ハンガリーのメロディー ロ短調 Ungarische Melodie h-moll D817 作曲:1824年9月2日 出版:1928年
「ツェリスにて、1824年9月2日」と書き込まれた自筆譜が、1925年に作家
シュテファン・ツヴァイク のコレクションに加わるまで、この作品の存在は知られていなかった。一聴するに、1826年出版の「ハンガリー風ディヴェルティメント」D818の第3楽章ロンド(こちらはト短調)と同一のテーマを扱っていることは明らかで、その初稿的存在と見做される。
1824年、シューベルトとともにツェリスのエステルハーツィ邸に滞在した シェーンシュタイン男爵の証言によれば
『ハンガリー風ディヴェルティメント』のテーマになったのは、エステルハーツィ家の厨房でハンガリー人のメイドが歌っていたハンガリーの歌で、シューベルトは私と出かけた散歩の帰りに、通りがかりに耳にしたのだ。私たちはしばらく耳を傾けていたのだが、シューベルトはどうやらこれが気に入ったようで、歩きながら続きをハミングしていた。 タイトルの通り、その「ハンガリーのメロディー」を書きつけておいたスケッチとも捉えられる。
曲はコーダを伴う三部形式(A-B-A'-コーダ)で、A部とコーダがディヴェルティメントに転用されている。ただ、ロ短調から嬰ヘ短調へ向かうAは、A'ではホ短調から始まってロ短調で終わるように設定されており(いわゆる下属調再現)、民謡そのものというよりもかなり作曲家の手が加わった作品と思われる。そもそもこのメロディーじたい器楽的で、歌うのに適した旋律線とはいえない。オリジナルのメロディーにもある程度改変が加えられているのかもしれない。
細かい装飾音やシンコペーションの多用は確かにエキゾティックであり、後の「楽興の時」第3曲や
「即興曲」D935-4 などにも通じる、ハンガリー風味の源流にある作品といえるだろう。
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2020/11/29(日) 23:29:21 |
楽曲について
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佐藤 今回シューベルトのシリーズということなので
シューベルト のお話をしたいんですが、実は僕がシューベルトを勉強していく上で最初にすごく大事なことを教えていただいたな、と思っているのが小倉先生なんです。
小倉 そうなの!
佐藤 D935の即興曲集 のレッスンをしていただいて、そのときに先生がおっしゃったのは、「卓史君はすごく若いしわかんないかもしれないけど、シューベルトの音楽っていうのはね、人が弱ったりしたときに、その弱い心に寄り添ってくれるような、そういう音楽なんだよ」って。そのときはまあそうかなって思ってたんですけど、だんだん本当にそうだなって思うことが増えてきて、それが僕の中ではシューベルトの音楽の中心として残っているんです。先生は学生の頃からシューベルトよく弾かれてたんですか?
小倉 いや、どっちかというと私、シューマンにはまってて。何かっていうとシューマン弾いて、初めてオーケストラと弾いたのもシューマンのコンチェルトだったぐらいで。
佐藤 ああそうなんですか。
小倉 ヴィレム・ブロンズ先生はシューベルトがお得意だったから、レッスン受けたりとかいうことはあったけど、やっぱり私もね、学生時代は本質的なところはわかんなかったと思う。人によって若いときからわかる人もいると思うけど、私の場合は、ショパンもそうなんだけど、フォルテピアノと出会ってわかるようになったところはあるかな。
佐藤 ああ。
小倉 なんか「たた、たた、」とか、
