(第3回はこちら)佐藤 それで聞こうと思ったんだけど、オケの人たちにとってシューベルトの曲をやるっていうのはどんな感じなのかなと。どういう反応っていうか。
林 反応。
佐藤 まず、結構やるものなの? ドイツだとたまにやるとか。
林 シューベルトはやっぱりそれなりに、といってもよく弾くのはなんといっても
「未完成」。日本ほどは弾かないけど。日本は結構弾くよね、未完成。
佐藤 日本はまあそうだね。
林 読響はよく弾くんだけど。あと
「グレート」とかね。
佐藤 うん。「グレート」になるとちょっとやっぱり回数としては少ないかなと。
林 そんなにしょっちゅう弾くものではないね。長い曲だし。僕はシューベルトが好きだから楽しいんだけど、ただ例えば「グレート」にしても、繰り返しっていうかひたすらぐるぐるぐるぐる…
佐藤 反復が非常に多い(笑)
林 お経を唱えてるようなところ(笑)。まあそれが心地いいんだけど、ちょっとしんどいところもないわけじゃないけど。コンサートで弾けば良さって、伝わってくると思うんだけど。
佐藤 逆にそれより前のシンフォニーとかってやることある?
林 時々。5番は美しくて特に印象に残っているな。だけどどうだろう、僕にとってはオーケストラの作曲家っていうよりも、どっちかというとピアノ曲とか歌曲とか、室内楽とか、そういうところでより良さが伝わってくるような。シューベルトらしさというかね。
佐藤 確かにね。歌曲はやっぱり独特で、彼が始めた、創始したジャンルみたいなところがあるから、もちろんメロディーも素晴らしいんだけど。でも本人的にはやっぱりシンフォニーと書きたかったらしいんだよね。
林 らしいよね、でもなんせまあ、ベートーヴェン様っていうのがいたし。
佐藤 まあ書いたところでなかなか演奏もされないし。でもどうやらその初期のシンフォニーは、当時ハトヴィヒっていうパトロンみたいな人がいて、その人がオーケストラ持ってて、その邸宅で初演したっていう話で。だからシューベルトが自分で指揮するなり、少なくともたぶん聴いたはずだと。ところが今演奏されてるその「未完成」とか「グレート」とかいうのは、生前には少なくとも演奏されてないんだよね。
林 うーん。
佐藤 だから楽譜は書いたけれども、実際に耳にすることはなかったんだろうといわれている。最後の「グレート」に関しては、楽友協会から、何か弾いてあげるから楽譜を出しなさいって言われて、書いて出したんだけれども、結局却下されて。で、その演奏会の前に本人は死んじゃうんだけれども、実際に演奏されたのは6番だったかな、C-durの違うシンフォニーで。だから結局「グレート」もその後ずっとお蔵入りになって、シューマンが発見するまで10年間ぐらいそのままだったというから、不運というかね。まあそういう曲はたくさんシューベルトの場合あるんだけど。
林 もうちょっと長生きっていうか、長生きとまでいかなくてももう少し生きていれば、大きな曲ももっと作れたかもしれないよね。
佐藤 そうだね、やっぱりキャリアを積むには、あまりにも人生が短かったとは思う。
林 もう少し生きていたらどういうふうになってたんだろうなって考えると、面白いけど。
佐藤 今回は、ヴァイオリンとピアノのソナタっていうか、多楽章構成のものをお願いするということで、全部で4曲あるわけだけど、何か印象とか。
林 シューベルト好きな割にはそこまでたくさん弾いてきたわけじゃないから、オールシューベルトで、さらにソナチネとソナタで固めるプログラムで、もう本当に大好きな、美しい曲なんだけど、果たしてこのプログラムで曲の魅力をうまくお客さんに伝えられるだろうかという不安はあった。でも実際に練習してみたり、合わせてみたりすると…このソナチネ3曲は同じ年に書いてる。
佐藤 そうだね。
林 だけど、1番・2番・3番で全然違うしね。後半のグランデュオは、翌年かな?
