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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

中桐望さんインタビュー(3) 連弾の極意

インタビュー第1回はこちら
インタビュー第2回はこちら

佐藤 前にヤマハホールでご一緒した時にシューベルトの「さすらい人幻想曲」をお弾きになって。
中桐 そうでしたね!
佐藤 それが本当に素晴らしかったんですけれども、シューベルトについて何か印象だとか、思っていることってあります?
中桐 私、実はシューベルトのソロの作品はそんなにやっていなくって。連弾は、角野先生の影響もあって、それこそチェコのイェセニークのシューベルトデュオコンクールで連弾の作品を何曲か演奏したんですけど。シューベルトって、私にとっては「弾きたい作曲家」じゃなくて「聴きたい作曲家」なんですよ。
佐藤 あーそうなのか。
中桐 もう自分で弾かなくていいので、素敵な演奏をただただ聴いていたいみたいな(笑)。印象としてはそうですねぇ、「感覚の人」だったのかな、と。私も感覚人間なんですけど。
佐藤 あ、そうなの?
中桐 理論とか、頭で考えて構成してっていうタイプじゃなくて、感覚のままに音楽を作っていくタイプなので、もしかしたらシューベルトは合うのかもしれないですけど、どうも「難しい」って感じちゃうんですよ。・・・どうですかね?(笑)
佐藤 いや、でも合ってると思いますけどね。少なくともこの間の「さすらい人」をお聴きした感じでは、すごく良いなと思って、それもあって今回お願いしたんだけど。でも確かにシューベルトの曲は、誰が聴いても名作みたいな曲ばかりではないので、例えばソナタの中でも「えっ?」ていうようなのがあったりするのも事実。僕はシューベルトが好きだから、そういう曲であっても僕はすごく愛しているんだけども、やっぱり万人向きじゃないかなってところは確かにあります(笑)。もちろん「即興曲」とか「楽興の時」とかは誰もが認める名曲だろうけど。
中桐 そうですね。
佐藤 なので、このシリーズ大変なんです、毎回名曲を弾けるわけじゃないので。それこそ山本君はショパンツィクルスっていうのをやっていて、遺作も含めて全部弾くという。でもそっちはさ、名作が毎回必ず。
中桐 まあショパンはどこを弾いても。
佐藤 知らない曲をちょっと弾くにしても、必ず毎回有名な曲が入れられるし。そこへいくとこのシリーズは、有名なものが出る回がほとんどないという。
中桐 確かにそうですね。
佐藤 「舞曲」の回だと、「34のワルツ」とかそういうのを延々と1時間半ぐらい弾いて。
中桐 そうかそうか(笑)
佐藤 覚えるのも大変だし、「ああ、まずいところに手を出したな」と。
中桐 いやいや、それは佐藤さんにしかできないことですから。今回もあれですもんね、結構知られてない作品も。
佐藤 連弾曲の中ではそこそこ有名なんですけど、一般にはまあね・・・。それこそコンクールの時は何を弾かれたんですか。
中桐 あの、シューベルトの名前がついているコンクールのわりには、実はそんなにシューベルトは弾かなくてよくって。実際演奏したのは「アンダンティーノ・ヴァリエ」っていう、ディヴェルティメント(D823)の楽章の中に入っている、7分ぐらいのヴァリエーションが1曲。
佐藤 うん。
中桐 その曲もコンクールの課題になるまで知らなかったんですけど、でもとてもいい曲。短調で内省的で、シューベルトらしい小品です。これが1次予選の課題で、絶対全員弾かなきゃいけないと。あとは2次予選の時にもう1曲シューベルトをっていうので、人生の嵐をやりましたけど。
佐藤 おお。
中桐 それだけですね。
佐藤 え、シューベルトデュオコンクールっていうからシューベルトの連弾曲たくさんやらなきゃいけないのかなと思ったら。
中桐 そうでもないんです。意外とシューベルト弾いてない。
佐藤 じゃあ他はどういう曲をやったの?
中桐 連弾だけじゃなくて2台も入っていいので、もう王道のプログラムで。ラヴェルの「ラ・ヴァルス」だとかラフマニノフの「交響的舞曲」とか。
佐藤 うわあ、大変なやつだ。デュオのパートナーはずっと別府由佳さんと?
中桐 はい、別府さんとやってます。彼女は大学の同級生で、角野門下で。彼女は山口県出身なんですよ。私岡山なので、中国地方つながりで方言も似てたりして、親近感があって。
佐藤 はあ、なるほどね。
中桐 じゃあちょっと遊びでやってみよう、みたいな感じで始めて。
佐藤 それは芸大生の時?
中桐 入学してすぐ、1年生の時です。で、その年の12月に「吹田音楽コンクール」というのがあって、お互いソロで受けるから、じゃあデュオ部門にも出たら?って角野先生に言われて、遊び半分で受けたら最高位で入賞しちゃって。「これはもうやった方がいいよ!」って先生に勧められて、それから本格的に。音楽性がすごくぴったりくる相手に、1年生の時にぱっと巡り会えたんです。たぶん、同じ先生のところで勉強していたから、ということもあるとは思うんですけど。
