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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

[告知] シューベルトツィクルス第15回「4手のための行進曲」

第15回チラシ
2021年12月7日(火) 19時開演 東京文化会館小ホール * ゲスト:崎谷明弘
♪行進曲 ホ長調 D606
♪行進曲 ロ短調 D757A
♪6つの大行進曲 D819 *
♪こどもの行進曲 ト長調 D928 *
一般4,500円/学生2,500円 →チケット購入
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  1. 2021/12/07(火) 19:00:00|
  2. シューベルトツィクルス
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行進曲 D757A 概説

行進曲 ロ短調 Marsch h-moll D757A
作曲:1822年8月 出版:1988年
楽譜・・・IMSLP

1988年の新全集で初めてその存在が明らかになったが、曲じたいはそれ以前からよく知られていた。むしろ、これほど何度も繰り返しシューベルト作品の中に登場する楽想は珍しい。

最初は1815年8月1日作曲の、シラーの詩による歌曲「戦い」D249(楽譜・・・IMSLP)。歌曲とはいうものの、歌唱パートには一音も記されないまま、ピアノの前奏だけで終わり未完となっている。「Marcia」(行進曲)と題されたこの前奏部分が、この楽想の初出であった。

約半年後の1816年3月、シューベルトは同じ詩をもとにカンタータ「戦い」D387(楽譜・・・IMSLP)に取り組み始める。

戦いD387自筆譜

D249とほぼ同じ「Marcia」と題された前奏のあと、2段譜の上の声部に歌詞が書き込まれ、歌唱声部とバスが対位法的に進んでいく。途中から歌唱声部は複数に枝分かれし、独唱と四部合唱と伴奏という編成のアイディアが見えてくる。
しかし残された自筆譜はスケッチ段階に留まっており、旋律こそ詩の最後まで付曲されているものの、下の譜表が空の小節も多く、かなり積極的な補筆を施さないと演奏することはできない(実際、演奏されることはまずない)。

そしてこの「前奏」が独立し、1824年出版の「3つの英雄行進曲」D602(作品27)の第1曲主部に転用された、ということは以前から知られていた。D602の作曲時期は不明である。8分音符の伴奏型を伴う穏和なト長調のトリオはこのとき新たに書き足された。

本作D757Aは、いわばD602-1のソロ・ヴァージョンというべきものである。
自筆譜は、音楽家フェルディナント・ピリンガー Ferdinand Piringer (1780-1829)の記念帳に収められていた。ピリンガーは役人として働きながらもヴァイオリンをよく弾き、1824年には音楽団体「コンセール・スピリチュエル」を設立しウィーンの音楽文化に貢献した。ベートーヴェンと親しかったことも知られる。彼は1820年から死去するまで、出会った音楽家に依頼し、決まったサイズの紙片に自筆譜とサインの記入を求めた。その数は91名にのぼり、半分以上は無名のアマチュアだが、中にはベートーヴェンの「アレグレット」WoO.61の自筆譜や、ケルビーニ、チェルニー、フンメル、カルクブレンナー、クーラウ、モシェレス、パガニーニ、サリエリ、ヴェーバー、ヴォジーシェクといった作曲家も含まれている。
整理番号「88」として収められたシューベルトの行進曲には「1822年8月」という日付が作曲者の手で書き込まれ、さらに他人(おそらくピリンガー)の筆跡で「1822年8月15日」と書き加えられているが、これは作曲の日付ではなくピリンガーがこの自筆譜を取得した日付と考えられる。1988年の初出時には「D deest」(ドイチュ番号なし)として発表されたが、この日付をもとに1822年8月作曲の重唱曲「自然の中の神」D757と、9月作曲の歌曲「死の音楽」D758の間のD757Aという枝番号が目録改訂時に新たに付与された。

上記の通りD249・D387・D602-1・D757Aと4つの稿が存在するが、細かく見ていくといろいろと興味深い相違がある。
まずト長調のトリオはシラー2作品には存在しないことは既に述べたが、D757Aではトリオの最終小節、Da Capoの前の伴奏がきちんと終止しておらず、D602-1に存在するセコンダ・ヴォルタ(2括弧)がない(新全集ではD602-1を基にしたセコンダ・ヴォルタが提案されている)。
さらに、D249の第25-26小節、主部の再現の直前の2小節がD387では削除されていて、D602-1も同様なのだが、D387より後に成立したはずのD757Aではこの2小節が復活しているのだ。