連打で言い直すような感じ がすごく多いじゃない、シューベルトって。連打って、ウィーン式アクションだとすごく苦手なパターンなのね。
佐藤 はい。
小倉 今回の曲もあるよね、「たた、」「たたた、」って。あれ、シューベルト特有のね。
ハンガリー風ディヴェルティメントD818 第3楽章より。セコンド右手の連打型に注目。 佐藤 ははあ。
小倉 なんかこう、言いたいこと、メッセージは強いんだけど、ダイレクトに伝えるんじゃなくて、寄り添うように来るっていうのかな。ズバッと来るんじゃなくて、「たたた、」ってね。それがシューベルトの面白いところだよね。
佐藤 なるほど。
小倉 私のフォルテピアノアカデミーにね、かげはら史帆さん(
@kage_mushi )が聴講にいらしてたのね。
佐藤 ああ、ライターの。
小倉 そうそう。それでね、感想をTwitterにあげていらしたんだけど、スクエアピアノでシューベルトのレッスンをしていて、「とっても良い演奏だったけれども、ちょっと立派すぎるかなあ。もう少し
情けない感じ が良いんだよね」って言って、私が弾いたんだって。その、なんともいえない情けなさが良かったって(笑)
佐藤 あっはっはっは。いやぁでも、それ大事なところなんですよね。
小倉 そう、シューベルトってそういう意味で特別だよね。でもね、
川口成彦 君が何年か前に北とぴあでシューベルトのリサイタルやったことがあってね、川口君もすごいシューベルトが好きで。そのときに自分で解説文書いてたんだけど、シューベルトは若い奏者には難しいとか言われるけど、むしろシューベルトの音楽というのは若さゆえの感じがするって。
佐藤 うーん。なるほどね。
小倉 なんかこう、青い感じ。その
若さゆえの情けなさ っていうのかな。歳を取ったからわかる音楽っていうんでもないんだよね。なるほどなと思って。
佐藤 確かに。
小倉 あとはね、浜松市楽器博物館のコレクションシリーズでシューベルトの
即興曲(D899-4) を録ったときに、1回弾くとね、調律師やディレクターとか男性陣が、みんな寄って来ちゃうの。いてもたってもいられなくなって。
佐藤 (笑)
小倉 どうも、
男性の心に訴える ものがあるみたいなのよね。あの、「糸を紡ぐグレートヒェン」とかも、男性じゃないとああいうふうには書けない。女性はやっぱり、もっと強いんだよね。
佐藤 はああ、なるほど。
小倉 やっぱり男性の、理想とする女性像っていうか。独特のものがあると思う。だから、健康な女性があれを歌ってもうまくいかないじゃない(笑)
佐藤 あっはっはっはっは。不健康な方がいいんでしょうかね。
小倉 難しいよね。つやつやと綺麗な声で歌われると、良いんだけど、ちょっと違うかなって。あの
脆い感じ がみんなの心に訴えかけるんだろうね。こどもの頃とか、中学生ぐらいで、人に言えない恥ずかしかったときのこととか、みんなあるじゃない?
佐藤 はい。
小倉 そういう思いも、「いいんだよ」って共有できるみたいなさ。
佐藤 秘密を共有する 感じですよね。たぶん、彼自身の創作活動が、シューベルティアーデの仲間たちにまずは聴かせてっていうところから始まったのが、表現のスタイルとしてあるのかなと思って。それこそ、ベートーヴェンみたいに出版して「世に問う!」みたいにはならなかったし、なれなかったのかもしれないですけど、それもひとつあるのかなって思うんですよね。
小倉 そうね。
佐藤 だから本当に、隣にいる人に聴いてもらって、その人だけに言いたいことがわかるみたいなところはあるかなと。
小倉 あるね。だけどたまにさ、妙に難しいじゃない?
佐藤 (笑)
小倉 ヴィルトゥオーゾ的なもの が、あのヴァイオリンのファンタジー(D934)なんか。
佐藤 あれ無茶苦茶難しいですよね。
小倉 ほら、パガニーニのこと好きだったでしょ?
