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ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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即興曲の起源 (2)ヴォジーシェクと、トマーシェクの「エクローグ」

今回はシューベルトの即興曲の直接の先行作品ともいわれている、ヴォジーシェクの即興曲について取り上げたい。

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ヤン・ヴァーツラフ・(フーゴー・)ヴォジーシェク(ヴォルジーシェク) Jan Václav (Hugo) Voříšekは1791年5月11日にボヘミア(現在のチェコ)のヴァンベルクという町で生まれた。音楽教師の父親から手ほどきを受け、9歳にしてボヘミア各地で公開演奏を行う。ヴァンベルクの領主コロヴラツ=リプテインスキー伯爵の夫人がパトロンとなって、プラハでの勉学の機会が与えられ、13歳頃からボヘミアの巨匠ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェクに作曲とピアノを師事した。頭脳明晰だったヴォジーシェクはプラハ大学に進学し、哲学・美学・数学・法学を修めたが、音楽への情熱が次第に比重を増していった。1813年、22歳のときにウィーンに進出したのは、表向きは法学を更に学ぶためだったが、内心では尊敬するベートーヴェンに近づきたいという理由もあったようだ。ヴォジーシェクはまずピアニストとして楽壇に登場する。1815年12月、新設されたウィーン楽友協会の第1回演奏会でフンメルの「華麗なるロンド」作品56を演奏。彼の演奏技術やすぐれた即興能力は高く評価され、その後も定期的に楽友協会に出演するようになる。1818年には楽友協会管弦楽団の指揮者にも就任、精力的な活動を通して、ピアニストのモシェレスやフンメル、作曲家のシュポーアなど音楽界の重鎮たちと知己を得、ベートーヴェンとも念願の面会を果たした。一方で法学の勉強も怠らず、1821年に学位を取得して軍法裁判所諮問員の弁護士のポストを得るが、1年後の1822年に宮廷オルガニストに任命され、法律の仕事から離れて音楽活動に専念するようになる。しかし残された時間はわずかだった。1825年11月19日、結核のため34歳の若さで死去。尊敬するベートーヴェンが2年後に、そしてシューベルトが奇しくも3年後の同月同日に死去したあと葬られることになるヴェーリング墓地に、亡骸は埋葬された。

ヴォジーシェクと、6歳年下のシューベルトの間に交友関係があったことはほぼ確実とみられる。シューベルトが楽友協会の委員に選出された1825年はヴォジーシェクの最晩年だったが、病床のヴォジーシェクもシューベルトを上回る得票で再選されている。ヴォジーシェクは、早世だったこともあって決して多作の作曲家ではなかったが、優れたピアニストだった彼のピアノ曲が、演奏技術の点では劣っていたシューベルトに影響を与えたことは大いに考えられることである。