シューベルトの主要な連弾行進曲の作曲時期は、便宜的に1818/1824年のツェリス滞在に結びつけられていることは既に述べた。D602に関しては、1824年12月に早くも出版されており、1824年10月のウィーン帰還後2ヶ月での出版というのは超スピードなので、1818年の作曲の可能性が高いと考えられてきた。しかし新全集の校訂者ヴァルター・デューアの解説では、D757AはD602-1の初期稿と見做すことができ、その異同から1822年8月時点でD602が完成していたとは考えにくいため、D602が1824年のツェリスに結びつけられる可能性が強まったとしている。
しかしこの楽曲に関して言うならば、長い間シューベルトの中で温められていた楽想であり、どの時点で譜面化されたということはあまり重要ではないようにも思われる。オクターヴユニゾンの勇ましい開始や付点のモティーフ、スタッカートを伴うバス進行がもたらす運命的な悲壮感は、青年シューベルトがシラーの詩から受け取ったインスピレーションであり、結実しなかった若き日の挑戦の残滓が行進曲の姿で蘇ったのだろう。
  1. 2021/12/03(金) 00:13:45|
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行進曲 D606 概説

行進曲 ホ長調 Marsch E-dur D606
作曲時期不明 出版:1840年7月
楽譜・・・IMSLP

死の12年後の1840年にアルタリア社から出版されて以来、100年以上にわたってシューベルトの唯一の独奏用の行進曲と考えられていた作品である。しかし自筆譜は存在せず、作曲時期も不明である。ドイチュ目録は最初のツェリス滞在の年である「1818(?)」と推測しているが、確証はない。初版譜の表紙には「遺稿から」との但し書きがあり、死後にフェルディナントが所有していた自筆譜の中から売却された作品なのかもしれない。

4手の行進曲と同様に複合三部形式で書かれている。主部は付点リズムのモティーフと、ほとんどの小節でオクターヴで重ねられたバスが目を引くが、特異なのはその急激な転調である。最初の8小節間でホ長調→嬰ヘ短調→イ長調と転調を重ねた後、[9]でハ長調の主和音が強奏され聴く人を驚かす(結果的にこの和音は属調ロ長調のナポリの和音として処理される)。後半では激烈な減七の和音から始まる楽節が嬰ニ短調([15]-[22])、嬰ハ短調([23]-[30])と並列され、予備もなしに再現部へ至る。こうした脈絡のないブロック的な調性移動は、いつものシューベルトの魔法のような精妙な転調とは全く異なる荒々しさ、一種の暴力性さえ感じさせる。
トリオは長3度上(異名同音)の変イ長調で、左手の単純な重音にはスタッカート、右手の8分音符のパッセージにはレガートと指示されている。右手の内声にメロディーらしき動きが現れるが、全体としては練習曲風の器楽的な書法をとる。後半では「短短長」のエコセーズ風のリズムが支配的となり、クレシェンドを伴ったゼクエンツでffにまで達する。

過激な実験作であるとともに、シューベルトが好んだ長3度関係調(ホ長調-ハ長調-変イ長調)が重要な役割を果たしている点も興味深い。
  1. 2021/12/02(木) 11:44:52|
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こどもの行進曲 D928 概説

行進曲 ト長調(「こどもの行進曲」) Marcia G-dur D928 ("Kindermarsch")
作曲:1827年10月12日 出版:1870年
楽譜・・・IMSLP


D928自筆譜2

1827年9月、シューベルトは音楽愛好家マリー・パハラー夫人の招きを受け、オーストリア第2の都市グラーツを訪問した(詳細はこちら)。帰り際にパハラー夫人は、8歳の息子ファウストのために連弾曲を書いて欲しいとシューベルトに頼んだ。
ウィーン帰京後の10月12日、シューベルトは約束の行進曲を仕上げてグラーツへ送った。自筆譜の下部の余白にはパハラー夫人に宛てたこんな書き込みがある。

ファウスト君のための4手の行進曲を謹んでお送りします。もしかしたら彼の拍手は得られないかもしれません、私はこういう作曲には向いていないように感じるので。

シューベルトに同行した友人イェンガーもファウスト宛に「よく練習して、来月の4日には友達のシュヴァンメルル(シューベルトのあだ名)と僕のことを思い出してくれたまえ」とメッセージを残している。
11月4日は一家の主、カールの命名記念日で、そのお祝いの席でファウストとマリーが連弾でこの曲を披露する、という段取りになっていたようだ。この心温まるパハラー家内での初演が実際どのようなものだったのかは伝えられていない。自筆譜はただ「Marcia」(行進曲)とイタリア語で題されているだけだったが、このような成立事情から「Kindermarsch」(こどもの行進曲)のタイトルで1870年にゴットハルト社から出版され、現在もその名で呼び習わされている。

