シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

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12の高雅なワルツ D969 概説

12の高雅なワルツ Zwölf "Valses nobles" D969 Op.77
作曲:1826年? 出版:1827年
楽譜・・・IMSLP

1827年の舞踏会シーズンに合わせて、年初にハスリンガー社から出版された。出版される以前から仲間内では好んで踊られていたようで、おそらく出版の前年に作曲されたものと考えられている。シューベルティアーデでの本作の演奏について記述を残しているハルトマン兄弟は、あるときには「ドイツ舞曲」、あるときには「ワルツ」と呼んでおり、作曲者晩年のこの時点においても舞曲の呼称は定まっていなかったことが窺える。

感傷的なワルツ」と同じく、この「高雅なワルツ」も、その形容詞が曲の内容と一致していないということは、作曲年の5月に刊行されたフランクフルト音楽新報で既に指摘されている。各出版社が舞踏会シーズンにこぞって舞曲集を出版し、趣向を凝らしたタイトルで人目を引くものも多かった中で、「高雅なワルツ」はまだ控えめなネーミングだったといえるだろう。実際には、シューベルトの舞曲の中でも最も大胆かつ激しい音楽が繰り広げられており、強弱のコントラストも際立っている。

1. ハ長調 [B] その他+メヌエット型ワルツ型
ファンファーレ風の威勢の良いユニゾンが舞踏の幕開けを告げる。
2. イ長調 [B] ワルツ型
2拍目にアクセントを置いたマズルカ風のリズムが特徴的。
3. ハ長調 ドイツ舞曲型
58小節まで拡大され、構造も不定である。空虚5度の保続で始まり、3度や6度を伴う並行オクターヴの旋律が、牧歌的な伴奏に乗って歌われていく。途中突如イ長調に転調する部分は幻想的。
4. ト長調 [T] ワルツ型
長い倚音がしなだれかかるようなしなを作る。
5. イ短調 [T] メヌエット型ワルツ型
前半が16小節に拡大。両手のオクターヴが力強く堂々とステップを踏む。
6. ハ長調 [B] ワルツ型
分散和音のメロディーが続く、シンプルな舞曲。
7. ホ長調 [T] その他+ワルツ型
オクターヴの跳躍が華やか。8分音符の和音連打はどことなく軍隊風である。
8. イ長調 [T] その他
前曲の軍隊風の要素を引き継ぎ、舞曲というよりかわいい行進曲のような作品。再現のA'は音域が下がり、コーダ風になる。
9. イ短調 [T] その他+ワルツ型ドイツ舞曲型
再び短調となり、舞曲としては異例の激烈かつ悲痛な感情が吐露される。終盤では第3曲由来の空虚5度の保続が再登場するが、それは決してのどかなものではなく、一種の狂気すら感じさせる。
10. ヘ長調 [B] ワルツ型
前曲の緊張をほどくかのような優雅なワルツ。
11. ハ長調 [B] その他+ワルツ型
和音の連打が印象的。
12. ハ長調 [T] ワルツ型ドイツ舞曲型
中間部で突然遠隔調の変ロ長調に転調、天上の世界が広がる。後半の繰り返しはなく、最後は冒頭と呼応するようなオクターヴのユニゾンで、力強く曲集を締めくくる。
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  1. 2016/04/07(木) 10:13:20|
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34の感傷的なワルツ D779 概説

34の感傷的なワルツ Vierunddreißig "Valses sentimentales" D779
作曲:1823年? 出版:1825年
楽譜・・・IMSLP

