幻想曲 ト短調 Fantasie g-moll D9
作曲:1811年9月20日 出版:1888年
4手の作品としては2作目にあたるD9は、1811年9月20日に完成した。調性的には相変わらず自由だが、フォームはABCBAの「序奏・後奏付き三部形式」にすっきりとまとめられており、また全体の緊張感の持続という点でも、
前作から1年半の間の進歩には目を瞠るものがある。
ソのオクターヴユニゾンで始まる遅い序奏部は、2手用の
幻想曲D1Eの開始部にも似た不吉な陰を背負っている。ハ短調で開始するアレグロの主部では対位法を駆使し、張り詰めた音楽が展開されていく。やがて次第に和声的な書法になっていき、ニ短調のドミナントで半終止すると、「マーチのテンポで」と指示されたニ長調の中間部に入る。柔らかいホルンの響きを伴う安らぎの時間はしかし長くは続かず、嵐のような主部と序奏部をニ短調で再現して終結する。シューベルトのデモーニッシュな一面が現れた、最も初期の例といえよう。
- 2015/10/28(水) 23:54:42|
- 楽曲について
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
幻想曲 ト長調 Fantasie G-dur D1
作曲:1810年4月8日~5月1日 出版:1888年
知られている限り、現存するフランツ・シューベルトの
最初の作品である。自筆譜によれば、1810年4月8日に作曲を開始し、5月1日に完成している。時にシューベルトは13歳、コンヴィクトに入学して1年半ほど経った頃のことである。この頃はまだサリエリの個人指導は受けておらず、作曲に関してはほぼ独学だったようだが、そのような環境と年齢を考え合わせると、楽譜にして1000小節以上、演奏時間約20分もの4手のピアノ曲を書き上げたその意欲には驚くべきものがある。完成後、すぐに改訂稿(D1B)の作成に取りかかったのだが、これは途中で筆が止まっており、早くもシューベルトの「未完の王様」ぶりが発揮されてしまっている。
曲は、区切り方によって異なるが20前後の細かいセクションに分かれており、テンポも調性も頻繁に変化する。調性はト長調で始まるが、主要な部分だけでもヘ長調、ハ短調、変ロ長調、ロ長調、変ロ短調、変ホ長調などを経過し、最終的にはハ長調で終止するというとめどなさを呈する。
一方でテンポは、序奏的な冒頭部分と終結部(「フィナーレ」)の直前の部分を除くと、遅いテンポが持続する箇所は少なく、全体的に快速から急速といった速めのテンポが指向されている。また、冒頭の「ソ・ラ・シ」という3音の上行形、音程を更に広げた「ド・ミ・ソ」の上行アルペジオの音型が、全曲を貫く主要なモティーフとなっており、これらのことが若者らしいエネルギッシュな漸進性を本作に与えている。
細部についての解説は割愛するが、もうひとつ注目すべきなのは、セコンドのパートでバスのトレモロ上に現れるファンファーレ風のモティーフに「トランペット」と書き込まれていることだ。これは作曲者の脳内に、オーケストラの響きが鳴り響いていたことを示しており、そう考えればバスのトレモロはいかにもティンパニ風である。もしかしたらやがてシンフォニーとして編み直すためのスケッチという意味合いもあったのかもしれない。
- 2015/10/28(水) 13:37:43|
- 楽曲について
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
幻想曲 ハ長調 Fantasie C-dur D605
作曲:1821-23年頃? 出版:1897年
この作品の来歴についてわかっていることは非常に少ない。自筆譜にはタイトルもテンポ指示も、楽器の指定もなく、楽譜が作品の冒頭から始まっているのかどうかすら定かではない。そして
第146小節でぷつりと中断し、未完となっている。
曲はいくつかの異なる楽想が連なっていく、「幻想曲」の特徴を備えている。特筆すべきなのは、すべてのセクションが必ず冒頭主題のモティーフ(ソ・シ・ド・ミという上行音型とその変奏)を用いて始まっていることと、セクション間のブリッジに冒頭の減七の和音のアルペジオが繰り返し使用され、転調を導いているということである。
