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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

林悠介インタビュー (1)周りに誰もいなかった

佐藤卓史シューベルトツィクルス第18回のゲスト、林悠介さんにお話を伺いました。
ヴァイオリニストをお迎えするのはシリーズ初。佐藤とは昔からの友達ではあるのですが…

佐藤 林くんのインタビューみたいなものは、ネット上にはあまりないようだから。
林  そうだね。
佐藤 オーソドックスな質問からお聞きしていいでしょうか?
林  はい。
佐藤 いつぐらいから、なぜヴァイオリンを始めたのかという。
林  ヴァイオリンを始めたのは、ちょうど4歳になる頃だったかな。僕の両親は音楽家じゃないけど、父親が音楽好きというか、もう相当な愛好家で。
佐藤 言ってたよね、フィッシャー=ディースカウのレコードとかたくさんお持ちだったと。
林  そう、それこそ今回のと繋がるんだけど、こどもの頃はシューベルトの「ます」(ピアノ五重奏)とか。
佐藤 へえ!
林  「ます」が一番気に入っていて、好きだった。でもヴァイオリンのところじゃなくて、一番喜んでいたのはピアノが出てくるところで。

林悠介インタビュー1

佐藤 まあ「ます」はピアノが一番おいしい曲だから(笑)
林  そうそう。シューベルトに限らず室内楽が多かったかな、父親の趣味もあって。
佐藤 なんか渋いですね。
林  バルトークの弦楽四重奏全曲なんか聴きすぎて、小学生のときにはほとんど覚えていたね。
佐藤 すごい。
林  シューベルトだとそれこそ「冬の旅」とか、渋いものが好きだったけど。そういうこともあって、楽器をやらせたいと。父親は自分が子供の頃にヴァイオリン弾きたかったようだけど、当時はなかなか難しかったらしくて。
佐藤 はあなるほど。
林  転勤族だったから、ずっと地方を転々としてたんだけど、その土地土地で先生を見つけて、最初は趣味っていうか、遊びでやっていたかな。
佐藤 でもあるときに、ヴァイオリニストとしてプロになろうと。
林  そう、だんだん大きくなってきて小学校高学年ぐらいから東京の先生に見てもらったりして。それで中学1年生のときに原田幸一郎先生に演奏を聴いてもらったら「1日3時間以上練習すると約束できるなら、僕のところに来なさい」といわれて。
佐藤 それまでは何時間ぐらい練習してたの?
林  どのくらいやってたのかな、はっきりとは覚えてないな。
佐藤 3時間って言われたらちょっと多いなって感じ?
林  「毎日かあ」って。でも先生が言ったのはその3時間に見合った内容っていうことで。そのためには最低3時間は要るよっていうだけで、3時間でいいっていう話じゃなかったんだけど。
佐藤 確かにそうだ。
林  そこから、桐朋に進んでプロを目指すっていう道が見えてきたかな。勉強も並行してやってたし、僕はどっちかというと夢は宇宙とか。
佐藤 へえ!
林  宇宙飛行士になりたいわけじゃなかったんだけど、宇宙関係のことやるのが夢で、外国に出るのも夢だったね。でも中2ぐらいで桐朋に進むって決めたときに、腹を決めたというか。
佐藤 じゃあ、ヴァイオリニストになりたいっていうのは半分ぐらい、みたいな感じ?
林  そうね、半分ぐらい。ただ両親も音楽家じゃないから、ヴァイオリニストで食べていくって実際どういうことなのか、具体的にわかるわけじゃないし、あと地方だったのもあって、周りにヴァイオリンやってる人なんて誰もいなかったんだよね
佐藤 そうなの?
林  転校しても、いつもその学校でヴァイオリン弾く人は僕1人。先生たちも「ヴ、ヴァイオリン!」「見たこともない」みたいな感じで。
佐藤 ちなみにどんな街で暮らしてたの?
林  ヴァイオリン始めたときは、宮崎県の延岡市。
佐藤 おお! だいぶ南の方だね。