1825年11月にディアベリ社から出版された、シューベルトの最も有名な舞曲集のひとつである。その知名度は、「感傷的なワルツ」という標題に負っているところが大きいが、実際にはシューベルト自身による命名ではないと考えられている。ディアベリとは1823年4月に絶縁しており、おそらくそれ以前に渡した自筆譜をもとに、ディアベリが無断で出版し、その際にこの魅力的なタイトルを付けたのだろうと思われる。
シューベルトの生前に出版された舞曲のほとんどは、自筆譜が失われている。製版後に自筆譜は破棄されるのが通例だったのだ。本作の自筆譜も消失しているが、いくつかの曲に関しては草稿が残されており、それらには1823年2月の日付がある。ディアベリとの関係を考えても、曲の成立はその前後と考えるのが自然だろう。
34曲という大規模な曲集が、はじめから連作として構想されたとは考えにくい。もしかしたら、もっと大量の舞曲の束の中から、出版社が34曲だけを選抜したという可能性もある。しかし曲の配列は闇雲なものではなく、調性が変わる際には近親調へ移動するように配慮されている。

曲集全体の印象は決して「感傷的」なものではなく、むしろ快活で軽やかである。短調のワルツはなく、たとえ短調の和音で始まっても平行長調で終止するように書かれていることも、曲集の明るい雰囲気の一翼を担っている。