一つのモティーフから多部分形式の幻想曲を編むという手法は、
「グラーツ幻想曲」D605Aや「さすらい人幻想曲」D760と同じ発想に基づくもので、おそらく「グラーツ幻想曲」に先立って、もしくは同時期に作曲されたと考えられる。後にこの作品に興味を持ったヨハネス・ブラームスは、シュナイダー博士という人物が所有していた自筆譜をもとに詳細な筆写譜を作成しており、このとき初めて「幻想曲」というタイトルが提案された。この筆写譜はウィーン楽友協会資料室に収められている。
この作品のセクション構造は次のようになっている。
第1-19小節 冒頭主題提示部(速度指示なし、ハ長調)
第20-51小節 経過部(ハ長調→・・・→変イ長調)
第52-114小節 Allegro moderato(ハ長調→ハ短調→変イ長調→変ト長調)
第115-142小節 Andantino(ロ短調、3/4拍子)
第143-146小節 (ロ長調、中断)
作品の性格上、中断後の展開が的確に予想できないため、補作は極めて困難な作業となったが、次のように考えつつ補筆を試みた。
まず、開始後4小節で中断となるロ長調のセクションを全体のおよそ半分の地点と仮定する。第115小節でロ短調に転調するまでは、調号上はずっとハ長調のままだが、実際にはさまざまな調へ転調している。その中でも支配的なのは変イ長調で、これはハ長調からみて
「長3度下の長調」である。シューベルトが愛したこの音程関係の転調を最後にも適用することにして、ハ長調で終結する前のセクションは
ホ長調とする。前述の
「グラーツ幻想曲」に倣って、最後は冒頭主題を回想して静かに終わることとし、その直前のホ長調のセクションは舞曲風の軽快な曲想にしてコントラストを持たせる。そして新しいセクションの主題には冒頭のモティーフを使用し、セクション間の繋ぎ目には減七のアルペジオを用いる。
今回私が書き足した部分は以下の通りである。
第147-183小節 (ロ長調、中断されたセクションの続きでロ短調のセクションの再現を含む)
第184-213小節 Moderato(ト長調・ト短調、4/4拍子、Allegro moderato・経過部分の回想)
第214-239小節 Allegro(ホ長調、記譜上12/8拍子の舞曲風)
第240-260小節 Tempo I(ハ長調、冒頭部分の再現)
それまでのセクションの要素を回想しつつ、比較的自由に私なりの曲想を展開させている。
あわせて述べておくべきこととして、第29小節以降、自筆譜でオクターヴ・和音の急速な「連打」として記されている音型は、「トレモロ」で演奏する。こうした、ほとんど演奏不可能な書法は「さすらい人幻想曲」の初稿などにも現れており、同作の改訂の結果なども考え合わせて、このようなアレンジを施しても差し支えないと判断した。
また自筆譜は記譜がかなり簡略化されており、連打が斜線で記されているほか、オッターヴァ・アルタ(オクターブ高く)やオッターヴァ・バッサ(オクターヴ低く)の終了箇所がきちんと明示されていないところが多い。音楽的に判断して終了箇所を決めたが、第31小節の左手で、シューベルトの時代のピアノはおろか、現代の通常の88鍵のピアノでも演奏できない音が出現している。今回の演奏会ではベーゼンドルファー・インペリアルのエキストラ鍵盤を用いて演奏する。
これらのことを総合すると、もともとピアノ曲ではなく、管弦楽曲のスケッチとして書かれたという可能性も十分に考え得る楽曲である。
- 2015/10/27(火) 23:26:00|
- 楽曲について
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
幻想曲 ハ長調 Fantasie C-dur D605a 「グラーツ幻想曲」 "Grazer Fantasie"
作曲:1818年頃? 出版:1969年
楽譜・・・
IMSLP(2つ目のBärenreiter版の楽譜。1つ目の楽譜は別作品(D605))
