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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

[告知] シューベルトツィクルス第9回「4手のためのソナタI ―1818年、ツェリスにて―」

シューベルトツィクルス第9回チラシ
2018年10月5日(金)19時開演 東京文化会館小ホール ゲスト:中桐望(ピアノ)
♪ロンド ニ長調 D608 ♪ドイツ舞曲と2つのレントラー D618 ♪ソナタ 変ロ長調 D617(「グランド・ソナタ」)
♪フランスの歌による8つの変奏曲 ホ短調 D624 ♪3つの英雄的行進曲 D602
一般4,000円/学生2,000円 →チケット購入
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  1. 2018/10/05(金) 19:00:00|
  2. シューベルトツィクルス
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ソナタ 変ロ長調 D617 概説

ソナタ 変ロ長調 (「グランド・ソナタ」) Sonate B-dur ("Grande Sonate") D617
作曲:1818年 出版:1823年(作品30)
楽譜・・・IMSLP

シューベルトの4手のためのソナタとして知られている2曲のうちの、はじめの1曲である。自筆譜は失われているが、アントン・シントラーによる目録に1818年の作品と記録されており、その記述を信じるならば状況的にみてツェリス滞在中の作品だと考えられている。1823年12月にザウアー&ライデスドルフ社から「グランド・ソナタ 作品30」として出版されたが、直後に刊行された第2版には「第1グランド・ソナタ」とあり、シューベルトが既に「第2グランド・ソナタ」を作曲していた可能性を示唆している(ちなみに、現在知られているもう1曲の4手ソナタD812は1824年の作品である)。
献呈先のフェルディナンド・パルフィ・フォン・エルデード伯爵 Graf Ferdinand Pálffy von Erdöd (1774-1840)は、鉱山技術者でありながらアン・デア・ヴィーン劇場の監督としても活躍した人物である。同劇場では1820年に「魔法の竪琴」D644、1823年12月(ソナタの出版とほぼ同時)には劇音楽「ロザムンデ」D797が初演されており、これらの上演とソナタの献呈を関連づける説も多い。

「グランド・ソナタ」というタイトルのわりには簡素な作りではあるが、前年に多くの独奏ソナタを手がけた経験を経て、ソナタ形式の扱いは洗練され、手慣れたものとなっている。

第1楽章 変ロ長調 ソナタ形式
提示部
[1] - [3] 序奏
[4] - [19] 第1主題 変ロ長調
[20] - [32] 経過句 変ロ長調
[33] - [52] 第2主題 変ニ長調→変イ長調→嬰ハ短調→・・・→ヘ長調
[53] - [68] 小結尾 ヘ長調
展開部
[69] - [86] 第1主題経過句のモティーフによる展開 ニ長調→変ホ短調→・・・
[87] - [105] 新しい主題による展開 イ長調→変ロ長調
再現部
[106] - [121] 第1主題 変ロ長調
[122] - [134] 経過句 変ロ長調
[135] - [154] 第2主題 変ト長調→変ニ長調→嬰ヘ短調→・・・→変ロ長調
[155] - [170] 結尾 変ロ長調

3小節のプリモの独奏に導かれて、シューベルトならではの愛らしい第1主題が始まる。経過句はやや行進曲的なマッチョな表情を見せ、変ニ長調の第2主題に至る。バスのオクターヴロールが主音を保続する上で、生き生きした3連符のテーマが模倣されながら積み上がっていく。このテーマを繰り返しながら頻繁に転調していく第2主題部の後半は、後年のシューベルトのソナタ形式の定番である「提示部の中の展開」を先取りするものだ。提示部末尾の[68]には繰り返し記号が付けられているが、楽譜通り曲頭の序奏に戻るのは不自然だし、だからといって他に戻れそうな箇所も見当たらない。おそらくは慣習的な繰り返し記号であり、演奏においては無視して差し支えないと思われる。
展開部は意表を突いたニ長調で始まるが、安定せずにさまざまな調へ転がっていく。労作の主題は、冒頭の歌謡風の第1主題ではなく、経過句に登場した行進曲風のモティーフである。更に新たな主題がイ長調で登場したあと、手際よく主調が準備され、型通りの再現が行われる。各部のバランスの取れた、プロポーションのよいソナタ形式楽章となっている。