佐藤 ああそうですね。
小倉 お金ないのに、友だちの分までチケット買っちゃって、2回も行ったりね。まあパガニーニの演奏も、私たちがイメージしているのとは全然違ったんだろうなって私は思ってるんだけど。リストもそうだと思うんだけどね。
佐藤 うんうん。
小倉 シューベルトの心を打つって、どういう演奏だったんだろうって思うよね。
佐藤 そうですよね。でもヴィルトゥオジティに対する憧れもあったと思うんですよね。
小倉 あるね、きっと。
佐藤 だから弾けないようなことを書いてみて、まあそこまで考えないで書いてた可能性もありますけど。「さすらい人幻想曲」なんかも結構難しいし。自分が弾かないからこその難しさもピアノ曲に関してはあるのかなって思うんですけど。
小倉 確かに。だけどシューベルト本人は声もすごく良くって、弾き語りとかすると、誰もとてもああいう風な良い感じにはならなかった、って言われてるじゃない? リートなんか、詩の世界とぴたっと合っている世界で。シューベルトの音楽は、全部あの
リートの世界から繋がってる よね。ああいうムードの中にピアノ曲があるっていう感じだね。
佐藤 そうですね。リートに関してはシューベルトは早熟っていうかね、それこそ「グレートヒェン」なんか17歳だし。
小倉 そうだよね。
佐藤 でもピアノ曲はもっと後にならないと、傑作って言われているような曲はなかなかなくって、前回のツィクルスのときは
ソナタの1番 とか
3番 とかやったんですけど。
小倉 そうだよね、全曲やってるんだもんね。すごいよね。
佐藤 もちろんシューベルトらしい良いところはあるんですけど、あれだけの長さのものを書くにはやっぱり作曲の技術とかが必要で、それを身につけるというか、自分のものにするのに結構時間かかったのかなっていう気はして。20代の後半になってくるとソナタも充実してくるんですけど、それまでは結構あっちいったりこっちいったり。
小倉 そうだね。だけどさ、
楽想という点では駄作がない よね。
佐藤 ああ、そうですね。
小倉 まあ誰と比べるかにもよるけど、普通もうちょっと駄作系があるのに。
佐藤 駄作系(笑)わかります。
小倉 未完であっても、なんか良い感じで。構成とか、全体の作り方が未熟なところはもちろんあるけど。
佐藤 そう、未完の曲にもすごく素敵なところがあるから、完成していないせいで弾かれないというのはもったいないと思って。
小倉 そう、もったいないよ。
佐藤 一応弾けるような形にしてやると、みんな「ああこんな曲があるのか」って。それで自分なりに書いたりしてるんですけど。
小倉 補筆してるんだよね。素晴らしい。
佐藤 先生の
「モーツァルトのクラヴィーアのある部屋」 シリーズでは、モーツァルトの鍵盤曲は全部やったんですか?
小倉 完全ではないかもしれないけど、ほぼ全部かな。だけど、クラヴィーア・ソナタは少ないじゃない? だからね、小出しにしてたんだけど(笑)。あと変奏曲と。
佐藤 案外クラヴィーアのソロの曲ってそんなにたくさんはないですよね、モーツァルト。
小倉 ないね。ヴァイオリン・ソナタはたくさんあるけどね。トリオも全部やったかな。
佐藤 回数は、全部で40回でしたっけ?
小倉 40回。それで10回・20回・30回・40回の区切りはコンチェルトで。一番最初は、K.1から始めたんだよね。K.15っていうのがロンドンのスケッチブックなのね。その中から1曲、ご挨拶の音楽みたいな感じでさ、1分とか2分とかなんだけど、途中から15a,15b,15cってなっていって、K.15ffとかね。
佐藤 どんどん枝番号が細かく。
小倉 ちっちゃな曲がたくさんあるんだけど、そういう普通のコンサートとかでは取り上げにくいけど、聴いてみると良い感じの曲をね、1曲ずつ弾いて。繰り返し時にはちょっとヴァリアンテしたりとか。
佐藤 そうしてシリーズを完結するまでにいろいろご苦労があったと思うんですけど、一番大変だったのはどんなところでしたか?
小倉 毎回ゲスト作曲家を決めていて、なるべく1人1回ずつ。例外としてヨハン・セバスチャン・バッハ、クリスチャン・バッハ、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、ハイドン、ベートーヴェンだけは、2回出てくれたゲストなんだけど(笑)、あとはみんな違う作曲家で。中には「誰それ?」みたいな人もいて、やりたい曲の楽譜を手に入れるのが結構大変だったかな。10回目のサリエリのときは、コンチェルトの譜面が出版されてなかったから、佐藤君にウィーンの図書館で自筆譜をコピーして持ってきてもらって、お世話になったよね。
佐藤 そうでしたね。モーツァルトの作品は研究が進んでいるから大部分が明らかになっていると思うんですが、それでもやっぱり
判明していない曲 っていうのもあるんですか? たとえば存在は記録には残ってるけど楽譜がないとか。
小倉 あるよ。これはブライトコプフ・ウント・ヘルテル
[ドイツの楽譜出版社。1719年創業、現存する最古の楽譜出版社] の歴史的犯罪なんだけど。K.33d、K.33e、K.33f、K.33gという番号がついている、4曲のクラヴィーア・ソナタがあったらしいのね。
佐藤 へえ。
小倉 目録だけね、最初の数小節だけ残っているの。見ると、良さそうな曲なんだよね。いま、ピアノ・ソナタっていうとK.279のハ長調、あれが第1番みたいになってるじゃない?
