2020年12月9日(水) 19時開演 東京文化会館小ホール * ゲスト:
小倉貴久子 ♪ハンガリー風のメロディー D817
♪ハンガリー風ディヴェルティメント D818 *
♪フランス風の主題によるディヴェルティメント D823 *
一般4,000円/学生2,000円
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2020/12/09(水) 19:00:00 |
シューベルトツィクルス
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ハンガリー風ディヴェルティメント ト短調 Divertissement à l'hongroise D818 作曲:1824年? 出版:1826年(作品54)
1826年4月に出版されたが、自筆譜は失われており正確な作曲年代はわからない。しかし
1824年秋のツェリス滞在 に深く関連する作品であることは、
そのときシューベルトと一緒に耳にしたエステルハーツィ邸のメイドの歌がこのディヴェルティメントに転用されたというシェーンシュタインの証言 や、ヒュッテンブレンナーの「
この滞在中にシューベルトは有名なハンガリー風ロンドのための素材を集めていた。彼は私に、ツィゴイナー音楽にとても興味をひかれている、と話した 」といった言葉から疑いないと思われる。シューベルトは10月16日にツェリスを離れているので、楽曲全体の仕上げはウィーン帰着後に行われたと考えられる。
出版に際して、ハンガリーの貴族パルフィ家に嫁いだ歌手のカタリーナ・ラシュニー・フォン・フォルクスファルヴァ(旧姓ブフヴィーザー) Katharina Lascny (Laszny) von Folkusfalva, geb. Buchwieser (1789-1828)に献呈された。
3つの楽章は、いずれも行進曲のエレメントを内包している。
第1楽章 は幻想的なアンダンテに、行進曲風の2つのエピソードが挿入される、ABACAのロンド形式。エピソードから主部に戻る際には、ツィンバロンを彷彿とさせるトレモロが激した調子で掻き鳴らされ、プリモがツィゴイナー風の増2度を多用した即興的なパッセージを奏でるあたり、まさにハンガリーの香りが芬々としている。
第2楽章 は三部形式の短い行進曲。主部はハ短調で、セコンドのシンコペーションの伴奏型が耳を引く。変イ長調の中間部ではシューベルトの偏愛したダクティルス(長短短)のリズムでメロディーが歌われていく。
第3楽章 は
「ハンガリーのメロディー」D817 の主題による長大なロンドである。ABACAの小ロンド形式だが、間のエピソード部がそれぞれ三部形式を取る巨大な構成(A-B(aba)-A'-C(cdc)-A''-コーダ)となっている。主部(A)の半ばにあるゼクエンツ(同型反復)による盛り上がりはD817にはなかったものだ。ハ短調の第1エピソード(B)は和音連打を伴う行進曲風のきびきびした曲調で、夢見るような中間部を挟んで回帰する。2度目の主部(A')では伴奏型がダクティルスのリズムに変奏される。第2エピソード(C)は変ロ長調の穏やかな曲想だが、中間部では突如遠隔調の嬰ヘ短調に転調し、トレモロや和音の強打が異国情緒を盛り立てる。最後の主部回帰(A'')では伴奏型がシンコペーションのリズムとなり、さらに急き立てられるような印象となる。
D817 と同様のコーダで、最後は消え入るように静かに終わる。
面白いのは、ハンガリー出身を標榜していたフランツ・リストがこの作品に強い興味を抱き、2度にわたって
「シューベルトによるハンガリーのメロディー」 というタイトルで全編のピアノ独奏用編曲を発表しているほか、第2楽章にオーケストレーションまで施している(「ハンガリー行進曲」)ということだ。
独奏用「ハンガリーのメロディー」第1版(S.425)は1838-39年に編曲され、ほぼ原曲通りのサイズにリストならではの華麗な技巧的パッセージが鏤められているのだが、1846年に出版された第2版(S.425a)では両端楽章が大幅に短縮されており、そのせいで第3楽章は
