毀誉褒貶の絶えない「シューベルトの親友」、フランツ・フォン・ショーバー Franz von Schober (1796-1882)の、生前のシューベルトへの最大の貢献といわれるのが、オペラ歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグル Johann Michael Vogl (1768-1840)の知己を取り付けたことだ。 フォーグルは26歳でケルントナートーア劇場にデビューして以来、圧倒的な人気と実力を誇ったスーパースターだったが、シューベルトと知り合う頃には、その四半世紀に及ぶオペラ歌手としてのキャリアに終止符を打とうとしていた。ショーバーは、この大ベテランにシューベルトを紹介しようと画策し、早世した姉の夫でやはり劇場の歌手を務めていたジュゼッペ・シボーニ Giuseppe Siboni (1780-1839)のコネクションを使ってフォーグルに接触した。フォーグルは当初「若き天才現るという話はこれまで何度も聞いたが、そのたびに失望してきた。もうそういうことには関わりたくない」と突っぱねたが、他の友人たちの口添えもあって渋々面会を承知し、当時シューベルトが居候していたショーバーの家を訪れた。1817年の春から夏にかけての出来事と思われる。 シューベルトの伴奏に合わせて、はじめは気乗りせずに歌っていたフォーグルだったが、何曲か歌うにつれて次第に熱が入り、この若い作曲家に興味を持つようになった。 「君はいいものを持っているが、コメディアン的、山師的な部分が少なすぎる。素晴らしいアイディアが、充分に磨かれずに浪費されている」 と助言して退去したが、その後しばしばシューベルトに会いに来て、やがてその熱烈な信奉者、サポーターとなり、リート演奏を通してシューベルトの天才を世に知らしめる広告塔を買って出た。大柄で恰幅の良いフォーグルと、風采の上がらないシューベルトが連れ立って歩くカリカチュアはあまりにも有名である。
7月中旬、フォーグルの休暇が始まるやいなやふたりはシュタイアーへ向かった。シュタイアーでのシューベルトの滞在先は、旧友シュタートラーの叔父で弁護士のアルベルト・シェルマン Albert Schellmann (1759-1844)の大邸宅で、そこにはシュタートラーとその母も住んでいた。1階のシェルマン家には5人の娘がいて、隣のヴァイルンベック家の3人と合わせて8人の少女たちがわいわいと生活していた。
リンツはシュパウン家の本拠地だが、残念ながらコンヴィクト時代の親友ヨーゼフ・フォン・シュパウンは他所に赴任中のため不在で、代わりに弟で文学史・民俗学者のアントン・フォン・シュパウン Anton von Spaun (1790-1849)や、彼らの妹の夫アントン・オッテンヴァルト Anton Ottenwalt (1789-1845)らと親交を深めた。 彼らを中心に、コンヴィクト時代の友人ヨーゼフ・ケンナー、シュタイアーのアルベルト・シュタートラー、それにマイアホーファーといった面々が、リンツ=シュタイアー地域の友人グループを形成している。彼らは文学や哲学に精通し、その詩作にシューベルトが付曲したリートも多い。この「リンツ=シュタイアー」一派は、シューベルトのウィーンの友人たち(画家が多い)とともに、後の「シューベルティアーデ」メンバーの中核となっていく。 マイアホーファーに予告したザルツブルク行きは結局このときは実現しなかったようだ。シュタイアーに戻る途中、8月26日にはクレムスミュンスターの修道院に立ち寄っている。修道院のギムナジウムは、フォーグル、そしてショーバーが少年時代を過ごした場所でもあった。 残りの休暇の日々をシュタイアーで過ごし、9月の半ばにウィーンへ帰着した。旅行中にシューベルトが書いた作品は少なく、歌曲に至っては1曲も作曲していない。おそらくフォーグルとの演奏もあって忙しかったのだろう。