佐藤 いや、同じ先生だからといって息が合うとは限らないからね。それはもう運命ですね。最近もやってらっしゃるの?
中桐 いえ、彼女は今ドイツにいるのであんまりできていないんですけど、でもこの夏に久しぶりに日本でデュオコンサートをやることになってます。(※既に終了しました)
佐藤 あ、そうなんだ。
中桐 今年は連弾が多いので嬉しいです。私本当にピアノデュオが好きなんですよ。
佐藤 別府さんとなさる時は、パートって決まってるんですか?
中桐 私がプリモです。彼女は今、ドイツリートの伴奏を専門に活動しているんですけど、誰かをサポートするのが得意だということで、彼女がセコンドを担当してくれています。
佐藤 でもペダルは中桐さんが?
中桐 私が踏むことが結構多いですね。
佐藤 そうなんだ。今日の合わせでも、時にはプリモがペダル踏んだ方がっていう提案をいただいて、目から鱗だったんですけど。
中桐 角野先生の連弾のレッスンでも、やっぱりペダルのことがいつも話題になるんですけど、1曲の中でも途中で変えたりして。そういうレッスンを受けるまでは、私もセコンドが踏むのが当たり前と思ってたんですけど、すごく意識が変わって。そういう固定観念にとらわれずに、踏みたい人が踏んだ方がうまくいくことがあるということに気づいてからは、よく踏ませてもらってます、プリモでも。
佐藤 確かにそういうことはあるかもね。その辺のアイディアもいろいろ教えて下さい。
中桐 いや、私のわがままになると思いますけど、大半が。
佐藤 前回の川島さんは連弾はほぼ初めてということで。
中桐 本当ですか?
佐藤 シューベルトの連弾曲も全く弾いたことないけど、いい機会だからって言って引き受けて下さって、結果的にはとても良い演奏ができたと思うんですけど。でも中桐さんは本当に経験豊かだから、今回は頼もしいです。
中桐 いえいえそんなことはないです。
佐藤 連弾やっている中でいつも気をつけてたことって何かあります?
中桐 もちろんお互いをよく聴くっていうのは大事なんですけど、最終的に行き着いた結論は、「自分のことに徹する」っていう。
佐藤 なるほど!(笑)
中桐 連弾を練習してるときって自分一人の音しかさらってないじゃないですか。
佐藤 そうですね。
中桐 で、合わせた途端に全然自分の思っていることができなくなったりとか、相手につられたりとか、バランスが取れなくなって。
佐藤 わかるわかる。
中桐 練習してるときにも相手のパートのことを考えたりとか、自分なりにいろいろやってるのに、何でできなくなるんだろうって考えて、極論は「自分の役割に徹する」、それは本番の最中でも。ペダルを相手が踏んでいる時も、自分がペダルを踏んでいるようなつもりで弾くとか、そうやって自分の役割に徹したら、いろんなことがうまくいくようになって、結局自分のやりたいことを徹底的にやればうまくアンサンブルできるんだなっていう結論に、私は行き着いたんですよ。タイミングも、合わせようと思って気にすると合わなかったりして。そういうのも相手を信頼して、自分が感じている通りにやればピタッと合ったりする瞬間が。
佐藤 ああ。
中桐 連弾してるっていうことにあまり浮かれすぎないようにいつも気をつけてます。
佐藤 深いなぁこれは。連弾って声部分担がほとんど固定されているじゃないですか。プリモの人は高音域しか弾かないし、セコンドの人は低音域だけ。当たり前だけど。
中桐 はい。
佐藤 それが2台ピアノと大きく違うところだと思っていて。2台は僕も結構経験があったんだけど、連弾はこのシューベルトのシリーズを始めるまでは本当に数えるほどしかやったことがなくて。でやってみたら声部のバランスがすごく難しい。僕はわりとセコンドを弾くことが多いんだけど、そうすると右手がどうしても出ちゃうわけ。
中桐 出ますね(笑)
佐藤 「内声うるさいな」って。そのバランスを取りながら弾くっていうのが結構大変で。ところがプリモになると今度は、左手がバスを弾かないじゃないですか。これがなんかすごく弾きにくくって。
中桐 プリモの左手って難しいですよね。
佐藤 難しいよねあれ。相手とぶつかるしさ。
中桐 そう。だからプリモ嫌いなんですよ、実は(笑)。セコンドの方が全然気が楽で。左手が言うことを聞いてくれないっていうか、いろんなことがうまくできなくて。
佐藤 そうですよね。相手がいると、いろいろ気を取られたり(笑)
中桐 そうなんですよ。
佐藤 ペダルもそうだし、響板も一緒なわけで、連弾ってシビアですよね。
中桐 すごくシビアです。本当に2人が一体にならないと連弾って難しい。でもそれが連弾の面白いところでもあるんですよね。