佐藤 はい。
小倉 でも、初期のヴァイオリン・ソナタ、つまりK.6~9と、26~31の「ハーグ・ソナタ」あたりって、モーツァルトとしては、たぶんクラヴィーア・ソナタを書いているつもりなんだよね。ヴァイオリン伴奏付きのクラヴィーア・ソナタって、当時は重要なジャンルだったし。その初期のソナタと、K.279の間を埋める存在だったわけ。
佐藤 ははあ。
小倉 だから割としっかりした作品だったと思うのね。ナンネル
[マリア・アンナ・モーツァルト(1751-1829)、愛称ナンネル:モーツァルトの実姉] と、デュルニッツ
[タデウス・フォン・デュルニッツ男爵(1756-1807):音楽愛好家。ミュンヘンで若き日のモーツァルトと出会い親しくなる] も持ってたんだけど、その自筆譜を。
佐藤 へえ。
小倉 それでね、ナンネルが、「これは弟の大切な作品ですからなくさないように」って言って、ブライトコプフに送ってるのね。だけどなくしちゃったみたいなの。
佐藤 あらー。
小倉 前にNHKの講座をやったときにもその最初の部分だけ弾いて、どれも良い曲なんだよね。でももうそれはないの。わかんないけどね、見つかるかもしれないけど。この間、無くなったと思われていたトルコ行進曲付きのソナタ(K.331)の自筆譜が出てきたし。
佐藤 あ、そうですよね。
小倉 だからブライトコプフの古い倉庫の奥の方にあった!とかいうことも。
佐藤 可能性はありますね。
小倉 あとね、エーベルル
[アントン・エーベルル(1765-1807):ウィーンの作曲家。モーツァルトに弟子入りし、後に友人となった] の回でやったんだけど、エーベルルのソナタ第1番はね、当時モーツァルトのソナタ第20番、最後のニ長調(K.576)の次のソナタとして出版されてたの。
佐藤 ははあ、なるほど。
小倉 ハ短調の曲なんだけど、19世紀、いや20世紀になってもかな、ペータース版なんかで、ずっとモーツァルトだっていって。
佐藤 ええっ。それはまた。
小倉 絶対違うって感じなんだけどね(笑)。でも当時の人は、疑わなかったみたい。
佐藤 そういうのありますよね、ヴァイオリンコンチェルトも、6番とか7番とか。
小倉 ああそうか。モーツァルトはやっぱり有名だから、そういうのあるよね。レオポルトの、「ナンネルの音楽帳」っていうのは確実にあったわけだけど、「ヴォルフガングの音楽帳」って言われているのがあって、でもそれもどう見ても違う感じなんだよね…
佐藤 怪しいのがいろいろ…(笑)
小倉 連弾もさ、K.19dだっけ? あれは違うかもしれないって言われてるよね。だから、わかんないことはまだたくさんある。
佐藤 それも面白いですよね。
小倉 面白い。あのシリーズでも、「これは違うかもしれない、わかんないですけど」って言って弾いて。そしたら聴いた人がみんなそれぞれ「私はモーツァルトだと思う」「いや私は違うと思う」みたいなことを言って。
佐藤 あっはっはっは。でも考えたらブラームスとかだってよくわかんないのありますもんね。ちょっと時が経つと、いろんなことがわかんなくなっちゃうのかもしれないですね。
小倉 そうだよね。
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2020/11/11(水) 15:43:27 |
シューベルトツィクルス
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4つの即興曲 D899 (作品90) 作曲:1827年夏? 出版:1827年12月(第1曲・第2曲)、1857年12月(第3曲・第4曲)
4つの即興曲 D935 (作品142) 作曲:1827年12月 出版:1839年4月
シューベルトによる「即興曲」命名に最初に疑義を呈したのは、
前の記事 でも少し触れたように
ロベルト・シューマン であった。D935がディアベリ社から出版される前年の1838年12月、おそらく試し刷りか何かを入手したのだろう、次のように評している。
