが、サリエリ門下の同輩という意味ではティーンエイジャー時代からの仲間である。その弟ヨーゼフや、同じくシュタイアーマルク出身の作曲家ヨハン・バプティスト・イェンガーもシューベルティアーデで大きな役割を担い、1827年のグラーツ旅行のきっかけにもなった。
シュパウンをはじめとするコンヴィクト組はリンツやシュタイアーなどオーバーエスターライヒの地方貴族の子弟で(だからウィーンの全寮制のコンヴィクトにこどもが単身でやってきたのだ)、長じて法律を修め公務員になった者が多い。シューベルトがたびたびオーバーエスターライヒに演奏旅行に出かけたのは彼らの地縁があったという理由も大きい。
彼らは知的階級に属する「インテリ」である。総じて文学への造詣が深く、その繋がりから詩人のマイアホーファー、劇作家のバウエルンフェルトといった面々がやがてシューベルティアーデに加わっていく。前述のゾンライトナーの息子レオポルトや、その従兄弟である詩人グリルパルツァーもウィーン文芸界のエリートたちだ。

フランツ・フォン・ショーバー
シュパウンの紹介で親交を結んだ重要人物がフランツ・フォン・ショーバーである。スウェーデン出身の貴族だが、少年期をオーバーエスターライヒで過ごす間にシュパウン一族と親しくなり、1815年にウィーンに進出してシューベルティアーデの一員となった。コネクションを駆使して大歌手フォーグルをシューベルトに引き合わせたのはショーバーの最大の功績といえる。また歌曲『音楽に寄す』等の詩や、オペラの台本を手がけたことから詩人と称されることも多いが、絵画や石版画にも手を染める多才な人物だった。

官吏として働きながら余暇に創作活動に勤しんでいたコンヴィクト組と比べると、ショーバーは同じようなディレッタントでありながら定職に就かずふらふらと遊び暮らしていたところに決定的な違いがある。そのくらい経済的に余裕があったということなのかもしれない。
一方で金がなくとも芸術に人生を捧げようという若者たちもいた。他ならぬシューベルト自身がそうだったし、シューベルティアーデに参加した画家の一派もそんな無頼な若者たちだった。彼らの話題は次の記事で触れよう。
  1. 2022/09/25(日) 22:44:23|
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シューベルトは『第九』を聴いたのか?

1824年5月7日、音楽史に残る一大イヴェントがウィーン・ケルントナートーア劇場で行われた。ベートーヴェンの「交響曲第9番」(いわゆる『第九』)の初演である。完全に聴力を失っていた作曲者は、それでも10年ぶりの交響曲の初演の指揮台に立ち、実際に演奏を取り仕切るミヒャエル・ウムラウフにテンポの指示を与えたという。演奏終了後、背後の聴衆の反応がわからずステージ上で立ち尽くすベートーヴェンに、アルトソロの歌手が近づき、喝采する聴衆を「見せた」というエピソードはあまりにも有名である。

ウィーン楽壇の大事件だったこの『第九』初演を、ウィーンに住むシューベルトが知らなかったはずはない。果たして彼はこの歴史的瞬間に居合わせたのだろうか?
普通に考えれば聴きに行ったはずだ。崇拝してやまないベートーヴェンの新作初演、何を措いても駆けつけただろう。
終演後にベートーヴェンの手を取って後ろを振り向かせた21歳のアルト歌手カロリーネ・ウンガーも知己だった。3年前に彼女のオペラデビューのコレペティトーアを務めた縁もあり(もっとも毎回稽古に遅刻するシューベルトは劇場関係者の不評を買うことになるのだが)、彼女の父親はツェリスのエステルハーツィ家の音楽教師の職を紹介してくれた恩人でもある。ちなみにカロリーネは若くしてなかなかのやり手だったらしく、『第九』のウィーン初演に尻込みをするベートーヴェンを焚き付け、この大興行を実現させた陰の功労者だったことが会話帳の書き込みからわかっている。歴史に名を刻んだあの行動も、もしかしたら巨匠と示し合わせてちょっとした芝居を打ったのではと思えなくもない。オペラ歌手ならそのくらい朝飯前だろう。
ところが、シューベルトが『第九』初演を聴いたという記録は何も残っていないのだ。聴いていたら、きっとはしゃいで友人たちに触れ回ったり、手紙を書きまくったりするだろうに(最晩年にパガニーニの演奏を2回も聴きに行ったことはよく知られている)、そういう資料も証言も残されていない。
実は、1824年4月・5月のシューベルトの足跡はほとんどわかっていないのだ。前年から続く体調不良は一進一退だったようで、たとえウィーンにいたとしても演奏会に行けるような健康状態ではなかったのかもしれない。
4月半ばの友人たちの報告には、

