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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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シューベルトの旅 (4)1821年9-10月、ザンクト・ペルテン、オクセンブルク城

「双子の兄弟」の上演が1820年7月に終わった後も、シューベルトのオペラ(舞台作品)への挑戦は続いた。

1820年8月19日には魔法劇「魔法の竪琴」D644がアン・デア・ヴィーン劇場で初演。当時流行っていた魔法劇の新企画に、レオポルト・ゾンライトナーがシューベルトを推薦したことで実現したが、台本(「双子の兄弟」と同じくゲオルク・フォン・ホフマンの作)が錯綜している上に、魔法のスペクタクルを演出する大がかりな舞台装置が動作せず、惨憺たる評判であった。それでも8回上演されたが、劇場は財政難を理由にシューベルトに支払うべき報酬を踏み倒したらしい。
10月にはインド古代劇に基づくオペラ「サクンターラ」D701に取りかかるが、翌年の初めに未完のまま投げ出した。

劇場関係者にも名が知られてきたシューベルトは、1821年2月にケルントナートーア劇場の臨時のコレペティトーアとして雇われる。同月、モーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」でデビューする18歳のアルト歌手カロリーネ・ウンガーに下稽古を付けるという役目だったが、毎回遅刻してくる上に歌唱指導もおざなりで、劇場関係者の心証をだいぶ悪くした。6月にはエロルドのオペラ「鐘」への挿入曲を2曲(D723)作曲し称賛を得たものの、シューベルトがコレペティトーアとして雇われることは二度となかった。

この怠慢さと倫理観の欠如の一因として取り沙汰されているのが、他ならぬフランツ・フォン・ショーバーとの交友関係である。
ショーバーは「風景画家になる」という夢を抱いて修行に出ていたが、1821年の初めにそれを諦めてウィーンに戻っていた。彼は芸術全般において多才な人物だったが、ひとつのことを極めるだけの忍耐力がいささか以上に欠けていた。外交的でお調子者のショーバーは、知り合って間もない人には魅力的な人物に映るが、やがてその薄っぺらさや胡散臭さが目に付き、みな距離を取るようになるのだった――ただひとり、シューベルトを除いて。純粋なシューベルトがショーバーに丸め込まれているのだと周囲は思っていたが、あるいは心のもっと深い部分で繋がりを感じていたのかもしれない。シューベルトは死ぬまでショーバーを信頼し続けていた。
ともかく、久々に街に帰ってきたショーバーと、シューベルトは以前よりも親密な関係となった。ショーバーの流儀に倣って享楽的な生活を送り、創作量は減り、決められた時間に職場に通うような仕事はすっぽかすようになった。2人が嗜んでいた麻薬の影響だと唱える研究者もいる。

1821年7月のアッツェンブルック城でのパーティーから戻った2人は、新たな共同作業を始めることになる。シューベルトのオペラへの取り組みがことごとく失敗してきたのは、何よりも台本が稚拙だったからだ。ショーバーが「それなら僕が台本を書いてあげよう」とシューベルトに持ちかけたのだろうか。


ブルーがウィーン、オレンジがザンクト・ペルテン、赤がオクセンブルク城

9月の初め、2人はウィーンを離れた。アッツェンブルックに数日滞在したあと、ウィーンから西に約50kmのところにあるザンクト・ペルテンの街に到着する。同地の司教、ヨハン・ネポムク・フォン・ダンケスライター Johann Nepomuk von Dankesreither (1750-1823)はショーバーの親戚だった。2週間あまりの滞在の間、彼らは毎晩のようにショーバーの友人の家に招かれ、舞踏会が開かれた。ショーバーによれば3回のシューベルティアーデが開催され、そのうち2回は司教の邸宅だった。そうした忙しい毎日でいくらか稼ぎを得たのだろうか、9月20日に彼らは司教の所有する郊外のオクセンブルク城に移動する。約1ヶ月間、2人はこの屋敷に籠もってオペラ「アルフォンソとエストレッラ」D732の創作に取りかかった。
シュパウンは2人がウィーンを離れて仕事を忘れ、遊び呆けるのでは(そして良からぬことに手を染めるのでは)と心配したようだが、実際のところ2人は本気でオペラ制作に没頭したらしい。自筆譜には、冒頭に「9月20日」、第1幕の終わりに「10月16日」、第2幕の始めに「10月18日」との日付があり、ショーバーが報告したところによると、ウィーンへ戻る頃には「台本は第3幕、音楽は第2幕まで完成」していた。彼らはおそらく毎日顔を突き合わせながら、台本と音楽を並行して進めていったのだろう。人気作家や脚本家が「ホテルに缶詰になる」という話があるが、それと似たようなもので、外部から隔絶された、仕事に集中できる環境をショーバーがシューベルトと自分自身に提供したわけである。

