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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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30のメヌエット D41 概説

30のメヌエット Dreißig Menuette D41
作曲:1813年 出版:1889年(旧全集)
楽譜・・・IMSLP

はじめに自筆譜の問題に触れておこう。ウィーン市立図書館に所蔵されており、SCHUBERT onlineでも閲覧可能である。
全30曲のうち、第9・10曲、第19曲、第24~30曲が消失しており、現存するのは残る20曲である。つまり全体で合計3カ所の消失部分があるということになる。現存するすべての曲に通し番号が降られていることから消失曲が判明しているのだが、冒頭に「30曲」と明示されているわけではないので、最後の7曲は散逸したのか最初から書かれなかったのかは判然としない。
自筆譜は、時折書き間違いを修正している他は推敲の跡のない整然とした筆跡で、おそらく下書きを見ながら清書したものと思われる。

トリオを伴うメヌエットは、各曲とも五線紙の片面に収まるように書かれており、裏面にはみ出す曲は1つもない。第1曲と第16曲では収まらなかった部分を、余白部分に手書きで五線を補って書き終えている。
はじめの16曲、つまり最初の消失部分の第9・10曲をまたぐ第1~18曲については、奇数番号曲と偶数番号曲が1葉の五線紙の表裏に書かれていて、合計8枚の自筆譜にまとめられている。消失した第9・10曲も同様に1枚の紙の表裏に記されていたと想定して差し支えないだろう。

(1) 表 メヌエット D41-1 / 裏 メヌエット D41-2
(2) 表 メヌエット D41-3 / 裏 メヌエット D41-4
(3) 表 メヌエット D41-5 / 裏 メヌエット D41-6
(4) 表 メヌエット D41-7 / 裏 メヌエット D41-8

(おそらく1枚が消失)
(5) 表 メヌエット D41-11 / 裏 メヌエット D41-12
(6) 表 メヌエット D41-13 / 裏 メヌエット D41-14
(7) 表 メヌエット D41-15 / 裏 メヌエット D41-16
(8) 表 メヌエット D41-17 / 裏 メヌエット D41-18


ところがこのスタイルが変化するのは次の消失部分を越えた第20曲からの4曲である。それぞれ片面にメヌエットが書かれ、その裏面には違う作品のスケッチが書き付けられているのだ。全部で13枚からなる自筆資料のうち、上述した8枚のあと、9枚目からの内容はこうなっている。

(9) 表 メヌエット D41-20 / 裏 フーガD41Aの断片、続けて歌曲「子守歌」D498のピアノ独奏用編曲(ハ長調)
(10) 表 メヌエット D41-21 /  裏 ピアノ曲D459A-3(Allegro patetico)の最後の8小節、完結後同じ段からアダージョD349の第1-31小節
(11) 表 アダージョD349の第32-84小節 / 裏 歌曲「憧れ」D516のスケッチ(ピアノパートの前奏(決定稿には存在しない)の右手の他は歌唱パートのみ・未完)
(12) 表 メヌエット D41-22 / 裏 アンダンティーノD348の第42-71小節
(13) 表 メヌエット D41-23 / 裏 アンダンティーノD348の第1-41小節