(第4回につづく)
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  1. 2018/09/14(金) 17:09:21|
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[告知] シューベルトツィクルス第7回「人生の嵐 ―4手のためのピアノ曲―」

シューベルトツィクルス第7回チラシ
2017年6月22日(木)19時開演 東京文化会館小ホール * ゲスト:川島基(ピアノ)
♪序曲 ト短調 D668 * ♪12のドイツ舞曲 D420 ♪8つのエコセーズ D529 ♪12のレントラー D681より 現存する8曲
♪序奏、創作主題に基づく4つの変奏曲とフィナーレ 変ロ長調 D968A * ♪アレグロ・モデラート ハ長調 と アンダンテ イ短調 D968 *
♪アレグロ イ短調 D947(「人生の嵐」) * ♪ロンド イ長調 D951(「大ロンド」) *
一般4,000円/学生2,000円 →チケット購入
  1. 2017/06/22(木) 19:00:00|
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ロンド イ長調 D951 概説

ロンド イ長調 (「大ロンド」) Rondo A-dur ("Grand Rondeau") D951
作曲:1828年6月 出版:1828年12月(作品107)
楽譜・・・IMSLP

クライスレの証言によれば、この作品はウィーンの大出版社、アルタリア社のドメニコ・アルタリアからの委嘱によって1828年6月に作曲された。同年12月に同社から出版されたが、その3週間前に作曲者は既にこの世を去っていた。
製版に用いられた自筆譜が珍しく現存しているが、そこにはかなりの訂正や挿入の痕跡がある。どうやら試奏もせずに大急ぎで仕上げたらしく、たとえば[244]-[253]のプリモ、両手が同じ和音を奏するところに「col dextr 8」(オクターヴ下で)という略号のみが書かれているのだが、その通り演奏するとセコンドの右手と完全にぶつかってしまう。

「人生の嵐」と同様、「大ロンド」(Grand Rondeau)のタイトルは出版社が付けたものだが、それにふさわしい大規模で充実した内容のロンド=ソナタ形式の作品である。

(提示部)
a [1]-[8] イ長調(第1主題)
b [9]-[24] イ長調
a [25]-[32] イ長調
c [33]-[53] 嬰ヘ短調→ホ長調
d [54]-[68] ホ長調(経過句)
e [69]-[91] ホ長調(第2主題)
経過部 [92]-[102] イ長調
a [103]-[110] イ長調
b [111]-[126] イ長調
a [127]-[137] イ長調→ハ長調
(展開部)
f [138]-[151] ハ長調
e [152]-[175] 変ロ長調→ロ長調→・・・→イ長調
(再現部)
a [176]-[183] イ長調(第1主題)
c [184]-[204] 嬰ヘ短調→イ長調
d [205]-[219] イ長調(経過句)
e [220]-[240] イ長調(第2主題)
e [241]-[257] ヘ長調→変ロ長調→イ短調
経過部 [258]-[268] イ長調
a [269]-[276] イ長調
b [277]-[292] イ長調
e [293]-[304] イ長調(コーダ)
a [305]-[310] イ長調