シューベルトのピアノ作品中極めつけの「問題作」である。以下、新シューベルト全集の序文(校訂者ヴァルター・デューアWalther Dürrによる)を参考に本作にまつわるエピソードをまとめてみたい。
まずは主要登場人物を紹介しよう。
●
アンゼルム・ヒュッテンブレンナー Anselm Hüttenbrenner (1794-1868)
オーストリアの作曲家。グラーツ出身。裕福な地主の長男として生まれ、1815年にウィーンに出てサリエリに作曲を学ぶ。同時に晩年のベートーヴェンのもとに出入りするようになり、1827年には大作曲家の最期を看取った。同門のシューベルトと親しく、du(きみ、ドイツ語の親称(親しい間柄だけの呼びかけ))で呼び合う数少ない作曲家仲間だった。1821年故郷に戻り、シュタイアーマルク楽友協会の会長を務めた。この頃シューベルトから「未完成交響曲」D759の総譜を受け取るが、そのまま私蔵し、シューベルトの死後37年経った1865年に指揮者ヨハン・フォン・ヘルベック(1831-1877)が訪ねてくるまで公表しないという不可解な行動を取った。
●
ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナー Josef Hüttenbrenner (1796-1882)
アンゼルムのすぐ下の弟。同じく作曲家で、シューベルティアーデの仲間だったが、兄ほどの才能はなく、シューベルトともそれほど親密にはなれず、ほとんどグループの使いっ走りのような存在だった。多くのシューベルト作品の写譜を担当している。
●
エドゥアルト・ピルクヘルト Eduard Pirkhert (1817-1881)
ピアニスト、作曲家。ウィーンでハルムやチェルニーに師事し、20代前半でヨーロッパツアーを敢行。華麗な演奏技巧を誇り、モシェレスらに激賞された。ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの友人で、その膨大なコレクションの中からよく楽譜を借り出していたらしい。
●
ルドルフ・フォン・ヴァイス=オストボーン Rudolf von Weis-Ostborn (1876-1962)
グラーツの作曲家、教会合唱指揮者。母はヒュッテンブレンナー家の出身で、アンゼルム、ヨーゼフの下の3番目の弟アンドレアスの娘である。シューベルトと同い年のアンドレアスはグラーツ市長を務めた。
ここからがストーリーの始まりである。
1962年、グラーツの音楽家ルドルフ・フォン・ヴァイス=オストボーンが死去した。遺品を整理していた妻マリア・ルッケンバウアー=ヴァイス=オストボーンと音楽学者コンラート・シュテークルは、1969年にその中から手書きの楽譜と書類の束を発見する。それはヴァイス=オストボーンが大伯父のヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーから受け継いだもので、その中には知られていないシューベルト作品の筆写譜が大量に含まれていた。
その中の1曲がこのハ長調の幻想曲である。ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの手になる非常に丁寧な表紙には、「ピアノフォルテのための幻想曲 フランツ・シューベルト作曲」と記されており、更に鉛筆で「オリジナルはピルクヘルト教授に貸し出した。この筆写譜には作曲の日付がない」とメモされている。ヨーゼフの筆跡は表紙ページのみで、楽譜そのものは別のコピイストが書き写しているが、このコピイストはヒュッテンブレンナー旧蔵の多くの他の筆写譜を担当しており、この1作だけが例外というわけではない。
どうやらヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーは、楽譜や資料を関係者に気前よく貸し出して、そのまま返却されないことがあったらしい。同じ遺品の束の中に発見されたヨーゼフのメモ書きで、シューベルトが兄アンゼルムに宛てた手紙でヨーゼフの歌の才能を評価したものがあったのだが、友人テルチャーとイェンガーに預けたら戻ってこない旨、また作曲家ヴェーバーがヨーゼフに宛てて、シューベルトの歌劇「アルフォンソとエストレッラ」について書いた手紙もショーバーに貸したら返ってこない旨、そしてそれらの「写しもとっていなかった!」という嘆きを記している。そうした失敗に懲りたのか、ピアニストのピルクヘルトにこの幻想曲の楽譜を貸して欲しいと頼まれたとき、写譜して手元に1部保管しておいたのだろう。つまりヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーはもともとこの作品の自筆譜を所有していた可能性が高い。そしてそれをピルクヘルトに貸し出し、予想通り戻ってこなかった。そこで筆写譜の表紙に鉛筆で、この散逸の経緯を書き留めておいたのであろう。願わくば筆写譜の方を貸し出しておいてくれたなら・・・と思わずにはいられないが、今となっては仕方のないことである。ピルクヘルトに渡った自筆譜はどこかに消え失せ、今のところ見つかっていない。1969年にこの筆写譜が発見されるまで、この作品は存在したことさえ全く知られていなかったのである。
1969年のうちにヴァルター・デューアの校訂でベーレンライター社より出版され、シューベルトの新作発見!とニュースになったわけだが、出てきた譜面を見、曲を聴いて、人々はヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの記述の信憑性に疑問を抱くことになる。つまりこれは、シューベルトの真作ではないのではないか、ということである。
以降、この「グラーツ(で発見された新しい)幻想曲」についての議論が巻き起こり、結果この作品は「
グラーツ幻想曲」の名で呼ばれるようになったが、オーストリア・シュタイアーマルク州の州都グラーツはこの作品そのものの成立過程とは全く関係がない。
なぜ人々はこの作品に疑念を抱いたのであろうか。
一言で言えば、シューベルトの作品としては非常に異色であり、もっと言えば、響きがより新しい感じがするのだ。
まずシューベルトはこんな構成の「幻想曲」を書いたことはない。「さすらい人幻想曲」D760以降の幻想曲は、いわば「切れ目のないソナタ」であり、論理的で秩序だった構成が取られている。それ以前の幻想曲、たとえば前に取り上げた
D2eや、連弾用のD1、D9などは「さまざまな楽想が脈絡なく続いていく」スタイルで、一見すると「グラーツ幻想曲」もこのグループに含まれるように思われる。
しかし細かく分析すると、そう単純ではない。この作品はハ長調の静かな主題で始まり、次のセクション([55]-)はなんと嬰ヘ長調(!)のAlla polacca、すなわちポロネーズになるわけだが、ポロネーズの3拍子を保ちながら嬰ヘ短調、ニ長調へ到達したところで冒頭主題がわかりやすく引用されるのである([93]-)。次のセクションは変イ長調で、ここも冒頭主題の変奏([129]-)。そしてその中の2度下行のモティーフ(冒頭部では第6小節に登場する「呼びかけ」のような表情豊かな音型)を操作して、そこから変ホ長調の新しい主題が生まれる([159]-)。変イ長調からホ長調に至り、行進曲のような付点リズムが印象的なセクションに到達するが([213]-)、ここでは冒頭主題の後半([39]-)のメランコリックな和声進行が引用されている。ト長調のパッセージが続く12/8拍子のセクション([244]-)は一見新しい楽想だが、ひとしきり落ち着いたところで例の2度下行のモティーフが現れる([253]-)。そしてハ長調に戻り、冒頭主題がそのまま回帰して([283]-)美しい余韻とともに曲が終わる。
つまりこの幻想曲のうち「ポロネーズ」を除くすべてのセクションは冒頭主題のモティーフを使った変奏なのだ。しかしそれは「さすらい人幻想曲」のようなあからさまな主題労作とは違ってさりげなく展開されるので、一聴しただけでは気がつかず、気まぐれに転調が続いていくとりとめのない楽想の羅列のように聴かせてしまう。
これは作曲技法としては相当に高度なもので、プロフェッショナルな作曲家のみが書きうる作品である。決して無名の素人が趣味的に書いたものではない。