佐藤 そう。
林 同じ時期に書いた曲をいろいろ聴き比べられるのも面白いかもしれない。19歳・20歳で書いたとは思えない、深い部分もあるし。すごく楽しみになってきた。なかなかの挑戦ではあるんだけど。
佐藤 なんか本当に、こんなプログラムにお付き合いいただいてありがとうございます。なかなかやってくれる人いないと思うんだよね(笑)。毎回そうなんだけどこのシリーズにお呼びする人は結構いろいろ考えてお声がけしていて。今のところまだ断られたことはないんだけど、最初に話すと「えっ?」みたいな感じで。
林 自分ではなかなか言い出せないプログラムだよね、よほど自信があるとかじゃないと。
佐藤 ヴァイオリンのソリストでも、シューベルト4曲でって言われたら「へぁ?」みたいな感じじゃないかと。
林 「ちょっとそれは…」って人がおそらく多いんじゃないかな。でもやっぱりお互いウィーンつながりっていうこともあるし、やっぱり長年ウィーンに住んだ身としてはすごく価値ある挑戦かな。これは逃げてはいけないな。これはきっとチャンスだ、と思って取り組むことにしました。お声がけありがとうございます。
佐藤 じゃあ良い演奏会になるように。よろしくお願いします。
(インタビュー完・2022年10月25日、さいたま市にて)
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- 2023/05/12(金) 23:45:04|
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幻想曲 ハ長調 Fantasie C-dur D605a 「グラーツ幻想曲」 "Grazer Fantasie"
作曲:1818年頃? 出版:1969年
楽譜・・・
IMSLP(2つ目のBärenreiter版の楽譜。1つ目の楽譜は別作品(D605))
シューベルトのピアノ作品中極めつけの「問題作」である。以下、新シューベルト全集の序文(校訂者ヴァルター・デューアWalther Dürrによる)を参考に本作にまつわるエピソードをまとめてみたい。
まずは主要登場人物を紹介しよう。
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アンゼルム・ヒュッテンブレンナー Anselm Hüttenbrenner (1794-1868)
オーストリアの作曲家。グラーツ出身。裕福な地主の長男として生まれ、1815年にウィーンに出てサリエリに作曲を学ぶ。同時に晩年のベートーヴェンのもとに出入りするようになり、1827年には大作曲家の最期を看取った。同門のシューベルトと親しく、du(きみ、ドイツ語の親称(親しい間柄だけの呼びかけ))で呼び合う数少ない作曲家仲間だった。1821年故郷に戻り、シュタイアーマルク楽友協会の会長を務めた。この頃シューベルトから「未完成交響曲」D759の総譜を受け取るが、そのまま私蔵し、シューベルトの死後37年経った1865年に指揮者ヨハン・フォン・ヘルベック(1831-1877)が訪ねてくるまで公表しないという不可解な行動を取った。
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ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナー Josef Hüttenbrenner (1796-1882)
アンゼルムのすぐ下の弟。同じく作曲家で、シューベルティアーデの仲間だったが、兄ほどの才能はなく、シューベルトともそれほど親密にはなれず、ほとんどグループの使いっ走りのような存在だった。多くのシューベルト作品の写譜を担当している。
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エドゥアルト・ピルクヘルト Eduard Pirkhert (1817-1881)
ピアニスト、作曲家。ウィーンでハルムやチェルニーに師事し、20代前半でヨーロッパツアーを敢行。華麗な演奏技巧を誇り、モシェレスらに激賞された。ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの友人で、その膨大なコレクションの中からよく楽譜を借り出していたらしい。
●
ルドルフ・フォン・ヴァイス=オストボーン Rudolf von Weis-Ostborn (1876-1962)
グラーツの作曲家、教会合唱指揮者。母はヒュッテンブレンナー家の出身で、アンゼルム、ヨーゼフの下の3番目の弟アンドレアスの娘である。シューベルトと同い年のアンドレアスはグラーツ市長を務めた。