少し細かく分析してみた。上記のabcdをすべてまとめてA群とすれば、ABACABAの大ロンド形式ということになるが、よく観察すると再現時にbを省略して、その代わりにコーダの前に登場させるなど、きめ細かい構成上の工夫がされていることがわかる。
aのロンド主題は、同じくイ長調のピアノ・ソナタ第13番D664の第1楽章や第20番D959の第4楽章にも似た、春の暖かい雰囲気を漂わせる美しい旋律である。経過的に登場するcの短調の開始はややメランコリックな表情を帯びる。副主題にあたるeは5小節という変則的なフレーズだが、やはり穏やかな性格で、ロンド主題aとの対照性には乏しい。
一方で、中間部に一度だけ登場するハ長調のfは極めて強烈で、神の啓示のごとき閃光を放っている。その後はeが次々と転調してロンド主題を導いてくる。このeは、再現部でも重要な働きをし、[241]からの一連のセクションで美しくも不気味な変容を遂げる。コーダもeから始まり、最後の1フレーズでaが回想され、飛び立った鳥が空高く消えていくかのように静かな余韻を残して終わる。
シューベルトらしい溢れる情感と、練り上げられた独創的な構築性が共存する稀有な作品である。

D947の解説でも述べたように、この2曲は同一のソナタの中に含まれるべき楽章群であるという意見は根強い。確かにD951はソナタの終楽章とするにふさわしい内容と曲想を持っている。ただしクライスレの証言を信じるなら、出版社からの委嘱に基づいて書かれたのであって、この2曲を結びつける資料上の根拠は何もない。
2曲が別々に出版されたことで「ソナタ」の計画が頓挫してしまったのか、逆にソナタの完成を諦めた結果別々に出版することにしたのか、単に2曲の単独作品が偶然イ調だったというだけなのか。いずれにしても、最晩年のシューベルトの瞠目すべき創作力を物語る2曲だというアンドレアス・クラウゼの指摘は的を射ている。

D951出版直後の1829年、19歳のロベルト・シューマンが、ピアノの師フリードリヒ・ヴィークに宛てて書いた手紙が残っている。

シューベルトは、ジャン・パウルの小説と同じく、私にとって唯一無二の存在です。最近4手のロンドOp.107を演奏しましたが、これは最高傑作であると確信しました。雷雨の前の蒸し暑さや、恐ろしく静かで重苦しく叙情的な狂気、完全で深く、かすかで美的なメランコリーが、全き真実そのものの上に漂っている、このようなものを、他の何かと比べることができるでしょうか。
私はこのロンドがプロープストの演奏会で初めて演奏されたときのことを覚えています。演奏が終わると、奏者と聴衆たちはお互いを長いこと見つめ合いました。自分たちが今何を感じたのか、シューベルトが何を意図したのかわからず、声を出すこともできなかったのです。


相変わらずの文学的な言い回しが炸裂しているが、このロンドの中に他の音楽にはない何かを感じ取った、若きシューマンのシューベルト熱が伝わる一文である。
  1. 2017/06/17(土) 03:35:17|
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アレグロ イ短調 D947(「人生の嵐」) 概説

アレグロ イ短調 (「人生の嵐」) Allegro a-moll ("Lebensstürme") D947
作曲:1828年5月 出版:1840年(作品144)
楽譜・・・IMSLP

シューベルトの連弾作品の多くは、シューベルティアーデなどのプライベートな場で作曲者自身によって披露された。そのデュオ・パートナーを務めた人物として、ヨーゼフ・フォン・ガーヒーJosef von Gahy (1793-1864)の名前はよく挙げられる。彼は役人だったがピアノの演奏に優れ、シュパウンの紹介でシューベルティアーデのメンバーになった。シューベルトのお気に入りの連弾相手で、シューベルトの死後はその多くの室内楽曲を4手用に編曲した。彼や、劇作家のエドゥアルト・フォン・バウエルンフェルトEduard von Bauernfeld (1802-1890)、シューベルティアーデにこそ参加しなかったが密かに想いを寄せる相手でもあったカロリーネ・エステルハージ孃Caroline Esterházy (1811-1851)らとの連弾の経験が、あれほど大量の4手作品を生み出す原動力になったのだろう。
ただ、彼らはいずれもプロの音楽家ではなくアマチュアのディレッタント(愛好家)であった。シューベルト自身、ピアノの演奏技巧は一流とはいえず、そうした層との演奏を楽しんでいたふしがある。
しかし最晩年1828年の5月9日、完成したばかりのヘ短調の幻想曲D940を友人たちの集まりで初演したパートナーは、フランツ・ラハナーFranz Lachner (1803-1890)であった。彼はコンサートピアニストではないものの、長じてケルントナー劇場(現在のウィーン国立歌劇場)の指揮者やマンハイム、ミュンヘンのカペルマイスターを歴任、今でこそ有名ではないが、生前は多くの作品を発表し作曲家として尊敬を集めた人物であった。時にシューベルト31歳、ラハナーは25歳。才能溢れる若者との共演からシューベルトがインスピレーションを得たことは想像に難くない。最晩年の4手作品の充実は、ラハナーとの出会いがきっかけになったのかもしれない。