更にこの曲の信憑性に疑念をもたらすのが、響き、もっと開いて言えば「聴き面」の新しさである。
冒頭主題の回帰部分で頻出する左手の幅の広い分散和音、右手の高音域での輝かしいパッセージ、半音階の多用とそれを利用した転調は、ほとんどショパンのノクターンの世界に重なる。先入観なしで鑑定すれば、ショパンと同時代か、それ以降の作曲家の作品と判定されるのではないだろうか。そのくらい、ピアノでしか表現できない新しい響きを追求した作品なのだ。
上に列挙した要素は、それぞれ単独ではシューベルトのピアノ曲に登場しないこともない。しかしこれほどまとまって現れるのは非常に稀で、それゆえにシューベルト作品としては聴いたことのない響きが立ち現れる。
これがシューベルトの作品だという根拠は、ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの表紙しかない。となると、彼の故意の偽装か、あるいは不注意によるミスで、別人の作品にシューベルトの名を被せたのではないかという疑惑が生じてくる。
しかし、本作が名曲であるがゆえに、真の作曲者として挙げることのできる名はかなり限られてくる。ヴァルター・デューアが挙げた候補は、フンメル、ヴェーバー、そしてヨーゼフの兄アンゼルム・ヒュッテンブレンナーの3人だ。
最初の2人はビッグネームである。ヨハン・ネポムク・フンメル(1778-1837)は当時のピアノ界の巨匠で、1816年に「気まぐれな美女、幻想曲風ポロネーズ」作品55というピアノ曲を発表している。本作の第2セクションが流行のポロネーズであることを考え合わせると、少なくともこの「気まぐれな美女」が本作の下敷きになった可能性はある。「魔弾の射手」で名高いオペラ作曲家のカール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)も、「この時代にこんな曲を書けるとすれば・・・」ということで挙がってきた名前だと思われるが、フンメルとヴェーバーに関して言えば、彼らのような大家がこうした作品を書いて、筆写譜1部だけがヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの手元に残り、他の全ての資料が消え失せるという事態はちょっと考えにくい。
そこで有力な候補となったのがアンゼルム・ヒュッテンブレンナーである。
アンゼルムはシューベルトの親しい友人で、シューベルト同様に相当な多作家だった。250曲を超える歌曲を含む総計500曲以上の声楽曲、80曲あまりのピアノ曲などを書いている。サリエリのもとで学び始めたのはシューベルトよりも遅いが、歳は3つ上で、おそらく門下の優等生だったのではないだろうか。シューベルトは尊敬のあまり近づくこともできなかったベートーヴェンのところへ出入りし、「君(ヒュッテンブレンナー)に訪ねてきてもらうほど、私(ベートーヴェン)は価値のある人間ではない」という謎の言葉を賜っている。まさか才能のことを言っているとは思えないし、身分の高い家柄だったのだろうか。1827年3月26日の大作曲家の臨終の床に、女中のサリとともに居合わせ、雷鳴に向かって拳を突き上げ云々という有名なエピソードを語ったのもこのアンゼルム・ヒュッテンブレンナーである。彼のレクイエム ハ短調は、1825年のサリエリの死、1827年のベートーヴェンの死、そして1828年のシューベルトの死のあと、それぞれ追悼ミサで演奏された。当時その才能が認められていたのは、故郷グラーツに戻った直後、20代半ばの若さでシュタイアーマルクの楽友協会の会長を務めたという経歴からもよくわかる。何の地位も得られず仲間内で作品を発表するばかりだったシューベルトとは大きな違いである。