シューベルトが本当にこれらの楽章に「即興曲」という名をつけたとは信じがたい。第1曲は、明らかに疑いなくソナタの第1楽章で、完璧に展開され終止している。2曲目の即興曲は同じソナタの第2楽章だと思われる。調性と性格の点で、第1曲とぴったり合っている。終楽章がどこへ行ったのか、シューベルトがソナタを完成させたのかどうかについては、彼の友人たちが知っているに違いない。第4曲を終楽章と見なすことができるかもしれないが、調性は合っているものの、構成全体の儚さという点では疑わしい。これらはつまり推測に過ぎないが、自筆譜を閲覧すればすぐに解明できることであろう。(中略)第3曲に関して言えば、これがシューベルトの作曲であるとは考えられない。おそらくは少年時代の作品なのだろう。似たような主題による、あまりすぐれていない、もしくは全くすぐれていない変奏曲である。シューベルトが他の作品で独創的に示してくれる、情感とファンタジーが完全に欠けている。 (ロベルト・シューマン、1838年「新音楽時報」第9号)
前にも述べた通り 、D899についてシューベルト自身が「即興曲」のタイトルを冠したという証拠はない。D935についてはD899の続編として作曲したらしいが、自筆譜の表題"Impromptu's"が彼自身の筆跡であるのかどうかについて、私は判断を留保した。シューベルトがD935の4曲を明確に「即興曲」と呼んだのは、1828年2月のショット社への手紙が初めてである(シューマン説は本人の言う通り「推測」というか、思いこみの域を出なかったわけだが、それはそれとしてシューマンらしい音楽作品の捉え方は興味深い)。
「即興曲」の命名問題については、資料を元にこれ以上判断することはできない。そこで私もシューマンに倣って、大胆に私見を述べてみたい。
シューベルトの「即興曲」には、
ヴォジーシェク やマルシュナー の即興曲の影響が明らかに認められる。例を挙げれば、大まかにはABAの三部形式の構造、またヴォジーシェクの「紡ぎ出し」をはじめとする、時には技巧的ともいえる(後の時代であれば「練習曲(エチュード)」と題されたかもしれない)ピアニスティックな書法、それにマルシュナーの変奏曲形式を、同時代のウィーンにいたシューベルトが知らなかったはずはないだろう。
しかし、彼はそれらをあくまで新しい「ピアノ小品」の1ジャンルとして捉えていたのであって、「即興曲」だろうが何だろうが、
小品のタイトルにシューベルトはこだわらなかった ように思われるのだ。
シューベルトの性格小品集として知られているものは、「即興曲」2集の他に「楽興の時」D780と「3つのピアノ曲」D946があるが、「楽興の時」も出版社のアイディアであるらしく、「3つのピアノ曲」に至っては
タイトルが無く 、出版時にブラームスがつけたものである。
この時期にピアノのための性格小品が人気を得始めたことは、
前にも述べた 。いわば、「売れ線」の作品だったのである。シューベルトは、ピアノの分野で重要なジャンルと見なしていた
「ソナタ」については、いちいち「ソナタ」と自筆でタイトルを付けている が、それ以外の小品、「売れ線」曲のタイトルは、どうでもよかったのであろう。作曲にあたっては、ヴォジーシェクやマルシュナーの即興曲を含む、当時の他の「売れ線」を研究したり、参考にしたりすることもあったと思う。そうして書き上げた譜面は、タイトルも付けないまま出版社に渡して、「あとは適当によろしく」という感じだったのではないだろうか。
だから、やはり
D899に「即興曲」と命名したのはハスリンガーで、シューベルトもそれを追認し、続編であるD935も自動的に「即興曲」になった 、という流れなのではないかと、私は勝手に想像している次第である。
D899とD935の8曲の内容は次の通りである。
D899-1 ハ短調→ハ長調 変則的なソナタ形式もしくはABABAの五部形式 D899-2 変ホ長調→変ホ短調 ABA+コーダ(B)の三部形式 D899-3 変ト長調 変則的な三部形式 D899-4 変イ短調→変イ長調 複合三部形式 D935-1 ヘ短調 展開部を欠くソナタ形式 D935-2 変イ長調 複合三部形式(ダ・カーポ形式) D935-3 変ロ長調 変奏曲形式 D935-4 ヘ短調 三部形式+コーダ
上述の通り、ヴォジーシェクやマルシュナーの先行作品を踏襲して、全体的に
三部形式が基調となっている 。ただ、曲集として捉えると、
D899とD935は 、対照的とまでは言えないものの
それぞれに異なるキャラクターを持つ小品集 である。
D899は、
曲頭と曲尾の調性が異なる(同主調へ転調)曲が3曲 もあるのが特徴的で、とりわけ長調で始まって同主短調で終止するD899-2は極めて異色である。こうした調的な不安定さに、「即興」の気まぐれな気分と相通じるものを感じることもできるが、4曲ともフラット系の調性でまとめられており、ハ短調(第1曲)から平行調の変ホ長調(第2曲)へ、第2曲曲尾の変ホ短調から平行調の変ト長調(第3曲)へ、さらにフラットを1つ増やして変イ短調(第4曲)へ、というふうに、曲集全体の調性配置にも熟慮のあとが窺える(この1点だけをとっても、ハスリンガーが第3曲をト長調に移調してしまったことがいかに蛮行であったかがわかるといえよう)。