林  そう。その後熊本に移って、熊本にはもちろんヴァイオリンの先生は何人かいたんだけど、学校にはヴァイオリン弾く子はいなかったんじゃないかな。その後長野県上田市に。
佐藤 かなり距離が。
林  そこもヴァイオリンを弾く友達はいなかったね、学校には。みんなの前で弾いてみせたら目を丸くしていたのを覚えているよ。実物を見たことなんてなかったんじゃないかな。
佐藤 でも長野っていったらスズキメソッドのイメージが。
林  そうそう、今は上田って良いホールもできたしね、盛んだけど当時はそうでもなかったのかな。
佐藤 そうなんだ。
林  その後宇都宮に移って。その頃はもう中学2年生で原田幸一郎先生のところに毎週末通っていた。その後桐朋に入って東京に。
佐藤 なるほど。高校から桐朋なんだよね。
林  そう、桐朋の高校に入って、そこで初めて音楽をやる仲間に出会えたっていうか、一緒に室内楽とか演奏することができて、楽しいなと思った。
佐藤 桐朋ってあれでしょ、男の子少ないんでしょ?
林  少ないね(笑)。当時1学年に100人ぐらいいて、僕の学年は男が12人。3クラスあったから1クラスに4人、それでも割と多い方だった。
佐藤 あ、まあそうだね。
林  女の子たくさんいていいねと言う人いるんだけど、そうでもない(笑)。男でいつも固まって行動していた。
佐藤 (笑)そうだろうね。
林  今でも仲いいのだけどね、その男子たちは。
佐藤 でも、大学は行かずに?
林  ソリストディプロマコースに行くつもりだったけど、高校3年生の2月か3月にウィーン音大教授のドーラ・シュヴァルツベルク先生のレッスンを受けて。最初は、そのアシスタントのソロコフ先生に日本の講習会で習って、その流れでウィーンに習いに行ったんだ。
佐藤 へえ。
林  そこで当時の自分に必要な先生はこの人だっていう、ものすごい確信を持ったからその年の5月に入試受けに行って、無事に合格。だからもう日本で大学行かずにウィーン音大へ。
佐藤 ってことは高校3年終わってその年の春にウィーンに行って、その年の秋から。
林  そう。まだ19歳になる前だった。
佐藤 そうか。僕が林くんに出会ったときは、僕があのとき21歳かそのぐらいだったから、ウィーンに行って3年ぐらい?
林  3年目かな?
佐藤 確か2005年に会ってるんだけど。
林  そしたら、ちょうど丸2年経ったところだね。ゴスラーの講習会だったよね。
佐藤 そうそう。その頃は自分史的にはどんな感じ? まだまだウィーンにいようかな、みたいな?
林  そうね、講習会は色々受けていたけど、あの頃はまだしばらく、自分の先生のところで習っていこうと思っていたかな。2005年だと、それこそコンクールとかもいろいろ挑戦していたし、具体的にソリストを目指しているわけではなかったけど、まだ勉強していろいろ経験を積みたいという段階だったね。
佐藤 結局ウィーンには何年間?
林  結局ね、9年間もいたんだ。
佐藤 長かったね。
林  9年間いたねえ、なんかそんな実感が全然ないんだけど。
佐藤 最後ちょっとかぶってたもんね確か(注・佐藤は2011年にウィーンに移住)。
林  そうだよね。修士課程まで修了したんだけど、最後の方はカルテットの演奏活動をしていたからウィーンからもちょくちょく離れてて、卒業も延ばしていた。でもなんだろう、あそこはあそこで別の時間が流れてるっていうか。たぶんわかると思うんだけど。
佐藤 うん、そうだね。
林  別に何年でも住めるっていうか、なんだろうね。9年いたんだけど、あっという間というか。

(第2回につづく)
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  1. 2023/05/03(水) 20:12:28|
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崎谷明弘インタビュー (4)ベートーヴェン・コンプレックス