オクセンブルク城
現在のオクセンブルク城

オクセンブルクが「本当に美しい環境だった」というショーバーの報告以外、2人が同地でどんな日々を過ごしたかについての詳細な記録は残されていない。彼らがオペラ完成を目前にウィーンに帰ってきたのは、おそらく11月3日にケルントナートーア劇場で行われたヴェーバーのオペラ「魔弾の射手」のウィーン初演に立ち会うためだったと思われる(検閲対策の改竄のせいで、この初演は大失敗に終わった)。その前日にシュパウンに宛てた手紙で、シューベルトはイタリアの辣腕オペラ興行師、ドメニコ・バルバヤがウィーンの2つの劇場、すなわちケルントナートーア劇場とアウフ・デン・ヴィーデン劇場の支配人に12月に就任するというニュースを伝えている。バルバヤはウィーンでのロッシーニ大フィーバーを仕掛けた張本人だったが、就任直後にヴェーバーとシューベルトに対し、翌シーズンに上演するためのドイツ語オペラを提供するよう依頼した。イタリア・オペラでウィーンを侵略するつもりだという保守層からの批判をかわす思惑もあったと思われる。シューベルトは意を強くして「アルフォンソとエストレッラ」の仕上げの作業に取りかかり、年が明けて1822年2月27日に脱稿した。
舞台は中世のスペイン。王位を奪われた国王フロイラの息子アルフォンソと、王位簒奪者マウレガートの娘エストレッラが恋に落ちる。台本こそドイツ語だが、娯楽的なジングシュピールとは一線を画した本格的なイタリア・オペラの様式が採用された。
当時のシューベルトにとって、最大の自信作が完成した。

僕たちはこのオペラに大きな期待をかけている。
(1821年11月2日、シューベルトからシュパウンに宛てて)

ところが事はそう簡単には運ばなかった。シューベルトの最大の理解者であり、フロイラ役を演じることを想定していたフォーグルが、この作品を全く評価しなかったのである。オペラそのものの出来に満足しなかったことに加え、フォーグルはシューベルトがこのような重要な局面で、オペラ界の重鎮である自分に何の相談もなく、ショーバーの稚拙な台本を扱ったことにおそらく憤慨していた。ショーバーの帰還以降、他の友人たちと疎遠になっていたシューベルトだったが、この件を契機にフォーグルと決裂してしまう。その年の夏にシュタイアーでフォーグルと会ったアントン・フォン・シュパウン(ヨーゼフ・フォン・シュパウンの弟)は、「オペラ(「アルフォンソ」)は失敗作であり、全体的にシューベルトは間違った方向に進んでいる」というフォーグルの言葉を聞いて心を痛めた。
自信作だった「アルフォンソとエストレッラ」は、結局バルバヤにも受け取りを拒否されてしまう。

あのオペラはウィーンではどうにもならない。提出した楽譜は返却してもらったし、フォーグルは本当に舞台から引退してしまった。僕は近いうちにあのオペラを、ヴェーバーが好意的な手紙をくれたドレスデンか、ベルリンにでも送ってみようと思っている。
(1822年12月7日、シューベルトからシュパウンに宛てて)

シューベルトは諦めず、ドレスデンでの上演を期待して1824年にヴェーバーにスコアを送ったが、返答はなかった。ヴェーバーの次作「オイリアンテ」についてシューベルトが否定的な見解を口にしたことが彼の機嫌を損ねた、とも伝えられるが、本当のところはわからない。
同年末にはベルリンのソプラノ歌手アンナ・ミルダー=ハウプトマンからの依頼を受けてスコアを提出するも、「この台本は当地の趣味に合わない」と体よく断られた。実際には彼女が演じるべき役がこのオペラの中に無かったからだと思われる。
1827年のグラーツ旅行のホストであったパハラー夫妻にも本作の上演を働きかけたが、これも徒労に終わった。
結局このオペラが日の目を見たのはシューベルトの死後25年以上が経過した1854年6月24日のことだった。場所はドイツのヴァイマール、指揮したのはかのフランツ・リストである。上演にあたって作品を大幅に短縮したリストは、歴史的初演を経て次のように述べている。

この歌劇の一連のアリアは軽やかで美しく、幅広い旋律を持っている。これらすべてにシューベルトの叙情性を読み取ることができ、その多くは彼のリートの最高のものとも考えられる。また、彼が愛用した音程、終止法、フレーズの処理方法が多用されている。
しかし、至るところに情景描写や劇把握の欠点が目に付く。これらの欠点を補うために、オーケストレーションの利点が生かされることはなく、音楽が効果を発揮している箇所はどこにも見いだせない。管弦楽法は極めて控えめな役割を演じるだけで、実際はピアノ伴奏のオーケストラ用編曲に過ぎない。特にしばしば用いられるヴィオラのアルペジオと、さまざまな楽器で和音・装飾・パッセージを重ね合わせる(しかも他の楽器は少しも気分転換をもたらすことがない)その単調さは、聴き手を飽きさせる。(略)劇場はシューベルトの視野にはあまりに広すぎ、突如として湧き上がる彼の霊感にとっては、舞台が要求する織物はあまりに複雑すぎたのだ。

(1854年9月1日、フランツ・リストによる「新音楽時報 Neue Zeitschrift fuer Musik」の記事)

シューベルトの熱烈な崇拝者であるリストでさえも、「アルフォンソとエストレッラ」を佳作と認めることはできなかったのである。台本作家ショーバーはシューベルトの死後、リストの秘書を務めていて、そのことがこのヴァイマール初演のきっかけとなった可能性が高い。そのショーバーもまた、このオペラについて後年、「ひどい台本で、シューベルトの天才をもってしても、生き返らすことはできなかった」と顧みた。

意気盛んな2人の若者の、儚い夢の舞台となったオクセンブルク城。提供の返礼として、ダンケスライター司教には連作歌曲「ヴィルヘルム・マイスターの竪琴弾き」(D478-480)が献呈され、1822年に献辞とともに出版された。
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  1. 2018/03/31(土) 16:29:07|
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