11枚目の紙片は、鉛筆でそのようにナンバリングされているが(おそらくその主は例によってサインを残している以前の所有者ニコラウス・ドゥンバ)、後から挿入されたものと見られ、紙の縁の形状が若干異なる。これについてはD349の項で詳述したい。
2つ目の消失部分が第19曲1曲のみであることから、第19曲以降、シューベルトは書式を変更して、五線紙の表面だけにメヌエットを記し、その時点では裏面を空白のまま空けておいたようなのだ。そして後年、おそらく1816年頃に新しい作品のスケッチに「裏紙」を再利用したと考えられている。
裏面に書き付けられた作品のうち、作曲年代が判明しているのは子守歌D498のみであり、ヴィッテチェク=シュパウン・コレクションの記述により1816年11月とされている。ただしこのピアノ用編曲の筆跡は、いつものフランツ・シューベルトのものとは異なるように見受けられ、ドイチュによると兄フェルディナントのものだという。フェルディナントはおそらくこの主題でピアノの変奏曲を書こうとしたのだろうとドイチュは推測している。だが、最上段に1小節だけペン入れされているフーガD41Aは、その後も4段目まで薄く鉛筆で下書きされていて、子守歌の編曲はその上を塗りつぶすように書き始められているのだ。もしかしたらこのフーガの下書きを実施したのもフェルディナントだったのだろうか? いずれにしても、ここに登場するD348、D349、D459A-3、D516がすべて1816年の作品という推定はあまり説得力のあるものとはいえない。
メヌエットの中で他と明らかに状況が異なるのが第22曲である。1段目がまるごと削除されていて、2段目から新たに書き直され、その際に通し番号にも訂正の跡がある(訂正前は何番と書かれていたのかは丹念に塗りつぶされているため判読できない)。つまりこの自筆譜は清書稿ではなく、推敲を含む段階の稿のようなのだ。
そう考えると、現存する最後の4曲、第20~23曲は初期稿であり、後で清書譜を作ろうとしたか、あるいは作ったとも考えられ、さらにその後(不要になった)裏紙として再利用された、と見るのが妥当かもしれない。再利用の時点ではメヌエットはバラバラになっていて、適当な順番で使用されていったと思われる。アンダンティーノD348の続き、アダージョD349の続きを含め、消失してしまったメヌエットの裏に未知の作品が書き付けられていた可能性も高い。

このメヌエット集の来歴を明かしているのは、フェルディナントが作成したフランツの作品リストである。1813年の作品の中に「ピアノのための30のメヌエットとトリオ(消失)」とあり、長兄イグナーツのために作曲されたという。この記述を信じた上で、20曲のみが現存するD41をこれと同定したわけなのだが、若干怪しいところがある。この自筆譜の束はフェルディナントの所有物の中から発見されたのだが、にも関わらずなぜわざわざ「消失」と書いたのだろうか?
実は第4・6・12・13・22曲のトリオを、フェルディナントは(他の作品も含めて)「自作」のパストラール・ミサ(1833)に盗用し、1846年に初演・出版までしている。フェルディナントは既に弟の生前からその作品を盗用しては自作として発表し、時にそれを弟に直接詫びたりしているのだが、弟の死後はおおっぴらにこれを行うようになったようだ(同様に盗用されたD968についてはこちら)。とすると、フェルディナントはこのメヌエット集を消失したことにして、自分の作品に転用するためのマテリアルとして死蔵しようとした可能性すらある。「1813年」「30曲」という数字の信用性も揺らいでくるではないか。

全20曲はいずれも1つのトリオを持つメヌエットで、主部・トリオの前半部と後半部にそれぞれ繰り返しが設定されている(第11曲のトリオの後半のみ例外で、繰り返しがない)。D91(1813年11月22日)以降のシューベルトのメヌエットが、「2つのトリオ」を持つABACAという特異な構成を採っているのと比較すると、より一般的なスタイルといえる。
はじめの数曲、同じような付点のアウフタクトのモティーフが続くので、並べて聴くとやや面食らうのだが、次第に作風が変化していく。勇ましい軍隊風の曲想が次第に後景に退き、室内楽風のインティメイトな楽想や、モーツァルトを思わせる古典的なテクスチュアが増加してくる。またメヌエットというよりはポロネーズに近いようなリズムパターンも登場し、第16曲・第20曲(トリオ)・第23曲(トリオ)ではもはやエチュード的ともいえる16分音符のパッセージに埋め尽くされている。はじめは単純極まりなかった和声も、後半に近づくに従って複雑な色合いを帯びてくる。
このようなことから想像するに、この長大な曲集は1813年という一時期に一気に作曲されたのではなく、数年間にわたって書き続けてきたメヌエットを整理したものなのではないだろうか。その最初の数曲は少年期に遡るものかもしれない。第18曲までで過去の下書きが尽き、そこからは五線紙の片面に、新たに書き下ろしたのだろう。その成立時期は、シューベルトが「2つのトリオ」を持つメヌエットに取り組む直前、すなわち1813年と仮定しても大きく間違っていないと思う。
もうひとつ特徴的なのは、第1曲のトリオで既に4小節単位のフレーズを逸脱していることで、その後もたびたびこの基本を踏み外しているのだ。このことはこれらのメヌエットが、舞踏を目的として書かれたのではないことを物語っている。曲調から言っても通常のメヌエットのスタイルとは根本的に異なっている。「イグナーツのために書かれた」というフェルディナントの注記、そして特に最初の数曲に顕著な祝祭的な雰囲気を鑑みると、何らかの慶事(誕生日など?)に際して作曲されたのかもしれない。
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  1. 2020/02/26(水) 22:00:56|
  2. 楽曲について
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Brown, Ms. 26 ドイツ舞曲 変イ長調 D365-2