確かにこどもらしい、可愛らしくシンプルな曲調だが、実際に演奏するのはそれほど簡単ではなく、8歳の少年にうまく弾きこなせたのかどうかは疑わしい。シューベルト自身の言い訳もそのあたりを踏まえたものだったのかもしれない。
シューベルトのトレードマークともいうべきダクティルス(長短短)のリズムが支配する主部と、3連符が主導的なハ長調のトリオからなる。
  1. 2021/12/01(水) 18:53:07|
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4手のための行進曲 概説

シューベルトのピアノ独奏曲のうち、作品リストの大勢を占めるのは「ドイツ舞曲」「レントラー」「ワルツ」といった3拍子系の舞曲であり、その総数は数百にのぼる。だが、連弾曲となると舞曲はぐっと少なくなり、同種の作品は7曲を数えるのみである(「ポロネーズ」(10曲)も舞曲の一種ではあるが、独奏用のポロネーズはない)。それに代わって連弾曲リストの筆頭に挙げられるのが17曲の「行進曲」である。そのうち14曲が生前に出版されている。

D番号曲名初出
D6023つの英雄的な行進曲1824年出版(作品27)
D7333つの軍隊行進曲1826年出版(作品51)
D8196つの大行進曲1825年出版(作品40)
D859葬送大行進曲(ロシア皇帝アレクサンドル1世の崩御に際し)1826年出版(作品55)
D885英雄大行進曲(ロシア皇帝ニコライ1世の戴冠に際し)1826年出版(作品66)
D968B(D886)2つの性格的な行進曲1829年出版(作品121・遺作)
D928こどもの行進曲1827年作曲

「行進曲」は集団の歩調を合わせる目的の実用音楽であり、もとは軍隊で用いられたが、次第に儀礼的な性格を帯びるようになる。性格や目的に応じて、「軍隊行進曲」「トルコ行進曲」「結婚行進曲」「葬送行進曲」「祝典行進曲」などの形容詞が冠されることも多い。行進曲が性格小品のジャンルの一角を占めるに至ったのには、シューベルトの連弾行進曲、とりわけ「軍隊行進曲」の果たした功績が大きい。当然ながら2拍子系で、大規模な複合三部形式(A[||:a:||:ba:||]-B[||:c:||:dc:||]-A[||:a:||:ba:||])をとるという点は全作品に共通しているが、そのテンポやキャラクターは実にヴァラエティに富んでいる。

こうした4手のための行進曲がどのような機会に作曲されたのかは、全くといって良いほどわかっていない。グラーツのパハラー家に贈った「こどもの行進曲」D928を除けば自筆譜も残っておらず、シューベルティアーデで頻繁に演奏されたということもないようだ。ただ、1818年1824年の2度のツェリス滞在のあと、シューベルトは行進曲を含む多くの連弾曲を携えてウィーンに戻ってきたというシュパウンらの証言があり、D602・D733・D819といった主要行進曲セットはエステルハーツィの令嬢姉妹と過ごした夏の所産の一部だろうというのがドイチュをはじめとする研究者の見解である。しかしこれらすべてをツェリスに関連づけてよいのかどうか、ウィーンでの日常の中で書かれたという可能性もまた否定できない。
いずれにせよ、生前に次々と出版されたという点をみても人気のジャンルであったことは間違いなく、出版社からの委嘱に応じて書かれたのかもしれない(とりわけロシア皇帝関連のD859・D885はその可能性が高い)。連弾は、ピアノを手に入れた市民たちが自宅で楽しめるエンターテインメントであり、集団の歩調を合わせるという行進曲の本来の用途から言っても、2人の奏者が拍感を合わせてアンサンブルを楽しむのに適した曲種だったのだろう。決して技巧的ではないが、客人に聴かせるにふさわしい豪華さやスペクタクルにも富んでいる。

その一方で、独奏用の行進曲がほとんど残されていないという事実もまた興味深い。長らくソロの行進曲はD606の1曲しか知られておらず、D757Aは1988年に新全集に収録されるまでは存在すら知られていなかった。ドイチュ目録にはもう1曲、ト長調の行進曲D980Fの存在が記されているが、どういうわけか現在に至るまで発表されていない。
「行進曲」と「舞曲」は両方とも、ステップという身体の運動に根ざした楽曲であるが、2手では「舞曲」が多く「行進曲」はわずか、4手では「行進曲」が多く「舞曲」は少ない。この「ネガ/ポジ」の関係を念頭に置きつつ、第15回・第16回の公演をあわせてお聴きいただきたい。
  1. 2021/11/29(月) 19:15:49|
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