1. ハ長調 [B] ワルツ型
 第1-4,33,34曲は、その他の3曲の舞曲とともに合計9曲の曲集として編まれた異稿が存在する。これによると、第1曲と第2曲はハ長調ではなくロ長調であり、もともとはロ長調で構想された可能性が高い。確かにシャープ5個のロ長調は一般向けには読譜しにくいので、出版にあたって移調したのかもしれないが、ハ長調とロ長調ではかなり調性感が異なる。
 最初の4曲に共通するのは、1と1/4拍、つまり16分音符1個+8分音符2個という変則的なアウフタクトのリズムである。このリズミカルなアウフタクトは他の曲集には見られないもので、音楽に活気を与えている。
 第1曲は爽やかな印象の舞曲で、上声に長い音符のオブリガートが現れる。
2. ハ長調 [T] ワルツ型
 右手が三和音を連打するモティーフ。B部分で変ホ長調に転調する。
3. ト長調 [T] ワルツ型
 D音を基軸に8分音符でジグザグする音型がスケルツァンドの雰囲気を演出する。B部分は属調のニ長調。
4. ト長調 [B] ワルツ型
 第2曲に似た和音連打、付点リズムのアウフタクトが威勢の良い印象を与える。
5. 変ロ長調 [T] ワルツ型
 分散和音形の跳躍の多い旋律線が、ヨーデル風でもある。B部分は属調のヘ長調。
6. 変ロ長調 [B] ワルツ型
 和音やオクターヴの連打が続く。3拍目に置かれたアクセントが民俗的な趣を醸す。
7. ト短調→変ロ長調 [B] ワルツ型
 装飾を伴い、高音からひらひらと舞い降りるような優雅な旋律。前半はト短調、後半は平行調の変ロ長調となる。
8. ニ長調 [B] メヌエット型
 ff、左手のオクターヴも相まって力強く男性的なステップ。第8,9,12,14曲は他の13の舞曲とともに草稿が残っており、そこには「1823年2月」の日付と、「ドイツ舞曲」のタイトルがある。
9. ニ長調 [B] ワルツ型
 右手が鍵盤上を駆け回る。2拍3連のヘミオラのリズムで、フレーズが分割されている。
10. ト長調 [B] ワルツ型
 冒頭4曲と同様の、16分音符が追加されたアウフタクトを持つ。8分音符2つずつスラーがかけられ、ヴァイオリンのボウイングを彷彿とさせる。
11. ト長調 [B] ワルツ型
 分散和音が高音域まで駆け上がる。爽快な印象のワルツ。
12. ニ長調 [B] ワルツ型
 前曲と対照的に、半音階を多用した音域の狭いモティーフ。後半の短調系の借用和音も相まって、洒落た印象を与える。A部分は1回目と2回目に違いがあるため、繰り返しではなくのべで書かれている。
13. イ長調 [T] ワルツ型
 前半の山場とも言うべき名曲。2小節の序奏も含めて、やや変則的な小節数をとる。2声で重ねられたヘミオラのメロディーには、「zart」(甘く、やさしく)との指示がある。B部分は幻想的な嬰ハ長調に転調、そこから主部に戻るときの魔法のような転調は、19世紀の舞踏会の優雅な空気を想起させる。リストが「ウィーンの夜会」S.427の第6曲に大々的にフィーチャーしたことでも有名。
14. ニ長調 [B] ワルツ型
 2拍目・3拍目のffの和音連打、強弱の対比がダイナミック。
15. ヘ長調 [T] ワルツ型
 1拍目にきびきびしたアクセントを伴い、8分音符のメロディーが音階的に上下行する。中間部は平行調のニ短調。
16. ハ長調 [B] メヌエット型ワルツ型
 前曲を引きずって、ヘ長調のドミナントから始まる。ファンファーレ風の分厚い和音が威勢良く連打される。
17. ハ長調 [T] ワルツ型
 倚音が豊かな表情を生み出す。属調・ト長調のB部分では右手が長い上行スケールを奏でる。
18. 変イ長調 [B] ワルツ型
 付点4分音符がリズムにスイングをもたらす。
19. 変イ長調 [B] ワルツ型+その他
 上声が属音のミ♭を保続。伴奏型はワルツ型から時折解放され、対旋律を担当したりと音楽を重層的にする。
20. 変イ長調 [B] ワルツ型
 付点4分音符+8分音符+4分音符の同音によるリズムが主要モティーフ。
21. 変ホ長調 [B] ワルツ型
 前曲のモティーフを受け継ぐ。後半の和声は変イ長調に傾く。
22. 変ホ長調 [T] ワルツ型
 1拍目の4分音符に精力的なアクセントを伴う分散和音のメロディー。B部分は属調の変ロ長調。
23, 変ホ長調 [B] ワルツ型
 ト短調のII度という特殊な和音から始まる。B部分はA部分の終結部のモティーフを引き継いで展開される。
24. ト短調→変ロ長調 [B] ワルツ型
 長く伸ばされたバスが主音を保続。メロディーに付けられたプラルトリラーが懐古の趣を醸す。
25. ト長調 [T] ワルツ型
 前曲に引き続きバスが主音を保続しがちで、田園風の情緒がある。B部分では3拍目に執拗なアクセントが置かれ、Aの再現はかなり変化している。
26. ハ長調 [B] ワルツ型
 第22曲と似たアクセントと分散和音のモティーフ。後半で和声が表情豊かに変化する。
27. 変ホ長調 [T] ワルツ型
 スタッカートや装飾音を伴う、スケルツァンドなワルツ。B部分は平行調のハ短調に転調し、ややワイルドな曲想になる。
28. 変ホ長調 [B] ワルツ型
 シューベルトの偏愛したダクティルスのリズムをフィーチャー。メロディーはオクターヴで重ねられる。後半同主調の変ホ短調から変ト長調へと美しく転調する。
29. 変ホ長調 [T] ワルツ型レントラー型
 16分音符1つぶん多いアウフタクトが復活。重音を伴う複雑な旋律音型がエレガントな印象を与える。
30. ハ長調 [B] ワルツ型+その他
 呼びかけるようなヨーデル風の音型が特徴。後半では2拍ごとにフレーズが分かれ、伴奏もこれに追随するため、拍感が不明瞭になる。
31. イ短調→ハ長調 [B] ワルツ型
 同じく短調で始まる第24曲同様、メロディーを古典的なプラルトリラーが装飾する。
32. ハ長調 [B] ワルツ型
 付点のリズムが全曲を支配。A部分は1回目と2回目で後半4小節が大きく変化する。
33. 変イ長調 [B] ワルツ型
 3拍目にアクセントを伴う1小節目の音型がモティーフとなり、全体に展開される。
34. 変イ長調 [B] メヌエット型
 これまでのワルツとは明らかに異なるメヌエット風の書法。