第2楽章 ニ短調→ニ長調 三部形式
[1] - [16] 主部(A) ニ短調
[17] - [68] 中間部(B) 変ロ長調→変ホ長調→変ト長調→イ長調
[69] - [100] 主部回帰(A') ニ長調
[101] - [112] コーダ ニ長調

典型的な三部形式の緩徐楽章。弦楽四重奏を思わせる4声の緊密なアンサンブルによって、ニ短調の孤独な主題が提示される。中間部は比較的大規模で、曲調はダイナミックに変化し、幻想的な世界の広がりすら感じさせる。主部は同主調のニ長調で回帰し、プリモの右手には細かいオブリガートのパッセージが追加される。

第3楽章 変ロ長調 ソナタ形式
提示部
[1] - [7] 第1主題 変ロ長調
[8] - [32] 経過句 変ロ長調→ヘ長調
[33] - [53] 第2主題 変ト長調→変ニ長調→ヘ長調
[54] - [73] 小結尾 変ロ長調
展開部
[74] - [85] A ニ短調 (繰り返しあり)
[86] - [98] B 変ロ長調
[99] - [111] A' ニ短調→変ロ長調
再現部
[112] - [118] 第1主題 変ロ長調
[119] - [141] 経過句 変ロ長調
[142] - [162] 第2主題 変ハ長調→変ト長調→変ロ長調
[163] - [191] 結尾 変ロ長調

冒頭の風変わりな和音で聴き手を驚かせるが、全体的には古典的でチャーミングなフィナーレである。第2主題は変ト長調で、第1主題のリズムパターンを受け継ぎながらも、アクセントがより強調されている。展開部はニ短調の突然の強奏で始まり、転調とともにさまざまな表情を見せる。変ハ長調(!)の第2主題を持つ再現部で再び軽やかな名人芸を披露した後、第1主題を回想して静かに曲を閉じる。

以上全3楽章の分析を一見して気づくのは、ニ長調・ニ短調や変ト長調といった「変ロ長調と長3度関係にある調性」が多用されていることである。これはシューベルトが特に好んだ調性関係だった。
アンドレアス・クラウゼ Andreas Krauseは、第1楽章展開部冒頭の「ニ長調」に対する第3楽章展開部の「ニ短調」、更に第2楽章前半の「ニ短調」に対する後半の「ニ長調」が対応関係にあり、第2楽章中間部を中心点としたシンメトリカルな構造となっていることを指摘している。
  1. 2018/10/01(月) 20:12:13|
  2. 楽曲について
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シューベルトの旅 (1)1818年7-11月、ツェリス

