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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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シューベルトの旅 (2)1819年7-9月、シュタイアー・リンツ

フォーグルとシューベルト
毀誉褒貶の絶えない「シューベルトの親友」、フランツ・フォン・ショーバー Franz von Schober (1796-1882)の、生前のシューベルトへの最大の貢献といわれるのが、オペラ歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグル Johann Michael Vogl (1768-1840)の知己を取り付けたことだ。
フォーグルは26歳でケルントナートーア劇場にデビューして以来、圧倒的な人気と実力を誇ったスーパースターだったが、シューベルトと知り合う頃には、その四半世紀に及ぶオペラ歌手としてのキャリアに終止符を打とうとしていた。ショーバーは、この大ベテランにシューベルトを紹介しようと画策し、早世した姉の夫でやはり劇場の歌手を務めていたジュゼッペ・シボーニ Giuseppe Siboni (1780-1839)のコネクションを使ってフォーグルに接触した。フォーグルは当初「若き天才現るという話はこれまで何度も聞いたが、そのたびに失望してきた。もうそういうことには関わりたくない」と突っぱねたが、他の友人たちの口添えもあって渋々面会を承知し、当時シューベルトが居候していたショーバーの家を訪れた。1817年の春から夏にかけての出来事と思われる。
シューベルトの伴奏に合わせて、はじめは気乗りせずに歌っていたフォーグルだったが、何曲か歌うにつれて次第に熱が入り、この若い作曲家に興味を持つようになった。
「君はいいものを持っているが、コメディアン的、山師的な部分が少なすぎる。素晴らしいアイディアが、充分に磨かれずに浪費されている」
と助言して退去したが、その後しばしばシューベルトに会いに来て、やがてその熱烈な信奉者、サポーターとなり、リート演奏を通してシューベルトの天才を世に知らしめる広告塔を買って出た。大柄で恰幅の良いフォーグルと、風采の上がらないシューベルトが連れ立って歩くカリカチュアはあまりにも有名である。

1819年、23年、25年の3度にわたるオーバーエスターライヒへの旅行は、いずれもフォーグルの同伴で実現したものだった。
オーバーエスターライヒとは、現在はオーストリアの9つの連邦州の1つとなっているが、元来は地域名である。現在のオーバーエスターライヒ州と、その東側にあり首都ウィーンを取り囲むように広がるニーダーエスターライヒ州の両州に相当する地域が、古くからオーストリアの国土の中核を成してきた。15世紀の半ばに、エンス川を境に2つの地域に分かれ、オーバーエスターライヒ Oberösterreich(英語でUpper Austria、「上部(高地)オーストリア」)とニーダーエスターライヒNiederösterreich(英語でLower Austria、「下部(低地)オーストリア」)と呼ばれるようになった。ウィーンから見ると、オーバーエスターライヒは真西におよそ200kmといったところである。
1818年秋、ツェリスから帰郷したシューベルトのところに、フォーグルが大きな仕事を持ってきた。なんと、ケルントナートーア劇場から新作オペラの依頼を取り付けてきたのである。この1幕物のオペラ「双子の兄弟」D647は2年後の1820年に上演されることとなる。
そしてフォーグルは、翌1819年の夏の休暇に一緒にシュタイアーへ旅行しようと、シューベルトに持ちかけたのだ。

ウィーンと、オーバーエスターライヒの各都市。三角形の上の点がリンツ、右下がシュタイアー、左下がクレムスミュンスター。

シュタイアー Steyrは州都リンツに次ぐオーバーエスターライヒの街で、ニーダーエスターライヒ州との境目に位置する。エンス川とシュタイアー川の間に広がる市街地には10世紀から続く美しい街並みが残されており、シューベルトの時代に既に古都として知られていた。
フォーグルはもともとシュタイアーの生まれであったので、要するに毎夏恒例の里帰りにシューベルトを同行させた、という格好になる。シューベルトにとって、シュタイアーはフォーグルだけでなく、当時の同居人のヨハン・マイアホーファー、コンヴィクト同窓生のアルベルト・シュタートラーの生まれ故郷でもあり、是非訪れてみたい土地であったに違いない。
旅行の手配と支払いはフォーグルの自腹だったが、旅行中に自由に使える小遣いも欲しかろうと、オペラの委嘱料の一部を劇場から前借りし、シューベルトに持たせてやるほどの親切ぶりだった。

7月中旬、フォーグルの休暇が始まるやいなやふたりはシュタイアーへ向かった。シュタイアーでのシューベルトの滞在先は、旧友シュタートラーの叔父で弁護士のアルベルト・シェルマン Albert Schellmann (1759-1844)の大邸宅で、そこにはシュタートラーとその母も住んでいた。1階のシェルマン家には5人の娘がいて、隣のヴァイルンベック家の3人と合わせて8人の少女たちがわいわいと生活していた。

僕が住んでいる家には8人もの娘たちがいて、しかもほとんどみんな可愛い。僕が忙しいのがわかるだろう?
(7月13日、シューベルトから兄フェルディナントへ)

シューベルトはシュタートラーとともに2階の部屋に住んで、シェルマン氏のピアノを借りて仕事をした。
一方でフォーグルは、シェルマン家のすぐ近く、鉄鋼商のヨーゼフ・フォン・コラー Josef von Koller (1780-1864)の邸宅に滞在していたらしい。

毎日フォーグルと食事をご馳走になっているフォン・コラー氏のところには娘がいて、とても可愛い。ピアノが上手で、僕の歌曲をいくつか歌ってくれることになっている。
(同前)