幻想曲D940の完成直後の5月に早くも書き上げられたのが、このD947のアレグロである。自筆譜は現存しないものの、ヴィッテチェク=シュパウン・コレクションに筆写譜が残っており、そこには「デュオ」というタイトルがついている。出版は1840年、ディアベリ社からで、このときに「人生の嵐(性格的アレグロ)」というキャッチーな表題がつけられた。

ヴィッテチェク=シュパウン・コレクションは、前述の通りウィーン楽友協会資料室に所蔵されている。「アルペジオーネ・ソナタ」D821と、本作D947の2曲がまとめられた第55巻を閲覧してきた。
1828年5月という日付があり、見開きの左ページがセコンド、右ページがプリモというパート譜形式で記譜されている。ぱっと見ただけで、書き間違いや書き落としが相当多いことに気づく。とりわけオクターヴ違いや小節をまたいだときの臨時記号はほとんど記されていない。これは当時の記譜習慣なのかもしれないし、原本が清書譜ではなく、正確に書かれていなかったということも考えられる。
一方で同じ自筆譜を底本にしたと思われる初版はというと、こちらは題名だけではなく楽譜そのものにもかなり出版社の手が入っていると思われ、オーセンティシティ(正統性)の観点からはかなり問題のある内容になっている。たとえば第2主題の再現時[458]、プリモに記された「con delicatezza」(繊細に)の発想標語は、どう考えてもシューベルトの指示ではない。
結果的に筆写譜・初版譜のいずれも信用に足らない部分があり、細かいデュナーミクやアーティキュレーションの違いについては、どちらを参考にすべきなのか迷うところも多い。

ディアベリによる「人生の嵐」という命名が知名度アップにつながったことは確かだが、そのせいで気まぐれで幻想的な作品という先入観を持たれやすい。ところが、実際には非常に堅固なソナタ形式で書かれている。

提示部 [1]-[259]
第1主題(1) [1]-[11]
第1主題(2) [12]-[36]
第1主題(1)の確保と展開 [37]-[58]
第1主題(2)の確保と展開 [59]-[72]
経過句 [73]-[88]
第2主題 [89]-[137] 変イ長調
第2主題の確保 [138]-[182] ハ長調
第2主題による展開 [183]-[198]
第1主題(2)による小結尾 [199]-[259]
展開部 [317]-[347]
ヘ短調~ [260]-[284]
ロ長調(主音保続) [285]-[316]
ホ長調(主音保続)~イ短調(属音保続) [317]-[347]
再現部 [348]-[622]
第1主題(1) [348]-[358]
第1主題(2) [359]-[389]
第1主題(1)の確保と展開 [390]-[407]
第1主題(2)の確保と展開 [408]-[421]
経過句 [422]-[437]
第2主題 [438]-[457] ヘ長調
第2主題の確保 [458]-[502] イ長調
第2主題による展開 [503]-[518]
第1主題(2)による小結尾 [519]-[577]
第1主題によるコーダ [578]-[622] イ短調

提示部・再現部の長大さに比して展開部が短いことや、提示の中で既に主題の展開が行われることはシューベルト後期のソナタでは通例のパターンだが、特筆すべきは第2主題がまず変イ長調で提示され、確保でようやく通常のハ長調に移行するという独創的な調性配置である。遠くから響いてくるコラールは、遠隔調を用いることであたかも異世界からのメッセージのように聞こえる。そしてその後の鮮やかな転調によって定石通り平行調のハ長調へ到達するため、ソナタ形式の論理性も失われない。
一方で第1主題の何かを拒絶するような強奏と、焦燥感のある旋律は実に印象的で、両主題間の対比も著しい。展開部だけでなく提示部の各主題確保後でも行われる、半音階を駆使した目まぐるしい転調は、まさに「人生の嵐」のニックネームにふさわしい。

モーリス・ブラウンをはじめ、この作品が多楽章ソナタの第1楽章として書かれたとみる研究者は多い。続くイ長調のロンドD951はその終楽章で、D617、D812に続く生涯で3番目の連弾大ソナタになるはずだったが、中間楽章を作曲できぬままこの世を去ってしまった、という推測である。
一方で、このソナタはD947とD951で完結していると説く者も多い。そのひとりがピアニストのアルフレート・ブレンデルだ。ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第27番」(作品90)をモデルにした、「急(短調)・緩(長調)」の2楽章形式のソナタという見立てである。
このことについてはD951の解説で再度検討することにしたい。
  1. 2017/06/16(金) 15:40:53|
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