1818年夏から秋にかけての、第1回「ツェリス行き」は、エステルハーツィ家の音楽家庭教師としての赴任である。

シューベルトのキャリアにとって重要な出来事が2つ、1818年の初めにあった。
ひとつは1月に歌曲「エルラフ湖」D586の楽譜が冊子の挟み込み付録として印刷され、刊行されたこと。冊子というのは「Mahlerisches Taschenbuch für Freunde interessanter Gegenden : Natur- und Kunst-Merkwürdigkeiten der Österreichischen Monarchie」という長いタイトルを持つ、年1回の定期刊行物である。内容はオーストリア各地の名所景勝を描いた画集に詩や散文が付いたもので、当時の市民階級に好評だったらしい。シューベルトの作品の譜面が世に出るのはこれが初めてで、実際のところ楽譜として出版するよりもはるかに多くの人々の目に触れることになった。
もうひとつは3月1日、ホテル「ローマ皇帝 Zum römischen Kaiser」のホールでのエドゥアルト・ジャエル Eduard Jaëll (1793-1849)(ヴァイオリニスト)主催の公開演奏会で、「イタリア風序曲」(D590かD591のいずれか)が演奏されたこと。教会でのミサ曲を別にすれば、シューベルトの作品が公開の場で披露された最初の出来事である。ウィーンだけでなくドレスデンやライプツィヒの新聞にも批評が載り、これを皮切りにシューベルトの作品がしばしば演奏会のプログラムを飾るようになる。
こうした、華々しいとは言えないまでも着実な成功の裏で、シューベルトの1818年前半の創作量は激減していた。6曲ものピアノ・ソナタに着手した、1817年の旺盛な創造力はどこへ行ってしまったのか。不振の主因は、生活環境の変化だった。
一度は父の家を離れ、ショーバー宅に身を寄せて創作に打ち込んでいたシューベルトだが、1817年8月の末、ショーバーが病気の兄に部屋を明け渡す必要が出たため、シューベルトはやむなく実家に戻ることになった。年末に父が、より中心部に近いロサウ地区の学校の校長に就任し、一家は住み慣れたヒンメルプフォルトグルントから翌年の初めにロサウへ引っ越した。シューベルトは再び補助教員として父の仕事を手伝っていたが、この忙しい異動の最中、もはや作曲に多くの時間を割くことはできなくなっていた。いったん味わった自由を手放して、窮屈な教員生活に戻らなくてはならないストレスが、シューベルトの精神を苛んだ。謹厳な父が、音楽家になりたいという息子の願いを聞き入れるはずもなく、二人の間には軋轢が絶えなかった。「音楽をやるというならこの家を出ていけ!」などという啖呵を父が本当に切ったのかどうかわからないが、そんなような重大な衝突がこの時期にあったのかもしれない。

そんな折に、友人アンゼルム・ヒュッテンブレンナー Anselm Hüttenbrenner(1794-1868)を通して知り合ったヨハン・カール・ウンガー Johann Karl Unger (1771-1836)が、ガランタのエステルハーツィ家の音楽家庭教師にシューベルトを推薦する。
ウンガー氏は文筆家・作曲家として活動する傍ら、さまざまな貴族の家庭教師も務め、その名前が示すとおりハンガリー系の出自だった(ドイツ語でハンガリーはウンガーンUngarnという)ことからか、ハンガリーに本拠を置くエステルハーツィ伯と親交があった。ちなみにウンガー氏の娘、カロリーネ・ウンガーCaroline Unger (1803-1877)はその後オペラ歌手となり、18歳でケルントナートーア劇場の「コシ・ファン・トゥッテ」に出演した際にはシューベルトがコレペティトーアとして共に仕事をしている。その3年後にはベートーヴェンの交響曲第9番の初演でアルト独唱を務めた。演奏が終わっても指揮台を離れないベートーヴェンのもとに歩み寄って客席へ振り向かせ、耳の聞こえない作曲家に喝采する聴衆を「見せた」という、あの有名なエピソードに出てくる若きアルト歌手その人である。
ガランタのエステルハーツィ家は、かのハイドンが仕えていたアイゼンシュタットのエステルハーツィ本家の分家筋にあたる。ガランタというのは、現在のスロヴァキアの首都ブラティスラヴァの50kmほど東にある地域で、エステルハーツィ家の代々の領地だった。一家は夏の間、ガランタから更に80km以上東にあるツェリスの館に滞在するのが慣わしとなっていて、当主ヨハン・カール・エステルハーツィ伯爵 Graf Johann-Karl (János Károly) Esterházy de Galántha (1775-1834)は、その休暇の間に2人の令嬢、マリー Marie (1802-1837)とカロリーネ Caroline (1805-1851)の姉妹にピアノを教えてくれる先生を探していたのだった。