インタビュー第3回はこちら

崎谷リハーサル2

崎谷 実はシューベルトを弾かせていただくのは本当に久しぶりで、ご迷惑をかけないようにと思ってるんですが。
佐藤 以前はどんなものをお弾きになったんですか?
崎谷 19番のソナタ(D958)。
佐藤 ああ、c-mollのね。
崎谷 そう、c-moll…(笑)以上、みたいな。
佐藤 以上! なるほど。
崎谷 大きいレパートリーはそうですよね。あとシューベルト=リストをちょっと。
佐藤 ああ。
崎谷 それから、室内楽でヴァイオリン・ソナタとか、「鱒」をやったりとかはありましたけど。あとファンタジー、連弾の(D940)。
佐藤 おお。f-mollの。
崎谷 それは居福(健太郎)さんと。
佐藤 へえ! それはまたすごい組み合わせだね。どこで弾いたんですか?
崎谷 ヤマハホールさんで。確か浜松アカデミーの絡みだったんじゃないかな、上野優子さんと居福さんと私で演奏会をするというので。
佐藤 なるほど。そのときはどっち弾いたんですか? 下(=セコンド)?
崎谷 上(=プリモ)弾きました。
佐藤 上弾いたんだ。シューベルトについては、こんな作曲家だなあとか印象ありますか?
崎谷 結構ね、シューベルト、生徒には弾かせるんですよ。好きなんですよね。
佐藤 ほう。
崎谷 でもね、すごく私の中では難しい…ダイナミックレンジで表現する方なので。
佐藤 うーん。
崎谷 それが、そこまで許されないというのがあって、上限が特に。ただ、こう、なんでしょうねえ…シューベルトのイメージですか…(笑)もうそれは先輩に語っていただいた方が。
佐藤 いやいや、正しいこととかじゃなくて、どう考えているのかをね。皆さん結構面白いことをおっしゃって「ああ、なるほど!」って思うので。
崎谷 演奏の目線でいうと、とにかく決めたらダメだなっていうのがありますね。決め打ちして、こう弾くんだっていうふうにやらないという。
佐藤 はあー、なるほど。
崎谷 動詞が存続形、みたいな…
佐藤 なるほどなるほど。
崎谷 理詰めでああやってこうやって、というのじゃなくて、もちろん実際演奏するときには計画構築はあるんですけど…。まあたとえばお茶を入れるとしたら、お茶を入れてお茶を飲むんじゃなくて、お茶から立ち上る湯気をね、顔に浴びながら。
佐藤 湯気(笑)
崎谷 そういうところを楽しむ。香りとか、熱さとか。でももちろんお茶はあるんですけどね。
佐藤 (笑)
崎谷 抽象的で申し訳ない(笑)。だからお茶の味をどうこうっていうんじゃなくて、そういうところでやらなきゃいけないのかなあと。a-mollの16番のソナタ(D845)とかも、結構好きなんですけど。情熱は、非常にある人だったと思うんですね。ただ、その表し方が、普通の人が情熱を表す表現とちょっと違うのかなっていう。
佐藤 うん。
崎谷 内面に秘めるっていう、本人は秘めてるつもりじゃないと思うんですけど、なんかちょっと違うんですよね。そんなふうにしか言えないですけど。
佐藤 なるほどね。
崎谷 シューベルト今回15回目でらっしゃいますよね。
佐藤 そうなんです。
崎谷 もちろん他の作曲家も弾いてらっしゃると思うんですけど、シューベルトをお弾きになるときに特別な部分というのはありますか?
佐藤 僕自身はね、シューベルトは共感する部分が多いので、全然難しいと思わないの。
崎谷 ああ。
佐藤 もちろん弾くのが難しいっていうことはあるかもしれないけど、表現で「これはどういうつもりで書いたんだろうな」って思うようなところがほとんどないんですよね。
崎谷 なるほど。
佐藤 他の作曲家には、多かれ少なかれあるんです。「この人なんでこんな音書いたんだろう」とか、「なんでここにフォルテって書いてるんだろう」とか、思う瞬間っていうのが楽譜のあちこちにあるんだけれども、そういうのがあんまりないので、なんかすごく自然に「ああそうだねそうだね」って思って弾いていってるかな、演奏者の視点としては。というか、僕はどちらかというと、どうも作曲家目線らしいんですよ。
崎谷 ああ。
佐藤 だから自分がこの主題で曲を書き始めたらどう書くだろうか、って考えるんですよね。で、「たぶんここはこうは書かない」っていうところが、あるんですけど、それがシューベルトの場合はないっていうか。
崎谷 へえ。
佐藤 もちろん僕にはそんな能力はないから、同じようには書けないですけど、もし思いついたらこれを採用しただろうなって。
崎谷 ああそうなんですね。
佐藤 でも、もちろんシューベルトにもいろんなフェイズがあるし、今言ってくれた、動詞が存続する感じってすごくよくわかるけどね。
崎谷 そうですか。