シューベルトが1823年にシュタイアーマルク楽友協会から名誉表彰を受けたのは、おそらくアンゼルムの口利きによるのだろう。その返礼としてシューベルトがヨーゼフを通じてアンゼルムに送ったのがあの「未完成交響曲」である。しかし彼がこの曲の存在を長年公表しなかったことは上に書いた通りである。2楽章で終わっていたので続きを待っていたのかもしれないが、シューベルトが死んだらもう続きはないのだから、少なくとも周囲の人間には存在を明かしてもよいようなものである。あるいは後続楽章の譜面も持っていたのだが紛失し、その露見を恐れて秘匿していたのかもしれない。あるいはもっと根深い嫉妬や複雑な感情が絡んでいたのかもしれない。アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは1840年から神秘主義者ヤーコプ・ローバー Jakob Lorberの新興宗教にはまり、彼の口から発される「神の言葉」を書き留めることに尽力したと伝えられている。
さて、ヨーゼフは本作を兄アンゼルムの作品と知りながら、その表紙に「シューベルトの作品」と記すという詐欺行為を行ったのだろうか。だとすると、「ピルクヘルトに貸し出して云々」という鉛筆書きも悪質な虚偽かもしれない。ヴァルター・デューアはさまざまな可能性についてずいぶん詳細に検討を行っている。
デューアはこの可能性を否定する。もしアンゼルムの作品をシューベルト作と騙るとすれば、それはシューベルトの名を使ってこの作品を出版しようとするときだけだ(音楽作品の偽作はほとんどそのようなビジネス上の方便で行われる)。しかし本作を出版しようとした形跡は見当たらない。もし出版しようとしたならば、その過程でもっと多くの筆写譜や校正譜が残っているはずである。デューアは、もし詐欺を行うとすれば「シューベルトの作品を兄アンゼルムの作品と騙って発表する」のであって、その逆は考えにくいとしている。
では不注意によるミスだろうか。もしそうだとしたら、シューベルトの真作のピアノ用の幻想曲があって、それとこのアンゼルムの作品の表紙を付け間違ったということになる。しかしこの仮定に該当するようなアンゼルム・ヒュッテンブレンナーの(実際にはシューベルトが作曲した)作品は知られていないし、遺品の束にも見当たらない。とするとこの「ミス説」も可能性は薄い。
更にデューアは、何らかの既存の作品のシューベルトによる編曲ではないか、などという説を提案しているが、これは考えるまでもなく現実的ではない。
デューアの結論としては、これはフンメルやヴェーバーなど当時の流行のピアノ曲のフォーマットに則ったシューベルトの真作で、せっかく流行のスタイルで書いたのに出版せず、友情の証としてヒュッテンブレンナー兄弟のもとに預けたのではないか、ということらしい。
確かに、この曲を出版していたら結構売れたかもしれない、と思わなくもない。でもポロネーズの嬰ヘ長調はシャープが多すぎてダメかな・・・。
私自身は、密かに考えている別の説がある。
個人的には、この傑作がシューベルトの真作であって欲しいし、楽想のみずみずしさや美しさは紛れもなくシューベルトの天才の所産だと信じている。しかし、シューベルトがこんな曲を書くだろうかと考えると、一抹の疑問が残るのも否めない。
私は研究者でも何でもないので、全く論拠のない仮説だが、これはシューベルトの楽想を別人、おそらくヒュッテンブレンナー兄弟のどちらかが繋ぎ合わせた合作なのではないだろうか。もしかしたらシューベルティアーデの席で、シューベルトがさらさらと即興で弾いたピアノ曲を、その場で、あるいは後から必死に思い出して記譜したのかもしれない。だから楽想はシューベルトの作だが、伴奏パートなどの細かい書法はヒュッテンブレンナーの手が入っていて、長生きした彼らがショパンの響きを知ってから書き直すこともできたはずだ。ヨハン・ペーター・フォーゲルの指摘通り、シューベルトが生涯に一度も書かなかったModerato con espressioneという発想標語が冒頭に記されている件も、これで説明はつく。
そうして完成した「シューベルトの主題による幻想曲」を、自作として発表するのは気が引けて、いきおい「シューベルト作曲」と書いてしまったのではないだろうか。
ちょっとタイムリーな話題に近づいてしまった気もしないでもない。
- 2014/03/25(火) 18:29:48|
- 楽曲について
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0