オリジナルの「ハンガリーのメロディー」D817 とよく似た構成になっている。当時D817の存在は知られていなかったのに、実に興味深い一致といえよう。
出生地が当時ハンガリー領だっただけで、マジャール語も解さなかったというリストが代表作「ハンガリー狂詩曲」シリーズに着手し始めるのは、ちょうどその1846年のことである。
2020/12/02(水) 23:16:22 |
楽曲について
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ハンガリーのメロディー ロ短調 Ungarische Melodie h-moll D817 作曲:1824年9月2日 出版:1928年
「ツェリスにて、1824年9月2日」と書き込まれた自筆譜が、1925年に作家
シュテファン・ツヴァイク のコレクションに加わるまで、この作品の存在は知られていなかった。一聴するに、1826年出版の「ハンガリー風ディヴェルティメント」D818の第3楽章ロンド(こちらはト短調)と同一のテーマを扱っていることは明らかで、その初稿的存在と見做される。
1824年、シューベルトとともにツェリスのエステルハーツィ邸に滞在した シェーンシュタイン男爵の証言によれば
『ハンガリー風ディヴェルティメント』のテーマになったのは、エステルハーツィ家の厨房でハンガリー人のメイドが歌っていたハンガリーの歌で、シューベルトは私と出かけた散歩の帰りに、通りがかりに耳にしたのだ。私たちはしばらく耳を傾けていたのだが、シューベルトはどうやらこれが気に入ったようで、歩きながら続きをハミングしていた。 タイトルの通り、その「ハンガリーのメロディー」を書きつけておいたスケッチとも捉えられる。
曲はコーダを伴う三部形式(A-B-A'-コーダ)で、A部とコーダがディヴェルティメントに転用されている。ただ、ロ短調から嬰ヘ短調へ向かうAは、A'ではホ短調から始まってロ短調で終わるように設定されており(いわゆる下属調再現)、民謡そのものというよりもかなり作曲家の手が加わった作品と思われる。そもそもこのメロディーじたい器楽的で、歌うのに適した旋律線とはいえない。オリジナルのメロディーにもある程度改変が加えられているのかもしれない。
細かい装飾音やシンコペーションの多用は確かにエキゾティックであり、後の「楽興の時」第3曲や
「即興曲」D935-4 などにも通じる、ハンガリー風味の源流にある作品といえるだろう。
2020/11/29(日) 23:29:21 |
楽曲について
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1824年5月、シューベルトは
6年ぶりにハンガリー・ツェリスのエステルハーツィの館 を訪れた。
令嬢姉妹の姉マリーは16歳から22歳になり、婚約者のアウグスト・フォン・ブロインナー=エンケヴォイルト伯爵 Graf August von Breunner-Enkevoirt (1796-1877)を連れてツェリスにやってきた(彼らは1827年に結婚する)。13歳だった妹カロリーネは19歳に、そして駆け出しの作曲家だったシューベルトは、今やウィーン中にその名を知られるようになっていた。
そんな変化を、互いにこのとき初めて知ったということはないだろう。ウィーンに戻ってからも、市内のエステルハーツィ邸で姉妹へのレッスンはしばらく続いており、定期的なレッスンが必要なくなってからもシューベルトはしばしば彼らを訪ねていたらしい。
シューベルトが再び夏のツェリスに招かれたのは、家庭教師というより、一家の客人としてという性格が強かった。もちろん姉妹へのレッスンは必要に応じて行われたが、今回は使用人の住む管理棟ではなく本館の中に1室が与えられ、報酬も増額された。シューベルトと若い頃から懇意にしていたことは、彼が有名になった今、エステルハーツィ家にとっても名誉なことだったに違いない。
シューベルトが1824年のツェリス滞在中に家族・友人へ宛てた手紙は3通残っている。その一部を紹介しよう。