以上全34曲を見渡すと、ワルツ型の伴奏型が圧倒的大多数を占めているが、楽式はどちらかというと二部形式が多い中、要所要所に三部形式が点在し、コントラストを作っている。
ハ長調で始まりハ長調で終わる第1-17曲、変イ長調で始まり変イ長調で終わる第18-34曲の2部分に大きく分けると、前半はほぼ2曲または1曲ごとに転調するのに比べ、後半は3曲ずつ同じ調性の舞曲が並んでいることがわかる。また、前半は快活な曲調だが、後半になるに従って付点4分音符が頻出するようになり、ブラームス風の大人っぽい曲想の曲が増えていく。
この配列に作曲者もしくは編集者の意図が働いていることはおそらく確実だが、最後の変イ長調の2曲は、この長大な曲集を終わらせるにふさわしい舞曲かどうか、やや疑わしい。むしろ第32曲(ハ長調)で曲集を閉じた方が、全体の調性の流れとしてもしっくりくるような気がするのだが・・・。
そういった意味で、これら34曲は通奏を目的としておらず、はじめから抜粋での演奏を前提として集められたのかもしれない。
  1. 2016/04/06(水) 12:19:51|
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舞曲の種類

前回の記事で述べた、シューベルトの手がけた舞曲のジャンルについて、少し解説しておきたい。


エコセーズ Ecossaise (Ecossaisen)
他の踊りとは異なり、2拍子の舞曲である。
エコセーズとはフランス語で「スコットランドの」という意味で、この舞曲がスコットランド起源であることを示している。本来3拍子系の舞曲であったが、1700年頃には既に2拍子化していたらしい。カントリーダンス(コントルダンス)の一種で、男女が常にパートナーを入れ替えながら踊る。その複雑なフォーメーションは、後のカドリーユの起源となった。シューベルティアーデでもエコセーズは人気で、よく踊られていたらしい。
音楽は急速な2拍子で、時にびっくりするようなスフォルツァンドや、強弱の対比を特徴とする。スコットランドではバグパイプで伴奏するのが習わしで、その名残で低音のドローン(保続低音)を持つこともある。ピアノのためのエコセーズとしては、シューベルトの他にベートーヴェン(6つのエコセーズWoO83)やショパン(3つのエコセーズ 作品72-3)が知られている。
シューベルトのエコセーズはいずれも2/4拍子、8小節+8小節の二部形式で書かれており、テンポが速いこともあって1曲1曲は非常に短い。しばしば連作としてまとめられている。

メヌエット Menuett (Menuette)
中庸な3拍子の舞曲。フランスの民俗舞曲を起源とするが、バロック期に宮廷舞踏に採り入れられ、後には古典派のソナタ楽章にも導入された、普遍性の高い舞曲である。
メヌエットのステップは2小節を基本単位としており、そのため奇数小節の第1拍にアクセントを置く(強弱弱、弱弱弱)。また同じくステップの関係上、8小節単位の楽節構造が要求され、8で割り切れない楽節構造のメヌエットは踊ることができない。つまりそれは舞踏を目的としていないメヌエットである。
中間部(トリオ)を伴う三部形式が基本で、「メヌエットとトリオ」という楽式は古典派ソナタにも受け継がれた。
シューベルトの時代、既にメヌエットは時代遅れの舞曲だったようだ。事実、1816年(18歳)を最後に、シューベルトは舞曲としてのメヌエットを作曲していない。シューベルトのメヌエットで特徴的なのは、2つのトリオを伴っていることで、ABACAという形式で演奏される。このようなメヌエットは他の大作曲家には類例がない。

ドイツ舞曲 Deutscher Tanz (Deutsche Tänze) ・ レントラー Ländler ・ ワルツ Walzer
いずれも3拍子のこれらの舞曲の違いについて、これまでさまざまな説明がなされてきた。しかし正直なところ、あまりぴんと来ないと思っていた。