ここからがストーリーの始まりである。
1962年、グラーツの音楽家ルドルフ・フォン・ヴァイス=オストボーンが死去した。遺品を整理していた妻マリア・ルッケンバウアー=ヴァイス=オストボーンと音楽学者コンラート・シュテークルは、1969年にその中から手書きの楽譜と書類の束を発見する。それはヴァイス=オストボーンが大伯父のヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーから受け継いだもので、その中には知られていないシューベルト作品の筆写譜が大量に含まれていた。
その中の1曲がこのハ長調の幻想曲である。ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの手になる非常に丁寧な表紙には、「ピアノフォルテのための幻想曲 フランツ・シューベルト作曲」と記されており、更に鉛筆で「オリジナルはピルクヘルト教授に貸し出した。この筆写譜には作曲の日付がない」とメモされている。ヨーゼフの筆跡は表紙ページのみで、楽譜そのものは別のコピイストが書き写しているが、このコピイストはヒュッテンブレンナー旧蔵の多くの他の筆写譜を担当しており、この1作だけが例外というわけではない。
どうやらヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーは、楽譜や資料を関係者に気前よく貸し出して、そのまま返却されないことがあったらしい。同じ遺品の束の中に発見されたヨーゼフのメモ書きで、シューベルトが兄アンゼルムに宛てた手紙でヨーゼフの歌の才能を評価したものがあったのだが、友人テルチャーとイェンガーに預けたら戻ってこない旨、また作曲家ヴェーバーがヨーゼフに宛てて、シューベルトの歌劇「アルフォンソとエストレッラ」について書いた手紙もショーバーに貸したら返ってこない旨、そしてそれらの「写しもとっていなかった!」という嘆きを記している。そうした失敗に懲りたのか、ピアニストのピルクヘルトにこの幻想曲の楽譜を貸して欲しいと頼まれたとき、写譜して手元に1部保管しておいたのだろう。つまりヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーはもともとこの作品の自筆譜を所有していた可能性が高い。そしてそれをピルクヘルトに貸し出し、予想通り戻ってこなかった。そこで筆写譜の表紙に鉛筆で、この散逸の経緯を書き留めておいたのであろう。願わくば筆写譜の方を貸し出しておいてくれたなら・・・と思わずにはいられないが、今となっては仕方のないことである。ピルクヘルトに渡った自筆譜はどこかに消え失せ、今のところ見つかっていない。1969年にこの筆写譜が発見されるまで、この作品は存在したことさえ全く知られていなかったのである。
1969年のうちにヴァルター・デューアの校訂でベーレンライター社より出版され、シューベルトの新作発見!とニュースになったわけだが、出てきた譜面を見、曲を聴いて、人々はヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの記述の信憑性に疑問を抱くことになる。つまりこれは、シューベルトの真作ではないのではないか、ということである。
以降、この「グラーツ(で発見された新しい)幻想曲」についての議論が巻き起こり、結果この作品は「
グラーツ幻想曲」の名で呼ばれるようになったが、オーストリア・シュタイアーマルク州の州都グラーツはこの作品そのものの成立過程とは全く関係がない。
なぜ人々はこの作品に疑念を抱いたのであろうか。
一言で言えば、シューベルトの作品としては非常に異色であり、もっと言えば、響きがより新しい感じがするのだ。
まずシューベルトはこんな構成の「幻想曲」を書いたことはない。「さすらい人幻想曲」D760以降の幻想曲は、いわば「切れ目のないソナタ」であり、論理的で秩序だった構成が取られている。それ以前の幻想曲、たとえば前に取り上げた
D2eや、連弾用のD1、D9などは「さまざまな楽想が脈絡なく続いていく」スタイルで、一見すると「グラーツ幻想曲」もこのグループに含まれるように思われる。