もちろん、どんなものでも僕らには青春の栄光に包まれて輝いて見えた、あの幸せな時代はもう戻ってこないし、その代わりに今やみじめな現実を致命的に認識しなければならないのだが、僕はそのことをファンタジーを駆使して(ありがたいことに)できる限り美化しようと努めている。人は、昔幸せだった場所には今も幸せの拠り所があると思っているが、本当の幸せは僕ら自身の中にしかないものだ。それで僕は、不快な妄想を経験し、以前シュタイアーでした体験にまた直面することになったが、それでもそのときよりは、幸せと安らぎを自分の中に見出すことができるようになった。 その証拠として、大ソナタと創作主題の変奏曲を供することができる。どちらも4手のための作品で、ちょうど作曲したばかりだ。変奏曲は特別な称賛を得ている。 (7月16~18日、シューベルトから兄フェルディナントに宛てて)
僕はありがたいことに元気で、もし君やショーバーやクーペルヴィーザーも一緒にいたらかなり楽しく暮らせると思うが、例の魅力的な星がいるにもかかわらず、僕はしばしばウィーンへの渇望を感じてしまうのだ。9月の終わりには君にまた会えると願っている。 4手のための大ソナタと変奏曲を作曲した。後者は特別な称賛を得たが、ハンガリー人の趣味は完全には信じられないので、君たちやウィーン人たちの判断に委ねることにしたい。 (8月、シューベルトからシュヴィントに宛てて)
残念ながら2度までも誘い出されてきてしまった、このハンガリーの奥地に今僕はいる。ここには知的な言葉が話せるような人間はひとりもいない。君が行ってしまってから歌曲は1曲も作曲していないが、器楽ものにはいくらか挑戦してみた。 (9月21日、シューベルトからショーバーに宛てて)
ここからいくつかのことが見えてくる。
まず、滞在中の創作活動について。言及されている「大ソナタ」とは「グラン・デュオ」とも呼ばれる
ハ長調 D812 、「変奏曲」とは
創作主題による8つの変奏曲 D813 を指している。
1818年のツェリス赴任時 に書かれた数多くの4手作品と同様に、マリーとカロリーネの姉妹との共演を目的に生み出されたと考えて間違いないだろう。いずれも大作だが、他のジャンル―当時のシューベルトにとって喫緊の課題だったオペラや交響曲―に手を付けた形跡は全くない。おそらく夜の舞踏会の伴奏用に、いくつかの舞曲が書かれた。
他に特記すべきなのは、ピアノ独奏のための小品
「ハンガリー風のメロディー」D817 、それを元にした連弾のための大作
「ハンガリー風ディヴェルティメント」D818 であろう。D818についてはツェリス滞在中に完成したかどうかは定かではないが、こうしたハンガリー風のエッセンスはウィーン帰郷直後の「アルペジオーネ・ソナタ」D821や後の「即興曲」D935-4などにたびたび顔を出し、以後のシューベルト作品にエキゾティックな彩りを添えていくことになる。
1818年の手紙 にはあった、到着当初のうきうきした気分を描いた言葉はない。とにかくこの辺鄙な場所にいなければならない退屈さだけが伝わってくる。引用部分には含めなかったが、不在中のウィーンの取次先になってくれた出版社ライデスドルフが何の手紙も転送してこないというのでずいぶん苛立っている。
フェルディナント宛の手紙から窺われるのは、シューベルトが前年のシュタイアー旅行時に深刻な精神の危機に陥っていたことだ。一種の鬱のような症状だったのだろうか。
1823年の旅行中の記録 がほとんど残されていないのもそのせいかもしれない。
そして、シュヴィント宛の手紙に一言触れられているだけの「
例の魅力的な星 」、つまりエステルハーツィ伯爵令嬢
カロリーネへの恋 について言及しなければなるまい。
実際のところ、シューベルト本人がカロリーネのことを書いた手紙はこの1通しか残っていないのだが、シューベルトの友人たちは揃って彼がカロリーネに恋をしていたことを証言しているから、友人たちの間ではよく知られた話だったのだろう。
この恋について最も多くを語っているのは作家のエドゥアルト・フォン・バウエルンフェルトである。1828年2月の日記には
「シューベルトは伯爵令嬢Eに真剣に恋をしている。私はそのことを喜んでいる。彼は彼女にレッスンをしている。」