言葉の登場する順序としては、歴史的に一番古いのが「ドイツ舞曲」である。ドイツ語でそのままDeutscher Tanz(ドイツの踊り)だが、実際にはTanzを省略してDeutscher(複数形はDeutsche)と呼ばれることも多い。これは英語のGermanに相当する、「ドイツの」を意味する形容詞である。「エコセーズ」と同様、舞曲の名称に地域名を用いることは多々あった。
Deutscherをそのままフランス語に直せば、allemande「アルマンド」である。つまり古い時代の文献に登場する「ドイツ舞曲」とは、宮廷舞曲のアルマンドのことを指している。アルマンドはご存じの通り、短いアウフタクトを伴う4拍子の中庸な踊りである。宮廷に入った時点で、既にかなり古い時代の舞曲と見なされていたらしく、その起源をたどることはほとんど不可能である。

これと全く異なる舞曲が、18世紀の後半に同じ「ドイツ舞曲」の名で登場する。シューベルト以前で最も有名なのは、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の第1幕のあるシーンである。
まず第15場のドン・ジョヴァンニの有名なアリア(「シャンパンの歌」)の中で、大宴会を企画しているこの好色家が、従者レポレッロにこんなことを言う。「広場に行って、かわいい娘たちを連れてくるんだ。踊りなら何でも構わない、メヌエットでも、ラ・フォリアでも、アルマンド(l'alemanna)でも、踊らせてやれ。私はその間に、あっちこっちで恋のお楽しみだ」。
そしてその後の宴会で、オーケストラが3群に分かれ、拍子の違う3つの舞曲を同時に演奏するという、前衛的な場面がある(第22場)。まずドン・オッターヴィオとドンナ・アンナがメヌエットを踊り、ドン・ジョヴァンニとツェルリーナのコントルダンスが加わり、更にレポレッロとマゼットが踊るダンスはla Teitsch

teitsch 1
レポレッロのパートのト書きに、「マゼットと無理矢理Teitschを踊る」とある

訛っているが、これこそDeutschすなわち「ドイツ舞曲」のことであり、「シャンパンの歌」で言及されたアルマンドl'alemannaもおそらく同じものを指すのだろう。3/8拍子の速い踊りだ。

teitsch 2
上2段が、レポレッロとマゼットが踊るTeitsch。3・4段目はドン・ジョヴァンニとツェルリーナが踊るコントルダンス。下4段はメヌエット。

注目すべきは、メヌエットを踊るのがドン・オッターヴィオとドンナ・アンナという貴族のカップルであるのに対し、ドイツ舞曲を踊るのは従者レポレッロとマゼットという平民の(しかも男同士の)ペアだということだ。ドイツ舞曲は、宮廷の上品なメヌエットと対極にある、庶民的で粗野な踊りという性格が与えられていたのである。このドイツ舞曲が、同じ名前の宮廷舞曲のアルマンドの流れを引いていないことは明らかだろう。

一方で「レントラー」は、「土地・田舎」を意味するLandに由来する言葉で、いわば「地方の踊り、田舎の踊り」といった意味を持つ。南ドイツやオーストリアの各地方で踊られていた民衆の踊りを総称して、18世紀の初頭からこの呼び名で記録されるようになった。レントラーも、ドイツ舞曲と同様に男女のペアがくるくると円を描くように踊る。

ワルツ」の起源にはさまざまな説があり、13世紀頃からアルプス地方で踊られていた「ヴェラー」というダンスに由来するとか、16世紀のイタリアの踊り「ヴォルタ」が起源であるとか、いろいろと言われている。ただ、それらが直接的にワルツの起源になったかどうかは疑わしい。
直接的な起源としてよく言及されるのは、18世紀中頃、ドナウ川の上流から舟に乗ってウィーンへやってきた「リンツのヴァイオリン弾きLinzer Geiger」と呼ばれる楽士たちの集団である。ドナウ河畔の飲食店に居着いた彼らが、レントラーなどの舞曲をウィーンに広めていった。こうして都会に出た踊りを、人々はwalzen(転げ回る)と呼ぶようになり、その音楽は「ヴァルツァー Walzer」(ドイツ語でワルツのこと)と呼ばれるようになったのである。この説に基づけば、「ワルツ」は「ドイツ舞曲」や「レントラー」の発展形であり、最も新しく誕生した概念ということになる。