シューベルトはあまり良い体調ではない。左腕に痛みがあって、全然ピアノが弾けないんだ。それを除けば、機嫌は良さそうだ。
(1824年4月15日、シュヴィントからショーバーに宛てて)

とある。
遡って3月31日に、シューベルトはローマのクーペルヴィーザーに手紙を書いている。自らの病状を悲観し、「糸を紡ぐグレートヒェン」の冒頭の歌詞を引用して「『私の安らぎは去った、私の心は重い。私はそれを、もう二度と、二度と見出すことはない』、そう今僕は毎日歌いたい。毎晩床に就くときは、もう二度と目覚めることがないように祈り、朝になると昨日の苦悩だけが思い出される」という憂鬱な文章はよく知られているが、実はこの手紙に書かれているのはそんな愚痴ばかりではない。

歌曲では新しいものはあまり作っていないが、その代わり器楽ものはずいぶん試してみた。2つの弦楽四重奏曲と八重奏曲を作曲し、四重奏をもう1曲書こうと思っている。この方向で、なんとか大交響曲への道を切り開きたいと思うんだ。―ウィーンのニュースといえば、ベートーヴェンが演奏会を開いて、そこで新しい交響曲と、新しいミサ曲からの3曲と、新しい序曲をかけるということだ。―できることなら、近い将来僕も同じようなコンサートを開きたいと思っている。(中略)5月の初めにはエステルハーツィと一緒にハンガリーに行くので、そうなると僕の住所はザウアー&ライデスドルフ社気付ということになる。
(1824年3月31日、シューベルトからクーペルヴィーザーに宛てて)

シューベルトが『第九』初演を事前に知っていたことがちゃんと書かれている。なんと、巨匠のこのイヴェントに触発されて、「個展」を開催する気になったわけだ。自分の作品だけを集めた演奏会は、それから4年後の1828年、ベートーヴェンの一周忌にあたる3月26日に楽友協会でようやく開催されたが、その8ヶ月後に帰らぬ人となるシューベルトにとってはそれが生涯で唯一の機会になる。
ところが、手紙にあるように5月の初めにツェリスへ旅立ったとすると、5月7日の『第九』初演時には既にウィーンにいなかった可能性がある。1824年春、ウィーンでのシューベルトの最後の足跡は、4月に男声4部のための「サルヴェ・レジナ」D811を書き上げているのみだ。ドイチュはウィーン出立の日を5月25日前後と推察しており、多くの伝記がそれに倣って「5月末頃にウィーンを発ちツェリスへ」と書いているが、その確かな根拠はない。もしドイチュ説を採るならば、5月23日にレドゥーテンザールで行われた『第九』の再演に立ち合った可能性すらある。ちなみに再演は散々な失敗だったと伝えられる。
6月末に両親がシューベルトに書いた手紙には

5月31日付のお前の手紙を6月3日に受け取った。お前が健康であること、伯爵の館に無事到着したことを知って嬉しく思っている。
(1824年6月末、父フランツ/継母アンナからフランツ・シューベルトに宛てて)