佐藤 それこそ今日崎谷君がレコーディングされていたブラームスも、シューベルトのことが好きというか、よく調べていて。
崎谷 うんうん。
佐藤 シューベルトの自筆譜をずいぶん持ってたんだよね。あと、その当時シューベルトの未完成の曲なんてほとんど出版されてなかったので、ウィーンのそういうのを持ってるコレクターから貸してもらったりして、ブラームスの筆写したシューベルトの楽譜っていうのが大量に楽友協会に残ってるのね。ブラームスは亡くなる前に資料を全部寄贈したので。だからそこからブラームスがインスパイアっていうか、ヒントを得て作曲したものが結構あるし、シューマンも実はそうなんだけど…シューベルトの知られていなかった曲から、かなりいろんなものを取っていったな(笑)という感じがあるんですよね。
崎谷 なるほど。
佐藤 だからある意味では受け継いでくれたところもあると思うし。あとはなんといってもシューベルトはベートーヴェンと同じ時代に生きてたので。
崎谷 ああ、そうですよね。
佐藤 ほとんどベートーヴェンと人生はかぶってたわけじゃないですか、もちろんずっと若いけれども。だからベートーヴェンへのコンプレックスっていうかね。
崎谷 うーん。
佐藤 ベートーヴェンはシューベルトのことはほとんど知らなかったかもしれないけど、シューベルトはすごく意識していて。それこそc-mollのソナタはすごくベートーヴェンチックな、ベートーヴェンみたいな曲を書こうって思って書いたんだろうなっていう感じですよね。ベートーヴェンのソナタ全集もここで録ってるの?
崎谷 そうですね。
佐藤 どのくらい進んでるんですか?
崎谷 ちょうどヘンレ(原典版)の1巻が終わったところで。
佐藤 おお、切りの良いところですね。



