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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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トリオ D610 概説

あるメヌエットの放蕩息子とおぼしきトリオ ホ長調 Trio zu betrachten als verlorener Sohn eines Menuetts E-dur D610
作曲:1818年2月 出版:1889年
楽譜・・・IMSLP



シューベルトのピアノ作品の中でも特に奇妙なタイトルがついた曲である。
ドイチュ目録では1929年を最後に所在不明とされている自筆譜(Brown, Ms.23)は、どうやらその後発見されて現在モルガン・ライブラリーに収められているようだ。

Trio zu betrachten als verlorener Sohn eines Menuetts.
von Franz Schubert für seinen geliebten Herrn Bruder eigens niedergeschrieben im Feb. 1818


2行目はわかりやすい。「フランツ・シューベルトによって、愛する兄上のために1818年2月にわざわざ書き記された。」兄というのはおそらく次兄フェルディナントだろう。フェルディナントの手になる筆写譜も残っている。
問題は1行目である。直訳すれば「あるメヌエットの失われた息子と見做されるトリオ」となる。
トリオとは三部形式の中間部のことで、古典的なメヌエットは「メヌエットとトリオ」で1セットである(「メヌエット - トリオ - メヌエット」の順で演奏される)。シューベルトの初期のメヌエットの中には、2つのトリオを持つものも多い。
ここにあるのはそのうちの「トリオ」部分のみである。主部のメヌエットがどんな音楽だったのかは知られていない。つまり現実に失われているのは「メヌエット」の方なのだが、これはどういうことなのだろうか。
字義通り解釈すれば、もともとフェルディナントの手元に「メヌエットとトリオ」のセットで楽譜が揃っていたのだが、何らかの理由でトリオだけを紛失してしまった。そこで弟に頼んで、トリオ部分を再度「わざわざ」書いてもらったのだが、そのあと主部のメヌエットの楽譜も散逸してしまい、新たに書き留められたトリオの譜面だけが残った、というストーリーが考え得る。
モーリス・ブラウンは、失われたメヌエットは嬰ハ短調のD600と推定したが、新全集は作曲年代(D600は1813-14年頃と推定)からこの説に否定的であり、筆者も様式的にD600+D610という組み合わせはないだろうと考えている(詳しくはD600の概説を参照)。

しかし、もし単に散逸したトリオの復元なのであれば「あるメヌエットの失われたトリオ」と書けば足りる。「息子」と「見做される」とはどういうことだろうか。
Verlorener Sohn(失われた息子)は、ドイツ語では「放蕩息子」を意味する成句である。聖書の「放蕩息子」の喩え話を、ここであえて引用する必要はないだろう。
思い当たるのは、この時期のシューベルト自身の境遇である。専業の作曲家として生きようとするシューベルトは、教職に就かせたい父親と関係が悪化し、仲間たちも心配して一時の住まいや働き口を斡旋するほどだった。シューベルト自身が父に背き、安定した暮らしを捨てて、「放蕩息子」と「見做され」ようとしていたのである。
5年前、シューベルトは30曲ものメヌエットを書いて長兄イグナーツに捧げた(D41)。そのうち10曲は現存していない。もしかしたらその中の、兄たちが特に気に入っていたトリオを、まだ家庭が温かかった頃を思い出しながら書き留めて、家族でただひとり彼の望みを理解してくれた次兄フェルディナントに託したのかもしれない。「放蕩息子」の身代わりとして―。
夏にツェリスに赴任したシューベルトは、それきり実家に戻ることはなかった

曲はわずか16小節(8+8)で、確かにメヌエットのトリオたる特徴を有している。付点のアウフタクトから始まりひらひらと下降するメロディーと、主和音に落ち着かず浮遊するようなハーモニー、そして時折登場する装飾音がどこか可憐な印象を残す。第13小節のアウフタクトから、冒頭のモティーフが左手に登場するところなどは技法的にも凝っている。ホルン五度の使用も相まって、管楽合奏の趣もある。
あるメヌエットの放蕩息子とおぼしきトリオ」の和訳は堀朋平氏の提案によるもので、ワードチョイスが素晴らしいと思って拝借した次第である。
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  1. 2022/09/27(火) 23:47:43|
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メヌエット 嬰ハ短調 D600 概説