Brown, Ms. 26  ドイツ舞曲 変イ長調  Deutscher in As D365-2
タイトル:Deutscher von Franz Schubert
日付:1818年3月
所蔵:大英図書館(資料番号 Zweig MS 80) →デジタルデータ

Brown, Ms. 25と同じD365-2を書きつけたこちらの紙片は、作曲家のイグナーツ・アスマイヤーに贈られた。
楽譜の下には長い献辞がある。「ここに君にドイツ舞曲を贈る、最愛のアスマーくん! さもないと君はなお僕をせかそうとする、忌々しいアスマーくん!」続けてラテン語で「最も輝かしく、最も博識で、最も聡明で、最も思慮深い、偉大なる作曲家に、謙虚と畏敬の念をこめて献呈に供さる、しもべの中のしもべフランシスコ・セラフィコまたの名をシューベルトより」。
ヨーロッパにおけるラテン語は古めかしい「古典」言語であり、この擬古典調のおかしな献辞にもやはりシューベルトのユーモアが宿っている。

イグナーツ・アスマイヤー Ignaz Aßmayer (1790-1862)はザルツブルク生まれで、同地でミヒャエル・ハイドンに師事。1815年にウィーンに移り、サリエリの門下に入ってシューベルトと同門となった。1824年のディアベリの「ワルツ変奏曲集」には、シューベルトやチェルニーらとともに選ばれていることから、当時ウィーンで活躍中の作曲家と認められていたのだろう。彼はその後教会音楽の分野に進み、1824年にはショッテン教会の合唱指揮者、1825年には第2宮廷オルガニスト(首席はシューベルトが晩年に対位法の教えを請うた大家シモン・ゼヒター)、1838年に宮廷副カペルマイスター、そして1846年にはカペルマイスターに登り詰めた。在職中の1854年にはオルガニストに志願してきたアントン・ブルックナーの採用試験も行っている。1862年、彼の多くの作品が演奏されたショッテン教会で死去し、ヴェーリング墓地に埋葬された。作品のほとんどはミサ曲、オラトリオといった教会音楽である。
ところでこの楽譜の裏面には、「ヨハネ福音書」第6章第55-58節に付曲した、独唱声部と通奏低音のための作品(D607)の第1-33小節が書かれている。続きの第34-57小節の自筆譜の紙片はウィーン市立図書館に所蔵されており、バラバラに保管されている。こちらの裏面には「Quartetto」(?)と題された変ホ長調の断片が記されている。シューベルトはD607を書き上げたあと、その2枚の紙片の裏面を再利用し、1枚に舞曲を書いてアスマイヤーに贈り、もう1枚には別の作品のスケッチを書きつけた、ということらしい。
ドイツ語の献辞は例によってDeutschen(ドイツ舞曲)とpeitschen(せかす)の押韻となっているが、文字通り受け取るならば、アスマイヤーがシューベルトにこの曲のコピーを再三依頼してようやく実現したものとも考えられる。

ドイツ舞曲 変イ長調 →D365-2 変イ長調
1818年3月14日の日付があるBrown, Ms. 25とほとんど違いはない。[8]の左手にEsが追加されているのと、後半のアクセントの大部分がなくなっている程度の違いである。一方を参照しながらもう一方を書き写した、と思えるぐらいに一致している。
あえて言うならば、Brown, Ms. 25は大譜表3行の途中までとなっているが、この自筆譜は2行にきれいに収まっており、レイアウトを計算しながら書いたのではないかと思われる。
  1. 2019/03/25(月) 21:23:17|
  2. 舞曲自筆譜
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Brown, Ms. 25 ドイツ舞曲 変イ長調 D365-2