崎谷 前期から中期に差し掛かるところまで弾かせてもらって、だんだん一番難しいところに差し掛かってるというか。後期ももちろんいろいろあるんですけど、ある程度自分の考えでやればいいのかなって思ってるんですけど。中期の、特にOp.31の3曲(第16~18番)に取り組むにあたって、どういうふうに作っていったらいいんだろうっていうのに一番悩んでるかもしれないですね。
佐藤 うんうん。
崎谷 私はやっぱりテンポに興味があるんで、テンポをどういうふうに設定するのか。たとえば第18番のソナタ、慣例的に最初ゆっくり始まって、だんだん加速していくじゃないですか。
佐藤 第1楽章ね。うん。
崎谷 でも僕の中であれは納得できなくて。楽譜にはそう書いてないから。
佐藤 そうだね。
崎谷 だからそういう折り合いを、どういうふうに考えてたんだろうって。
佐藤 ああ、「折り合い」ってわかりますね。
崎谷 一方でテンペスト(第17番)は、明らかに緩急で書いているから、そういったところも18番でもあえて採り入れても良いのかなとか。だから去年の12月にはそうやって弾いたんですけど、変なことするねって言われて。
佐藤 ああそうなの?
崎谷 でも演奏家としては、ちょっと新しいアイディアでやってみたいなあと(笑)
佐藤 ぜひいろんな試みをね。もともとなんでベートーヴェンの全集を録ることになったの?
崎谷 そのレコード会社が全曲ものをやるという、たとえば巡礼の年とか、他の方がやられてるんですけど、そういう方針だったので。
佐藤 なるほど、そういうことだったのね。
崎谷 僕ハンガリー狂詩曲(リスト)弾いてたんで、ハンガリー全曲とか言われたんですけど、ハンガリー全曲はいいやと思って。
佐藤 それはなかなかつらい感じですね(笑)
崎谷 素晴らしい名盤もあるし、ハンガリーは。ベートーヴェンだってもちろん名盤あるんですけど、まず自分の勉強になるし、そのときは特にベートーヴェンが自分の中で非常に共感する作曲家だったんですよね。
佐藤 うん。なるほど。
崎谷 ルヴィエ先生もベートーヴェンがお好きで、よくレッスンされてましたし、恩師の迫先生も、松方ホールで全集録られてて。そういった影響もあり、ベートーヴェンやりたいですって言ったらすんなり通ったということなんですけど。ただ、自分自身は、得意か苦手かって言ったら、あんまり得意じゃないですよね、ベートーヴェンは
佐藤 え、そうなの?
崎谷 たぶん。好きですけどね、好きですし勉強になってますけど、なんでしょう、まあブラームスの方がやはり得意かな。ベートーヴェンは自分で聴いて、もうちょっとなんとかならんかったのかなって思うことは多い。
佐藤 ああそうなんだ(笑)
崎谷 それはこれからの課題ですけど。
佐藤 どのくらいのペースでここまで録ってきたの?
崎谷 12年から19年まで、7年かけて5枚。
佐藤 じゃあ十分に時間はかけつつ。でも1番から順番に出してるんだもんね。
崎谷 そうですね。だから本当はソナチネ(やさしいソナタ)を最初に弾いておかなきゃいけなかったんですけど。19・20番(作品49)ね。
佐藤 実は僕も全部録りたいと思っていて、僕は全然遅いペースでまだ2枚しか録ってないので、これ一生かけて終わるのかみたいな感じになってるんだけど(笑)。僕は最初に21から23を録ったんですよ。
TSCP0001
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第21-23番ほか
佐藤卓史(ピアノ)

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定価¥2,500+税
崎谷 それはなんでですか?
佐藤 ちょうどそのあと全国ツアーをやろうと思ってて、そこで有名な曲を8・14・21・23って弾くんだったので、そのプログラムの中で、自分が特にしっかり勉強したワルトシュタイン(21番)とアパッショナータ(23番)は録りたいと、じゃあ間の22も録るか、みたいな感じで、ゆくゆくは全部録るつもりでそこを録ったはいいものの、ウィーンのそのCDを録ったスタジオがそのあとなくなっちゃったりとかいうことがあって。
崎谷 ああそうなんですか!
佐藤 しばらく難航した挙げ句、2018年に、今度は12から15を録ったんですよ。
TSCP0002
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第12-15番  
佐藤卓史(ピアノ)

Tactual Sound TSCP-0002
定価¥2,500+税
崎谷 なるほど。12から15。
佐藤 というところで今止まっていて、さあ次どこに行こうかなと。間のね、同じ作品31のあたりをいくか。そうすると中期がほぼ揃う。
崎谷 そうですね。
佐藤 あるいはまた全然違うところを攻めていった方がいいのか、いろいろ考えつつ、ちょっとあちこちを摘まんで弾いてみては「うーん」って腕組みをしてるんだけど。
崎谷 シューベルトは全部出されてる?
佐藤 シューベルトはね、セッションで録ったのはシューベルトコンクールのご褒美で録っていただいた単発のディスクしかないんです。
崎谷 そうなんですね。
佐藤 でも一応このシリーズは全部ライヴ録音してるので、それこそちゃんと自分で編集を覚えて、リリースしないとと思ってるんですけど、まだ長い道のりです(笑)
崎谷 それは当然出さないと。
佐藤 ちょっと崎谷君を見習って頑張らないと、と今日思いました。