とある。後にもっと詳しく、次のように回想した。
彼は実際のところ、弟子の若きエステルハーツィ伯爵令嬢に首っ丈で、最も美しいピアノ曲のひとつ、連弾のための幻想曲ヘ短調を彼女に捧げた。レッスンとは別に、彼はパトロンの歌手フォーグルの庇護下にたびたび伯爵家を訪ねていた。・・・そんなとき、彼は後方の席に甘んじて座り、崇拝する生徒のそばに静かに佇んで、恋の矢をますます深く自分の心に突き刺すのだった。・・・カロリーネ嬢は彼にとって目に見える、慈悲深いミューズであり、この音楽のタッソーにとってのレオノーレだった。 (ドイチュ編「シューベルトの友人たちの思い出」より)
一方で、1858年に記した回顧録には、こんな意味深長な詩を載せている。
Verliebt war Schubert; der Schülerin シューベルトが生徒に恋をした、 Galt's, einer der jungen Comtessen それは若い伯爵令嬢のひとりだった。 Doch gab er sich einer ― ganz andern hin, ところが彼はとある―全然別の人に自らを捧げた、 Um die ― Andere zu vergessen. それは―もうひとりを忘れるためだった。 Ideell, daß uns das Herz fast brach, 理想は私たちの胸を裂いた、 So liebt auch Schwind, wir Alle; だからこそシュヴィントや私たちはみんな理想を愛した。 Den realen Schubert ahmten wir nach (でも結局)現実的なシューベルトを私たちは真似たのだ、 In diesem vermischten Falle. こういう複雑な局面においては。
(ルスティコカンピウス(バウエルンフェルトの筆名)著「我らウィーン人の本」中の詩「若き日の友人たち」より抜粋)
この詩は何を意味しているのだろうか。
シューベルトと、
ヨゼファ(ペピ)・ペックルホーファー Josefa (Pepi) Pöcklhofer との関係をここに見出そうという見方もある。ペピはツェリスの館で働く小間使いで、
1818年の手紙で「可愛くて、よく僕と連んでいる」と書かれている 人物である。シューベルトが彼女と関係を持っていたことをシェーンシュタイン男爵が証言しているが、シュパウンは否定している。シューベルトは彼女から梅毒を感染されたという説が一時期盛んに唱えられていた。
シューベルトの病についてはまた別の機会に取り上げることがあると思われるが、少なくとも事実関係から言えば、バウエルンフェルトの言う「別の人」がペピを指すとは思えない。シューベルトがペピと出会ったのは1818年のツェリス滞在のときのことで、当時カロリーネは13歳だった。シューベルトのカロリーネへの恋が語られるようになるのはもっと後のことで、おそらくこの1824年の滞在中にカロリーネへの想いが深まったのだろうと考えられている。
バウエルンフェルトの認識が事実かどうかは別として、彼の詩はこのように読み取れる。シューベルトはカロリーネに恋をしていたが、それが叶わぬ恋であることを十分に知っていて、別の女性と関係を持っていた。若き日のシュヴィントやバウエルンフェルト自身は、シューベルトのように手近な女性で済ませることを良しとしなかったが、結局最後は「現実的な」シューベルトと同じようなことをしてしまっていた、ということだろう。だからこそカロリーネはシューベルトの「現実の」恋の相手ではなく、「理想の」憧れの対象であり続けたのだ。
それにしても詩の中で2度も使われている「―」(ダッシュ)は極めて意味深である。なぜそこまで言い淀む必要があったのだろうか。
いずれにせよ、1824年のツェリス滞在中にシューベルトとカロリーネの間にどんなことがあったのか、確かなことはわかっていない。
シューベルトは約5ヶ月の滞在を経て、10月17日にウィーンに帰着した。
2018/04/14(土) 22:18:19 |
伝記
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