シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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シューベルトの旅 (3)1820年7月、アッツェンブルック城

1820年からの数年間にわたる、シューベルトの創作数の激減にはさまざまな原因が考えられるが、ポジティヴなものとしては「大規模な劇場用作品の作曲に注力していたから」という理由が挙げられる。
フォーグルの口利きで委嘱されたジングシュピール「双子の兄弟」D647は1819年1月に既に完成していたが、初演にはそれから更に1年半を要した。
1820年6月14日、ケルントナートーア劇場で行われた初演ではフォーグルが一人二役の双子を演じ、シューベルトの友人たちやサポーターが熱烈な喝采を送ったが、大成功というほどの支持を得られたわけではなかった。初演時の通例として最後のカーテンコールに呼び出されるべき作曲者シューベルトは、みすぼらしい襤褸の服を纏って桟敷席に座っていて、見かねたヒュッテンブレンナーが自分の夜会服と交換するよう申し出た。しかしシューベルトは結局ステージに上がらず、仕方なく代わりに主演のフォーグルが聴衆に礼を述べて「あいにく作曲家は本日劇場に来ておりません」とアナウンスするのをニコニコしながら聞いていたという。
こうしたシューベルトの態度は、今では「控えめで目立つことを嫌う性格」と好意的に理解されているが、当時シューベルトの名を世に広めようと躍起になっていた友人や支援者の中には不可解に思ったり、はっきりと苛立ちを覚える者もいたようだ。
そもそもシューベルトはこの「劇場デビュー作」のリハーサルに一度も姿を見せなかった。もし立ち会っていたら、この作品の弱点を初演前に発見し、修正することもできたかもしれない。
「双子の兄弟」は7月までに合計6回上演されたが、夏の劇場のシーズンオフのあと、再演されずに打ち切りとなった。

まだ「双子」の上演が続いていた7月の初旬に、シューベルトはウィーンから35km離れたアッツェンブルック城に姿を見せた。


ウィーンと、そのやや西に位置するアッツェンブルック

アッツェンブルック城の起源は12世紀にまで遡るが、1820年当時はL字型のバロック様式の佇まいとなっており、ショーバーの伯父で弁護士のヨーゼフ・デルフェル Joseph Derffel (1766-1843)がこの館を管理していた。ショーバーとその親戚や友人たちは1817年からこの別荘で夏にホームパーティーを開催していて、シューベルトは招待客のひとりとしてこの年初めて参加したのである。

アッツェンブルック城
現在のアッツェンブルック城。内部は「シューベルト博物館」となっている。

アッツェンブルック城での催しの内容を描いた絵が残っている。シューベルトの友人の画家レオポルト・クーペルヴィーザーが描いたもので、「ジェスチャーゲーム」をやっているところだという。すなわち、参加者が二組に分かれ、一方が演じる無言劇の内容を、知らされていないもう一方が当てる、というゲームである。シューベルトはピアノの前に座り、左手で何やら弾いているようにも見える。

アッツェンブルック城でのジェスチャーゲーム

ちなみに彼らが演じているのは創世記の「アダムとイヴ」と林檎と蛇のシーンである。しかしショーバーが後年解説するところによると、ゲームのお題は「Rheinfall」(ライン川の滝)。どういうことなのだろうか? これは同音異義を使った駄洒落のようなもので、ドイツ語でRheinには「純潔」(現代ドイツ語ではrein)、Fallには「転落」という意味もあるので、「純潔からの転落=Rhein-Fall」、すなわち蛇の誘惑によってアダムとイヴが「堕落する」シーンを演じることで、「ライン川の滝=Rheinfall」に代えたのだ。ずいぶん難解な謎かけである。おそらく正解することより、演じ手によるお題の解釈まで含めて、そのセンスを楽しむハイブローな遊びだったのだろう。アッツェンブルックではこんなふうにゲームに興じたり、遠足に出かけたり、夜はダンスをしたりして遊び呆けるのが常だった。
城でのこの享楽的なパーティーが何日間ぐらい続いたのか、詳しいことは記録されていない。今では通称「アッツェンブルックのシューベルティアーデ」と呼ばれているが、少なくとも1820年の初回は「シューベルティアーデ」とは呼ばれていなかっただろうし、そもそもシューベルトがメインの催しでもなかったはずだ。
シューベルトは翌年以降も何度か、この夏のパーティーに参加した。あくまで休暇中だったので、滞在中に作曲された作品はほとんど知られていないが、例外が「6つのアッツェンブルックのドイツ舞曲」と呼ばれる舞曲集である。1821年7月の日付を持つ自筆譜は、おそらくアッツェンブルックの夜の舞踏会で演奏した舞曲を書き起こしたものなのだろう。これら6曲は、後にD145とD365の2つの舞曲集の中にバラバラに収録されて出版された(D145-1, D145-5, D365-29, D145-2, D365-30, D365-31)。
1821年の夏にシューベルトが再訪したことは確実だが、その後については確たる記録もなく、よくわからない。1822年が最後だったという文献もあれば、23年だとか、最晩年28年に至るまで毎年シューベルトは姿を見せたという情報もある。
アッツェンブルックでの様子を描いたクーペルヴィーザーの絵としては、もう1枚有名なものがあり、アッツェンブルックからアウミュール(詳細不明)へ向かう馬車に乗り合う男女が描かれている。画面の左奥、馬車には乗らず、画家自身と何やら話し込んでいるのがシューベルトである。楽しい遠足の1シーンなのだろうが、その構図はどことなく意味深な気がしなくもない。