(インタビュー完 ・ 2021年8月18日、ヤマハアーティストサービス東京にて)
  1. 2021/11/27(土) 23:33:04|
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シューベルトの旅 (2)1819年7-9月、シュタイアー・リンツ

フォーグルとシューベルト
毀誉褒貶の絶えない「シューベルトの親友」、フランツ・フォン・ショーバー Franz von Schober (1796-1882)の、生前のシューベルトへの最大の貢献といわれるのが、オペラ歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグル Johann Michael Vogl (1768-1840)の知己を取り付けたことだ。
フォーグルは26歳でケルントナートーア劇場にデビューして以来、圧倒的な人気と実力を誇ったスーパースターだったが、シューベルトと知り合う頃には、その四半世紀に及ぶオペラ歌手としてのキャリアに終止符を打とうとしていた。ショーバーは、この大ベテランにシューベルトを紹介しようと画策し、早世した姉の夫でやはり劇場の歌手を務めていたジュゼッペ・シボーニ Giuseppe Siboni (1780-1839)のコネクションを使ってフォーグルに接触した。フォーグルは当初「若き天才現るという話はこれまで何度も聞いたが、そのたびに失望してきた。もうそういうことには関わりたくない」と突っぱねたが、他の友人たちの口添えもあって渋々面会を承知し、当時シューベルトが居候していたショーバーの家を訪れた。1817年の春から夏にかけての出来事と思われる。
シューベルトの伴奏に合わせて、はじめは気乗りせずに歌っていたフォーグルだったが、何曲か歌うにつれて次第に熱が入り、この若い作曲家に興味を持つようになった。
「君はいいものを持っているが、コメディアン的、山師的な部分が少なすぎる。素晴らしいアイディアが、充分に磨かれずに浪費されている」
と助言して退去したが、その後しばしばシューベルトに会いに来て、やがてその熱烈な信奉者、サポーターとなり、リート演奏を通してシューベルトの天才を世に知らしめる広告塔を買って出た。大柄で恰幅の良いフォーグルと、風采の上がらないシューベルトが連れ立って歩くカリカチュアはあまりにも有名である。

1819年、23年、25年の3度にわたるオーバーエスターライヒへの旅行は、いずれもフォーグルの同伴で実現したものだった。
オーバーエスターライヒとは、現在はオーストリアの9つの連邦州の1つとなっているが、元来は地域名である。現在のオーバーエスターライヒ州と、その東側にあり首都ウィーンを取り囲むように広がるニーダーエスターライヒ州の両州に相当する地域が、古くからオーストリアの国土の中核を成してきた。15世紀の半ばに、エンス川を境に2つの地域に分かれ、オーバーエスターライヒ Oberösterreich(英語でUpper Austria、「上部(高地)オーストリア」)とニーダーエスターライヒNiederösterreich(英語でLower Austria、「下部(低地)オーストリア」)と呼ばれるようになった。ウィーンから見ると、オーバーエスターライヒは真西におよそ200kmといったところである。
1818年秋、ツェリスから帰郷したシューベルトのところに、フォーグルが大きな仕事を持ってきた。なんと、ケルントナートーア劇場から新作オペラの依頼を取り付けてきたのである。この1幕物のオペラ「双子の兄弟」D647は2年後の1820年に上演されることとなる。
そしてフォーグルは、翌1819年の夏の休暇に一緒にシュタイアーへ旅行しようと、シューベルトに持ちかけたのだ。

