シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

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[告知] シューベルトツィクルス第8回「ピアノ・ソナタIII ―旅するシューベルト―」

2018-04-18_第8回チラシ
2018年4月18日(水)19時開演 東京文化会館小ホール
♪グラーツのギャロップ ハ長調 D925 ♪12のグラーツのワルツ D924
♪ピアノ・ソナタ 第10番 ロ長調 D575 作品147 ♪ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 D850 作品53
一般4,000円/学生2,000円 →チケット購入
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  1. 2018/04/18(水) 19:00:00|
  2. シューベルトツィクルス
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シューベルトの旅 (7)1825年、オーバーエスターライヒ

1825年5月から10月にかけての、オーバーエスターライヒへの3度目の旅は、シューベルトの生涯の中でもひとつのハイライトと言うべき大イヴェントだった。
1819年1823年の旅行先だったシュタイアーとリンツの両都市を根城にして、グムンデン、バート・ガスタインといった名勝地に長期滞在を果たし、その間にはザルツブルクにまで足を伸ばしたのである。今回もまたフォーグルと連れ立っての旅行だったが、フォーグルは既に4月の初めからシュタイアーに滞在中で、シューベルトは1ヶ月半ほど遅れてウィーンを発ち、フォーグルと合流した。
旅行中の彼らの足取りは、かなり詳しく判明している。順を追って見ていこう。


水色がウィーン。オレンジがシュタイアー、赤がリンツ、紫がその近郊のシュタイアエック。
緑がグムンデン、黒がザルツブルク、紺がバート・ガスタイン。


[1] 5月20日~6月3日 シュタイアー→リンツ→シュタイアー
5月20日にシュタイアーに到着したシューベルトは、フォーグルと共にパウムガルトナー宅に宿泊した。24日にリンツに移動したが、同地に住んでいた親友ヨーゼフ・フォン・シュパウンはそのほんの数日前にポーランドのレンベルク(現在のウクライナのリヴォフ)への赴任に出立してしまった後だった。

僕は5月20日からオーバーエスターライヒにいるのに、君がその2~3日前にリンツを去ってしまったというので腹立たしい限りだ。僕はもう一度君に会いたかったよ、君がポーランドの悪魔に引き渡される前に。
(7月21日リンツにて、シューベルトからシュパウンに宛てて)

リンツではシュパウンの義弟オッテンヴァルト宅に滞在したが、シュパウンがいないので意気消沈したのだろう。早々にそこを出て、26日にサンクト・フローリアンの修道院、27日には以前も訪れたクレムスミュンスターの修道院を経由してシュタイアーに戻った。この2つの修道院では演奏の機会を得た。

オーバーエスターライヒでは至るところで自分の作品を演奏することができました。特にフローリアンとクレムスミュンスターの修道院では、素晴らしいピアニストに協力してもらって、4手のための変奏曲と行進曲を演奏して賞賛を得ました。特に好評だったのは僕が一人で弾いた、新しい独奏用ソナタの中の変奏曲で、何人かの人が「あなたの手にかかると、鍵盤がまるで歌声を発しているかのようだった」と言ってくれました。もしそれが本当なら嬉しいことです。なぜなら、優秀なピアニストにもありがちな、忌々しい打撃奏法には、僕は我慢できないし、耳も心も喜ばないからです。
(7月25日シュタイアーにて、シューベルトから両親に宛てて)

文中の独奏用ソナタの変奏曲というのは、ソナタ第16番イ短調D845の第2楽章、ハ長調の変奏曲形式の緩徐楽章のことである。シューベルトの演奏ぶりと、それに対する当時の人々の評価を示す貴重な記録である。
シュタイアーにはそれから1週間ほど滞在し、顔なじみのシェルマン家やコラー家を再訪、彼らは再会を祝して毎晩のように音楽会を開いた。

[2] 6月4日~7月12日 グムンデン
6月4日、シューベルトとフォーグルはリゾート地のグムンデンへ移動し、同地に6週間にわたって滞在した。主要な温泉地を巡る今回の旅行には、痛風を患っていたフォーグルの湯治という目的があったようだ。
グムンデン滞在中の2人の宿はフェルディナント・トラヴェガー Ferdinand Trawegerの邸宅だった。トラヴェガーはグムンデンの熱心な音楽愛好家で、2人を歓待し、快適な住居を提供した。