当時18歳だったこの娘はヨゼフィーネ Josefine (Josefa) (1801-1874)といい、シューベルトのシュタイアー滞在中の「ミューズ」であった。シューベルトは彼女を「ペピ」の愛称で呼んだ。
コラー家ではたびたびプライベートの音楽会が開かれ、あるときにはシューベルトの「魔王」の歌唱パートを人物ごとに分担して、ヨゼフィーネがこどもを、シューベルトが父親を、フォーグルが魔王を演じ、シュタートラーが伴奏する、なんていう楽しい一幕もあったらしい。また8月10日のフォーグルの誕生日には、シュタートラー作詩、シューベルト作曲の新作カンタータ「歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグルの誕生日に寄せて」(D666)をコラー邸で披露。ヨゼフィーネがソプラノ、地元の歌手ベルンハルト・ベネディクトがテノール、シューベルトがバスを担当し、ピアノ伴奏のシュタートラーとの4人で51歳になった歌手を祝福した。
シュタートラーによると、シューベルトはこの滞在中に、直近で書き上げたピアノ・ソナタの楽譜をヨゼフィーネにプレゼントしたという。これはD664のイ長調ソナタのことだと考える向きが多い。

もうひとり、1819年のシュタイアー滞在でシューベルトが出会った、忘れてはならない人物はシルヴェスター・パウムガルトナー Silvester Paumgartner (1764-1841)である。彼は鉱山組合の役員で、アマチュアのチェリストでもあり、豪邸でのサロンコンサートをたびたび催していた。地元出身のスターであるフォーグルと、シューベルトによるパウムガルトナー邸での歌曲の夕べは大喝采をもって迎えられた。
パウムガルトナーの委嘱によって作曲され、彼に献呈されたのがかの名曲、ピアノ五重奏曲「ます」D667である。おそらく歌曲「ます」の旋律を気に入ったパウムガルトナーが、チェロの入った編成で楽しく演奏できる室内楽曲を、とシューベルトに頼んだのだろう。パウムガルトナー邸に設置された記念碑には「この家で『ます』五重奏曲が作曲された」とあるが、これはどうやら誤りで、シューベルトは依頼を受けてからいったんウィーンに戻り、完成させた譜面をシュタイアーに送ったようだ。1819年暮れから1820年初めにかけての冬のシーズンに、パウムガルトナー邸で初演されたが、そこにシューベルトは立ち会わなかった。

さてシューベルトとフォーグルは、シュタイアーを根城にしてリンツにも足を伸ばしている。8月19日付の、ウィーンでの同居人マイアホーファーに宛てた手紙はリンツから出された。

僕は現在リンツにいる。シュパウン家に滞在し、ケンナー、クライル、フォルストマイアーに会った。シュパウンの母親、それからオッテンヴァルトと知り合い、彼の詩に作曲した「子守歌」を歌ってあげた。シュタイアーではとても良い時間を過ごしたし、このあともそうなると思う。あのあたりはまるで天国だ。リンツもとても美しい。僕たち、つまりフォーグルと僕は、向こう数日間ザルツブルクに旅行するつもりだ。どんなに楽しみにしていることか。
(8月19日、シューベルトからマイアホーファーへ)

リンツはシュパウン家の本拠地だが、残念ながらコンヴィクト時代の親友ヨーゼフ・フォン・シュパウンは他所に赴任中のため不在で、代わりに弟で文学史・民俗学者のアントン・フォン・シュパウン Anton von Spaun (1790-1849)や、彼らの妹の夫アントン・オッテンヴァルト Anton Ottenwalt (1789-1845)らと親交を深めた。
彼らを中心に、コンヴィクト時代の友人ヨーゼフ・ケンナー、シュタイアーのアルベルト・シュタートラー、それにマイアホーファーといった面々が、リンツ=シュタイアー地域の友人グループを形成している。彼らは文学や哲学に精通し、その詩作にシューベルトが付曲したリートも多い。この「リンツ=シュタイアー」一派は、シューベルトのウィーンの友人たち(画家が多い)とともに、後の「シューベルティアーデ」メンバーの中核となっていく。
マイアホーファーに予告したザルツブルク行きは結局このときは実現しなかったようだ。シュタイアーに戻る途中、8月26日にはクレムスミュンスターの修道院に立ち寄っている。修道院のギムナジウムは、フォーグル、そしてショーバーが少年時代を過ごした場所でもあった。
残りの休暇の日々をシュタイアーで過ごし、9月の半ばにウィーンへ帰着した。旅行中にシューベルトが書いた作品は少なく、歌曲に至っては1曲も作曲していない。おそらくフォーグルとの演奏もあって忙しかったのだろう。

フォーグルがこの旅行にシューベルトを同行させた理由は、単に自分の故郷を見せたいというだけでなく、ウィーン以外の地方にもシューベルト・ファンのネットワークを広げるという目的があったと思われる。シュタイアーのシェルマン、コラー、パウムガルトナー、リンツのシュパウン、オッテンヴァルトの各家は、1823年・25年の旅行時にもフォーグルとシューベルトに便宜を図り、さらにシューベルトの没後もその名声を高めることに貢献した。

[参考文献]
・Rudolf Klein著「Schubert Stätten」(Elisabeth Lafite, 1972)
・Otto Erich Deutsch編「Franz Schubert Die Dokumente seines Lebens und Schaffens」(Georg Müller, 1914)
・藤田晴子著「シューベルト 生涯と作品」(音楽之友社, 2002)
・オットー・エーリヒ・ドイッチュ編 實吉晴夫訳「シューベルトの手紙」(メタモル出版, 1997)
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