メヌエット 嬰ハ短調 Menuetto cis-moll D600
作曲:1814年? 出版:1897年(旧全集)
楽譜・・・IMSLP

ヘ長調のミサ曲D105の「ベネディクトゥス」の合唱パートだけの自筆譜の裏に書きつけられていたメヌエット(自筆譜:schubert-online)。「ベネディクトゥス」の方には1814年5月29日という日付が書き込まれており、メヌエットの大譜表の冒頭にある「Clav.」(Clavier=鍵盤楽器の略)という楽器指定も、シューベルトが1813年からせいぜい1814年前半までしか使用しなかった表記法なので(それ以降はForte-PianoあるいはPianoforteと書くようになる)、この時期(17歳頃)の作品であるという見方が主流である。
低弦のピツィカートを思わせる荘重なオクターヴのスタッカートの上で、2声のメロディーが対位法的に絡み合っていく。|:A:|:BA':|の三部形式で、B部では下降音型が模倣されカノン風の展開となる。全体的に厳粛な雰囲気が漂い、ミサ曲の裏面ということも関係するのか、どうも宗教音楽の趣がある(主音で始まる2声が上と下に分かれていく様子はバッハの「マタイ受難曲」の冒頭を彷彿とさせる)。
いったいシューベルトは何のつもりでこんなシリアスな「メヌエット」を書いたのだろうか。踊りの伴奏とは考えにくい。
モーリス・ブラウンはこの作品の成立時期をもっとずっと遅く「1817年の暮れ」と推定している。1813-14年当時のシューベルトの他のメヌエット(D41D91D335など)とあまりにも作風が違うという理由だが、1817年仮説の背後にあるのは、関連作品とされるホ長調の「トリオ」D610の日付が1818年2月となっている事実である。



わずか16小節のこのトリオには「あるメヌエットの失われた息子と見做される」という風変わりな但し書きがある。文字通り受け取るならば、あるメヌエットのトリオとして作曲されたのだが、何らかの事情で取り除かれた、あるいは消失してしまったトリオ部分だけを後からもう一度記したもの、ということで、実際に作曲後しばらく経ってからフェルディナントのためにわざわざ書き直した自筆譜が残ったということらしい(つまり1818年2月に作曲されたわけでもないのだ)。本体たる「あるメヌエット」というのがどれを指すのかはもちろん、それが現存しているのかさえも不明なのだが、ブラウンはこれをD600と同定したのである。
確かに嬰ハ短調のD600とホ長調(平行調)のD610、調性関係はぴたりと合致する。ドイチュも同様の可能性を考えていたらしい。実際にこの2作品を「メヌエットとトリオ」として、ダ・カーポ形式(D600+D610+D600)で演奏している例も多い。

この問題に関して私自身の見解を述べれば、D610がD600のトリオだということはまずありえないと思う。D610は1拍ぶんの弱起(アウフタクト)で始まるのだが、D600の最終小節には3拍目まで音があり、単純にうまく合致しない。実際にD600とD610を組み合わせて演奏する際には、間に2拍程度の休みを入れて辻褄を合わせなければならない。オリジナルのトリオとして作られたのならば、こういうことは起きないだろう。
もう一つ理由を挙げるとすれば、曲想があまりにも違いすぎる。D610は親しげな表情の、カジュアルで可愛らしいトリオであり、いかめしいD600とちぐはぐな印象がある。
以上のことからD600とD610の関連性は低いと判断し、今回も組み合わせて演奏することはしない。

考えてみれば、シューベルトのメヌエットはほぼ必ず1拍のアウフタクトで始まるのが通例で、D600はそういう意味でも慣例から外れている。
メヌエットと題されてはいるが、舞踏目的ではなく、おそらくソナタや他の大規模楽曲の中間楽章として書かれたのではないだろうか。新全集もその立場を取っているのか、「舞曲」ではなく「小品」の巻に収録されている。
  1. 2021/05/17(月) 22:16:48|
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