・・・僕ら(フォーグルと僕)はグムンデンに行き、6週間実に快適に過ごした。僕らはトラヴェガーのところに泊まっていたが、彼は素晴らしいピアノフォルテを所有していて、君も知っているように、この小生の信奉者なのだ。あそこでは僕はとても快適に気兼ねなく過ごしたよ。
(7月21日リンツにて、シューベルトからシュパウンに宛てて)

僕は今再びシュタイアーにいますが、6週間グムンデンに行っていました。そこの景色は本当に天国のようで、それだけでなく、そこに住んでいる人たち、特に善良なトラヴェガー氏に心から感動しました。彼には本当に良くしてもらいました。トラヴェガー邸にいると、まるで家にいるかのようにくつろげるのです。
(7月25日シュタイアーにて、シューベルトから両親に宛てて)

トラヴェガーの息子エドゥアルトEduard Traweger (1820-1909)は、このとき4歳だった。シューベルトの巻き髪に指を突っ込んで遊んでもらったことや、水車屋の「朝の挨拶」(D795-8)を「お小遣いをあげるから歌ってごらん」と言って教え込まれたりしたことなどを後年生き生きと回想している。エドゥアルトは長じて警察署長になり、20世紀を迎えても存命で、シューベルトを直接知る者の中では最も長生きしたといわれている。
グムンデンでは宮中顧問官でザルツカンマーグート領主のフォン・シラーの館に招かれ、食事をご馳走になったり、音楽会を開いたりしたほか、学校教師のヨハン・ネポムク・ヴォルフの家では、同家の娘ナネット(アンナ)と一緒に演奏を楽しんだりもした。

7月12日頃にシューベルトとフォーグルはグムンデンを後にし、途中プフベルクという街に寄って、フォーグルの友人たちに会った。フォーグルはそのままそこにしばらく残るというので、シューベルトは彼と別れてリンツへ向かい、15日に到着した。

[3] 7月15日~8月10日頃 リンツ→シュタイアー
一足先にリンツに戻ったシューベルトは、ヴァイセンヴォルフ伯爵夫妻に招かれ、彼らの夏の別荘であった郊外のシュタイアエック城に数日滞在した。

シュタイアエックではヴァイセンヴォルフ伯爵夫人のところに泊めてもらいました。彼女はこの小生の信奉者で、僕の作品を全部持っていて、たくさんの歌をとても素敵に歌ってくれるのです。ウォルター・スコットの歌曲は彼女に深い感銘を与えたようで、自分に献呈されるなんてもったいない、と明言されたほどです。
(7月25日シュタイアーにて、シューベルトから両親に宛てて)

19日には再びリンツに戻り、23日にプフベルクから帰ってきたフォーグルと合流して、25日頃までオッテンヴァルト家に滞在したあと、シュタイアーに向かった。シュタイアーでの2週間ほどの滞在については、ほとんど何も知られていない。

[4] 8月11日~9月4日 ザルツブルク→バート・ガスタイン
おそらく8月10日頃、彼らはシュタイアーからクレムスミュンスター経由でザルツブルクへ向かった。ザルツブルクに到着する直前、ヴァラー湖のほとりの田園風景と遠くの山々とのコントラストは、シューベルトに筆舌に尽くしがたい感動を与えた。
ザルツブルクでも、フォーグルとシューベルトの名前は知れ渡っていて、州知事のフォン・プラッツ伯爵の邸で、地元の名士たちを前に演奏して大喝采を浴びた。特に評判だったのはやはりスコット歌曲の中の1曲で、今も名高い「アヴェ・マリア」だった。演奏のないときは、メンヒベルクやノンネンベルクの丘に登り、大聖堂や修道院を訪れるなど元気に歩き回って大いに観光をした。