ウィーンと、オーバーエスターライヒの各都市。三角形の上の点がリンツ、右下がシュタイアー、左下がクレムスミュンスター。

シュタイアー Steyrは州都リンツに次ぐオーバーエスターライヒの街で、ニーダーエスターライヒ州との境目に位置する。エンス川とシュタイアー川の間に広がる市街地には10世紀から続く美しい街並みが残されており、シューベルトの時代に既に古都として知られていた。
フォーグルはもともとシュタイアーの生まれであったので、要するに毎夏恒例の里帰りにシューベルトを同行させた、という格好になる。シューベルトにとって、シュタイアーはフォーグルだけでなく、当時の同居人のヨハン・マイアホーファー、コンヴィクト同窓生のアルベルト・シュタートラーの生まれ故郷でもあり、是非訪れてみたい土地であったに違いない。
旅行の手配と支払いはフォーグルの自腹だったが、旅行中に自由に使える小遣いも欲しかろうと、オペラの委嘱料の一部を劇場から前借りし、シューベルトに持たせてやるほどの親切ぶりだった。

7月中旬、フォーグルの休暇が始まるやいなやふたりはシュタイアーへ向かった。シュタイアーでのシューベルトの滞在先は、旧友シュタートラーの叔父で弁護士のアルベルト・シェルマン Albert Schellmann (1759-1844)の大邸宅で、そこにはシュタートラーとその母も住んでいた。1階のシェルマン家には5人の娘がいて、隣のヴァイルンベック家の3人と合わせて8人の少女たちがわいわいと生活していた。

僕が住んでいる家には8人もの娘たちがいて、しかもほとんどみんな可愛い。僕が忙しいのがわかるだろう?
(7月13日、シューベルトから兄フェルディナントへ)

シューベルトはシュタートラーとともに2階の部屋に住んで、シェルマン氏のピアノを借りて仕事をした。
一方でフォーグルは、シェルマン家のすぐ近く、鉄鋼商のヨーゼフ・フォン・コラー Josef von Koller (1780-1864)の邸宅に滞在していたらしい。

毎日フォーグルと食事をご馳走になっているフォン・コラー氏のところには娘がいて、とても可愛い。ピアノが上手で、僕の歌曲をいくつか歌ってくれることになっている。
(同前)

当時18歳だったこの娘はヨゼフィーネ Josefine (Josefa) (1801-1874)といい、シューベルトのシュタイアー滞在中の「ミューズ」であった。シューベルトは彼女を「ペピ」の愛称で呼んだ。
コラー家ではたびたびプライベートの音楽会が開かれ、あるときにはシューベルトの「魔王」の歌唱パートを人物ごとに分担して、ヨゼフィーネがこどもを、シューベルトが父親を、フォーグルが魔王を演じ、シュタートラーが伴奏する、なんていう楽しい一幕もあったらしい。また8月10日のフォーグルの誕生日には、シュタートラー作詩、シューベルト作曲の新作カンタータ「歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグルの誕生日に寄せて」(D666)をコラー邸で披露。ヨゼフィーネがソプラノ、地元の歌手ベルンハルト・ベネディクトがテノール、シューベルトがバスを担当し、ピアノ伴奏のシュタートラーとの4人で51歳になった歌手を祝福した。
シュタートラーによると、シューベルトはこの滞在中に、直近で書き上げたピアノ・ソナタの楽譜をヨゼフィーネにプレゼントしたという。これはD664のイ長調ソナタのことだと考える向きが多い。