西から順にウィーン、ガランタ、ツェリス

この土地の呼び名は言語によって揺れがあり、ジェリズ、ゼレチュなどと表記されることもあるが、ここではドイツ語表記Zselizに基づき「ツェリス」で統一することにする。当時はハンガリー領だったが、現在はスロヴァキアの領土であり、ジェリエゾフツェ Želiezovceと呼ばれている。
21歳のシューベルトにとって、降って沸いたようなこの話はストレスフルな日常から抜け出す絶好のチャンスだった。あるいは、実家で鬱々とするシューベルトを見かねた友人たちが、ウンガーに働きかけたのかもしれない。7月7日にビザを受け取るなり、いそいそと旅立った。ウィーンからツェリスまで馬車を乗り継いで200km。シューベルトがウィーンを離れるのは、これが初めてだった。

Zseliz Esterhazy Castle
ツェリスのエステルハーツィ家の館。現在は周囲も含めて「シューベルト公園」となっている。

シューベルトが滞在したエステルハーツィ家の夏の館は1787年に建造されたバロック様式の邸宅で、広い敷地と美しい庭園に面していた。16歳のマリーと13歳のカロリーネの個人レッスンの他に、一家や客人の求めに応じてダンスの伴奏など、音楽的な楽しみを提供するのがシューベルトの務めで、それで資格教員と遜色ない給料を受け取ることができたのだから、仕事としては申し分なかった。
滞在中のシューベルトの様子については、家族や友人宛の手紙で知ることができる。

僕は神のごとく作曲している、あたかもそうあらねばならなかったかのように。・・・
君たちが僕と同じように元気で幸せであることを願っている。今僕は生を実感する、やれやれ、ようやく時は来たのだ。さもなくば、僕はまだ駄目な音楽家のままだったろう。

(8月3日、シューベルトからショーバーとその他の友人たちへ)

シューベルトがスランプからの脱出を実感したことが、はっきりとわかる。4ヶ月半に及ぶツェリス滞在中の作品の多くは、「大ソナタ」D617を筆頭とするピアノ連弾曲である。特に「フランスの歌による変奏曲」D624や「4つのポロネーズ」D599など、プリモとセコンドの難易度に差がある作品は、令嬢姉妹のレッスンにおいて、それぞれとシューベルト自身が連弾するために作曲されたものと考えられている。他に、どうやら兄フェルディナントのゴーストライターを務めたらしい「ドイツ・レクイエム」D621や、未完成のピアノ・ソナタD625、いくつかの歌曲がこのツェリス滞在から生まれた。

僕らのお城は大きくはないが、とても可愛いなりをしている。周りはとても美しい庭園に囲まれている。・・・ここはかなり静かだ、ときどき40羽近くのガチョウが一斉に鳴いて、自分の言葉すら聞き取れなくなる以外は。周りはみんないい人たちだ。伯爵家の使用人たちがこんなに息が合うなんて、珍しいことだろう。管理人はスラヴォニア人の良い奴で、自らの天賦の音楽の才能に自惚れている。今もちょうど、2と4分の3曲のドイツ舞曲を、名人芸でもってリュートで吹いているところだ。
(9月8日、シューベルトからショーバーとその他の友人たちへ)

弦楽器のリュートを「吹く」名人芸。もちろんこれはシューベルトならではのジョークである。このあと、「自分の懐具合に異常に目ざとい」財務長、「老婦人のように病気がちな」医師、いい加減な料理人、可愛くてよく自分と連んでいる小間使いなど、城で暮らす「風変わりな」使用人たちがユーモラスに紹介される。この長文の手紙からは、仲間たちに自分の近況を面白おかしく伝えようとする、上機嫌のシューベルトの様子が見て取れる。

伯爵は意外に無骨で、伯爵夫人はプライドが高いが優しい感性の持ち主、令嬢たちは良いこどもたちだ。
(9月8日、シューベルトからショーバーとその他の友人たちへ)