ヴォジーシェクの「即興曲」としてよく知られているのは、1822年にウィーンのピエトロ・メチェッティ社から作品7として出版された「6つの即興曲」である(IMSLP)。
曲はいずれもABAの三部形式で、トリオBのあとダ・カーポ(曲頭に戻る)と指示されており、再現時のAは記譜されていない。古典派のソナタなどに現れる「メヌエットとトリオ」と同じ記譜法である。第1曲ハ長調、第2曲ト長調、第3曲ニ長調、第4曲イ長調、第5曲ホ長調、第6曲ロ長調と、すべて長調で、調号のシャープが1つずつ多くなるように並んでいる。ヴォジーシェクのデビュー作品となった「12のラプソディー」作品1も、同様にダ・カーポを伴う三部形式(ダ・カーポ形式)の小曲集だが、調整配列はランダムであり、これと比べると「6つの即興曲」の規則的な配置は意図的なものと考えられる。
ベートーヴェンの注目を惹いたともいわれる「ラプソディー」はかなりヴィルトゥオーゾな書法の作品だが、「即興曲」の曲想は穏やかで、技術的にも平易である。しかし本来の意味での「即興的」な雰囲気はほとんど感じられない。
それもそのはずで、カナダの学者Kenneth Delongの研究によれば、これらの「即興曲」は本来「エクローグ」と題されていたのだという。ベルリン国立図書館に所蔵されている即興曲作品7-3の自筆譜には「エクローグIII」の表題があり、似た書法で書かれている「エクローグVII」の表題を持つハ長調の小品の自筆譜も確認された。ここからわかることは、ヴォジーシェクは作品7の6つの小品を「エクローグ」として作曲したが、何らかの事情、おそらく出版社メチェッティのアイディアで「即興曲」と改題して出版されたということ、そしてヴォジーシェクは更にエクローグを書き足すつもりだったことだ。6曲ずつ2巻にわけて刊行された「12のラプソディー」に倣って、おそらくあと6曲追加した「12のエクローグ」を構想していたのではないかと思うのだが(その調整配列は、今度はフラット方向へハ長調から変ニ長調までの6曲だったのではないかと想像する)、こちらも何らかの理由(「エクローグ」が「即興曲」として出版されてしまったことで、続編の作曲に興味を失ったか、あるいは筆を執る前に死去したか)で放棄されたのだろう。

tomasek
エクローグ Eclogue (Eglogue)は、ヴォジーシェクの師トマーシェクが創始したピアノ小品のジャンル名である。
ヴァーツラフ・ヤン・(クルシュティテル・)トマーシェク Václav Jan Křtitel Tomášek (1774-1850)は、当時ボヘミアで最も尊敬を集めていた作曲家・教師で、ヴォジーシェクと同じように法律を学びつつ、ほぼ独学で音楽を修め、貴族にピアノを教えながら各地を旅し、ハイドン、ベートーヴェン、ゲーテらと親交を持った。1824年プラハに開校した音楽学校はボヘミア楽壇の中心地となり、門下からはヴォジーシェクのほか、ピアニストのアレクサンダー・ドライショクや、後に保守派の批評家として有名になるエドゥアルト・ハンスリックらが輩出している。トマーシェクは古典音楽の重要性を生徒たちに説いたが、自身独学だったこともあり、基礎理論よりも実践を重視したと伝えられている。
作曲家としてはモーツァルトの影響から出発したが、やがてロマンティックな傾向を強め、とりわけピアノ曲の分野で「エクローグ」「ラプソディー」「ディテュランボス」といった小品、いわゆる性格小品を多作した。その意味ではシューベルトやショパンの先達といえる。
「エクローグ」とは耳慣れない言葉だが、「田園詩」という意味合いのフランス語である。もともと古代詩の用語で、ディオニソス神を讃える詩「ディテュランボス」の援用もあわせて考えると、トマーシェクはギリシャ・ローマの古典に造詣が深かったのかもしれない。
トマーシェクの42曲の「エクローグ」は、6曲ずつ7集にまとめられている(IMSLP)。いずれもヴォジーシェクの「即興曲」と同じダ・カーポ形式で、曲想は実に多岐にわたっている。自由な楽想の展開という面では、ベートーヴェンの「バガテル」のスタイルに似ていると言えるかもしれない。現代の感覚ではやや冗長に過ぎる曲も見受けられるが、室内楽風・ノクターン風の作品や、高度な技巧を要求する作品もあって面白い。しかしそのぶん、三部形式という構造以外に、トマーシェクが「エクローグ」の定義をどのように捉えていたのかはよくわからない。
師の影響下に「エクローグ」を書いたヴォジーシェクの場合、その曲想はある程度共通しており、前述した平明さや温和さに「田園」的なもの、より広げて解釈すれば「自然への憧れ」のようなものを象徴させたのかもしれない。