一方で前述のシューマンが指摘したように、
D935は非常に強い秩序に貫かれている 。確かに第1楽章は展開部を欠くもののしっかりしたソナタ形式が取られており、変イ長調の第2曲、そしてまたヘ短調に戻る(第4曲)という調性配置もソナタという見立てにぴったり符合する。第3曲についてのシューマンの論評はずいぶん辛辣だが(何が気に入らなかったのだろうか?)、これ自体も非常に端正にまとめられた変奏曲であり、全体的に静的な落ち着きさえ感じさせる曲集となっている。これほど堅固な内容の作品を、シューベルトが「即興曲」として提示したのは確かに不思議であり、シューマンもそれが引っかかって「ソナタ」説をひねり出したのだろう。実際にはその堅固さが仇となって出版機会を逃したわけで、作曲者にとっては痛恨事であったに違いない。
シューベルトは「売れ線」を見誤ったのである。
2015/04/03(金) 00:35:06 |
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4つの即興曲 D899 (作品90) 作曲:1827年夏? 出版:1827年12月(第1曲・第2曲)、1857年12月(第3曲・第4曲)
4つの即興曲 D935 (作品142) 作曲:1827年12月 出版:1839年4月
2集の即興曲の決定稿の自筆譜は、いずれもニューヨークのピアポント・モルガン・ライブラリーに収められていて、そのデジタルデータが無料で公開されている(
D899 /
D935 )。
D899 の自筆譜には日付がなく、五線紙の鑑定で1827年夏頃の作曲と推定されている。第1曲の冒頭にある"Impromptu"以下の表題と作曲者名はシューベルトの筆跡ではない。新全集の解説によるとこの書き込みは出版社の
トビアス・ハスリンガー によるもので、これを根拠に、「即興曲」は出版社が販売促進のために勝手に名付けたタイトルであると考えられてきた。
D935 の自筆譜には、シューベルト自身の筆跡でサインと、「1827年12月」の日付がある。これがD935の完成時期と考えて間違いないだろう。更に、2曲目以降の通し番号が書き直されており、「No.2」「No.3」「No.4」は本来「No.6」「No.7」「No.8」と番号が振られていたことがわかる。1曲目は書き直していないように見えるが、よく見ると「No.」と「1」の間が不自然に詰まっていて、「1」の右側に薄く「5」の文字が見える。どうやらインク消しのようなもので「5」を消して、その左脇に「1」と書き加えたようだ。
つまり
D935の4曲は、当初はD899の続編としてまとめられたらしい ことが、ここから見えてくる。
"Vier Impromptu's"のタイトルを書いたのはシューベルト自身であると、新全集は断言しているが、少し不自然な点がある。まずVierに薄いインクで消したような跡があること、その右に「8」の文字がやはり薄く書き加えられていること。"Impromptu's"の最初のIの文字も上から二度書きしたような形跡があり、シューベルト自身の筆跡とは若干異なるように見受けられる。ドイツ語の前置詞inと定冠詞demの融合形"Im"で始まるタイトルを持つ歌曲作品がいくつかあり、モルガン・ライブラリーならびにschubert-onlineで計3曲自筆譜が公開されているのだが(D710の"Im Gegenwärtigen Vergangenes"、D799の"Im Abendrot"、D880の"Im Freyen")、いずれもIとmは一続きの筆記体で書かれている。しかしImpromptuのIとmは分かれているし、Iの字形がいささか異なっている。
私個人としては、これが
シューベルトの筆跡であるとは断言できない と考える。新全集では、D935はシューベルト自身によって「即興曲」と命名された、と解説しているが、その真偽には留保をつけたい。
1827年12月、D935の4曲の仕上げとほぼ時を同じくして、D899の第1曲と第2曲がハスリンガーから出版された。近いうちに8曲全部がハスリンガーから出版されると見込んで、シューベルトは気をよくしたことだろう。ところがD899の第3曲以降は一向に出版されなかった。