Brown, Ms. 25  ドイツ舞曲 変イ長調 Deutscher in As D365-2
タイトル:Deutscher von Franz Schubert
日付:1818年3月14日
所蔵:アメリカ議会図書館、ホイットール財団コレクション(資料番号 PhA1030) →デジタルデータ

この紙片はアンゼルム・ヒュッテンブレンナーに献呈されている。
楽譜のあとには「私のカフェ・ワイン・パンチ仲間である、世界的著名作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーのために書かれた。ウィーン、主の年1818年3月14日、家賃30フローリンの彼の非常に個人的な住居にて」とある。
たかだか16小節の舞曲を贈るのに「世界的著名作曲家」だの「主の年」(西暦を示すラテン語表現のドイツ語訳)だの、果ては「家賃30フローリン」なんていうことまで明記されているところに、シューベルトならではの諧謔精神を感じ取ることができる。同門の作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、シューベルトにとってそれだけ気の置けない「カフェ・ワイン・パンチ仲間」だったのだろう。

ドイツ舞曲 変イ長調 →D365-2 変イ長調
ここに書きつけられているのは、有名な「悲しみのワルツ」である。作曲家の名前すら知られぬままにウィーン中のヒットチューンとなったこの曲の、数奇な物語についてはまた別記事で紹介しよう。
Op.9-2とは細部に多くの違いがある。まず冒頭のアウフタクト、Op.9-2ではEs-D-Esという8分音符3つだが、この自筆譜ではEsの4分音符1つだけとなっている。[9]のアウフタクトも同様である。他は左手の伴奏型の違いで、[6]のバスAsがEsになっていること、[5]-[7][9]-[12][14][15]のバスが付点2分音符で伸びていること、[9][14]の2・3拍目の和音の構成音が少ないこと、また[8][16]の終止形に2拍目がなく、2分音符で停止していることなどである。[9]以降にたびたび付されているアクセントはOp.9-2には採用されていない。
他人の手になるものも含めて多くの異稿が作られた本作の、現存する中では最も古い自筆譜であり、その初期の姿を知ることのできる貴重な記録である。
  1. 2019/03/24(日) 20:33:02|
  2. 舞曲自筆譜
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Brown, Ms. 24 2つの舞曲

Brown, Ms. 24  2つの舞曲  Zwei Tänze
タイトル:Ecossaise / Deutsch
日付:なし
所蔵:ウィーン市立図書館(資料番号 MH 16840) →デジタルデータ

1枚の紙片の表と裏に、それぞれエコセーズ(D511)ドイツ舞曲(D365-3)が書かれている。
興味深いのは、それぞれの楽譜の下にシューベルトによるユーモラスな献辞が添えられていることである。
エコセーズの下には「このエコセーズで跳ぶのだ、嬉しいときも悲しいときも。あなたの最良の友人、フランツ・シューベルト」、ドイツ舞曲の下には「いつもこのワルツで踊るのだ、そうしたらあなたはロシア人にも、あるいはプファルツ人にさえなれる。あなたの最高の友人」とある。プファルツというのは南ドイツのプファルツ地方のことだが、特段の意味はなく、Walzer(ワルツ)とPfalzerの押韻(語呂合わせ)に用いられたに過ぎない。
実はこれが、シューベルトが自作について「ワルツWalzer」という呼称を用いた唯一の資料なのである。しかし曲題には「ドイツ舞曲 Deutsch」とあるし、同じD365-3の他の自筆譜の中には「レントラー Ländler」と題されているものすらある。
シューベルトが、自作の舞曲について「ドイツ舞曲」「レントラー」「ワルツ」を区別していなかったと考える重要な証拠である。

自筆譜には献呈先についての情報はないが、J.P.ゴットハルト J. P. Gotthard (1839-1919)による筆写譜が残っており(オーストリア国立図書館所蔵 Mus. Hs. 34814)、そこには「エティエンヌ(父)氏のために作曲された」とある。
この人物は、クロード・エティエンヌ Claude Etienneと同定されている。エティエンヌはショーバーの兄アクセルの使用人で、1821年のアッツェンブルックのパーティーにも参加したという。この譜面はそれよりも以前、1817年頃に成立したと推定されており、同年の8月に赴任先で病気になったアクセルをエティエンヌが迎えに行く際に、ショーバー経由で渡されたものと考えられている(アクセルは実家に戻ることになって、シューベルトは居候していたショーバー邸から出払わなければならなかった)。