14日に2人はザルツブルクを発ち、バート・ガスタインに向かう。ガスタインは古くから知られた温泉場で、王侯貴族が訪れたことも知られている。途中のザルツベルクの岩塩採掘場を見物したいというシューベルトの願いは、痛風の痛みで一刻も早い湯治を必要としていたフォーグルに却下され、シューベルトは少なからずがっかりしたようだ。ザルツブルクからガスタインへ至る旅の行程について、シューベルトはとても詳しく描写力に富んだ紀行文を兄フェルディナントのために書いていて、すこぶる興味深いのだが、あまりにも長文なのでここでは割愛する。とにかく、山越えはなかなかの悪路だったようだ。
フォーグルがガスタインで3週間の「温泉療法」に取り組む間、シューベルトは演奏に追われることもなく、作曲に精を出した。彼がグムンデン滞在中からずっと、交響曲の作曲に取りかかっていたことは本人や友人たちの手紙から明らかである。その交響曲は次の冬のシーズンにウィーンで演奏される予定で、翌年にはオーストリア音楽協会に贈られて受領された。D849のドイチュ番号を与えられ、「グムンデン=ガスタイン交響曲」と呼ばれるこの作品は、しかし楽譜が散逸したため内容が不明で、幻の交響曲とされてきた。
現在ではこれは、D944のハ長調交響曲(いわゆる「ザ・グレート」)と同一であるか、もしくはその初稿であろうと考えられている。1982年にシュトゥットガルトで発見された、D849に相当すると思われるホ長調の交響曲は、もし真作であるとすればD944の初稿と思われるが、偽作という意見もある。
ガスタインでの音楽的成果として確実に存在しているのはD850のニ長調のピアノ・ソナタである。交響曲に携わった余韻からか、シンフォニックな音響感と、「天国的な長大さ」を湛えた、シューベルトのピアノ・ソナタの中でも異色の作品となっている。
湯治を終えたフォーグルとシューベルトは、9月4日にガスタインを離れ、途中ヴェルフェンの丘に登ったりしながら、再びグムンデンを目指した。

[5] 9月12日~16日 グムンデン
彼らは9月12日までにグムンデンに到着した。トラヴェガー家の面々をはじめ、多くの友人たちが彼らの再訪を喜んだ。シューベルトはあと2~3週間、ここに滞在しようと考えていたが、フォーグルは15日に突然、翌日シュタイアーに帰ると言い出した。そもそも旅費はフォーグル持ちだったので、シューベルトはそれに付き従うしかなかったのだが、シューベルトはフォーグルの(スター歌手ならではの)独断的なやり方にストレスが溜まっていき、2人の間にはわだかまりが生じていった。

[6] 9月17日~10月5日 シュタイアー→リンツ
フォーグルが早くシュタイアーに帰ろうと言い出したのは、すっかり体調が良くなったのでイタリアへ旅行しようと思い立ち、その準備を早々に始めたいと思ったからだったようだ。さすがにフォーグルはシューベルトを更に連れ回すつもりはなく、友人のハウクヴィッツ伯爵と同行することを決め、10月の初めに旅に出ることを告げた。共演者でありパトロンでもあったフォーグルがいないことには、シューベルトは旅を続けることができず、当初の予定よりも早くウィーンに戻らざるを得なくなった。
シューベルトはシュタイアーでフォーグルと別れ、リンツへ向かう。オッテンヴァルト家に再び滞在し、シュタイアエック城でも何度も演奏会を開いた。10月3日にはアントン・フォン・シュパウン邸でコンサートがあり、やはりスコット歌曲が賞賛を集めた。ウィーンからこの日のために駆けつけた友人ヨーゼフ・フォン・ガヒーと連弾を楽しんだ後、シューベルトはガヒーの帰りの馬車に便乗してウィーンへ戻った。10月5日のことであった。

シューベルトとフォーグルは、1821年の「アルフォンソとエストレッラ」事件のときのような大衝突には至らなかったものの、旅行が終わる頃にはだいぶギスギスした関係になってしまっていた。フォーグルがイタリアから戻り、昔の生徒と結婚してからはさらに疎遠になり、ふたりが会う機会も少なくなった。フォーグルと連れ立ってのオーバーエスターライヒ旅行はこれが最後となった。

最晩年の1828年の夏、シューベルトは単独でグムンデンへの旅行を計画し、トラヴェガー家に宿泊しようとしていたらしい。体調の悪化により、残念ながらそれは果たせなかった。
  1. 2018/04/15(日) 20:12:06|
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