とある。この5月31日付の手紙は行方不明だが、その時点でシューベルトがツェリスに到着していたことは確実のようだ。

そういうわけで資料的な裏付けは何もないのだが、私はシューベルトは確かに『第九』をリアルタイムで聴いたはずだと考えている。なぜなら1826年出版の「フランス風の主題によるディヴェルティメント」D823の中に、『第九』がこだましているのが聴き取れるからだ。
「ディヴェルティメント」第1楽章の第2主題後半、この情緒的な旋律線はどこかで聴いたことがあると思っていた。
D823第1楽章第2主題

記憶をたどってようやく思い当たった。『第九』の第2楽章スケルツォである。
第九第2楽章副主題

そう考えると、妙に符合するところがいくつかある。「ディヴェルティメント」第2楽章「アンダンティーノ・ヴァリエ」の第2変奏と、『第九』スケルツォ主部のスタッカートの音型。
D823第2楽章第2変奏
第九第2楽章主題


「アンダンティーノ・ヴァリエ」第4変奏と、『第九』第3楽章の再現部。
D823第2楽章第4変奏
第九第3楽章

音型そのものが酷似しているというわけではないが、全体の拍子感やメロディーが6連符で細かく装飾されるさまはとてもよく似ている。

『第九』の楽譜出版は1826年8月で、「ディヴェルティメント」第1楽章の出版はその2ヶ月前なので、楽譜で読んで影響を受けた、ということはない。1824年5月の2度の『第九』の実演のどちらかに接し、その記憶が「ディヴェルティメント」の中に表出したのではないだろうか。

とはいえ、たまたま似ただけ、といわれればそれまでの話ではある。
  1. 2020/12/06(日) 21:13:15|
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シューベルトの旅 (9)1828年10月、アイゼンシュタット

1828年9月、シューベルトはしばらく暮らしていた市中心部のショーバーの家を出て、兄フェルディナントの住まいに引っ越す。彼はこの頃、持病の頭痛とめまいに加え、食欲不振にも悩まされていた。兄の新居は少し郊外のヴィーデン地区にあり、その新鮮な空気が体調に良い影響を与えるだろうと、医者に勧められたのである。この家は現在のウィーン4区・Kettenbrückengasseにあり、「シューベルトの最期の家」として公開されている。

シューベルト最後の家外観
4区・ケッテンブリュッケンガッセにある「シューベルトの最期の家」

シューベルトは死去する11月19日までの間、「冬の旅」の校訂などを行いながらほとんど床に伏せっていたというイメージで語られるが、実は10月の初め、シューベルトはフェルディナントとその他2人の友人とともに、徒歩でブルゲンラント州のアイゼンシュタットへ出かけている。


ウィーンと、やや南方に位置するアイゼンシュタット

アイゼンシュタットはエステルハーツィ家の本拠地であり、ハイドンが同家に仕えて長年暮らしたことでも知られる。そのハイドンの墓所に参ったほか、行き帰りでは当時ハンガリー領だったブルゲンラントや、ニーダーエスターライヒ州内の街々にも立ち寄ったという。
この3日間の小旅行についてはただフェルディナントの証言があるのみで、詳しいことはほとんどわかっていない。

それにしても、常識的に考えて驚くべきことである。瀕死の病人が、ウィーンからアイゼンシュタットまで24kmもの道のりを徒歩で行き帰りできるものなのだろうか。
そう考えると、少なくともこの時点ではシューベルトは死に至るような病状ではなく、それなりの体力が残っていたと推測するのが自然だろう。
病状がいよいよ重篤になるのは10月31日以降のことで、それから3週間も経たずにシューベルトは最期の時を迎えたのである。おそらく本人を含め周りの誰もが、彼がこれほど速やかに死に向かうとは想像していなかったに違いない。
  1. 2018/04/17(火) 08:31:09|
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