1. エコセーズ 変ホ長調 D511
どの曲集にも収録されず、単独のドイチュ番号が与えられた。詳しくは別記事で解説する。

2. ドイツ舞曲 変イ長調 →D365-3 変イ長調
Op.9-3とは細部に多くの相違がある。冒頭のアウフタクトが8分音符のEs-Desではなく、4分音符のEsのみになっている。[6][14]のバス音がEsではなくAsになっており、主和音の基本形となる(Op.9-3では第2転回形)。またこの自筆譜にある多くのデュナーミク、アクセントはいずれも出版譜には反映されず、逆に出版譜には自筆譜にはない多くのスラーが追加されているが、逆に[10][12]の右手の1拍目から2拍目へのスラーはOp.9-3には存在しない。

友人へのプレゼントとして書かれた舞曲の紙片の中で、最も初期のものといえる。
  1. 2019/03/23(土) 11:44:17|
  2. 舞曲自筆譜
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Brown, Ms. 43 4つのドイツ舞曲

Brown, Ms. 43  4つのドイツ舞曲  Vier Deutsche
タイトル:Deutsche
日付:1821年8月
所蔵:ウィーン楽友協会資料室(資料番号 A260)

シューベルト自身の筆跡で番号付けされた4曲は、後にD365D145に2曲ずつ分かれて収録された。

1. ト長調 →D365-32 ヘ長調
出版譜のOp.9-32、また嬰ヘ長調で記譜されたBrown, Ms. 39(1821年3月8日)と比べると、細部に多くの相違がある。[2][18]の右手1拍目の短前打音がなく、[5][6][21][22]のオクターヴ重複もない。[9]-[16]の左手の伴奏型が、より簡素な形に変わっている。また全曲を通してデュナーミク指示がなく、アーティキュレーションもほとんど書かれていない。

2. ト長調 →D365-33 ヘ長調
前曲同様、Op.9-33、Brown, Ms. 39とは細部の相違が認められる。[8]2括弧(延べで書かれているOp.9-33では[16])後半、右手に次小節へのアウフタクト音型が追加されており、[20](Op.9-33では[28])の3拍目に音が加えられているほか、左手の伴奏型には多数の異同がある。アーティキュレーションの点では、Op.9-33では3拍目のアクセントから次拍へのスラーが掛かっているが、この自筆譜はスタッカートで分離されている。デュナーミクの点では、冒頭のpの指示はなく、後半のppに向けて[6]2括弧からdecresc.と指示されているのが興味深い。[17](Op.9-33では[25])はfではなくffとされている。

3. ロ長調 →D145-W2 ロ長調
7月成立の「アッツェンブルック舞曲」Brown, Ms. 42とほぼ同じ内容であり、若干デュナーミクの指示が少ない程度である。

4. 変ホ短調 →D145-W5 ホ短調
こちらも5月成立の、カロリーネ嬢の名のあるBrown, Ms. 41とほぼ一致している。[1]3拍目のsfはなく、[8]の3拍目の左手は休符。また[9]のデュナーミクはpではなくppとなっている。

いずれも先行する自筆譜が存在するが、とりわけ最初の2曲に関してはよりシンプルな書法となっており、出版譜とも一致しない。舞踏会のためのメモ、あるいは他人が弾くことを想定した別ヴァージョンと考えられる。Brown, Ms. 39の嬰ヘ長調から、簡単なト長調への移調を考えると、読譜力の低いアマチュアを想定した写本なのかもしれない。
また、他の自筆譜や出版譜では延べで書かれている第2曲(D365-33)・第3曲(D145-W2)において、1括弧・2括弧を伴う繰り返し記号が使用されていることから、少ないスペースにぎっしりと書こうとした形跡が窺える。
  1. 2019/03/22(金) 01:11:44|
  2. 舞曲自筆譜
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