ところが、ヴォジーシェクが作曲した「即興曲」として、更に発表年代の早いものが存在する。1817年11月13日発行の一般音楽時報(1817年第46号)の付録として発表された変ロ長調の「即興曲」である(IMSLP)。
作曲者名はドイツ語風にJ.H.Worzischekと綴られ、「ピアノのための即興曲」と明確に題されている。3/4拍子、付点2分音符(=1小節)が96というメトロノーム指示があって、それ以外に発想標語はないが、かなり早いテンポということになる。全体的に8分音符のパッセージを両手で弾き続ける無窮動風の曲で、構造は|:A:|:BA':|の三部形式ではあるものの、ダ・カーポ形式の作品7やトマーシェクのエクローグとは異なっている。というのは、前半のAと後半のA'の内容が微妙に異なっているからで、具体的には前半部は属調(ヘ長調)で終止し、後半部は属調で始まって主調で終わるという、二部形式ともとれる構造になっている。これはスカルラッティのソナタやバッハの舞曲などと同じ構造であり、ソナタ形式とも土台は共通している。
この作品がどのような経緯で「一般音楽時報」に載ることになったのかわからないが、もともと楽譜を売ることを目的としていない出版物である以上、作曲者ヴォジーシェク自身がこの曲に「即興曲」のタイトルを与えた可能性が高い。

この作品には、「即興」という言葉と共通する要素がある。それは、いわゆる即興演奏のように、さまざまな楽想を「幻想曲」風にとりとめなく繋いでいく、という意味ではない。
ふと思いついた、ある特定の音型を、何度か繰り返すうちに少しずつ形が変わってゆき、まるで蚕が糸を紡ぎ出すように音楽を生み出していくという書法である。この要素は、トマーシェクのいくつかの「エクローグ」の中にも部分的に現れている。
遊び弾きの中から生まれたような、この「紡ぎ出し」はピアノという楽器独特の書法であり、これこそ、シューベルトがヴォジーシェク作品の中に見いだした「即興的なピアニズム」だったのではないかと思われる。シューベルトの、とりわけD899の即興曲集にはこの書法がふんだんに盛り込まれており、それが後世の「即興曲」の方向性を決定づけることとなった。

翻って、ヴォジーシェクの作品7「6つのエクローグ」は、なぜ「即興曲」と改題されたのだろうか。そこには、当時の楽譜出版をめぐる社会的背景が関連していると思われる。
19世紀になって楽譜出版業が大発展を遂げたのは、新興の裕福な市民階級が楽器を習ったり、演奏したりすることが流行しはじめたからだった。彼らは音楽家としての職業訓練を受けたわけではなく、重厚で本格的な大作よりも、わかりやすく洒落た雰囲気の小品を好んだ。いきおい、彼らの好みに合わせた作品が次々と生み出され、大量に印刷・出版されて出回るようになったのだ。
なぜ「エクローグ」のタイトルが捨てられたのかはわからないが、古典詩の知識などない一般人には「エクローグ」よりも、その場の出任せのような「即興」という言葉が格好良く魅力的に感じられたのかもしれない。あるいは、ヴォジーシェク自身や、前記事で触れたクラーマーなどによる初期の「即興曲」が既に人気を博していた、という可能性もある。出版社が作品のタイトルを勝手に変更することは当時は珍しくなかったので、ヴォジーシェクの作品7についてもメチェッティによる改変という説が信じられているが、ヴォジーシェク自身が意図的に改題した可能性も完全には否定できない。
いずれにせよ、「即興曲」というジャンルがヴォジーシェクからシューベルトを通して後世に受け継がれた一方で、「エクローグ」のタイトルを持つ音楽作品は、その後リストやフランク、シベリウスらによっていくつか書かれたものの、ひとつのジャンルとして定着することなく消えていったのだった。

***

3月23日、京都のカフェ・モンタージュでの演奏会では、シューベルトのD899に加えて、本記事で紹介したトマーシェクの「エクローグ」や、ヴォジーシェクの「即興曲」も演奏します。この機会に是非ご一聴下さい。
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  1. 2015/03/14(土) 19:59:02|
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