後にシューベルトの想い人となるカロリーネ・フォン・エステルハーツィ嬢について、この時点ではこれだけしか述べられていない。
この滞在の間にシューベルトが出会った重要な人物に、カール・フォン・シェーンシュタイン男爵 Carl Freiherr von Schönstein (1796-1876)がいる。シェーンシュタインは宮廷官吏でありながら、プロ並みの実力を誇るハイバリトン歌手でもあった。ツェリスの館でシューベルトと知り合った彼は、その天賦の才に惚れ込み、生涯を尽くしてリートの演奏・紹介に携わった。
シューベルト歌曲の受容に決定的な役割を果たしたベテランテノール歌手、ミヒャエル・フォーグルの歌唱が時に過度に演劇的で大仰すぎるという同時代の批判が多く残されている一方で、シェーンシュタインの節度ある表現は高く評価されており、「おそらく最も理想的なシューベルト歌手」(レオポルト・フォン・ゾンライトナー)とまで見なされていた。シューベルトもそれ以降、シェーンシュタインの声域を念頭に歌曲を作曲したと伝えられており、後に連作歌曲「美しき水車屋の娘」D795が彼に献呈された。

実家から出た開放感に浸るのも束の間、やがて仲間たちのいない、刺激の少ない田舎生活にシューベルトは飽きてくる。

ここツェリスでは、僕はひとりですべてをこなさなくてはならない。作曲家、批評家、聴衆、その他なんでも。芸術の価値がわかる者はここにはいない、せいぜい(僕の思い違いでなければ)伯爵夫人ぐらいだ。
(9月8日、シューベルトからショーバーとその他の友人たちへ)

ここは既に寒くなりつつあるけれど、たぶん11月の半ばまではウィーンに戻らないと思う。来月には数週間、伯爵の伯父にあたるエルデーディ伯爵の領地フライシュタットルに行きたいと思っている。素敵な場所だと聞いているよ。それからペストにも行きたい、そこからそう遠くないボチュメディエで葡萄の収穫をすることになっているんだ。・・・
僕はこんなに元気で、ここにはこんなにいい人たちがいて、なのにこんなにも待ちこがれている瞬間は・・・「ウィーンへ、ウィーンへ!」という言葉。そう、愛するウィーンよ、最も大切で、最も愛すべきものを、おまえはその小さな空間に閉じこめていて、ただ再会、天国的な再会のときにだけ、この憧れは満たされるのだ。

(8月24日、シューベルトから兄フェルディナントへ)

周りの人たちと、日増しに仲良くなるというわけにはいかないが、それでも最初の頃と同じように僕は元気にしている。だけどやっぱりわかるんだ、この人々の中で僕はどうしたって孤独だということが。2,3人の良い女の子たちを別にすればね。ウィーンへの憧れは、日ごとに膨らんでいく。11月の半ばには帰るよ。
(10月29日、シューベルトから兄フェルディナントへ)

「2,3人の良い女の子たち」というのは誰のことなのだろう。8月24日付の手紙に書かれている、フライシュタットルへの遠足やペスト近郊での葡萄狩りが実際に行われたのかどうかは定かではないが、ウィーンへの帰郷は予定通り11月の半ばとなった。
帰路にはシェーンシュタイン男爵が連れ添ったともいわれる。11月19日にツェリスを発ち、21日にウィーンに到着すると、実家には戻らず、そのまま友人の詩人マイアホーファーの家で共同生活を始めた。心ならずも教職に就くことはもはやなかった。父は用意していた息子の教員復職の申請書を破り捨てた。

[参考文献]
・Walther Dürr & Andreas Krause編「SCHUBERT HANDBUCH」(Bärenreiter, 1997)
・Otto Erich Deutsch編「Franz Schubert Die Dokumente seines Lebens und Schaffens」(Georg Müller, 1914)
・Walther Dürr & Arnold Feil著「Franz Schubert Musikführer」(Reclam, 1991/2002)
・藤田晴子著「シューベルト 生涯と作品」(音楽之友社, 2002)
・オットー・エーリヒ・ドイッチュ編 實吉晴夫訳「シューベルトの手紙」(メタモル出版, 1997)
  1. 2018/02/27(火) 19:37:06|
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