さてここからは私の個人的な見解である。

1.「ドイツ舞曲」と「レントラー」は、起源をたどれば同じ舞曲だった。
おそらく、オーストリアの田舎で、3拍子の民俗舞曲が踊られていたのだろう。同じドイツ語文化圏の人々は、それを「レントラー」(田舎の踊り)と呼び、他の文化圏に出ていけば、既に国際的になっていた老齢のアルマンドの名前を借りて「ドイツ舞曲」と称するようになったのだろう。だから「ドイツ舞曲」と「レントラー」には、そもそも本質的に違いはない。

2.シューベルトの時代には、「ドイツ舞曲」「レントラー」「ワルツ」には全く差がなかった。
シューベルト自身や仲間たちがさまざまな呼び名を混同していることからもわかる通り、これらの名称は交換可能なものだったのだろう。ただし、上に記した通り、「ワルツ」は当時ウィーンで生まれたばかりの言葉だったから、「ドイツ舞曲」や「レントラー」よりもナウい語感だったことは間違いない。だから出版社たちは、好んで「ワルツ」のタイトルを使いたがったのである。その方が実際に楽譜も売れたのだろう。

3.それぞれの舞曲の差が出てくるのは、シューベルトより後の時代のことである。
とりわけ「ワルツ」は、その後「メヌエット」を遙かにしのぐ、国際的な普遍性を獲得した。フランスやロシアでも独自のワルツが生まれたが、本場ウィーンでの発展は特別だった。ヴェーバーの「舞踏への勧誘」を嚆矢として、短いワルツを数珠繋ぎにするグランド・ワルツの形式が流行し、ヨーゼフ・ランナーやヨハン・シュトラウス1世が「ウィンナ・ワルツ」の様式を確立、シュトラウス・ファミリーによって伝統芸能化する。
快活なテンポと華やかな旋律。1拍目のバスに重さがあり、2拍目・3拍目が刻みを担当する、いわゆる「ぶんちゃっちゃっ」という伴奏型、そして2拍目がやや前につんのめるという「ウィーン訛り」。そうした様式が世界中に知られるようになってから、シューベルトはその元祖として再注目されるようになったのである(でも実際は、当のシューベルトが書こうとしたのは、ドイツ舞曲かレントラーだったかもしれないのだ)。
そして、「ワルツ」が進化していく過程でふるい落とされた要素が、「レントラー」の言葉の中に残された。中庸なテンポ、素朴なメロディー、単純な和声進行、そして「ぶんちゃっちゃっ」ではない3拍子の伴奏型。それらが、鄙びた田園の情景とともに「レントラー」としてまとめられた。そして、もともとあった古い名称を借りた「ドイツ舞曲」は廃れていった。

以上、学術的な信憑性は乏しいが、私の考えるドイツ舞曲=レントラー=ワルツ論である。つまり、
「シューベルトのドイツ舞曲とレントラーとワルツは、違いがない」
ということを主張したかったわけだ。

しかし、個々の舞曲を見ていくと、タイトルとは関係なく、いくつかのタイプに分類できることがわかる。そのことについて、次の記事で述べてみたい。
  1. 2016/04/01(金) 22:33:01|
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シューベルトの舞曲について 概略

シューベルトは、こと舞曲の分野では大変に成功した作曲家だったと言ってよいだろう。
シューベルトは、モーツァルトやメンデルスゾーンのような神童ではなかった。試行錯誤しながら自らの道を切り拓いていった、努力の人である。しかし舞曲においては、誰に習うことなく、若い頃からごく自然に完璧なスタイルを会得していた。ウィーン生まれウィーン育ち、生粋のウィーンっ子ならではのセンスなのだろうか。