アッツェンブルックからアウミュールへ

[参考文献]
・Rudolf Klein著「Schubert Stätten」(Elisabeth Lafite, 1972)
・藤田晴子著「シューベルト 生涯と作品」(音楽之友社, 2002)
・村田千尋著「作曲家◎人と作品シリーズ シューベルト」(音楽之友社, 2004)
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  1. 2018/03/20(火) 16:42:21|
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シューベルトの舞曲について 概略

シューベルトは、こと舞曲の分野では大変に成功した作曲家だったと言ってよいだろう。
シューベルトは、モーツァルトやメンデルスゾーンのような神童ではなかった。試行錯誤しながら自らの道を切り拓いていった、努力の人である。しかし舞曲においては、誰に習うことなく、若い頃からごく自然に完璧なスタイルを会得していた。ウィーン生まれウィーン育ち、生粋のウィーンっ子ならではのセンスなのだろうか。

ウィーンの舞踏会シーズンは冬である。他にレジャーのないこの時期、人々は踊りに熱中した。メッテルニヒ体制のもと、舞踏会の開催時期はカトリックの祝日をもとに厳しく規制されていた。舞踏会を開いてよいのは、1月6日の「東方三博士の祝日」から、復活祭に伴って2月3日~3月9日の間で移動する祝日「告解の火曜日」(パンケーキデー)の間のみ。すなわち1年のうち1ヶ月か2ヶ月の間だけ、人々は心おきなく踊ることができた。この法を犯すと重い罰金が課せられたり、逮捕されることすらあった。
しかし、許可されていない期間にも、個人邸などでの非公式のダンスパーティーはこっそりと開かれていた。シューベルティアーデの仲間たちも、時期を選ばず、集まれば結局舞踏会になった。ウィーンの冬は長く寒い。舞踏は、楽しみながら暖を取れる格好のレクリエーションだったのである。シューベルトたちも、1822年の舞踏会の最中、警察に踏み込まれて危うく逮捕されるところだったらしい。
そのような楽しく密やかな集まりで、シューベルトはピアノの前に座り、ひたすら即興で舞曲を弾き続けた。シュパウンをはじめとする友人たちが口を揃えて証言するには、シューベルトは決して自分では踊らず、ただ踊りの伴奏をするだけだった。そして、即興の舞曲の中で特に気に入ったもの、友人たちの評判の良かった曲を、五線に書きつけたのだという。そのようにして、あの膨大な数の舞曲が生まれていったのである。

シューベルト自身か友人が出版社に売り込んだのか、あるいは評判を聞きつけた出版社から話が持ち込まれたのか、その経緯は明らかではないが、あるときから舞曲が出版のルートに乗るようになる。1821年、「36のオリジナル舞曲」(D365)が作品9として出版された。自費出版ではなく、出版社から委嘱を受けて作品が刊行されるのはこれが初めてだった。
以降、出版社たちはこぞってシューベルトに舞曲を委嘱するようになる。作曲家シューベルトにとって、「舞曲」はほとんど唯一の、安定した収入源であった。現代ではシューベルトの代名詞ともいえる歌曲さえ、当時は自費出版を余儀なくされ、そうでなくともシューベルトにはわずかな収入しかもたらさなかった。そこには圧倒的な需要の差があったのだろう。
毎年舞踏会のシーズンが近づくと、出版社たちは次々と「今年のトレンドの」舞曲集を刊行した。さまざまな作曲家に委嘱したオムニバスの舞曲集も人気で、シューベルトの後年の単発の舞曲はこうした楽譜の収録曲として残されたものも多い。
シューベルトは生前から絶大な人気を誇った「舞曲王」だったのである。

新全集の解説によれば、自筆譜の残っている舞曲をジャンルごとに大別すると、次のような割合になるという。
「ドイツ舞曲」が40%。
「レントラー」25%。
「エコセーズ」20%。
「メヌエット」15%。

あれっ、と思われる方もいるかもしれない。「ワルツ」が入っていない。実はシューベルト自身が自筆譜に「ワルツ」と書きつけた曲は、1曲しか確認されていない(D365-3)。そして、生前に出版された舞曲は、製版に使われた原稿が残っていないのである。
印刷してしまえば、手稿は破棄するのが当時は普通だったのだが、そのせいでシューベルト自身がどのような題を与えていたのかを知ることはできない。ただ、いくつかの舞曲については製版用とは異なる自筆譜が残っており、それに周りの友人たちの証言も総合すると、「ワルツ」として出版された舞曲の大多数は、どうやら本来は「ドイツ舞曲」だったようだ。「感傷的なワルツ」「高雅なワルツ」といった命名や、さらに選曲に至るまで、どうやら出版社が恣意的に行ったのではないかと思われるふしは多々ある。

シューベルトは舞曲を書くとき、構想を練ることも、推敲することもなかった。後世に残す芸術作品ではなく、あくまでその場で消費する実用音楽である。題名にもこだわらなかったし、実際のところ、楽譜通りの曲順で一音も変えずに演奏されるような性質のものではなかったのだろう。演奏する側が好きな曲を選んで、適当に音を抜いたり加えたり、場合によっては小さいアンサンブルを組んだりして、楽しい舞踏会の伴奏に供したのである。
  1. 2016/03/22(火) 22:51:32|
  2. 楽曲について
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