もうひとり、1819年のシュタイアー滞在でシューベルトが出会った、忘れてはならない人物はシルヴェスター・パウムガルトナー Silvester Paumgartner (1764-1841)である。彼は鉱山組合の役員で、アマチュアのチェリストでもあり、豪邸でのサロンコンサートをたびたび催していた。地元出身のスターであるフォーグルと、シューベルトによるパウムガルトナー邸での歌曲の夕べは大喝采をもって迎えられた。
パウムガルトナーの委嘱によって作曲され、彼に献呈されたのがかの名曲、ピアノ五重奏曲「ます」D667である。おそらく歌曲「ます」の旋律を気に入ったパウムガルトナーが、チェロの入った編成で楽しく演奏できる室内楽曲を、とシューベルトに頼んだのだろう。パウムガルトナー邸に設置された記念碑には「この家で『ます』五重奏曲が作曲された」とあるが、これはどうやら誤りで、シューベルトは依頼を受けてからいったんウィーンに戻り、完成させた譜面をシュタイアーに送ったようだ。1819年暮れから1820年初めにかけての冬のシーズンに、パウムガルトナー邸で初演されたが、そこにシューベルトは立ち会わなかった。

さてシューベルトとフォーグルは、シュタイアーを根城にしてリンツにも足を伸ばしている。8月19日付の、ウィーンでの同居人マイアホーファーに宛てた手紙はリンツから出された。

僕は現在リンツにいる。シュパウン家に滞在し、ケンナー、クライル、フォルストマイアーに会った。シュパウンの母親、それからオッテンヴァルトと知り合い、彼の詩に作曲した「子守歌」を歌ってあげた。シュタイアーではとても良い時間を過ごしたし、このあともそうなると思う。あのあたりはまるで天国だ。リンツもとても美しい。僕たち、つまりフォーグルと僕は、向こう数日間ザルツブルクに旅行するつもりだ。どんなに楽しみにしていることか。
(8月19日、シューベルトからマイアホーファーへ)

リンツはシュパウン家の本拠地だが、残念ながらコンヴィクト時代の親友ヨーゼフ・フォン・シュパウンは他所に赴任中のため不在で、代わりに弟で文学史・民俗学者のアントン・フォン・シュパウン Anton von Spaun (1790-1849)や、彼らの妹の夫アントン・オッテンヴァルト Anton Ottenwalt (1789-1845)らと親交を深めた。
彼らを中心に、コンヴィクト時代の友人ヨーゼフ・ケンナー、シュタイアーのアルベルト・シュタートラー、それにマイアホーファーといった面々が、リンツ=シュタイアー地域の友人グループを形成している。彼らは文学や哲学に精通し、その詩作にシューベルトが付曲したリートも多い。この「リンツ=シュタイアー」一派は、シューベルトのウィーンの友人たち(画家が多い)とともに、後の「シューベルティアーデ」メンバーの中核となっていく。
マイアホーファーに予告したザルツブルク行きは結局このときは実現しなかったようだ。シュタイアーに戻る途中、8月26日にはクレムスミュンスターの修道院に立ち寄っている。修道院のギムナジウムは、フォーグル、そしてショーバーが少年時代を過ごした場所でもあった。
残りの休暇の日々をシュタイアーで過ごし、9月の半ばにウィーンへ帰着した。旅行中にシューベルトが書いた作品は少なく、歌曲に至っては1曲も作曲していない。おそらくフォーグルとの演奏もあって忙しかったのだろう。

フォーグルがこの旅行にシューベルトを同行させた理由は、単に自分の故郷を見せたいというだけでなく、ウィーン以外の地方にもシューベルト・ファンのネットワークを広げるという目的があったと思われる。シュタイアーのシェルマン、コラー、パウムガルトナー、リンツのシュパウン、オッテンヴァルトの各家は、1823年・25年の旅行時にもフォーグルとシューベルトに便宜を図り、さらにシューベルトの没後もその名声を高めることに貢献した。

[参考文献]
・Rudolf Klein著「Schubert Stätten」(Elisabeth Lafite, 1972)
・Otto Erich Deutsch編「Franz Schubert Die Dokumente seines Lebens und Schaffens」(Georg Müller, 1914)
・藤田晴子著「シューベルト 生涯と作品」(音楽之友社, 2002)
・オットー・エーリヒ・ドイッチュ編 實吉晴夫訳「シューベルトの手紙」(メタモル出版, 1997)
  1. 2018/03/06(火) 22:45:11|
  2. 伝記
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