ウィーンの舞踏会シーズンは冬である。他にレジャーのないこの時期、人々は踊りに熱中した。メッテルニヒ体制のもと、舞踏会の開催時期はカトリックの祝日をもとに厳しく規制されていた。舞踏会を開いてよいのは、1月6日の「東方三博士の祝日」から、復活祭に伴って2月3日~3月9日の間で移動する祝日「告解の火曜日」(パンケーキデー)の間のみ。すなわち1年のうち1ヶ月か2ヶ月の間だけ、人々は心おきなく踊ることができた。この法を犯すと重い罰金が課せられたり、逮捕されることすらあった。
しかし、許可されていない期間にも、個人邸などでの非公式のダンスパーティーはこっそりと開かれていた。シューベルティアーデの仲間たちも、時期を選ばず、集まれば結局舞踏会になった。ウィーンの冬は長く寒い。舞踏は、楽しみながら暖を取れる格好のレクリエーションだったのである。シューベルトたちも、1822年の舞踏会の最中、警察に踏み込まれて危うく逮捕されるところだったらしい。
そのような楽しく密やかな集まりで、シューベルトはピアノの前に座り、ひたすら即興で舞曲を弾き続けた。シュパウンをはじめとする友人たちが口を揃えて証言するには、シューベルトは決して自分では踊らず、ただ踊りの伴奏をするだけだった。そして、即興の舞曲の中で特に気に入ったもの、友人たちの評判の良かった曲を、五線に書きつけたのだという。そのようにして、あの膨大な数の舞曲が生まれていったのである。

シューベルト自身か友人が出版社に売り込んだのか、あるいは評判を聞きつけた出版社から話が持ち込まれたのか、その経緯は明らかではないが、あるときから舞曲が出版のルートに乗るようになる。1821年、「36のオリジナル舞曲」(D365)が作品9として出版された。自費出版ではなく、出版社から委嘱を受けて作品が刊行されるのはこれが初めてだった。
以降、出版社たちはこぞってシューベルトに舞曲を委嘱するようになる。作曲家シューベルトにとって、「舞曲」はほとんど唯一の、安定した収入源であった。現代ではシューベルトの代名詞ともいえる歌曲さえ、当時は自費出版を余儀なくされ、そうでなくともシューベルトにはわずかな収入しかもたらさなかった。そこには圧倒的な需要の差があったのだろう。
毎年舞踏会のシーズンが近づくと、出版社たちは次々と「今年のトレンドの」舞曲集を刊行した。さまざまな作曲家に委嘱したオムニバスの舞曲集も人気で、シューベルトの後年の単発の舞曲はこうした楽譜の収録曲として残されたものも多い。
シューベルトは生前から絶大な人気を誇った「舞曲王」だったのである。

新全集の解説によれば、自筆譜の残っている舞曲をジャンルごとに大別すると、次のような割合になるという。
「ドイツ舞曲」が40%。
「レントラー」25%。
「エコセーズ」20%。
「メヌエット」15%。

あれっ、と思われる方もいるかもしれない。「ワルツ」が入っていない。実はシューベルト自身が自筆譜に「ワルツ」と書きつけた曲は、1曲しか確認されていない(D365-3)。そして、生前に出版された舞曲は、製版に使われた原稿が残っていないのである。
印刷してしまえば、手稿は破棄するのが当時は普通だったのだが、そのせいでシューベルト自身がどのような題を与えていたのかを知ることはできない。ただ、いくつかの舞曲については製版用とは異なる自筆譜が残っており、それに周りの友人たちの証言も総合すると、「ワルツ」として出版された舞曲の大多数は、どうやら本来は「ドイツ舞曲」だったようだ。「感傷的なワルツ」「高雅なワルツ」といった命名や、さらに選曲に至るまで、どうやら出版社が恣意的に行ったのではないかと思われるふしは多々ある。

シューベルトは舞曲を書くとき、構想を練ることも、推敲することもなかった。後世に残す芸術作品ではなく、あくまでその場で消費する実用音楽である。題名にもこだわらなかったし、実際のところ、楽譜通りの曲順で一音も変えずに演奏されるような性質のものではなかったのだろう。演奏する側が好きな曲を選んで、適当に音を抜いたり加えたり、場合によっては小さいアンサンブルを組んだりして、楽しい舞踏会の伴奏に供したのである。
  1. 2016/03/22(火) 22:51:32|
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