しかし細かく分析すると、そう単純ではない。この作品はハ長調の静かな主題で始まり、次のセクション([55]-)はなんと嬰ヘ長調(!)のAlla polacca、すなわちポロネーズになるわけだが、ポロネーズの3拍子を保ちながら嬰ヘ短調、ニ長調へ到達したところで冒頭主題がわかりやすく引用されるのである([93]-)。次のセクションは変イ長調で、ここも冒頭主題の変奏([129]-)。そしてその中の2度下行のモティーフ(冒頭部では第6小節に登場する「呼びかけ」のような表情豊かな音型)を操作して、そこから変ホ長調の新しい主題が生まれる([159]-)。変イ長調からホ長調に至り、行進曲のような付点リズムが印象的なセクションに到達するが([213]-)、ここでは冒頭主題の後半([39]-)のメランコリックな和声進行が引用されている。ト長調のパッセージが続く12/8拍子のセクション([244]-)は一見新しい楽想だが、ひとしきり落ち着いたところで例の2度下行のモティーフが現れる([253]-)。そしてハ長調に戻り、冒頭主題がそのまま回帰して([283]-)美しい余韻とともに曲が終わる。
つまりこの幻想曲のうち「ポロネーズ」を除くすべてのセクションは冒頭主題のモティーフを使った変奏なのだ。しかしそれは「さすらい人幻想曲」のようなあからさまな主題労作とは違ってさりげなく展開されるので、一聴しただけでは気がつかず、気まぐれに転調が続いていくとりとめのない楽想の羅列のように聴かせてしまう。
これは作曲技法としては相当に高度なもので、プロフェッショナルな作曲家のみが書きうる作品である。決して無名の素人が趣味的に書いたものではない。
更にこの曲の信憑性に疑念をもたらすのが、響き、もっと開いて言えば「聴き面」の新しさである。
冒頭主題の回帰部分で頻出する左手の幅の広い分散和音、右手の高音域での輝かしいパッセージ、半音階の多用とそれを利用した転調は、ほとんどショパンのノクターンの世界に重なる。先入観なしで鑑定すれば、ショパンと同時代か、それ以降の作曲家の作品と判定されるのではないだろうか。そのくらい、ピアノでしか表現できない新しい響きを追求した作品なのだ。
上に列挙した要素は、それぞれ単独ではシューベルトのピアノ曲に登場しないこともない。しかしこれほどまとまって現れるのは非常に稀で、それゆえにシューベルト作品としては聴いたことのない響きが立ち現れる。
これがシューベルトの作品だという根拠は、ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの表紙しかない。となると、彼の故意の偽装か、あるいは不注意によるミスで、別人の作品にシューベルトの名を被せたのではないかという疑惑が生じてくる。
しかし、本作が名曲であるがゆえに、真の作曲者として挙げることのできる名はかなり限られてくる。ヴァルター・デューアが挙げた候補は、フンメル、ヴェーバー、そしてヨーゼフの兄アンゼルム・ヒュッテンブレンナーの3人だ。
最初の2人はビッグネームである。ヨハン・ネポムク・フンメル(1778-1837)は当時のピアノ界の巨匠で、1816年に「気まぐれな美女、幻想曲風ポロネーズ」作品55というピアノ曲を発表している。本作の第2セクションが流行のポロネーズであることを考え合わせると、少なくともこの「気まぐれな美女」が本作の下敷きになった可能性はある。「魔弾の射手」で名高いオペラ作曲家のカール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)も、「この時代にこんな曲を書けるとすれば・・・」ということで挙がってきた名前だと思われるが、フンメルとヴェーバーに関して言えば、彼らのような大家がこうした作品を書いて、筆写譜1部だけがヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの手元に残り、他の全ての資料が消え失せるという事態はちょっと考えにくい。
そこで有力な候補となったのがアンゼルム・ヒュッテンブレンナーである。
アンゼルムはシューベルトの親しい友人で、シューベルト同様に相当な多作家だった。250曲を超える歌曲を含む総計500曲以上の声楽曲、80曲あまりのピアノ曲などを書いている。サリエリのもとで学び始めたのはシューベルトよりも遅いが、歳は3つ上で、おそらく門下の優等生だったのではないだろうか。シューベルトは尊敬のあまり近づくこともできなかったベートーヴェンのところへ出入りし、「君(ヒュッテンブレンナー)に訪ねてきてもらうほど、私(ベートーヴェン)は価値のある人間ではない」という謎の言葉を賜っている。まさか才能のことを言っているとは思えないし、身分の高い家柄だったのだろうか。1827年3月26日の大作曲家の臨終の床に、女中のサリとともに居合わせ、雷鳴に向かって拳を突き上げ云々という有名なエピソードを語ったのもこのアンゼルム・ヒュッテンブレンナーである。彼のレクイエム ハ短調は、1825年のサリエリの死、1827年のベートーヴェンの死、そして1828年のシューベルトの死のあと、それぞれ追悼ミサで演奏された。当時その才能が認められていたのは、故郷グラーツに戻った直後、20代半ばの若さでシュタイアーマルクの楽友協会の会長を務めたという経歴からもよくわかる。何の地位も得られず仲間内で作品を発表するばかりだったシューベルトとは大きな違いである。