1828年2月、シューベルトはマインツのショット社に、D935を含むいくつかの作品の出版を持ちかけた。ショット社はすぐに積極的な姿勢を見せ、シューベルトはハスリンガーを通してD935の譜面をショット社に送った。この時点で、ハスリンガーは既にD935の出版に興味を失っていたようだ。しかし楽譜を受け取ったショット社もまた押し黙ってしまった。死の前月、10月にシューベルトはショットに催促の手紙を送り、その中でD935の作品番号として「101」を提案している。
しかしショットからの返答は期待外れのものだった。返事が遅れたのは、出版の可能性をパリに打診していたからだが、
小品にしてはこの曲は重すぎて、需要がない として送り返されてきた。提示の金額が高すぎるわけではないが、フランスでの不評により出版は不可能と判断し、譜面はハスリンガーに返送した、というものだった。
新全集の解説では、1828年にショットに送った譜面は新たに作成した筆写譜で、現在は所在不明としているが、私はモルガン・ライブラリーに残っている自筆譜をショットに送ったのではないかと見ている。その際に通し番号を付け直し、「4つの即興曲」のタイトルを冠したのではないだろうか。
シューベルト自身がD935を明確に「即興曲」と命名したのはこの時点 であり、ショット社への手紙の中にも「即興曲」の言葉が出現している。
結局、D899の残る2曲とD935全4曲の計6曲は日の目を見ないままシューベルトは他界し、「作品101」はライプツィヒのプロープスト社が「3つの歌曲」の作品番号として無断で使用してしまった。
D935 はそれから11年後の
1839年に、ディアベリ社から「作品142」として出版 され、出版社によってフランツ・リストに献呈された(自筆譜冒頭の「Op.142」の書き込みはディアベリによるもの、ということになる。確かにシューベルトの数字の筆跡とは異なる点が見受けられる)。
D899の第3曲・第4曲 の出版は更に遅れ、作曲後30年経過した
1857年 まで待たなくてはならなかった。ハスリンガー社からようやく出版されたD899の
第3曲は、原曲の変ト長調からト長調に移調され、拍子も2分の4拍子ではなく、2分の2拍子に変えられていた 。ハスリンガーによると思われる、この改変の指示は自筆譜にも鉛筆で書き込まれているが、"Im ganzen Takt und in G-dur um zu schwinden"と書いてあるように読める。「(通常の)2分の2拍子で、そしてト長調で」というところまではいいのだが、"um zu schwinden"「減少する・消滅するために」というところが意味がよくわからない。難しさを減らす、という意味合いなのだろうか? schwindenの部分は非常に読み取りづらく、schreiben(書く)としている文献もあったが、原資料を見ればschreibenでないことは明らかである。この書き込みの真意は更に研究が必要であろう。
今ではシューベルトのピアノ曲の中でも最も人気の高い「即興曲」が、これほど困難な出版状況に直面していたのは意外な感じもするが、ここまでの記述からその理由はおわかりいただけるだろう。
「即興曲」のようなピアノ小品として出版社が期待していたのは、アマチュアピアニストが楽しんで演奏できるような、短く、技術的に易しく、内容の軽い作品だった。しかしシューベルトの「即興曲」は芸術性に重点を置きすぎて、アマチュアの手には負えない代物だったのだ。D935-1はシューマンが「ソナタの第1楽章であることは疑いない」と論評したようにあまりに重厚長大であり、D899-3の譜面の、調号にフラットが6つも並び、1小節に全音符が2つ入るような記譜は当然ながら敬遠された(だから
ハスリンガーが勝手に 、変ト長調から譜読みしやすいト長調に、2分の4拍子から数えやすい2分の2拍子に、難易度を下げて書き直したのである)。
シューベルトの「即興曲」は、それまでの
アマチュア向け「即興曲」を基にしたプロ仕様の楽曲 だったのだが、そんなどっちつかずのコンセプトの楽曲に需要があるとは、当時の出版社はまったく思っていなかったのだ。
曲集全体の構成や、タイトル「即興曲」の命名については次の記事に譲りたい。
2015/03/31(火) 15:33:34 |
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