シューベルトが1823年にシュタイアーマルク楽友協会から名誉表彰を受けたのは、おそらくアンゼルムの口利きによるのだろう。その返礼としてシューベルトがヨーゼフを通じてアンゼルムに送ったのがあの「未完成交響曲」である。しかし彼がこの曲の存在を長年公表しなかったことは上に書いた通りである。2楽章で終わっていたので続きを待っていたのかもしれないが、シューベルトが死んだらもう続きはないのだから、少なくとも周囲の人間には存在を明かしてもよいようなものである。あるいは後続楽章の譜面も持っていたのだが紛失し、その露見を恐れて秘匿していたのかもしれない。あるいはもっと根深い嫉妬や複雑な感情が絡んでいたのかもしれない。アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは1840年から神秘主義者ヤーコプ・ローバー Jakob Lorberの新興宗教にはまり、彼の口から発される「神の言葉」を書き留めることに尽力したと伝えられている。
さて、ヨーゼフは本作を兄アンゼルムの作品と知りながら、その表紙に「シューベルトの作品」と記すという詐欺行為を行ったのだろうか。だとすると、「ピルクヘルトに貸し出して云々」という鉛筆書きも悪質な虚偽かもしれない。ヴァルター・デューアはさまざまな可能性についてずいぶん詳細に検討を行っている。
デューアはこの可能性を否定する。もしアンゼルムの作品をシューベルト作と騙るとすれば、それはシューベルトの名を使ってこの作品を出版しようとするときだけだ(音楽作品の偽作はほとんどそのようなビジネス上の方便で行われる)。しかし本作を出版しようとした形跡は見当たらない。もし出版しようとしたならば、その過程でもっと多くの筆写譜や校正譜が残っているはずである。デューアは、もし詐欺を行うとすれば「シューベルトの作品を兄アンゼルムの作品と騙って発表する」のであって、その逆は考えにくいとしている。
では不注意によるミスだろうか。もしそうだとしたら、シューベルトの真作のピアノ用の幻想曲があって、それとこのアンゼルムの作品の表紙を付け間違ったということになる。しかしこの仮定に該当するようなアンゼルム・ヒュッテンブレンナーの(実際にはシューベルトが作曲した)作品は知られていないし、遺品の束にも見当たらない。とするとこの「ミス説」も可能性は薄い。
更にデューアは、何らかの既存の作品のシューベルトによる編曲ではないか、などという説を提案しているが、これは考えるまでもなく現実的ではない。
デューアの結論としては、これはフンメルやヴェーバーなど当時の流行のピアノ曲のフォーマットに則ったシューベルトの真作で、せっかく流行のスタイルで書いたのに出版せず、友情の証としてヒュッテンブレンナー兄弟のもとに預けたのではないか、ということらしい。
確かに、この曲を出版していたら結構売れたかもしれない、と思わなくもない。でもポロネーズの嬰ヘ長調はシャープが多すぎてダメかな・・・。
私自身は、密かに考えている別の説がある。
個人的には、この傑作がシューベルトの真作であって欲しいし、楽想のみずみずしさや美しさは紛れもなくシューベルトの天才の所産だと信じている。しかし、シューベルトがこんな曲を書くだろうかと考えると、一抹の疑問が残るのも否めない。
私は研究者でも何でもないので、全く論拠のない仮説だが、これはシューベルトの楽想を別人、おそらくヒュッテンブレンナー兄弟のどちらかが繋ぎ合わせた合作なのではないだろうか。もしかしたらシューベルティアーデの席で、シューベルトがさらさらと即興で弾いたピアノ曲を、その場で、あるいは後から必死に思い出して記譜したのかもしれない。だから楽想はシューベルトの作だが、伴奏パートなどの細かい書法はヒュッテンブレンナーの手が入っていて、長生きした彼らがショパンの響きを知ってから書き直すこともできたはずだ。ヨハン・ペーター・フォーゲルの指摘通り、シューベルトが生涯に一度も書かなかったModerato con espressioneという発想標語が冒頭に記されている件も、これで説明はつく。
そうして完成した「シューベルトの主題による幻想曲」を、自作として発表するのは気が引けて、いきおい「シューベルト作曲」と書いてしまったのではないだろうか。
ちょっとタイムリーな話題に近づいてしまった気もしないでもない。
- 2014/03/25(火) 18:29:48|
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