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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

アルバムの綴り D844 概説

アルバムの綴り(ワルツ) ト長調 Albumblatt (Walzer) G-dur D844
作曲:1825年4月16日 出版:1897年(旧全集)
楽譜・・・IMSLP

シュヴィントとアンナ・ヘーニヒ
アンナ・ヘーニヒ(1803-1888)の記念帳に書き残された小品。
同じアルバムの中にはモーリツ・フォン・シュヴィントが1827年8月7日に作曲したという変ロ長調の「アンダンテ」の自筆譜も収められている。シュヴィントは本業は画家だったが、ピアニストとしてもなかなかの腕前で、シューベルティアーデで「歌い手シューベルト」の伴奏者も務めたというから、作曲の心得もあったのだろう。
アンナは弁護士フランツ・ヘーニヒの娘で、シューベルティアーデのメンバーのひとりだった。仲間内では「かわいいアン・ペイジ」(シェイクスピア『ウィンザーの陽気な女房たち』の登場人物)と呼ばれ、特に美人というわけではなかったが気立てが良く聡明な女性だったという。シューベルトは1824年の末に初めてヘーニヒ邸を訪れ、アンナのことを気に入ってたびたび出入りするようになった。そんな折に頼まれて彼女のアルバムにこの無題の小品を書いて渡したのだろう。日付は1825年4月16日とある。
ところがもっとアンナに夢中になったのがシュヴィントであった。猛烈なアタックが実って1828年春に婚約に漕ぎ着けたが、自由人シュヴィントと堅実なアンナがうまくいくはずはなかった。いざこざの末1829年10月に婚約は破棄されたが、1828年11月に死んだシューベルトはそのことを知らない。アンナはその後、やはりシューベルトの仲間だった軍官のフェルディナント・マイアホーファー・フォン・グリュンビューエルと1832年に結婚した。シュヴィントはその後も夫妻と友情を保ったという。
シュヴィントが1868年に描いた有名な「シュパウン邸でのシューベルティアーデ」の図の中に、シュヴィント自身とアンナも描かれている。シュヴィントは画家仲間のクーペルヴィーザーやリーダーと一緒に壁際に立ち、そのすぐ前で微笑みを浮かべている女性がアンナ・ヘーニヒだといわれている。

8+8の16小節、3拍子ということで確かに舞曲の要件は満たしているが、新全集をはじめとして「ワルツ」というタイトルが正式に認められているのは甚だ疑問である。シューベルト自身が自作を「ワルツ」と題したことはほぼないので、シューベルトの考えるワルツのスタイルはよくわからないが、一般的なワルツの様式とは大きく異なっている。むしろレントラーやドイツ舞曲といった方がしっくりくるだろう。「アルバムの綴り」の通称の方がふさわしいと筆者は考える。
和音が連続するコラール風の書法は同じト長調のソナタD894を連想させる。静かに揺れるような、優しさに満ちた佳品である。
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  1. 2022/09/29(木) 08:00:48|
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Brown, Ms. 9 12のトリオ付きドイツ舞曲

Brown, Ms. 9  12のトリオ付きドイツ舞曲  Zwölf Deutsche mit Trios
タイトル:12 Deutsche sammt Coda (12のドイツ舞曲とコーダ)
日付:1815年
所蔵:パリ国立高等音楽院 →デジタルデータ

(舞曲自筆譜ならびにブラウン自筆譜番号についてはこちら)

1815年、シューベルトが18歳のときの作品。清書譜で、立派な表紙が付けられており、フェルディナントの筆でディアベリに預けた旨が記されている。
しかしながらタイトルにある「sammt Coda(コーダつき)」という文言は解せない。D420のようにコーダ(終結部)の付いている舞曲集も存在するが、この曲集にはコーダは付いていない。
「トリオ付き」というべきところを間違えたのだろうか。この舞曲集の特異なところは、各曲がトリオを伴うダ・カーポ形式で書かれているということで、トリオは主部に依存しない独立した楽曲になっている。つまり、細かく数えれば24ピースの舞曲がここに収められているということだ。そのうちの20ピースが「20のワルツ」D146(Op.127)の中の10曲を構成している。わざわざ主部とトリオを別々に数えたことからも分かるとおり、
●主部・トリオともにそのまま入集したのが7セット=14ピース(うち1曲はトリオのみ移調)
●主部とトリオを交換した舞曲が1対2セット=4ピース(いずれも移調あり)
●主部同士で組み合わせられたのが2ピース

である。残り4ピースのうち1ピースはD145-W8として別途出版されており、その他の3ピース(トリオ1とセット1)には独立したドイチュ番号が与えられた。

トリオを伴う舞曲の代表例にはメヌエットがある。この自筆譜が成立した1815年にはシューベルトはまだメヌエットの作曲をやめていない。そうした初期のスタイルを色濃く残すとともに、シューベルティアーデの舞踏会で実際に踊られるようになって以降の「実用的な」舞曲とは異なる、形而上的な舞曲集ともいえる。その点ではシューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」等の先駆ともいえるだろう。

以降「Op.127」と表記するのは「20のワルツ」D146(作品127)の出版譜を指す。この自筆譜がOp.127のソースである(別稿はない)ことは確実だが、それでも出版にあたってさまざまな改変が加えられており、その内容や理由について以下で考察したい。

1. ホ長調 → D135 / 主部はD146-3(主部)
主部はOp.127-3の主部と全く同一である。
トリオはD146(Op.127)には収録されなかったため、この舞曲全体がD135としてドイチュ目録に掲載されたが、トリオ部分のみをD135とするという見解もある。

2. イ長調/嬰ヘ短調 → 主部はD146-3(トリオ)、トリオはD145-W9
トリオは既にOp.18-W9に収録されているため切り離され、主部が前曲の主部と組み合わされてOp.127-3に収まった。Op.127-3(トリオ)では中間部にデュナーミクの加筆があり、[11]の2拍目にsf、[14]にクレシェンドの松葉がついて[15]のfの位置が変わっている。[14][15]の改変については本来の意図に反するように思われる。

3. 嬰ハ長調/イ長調 → D139
♯7個という特殊な調号を持つこの荒々しい舞曲はOp.127には入集せず、後にD139の番号を与えられた。この作品については別に解説する。

4. ロ短調/ト長調 → D146-7
Op.127-7では主部の[7]の3拍目のsfが消えている一方で、B部冒頭の[9]アウフタクトにfの指示が加筆されている。トリオでは[11][15]の右手の付点2分音符にアクセントが加えられているが、微細な変更といえよう。

5. ヘ長調/変ロ長調 → D146-10
Op.127-10では主部の[13]以降の左手2拍目のsfがアクセント記号(>)に変えられている他、大幅な変更として[31]アウフタクトから[37]1拍目までの右手に8va(Ⅰオクターヴ高く)が書き加えられており、華やかさが追求されている。トリオは同一。

6. ニ長調 → D146-6
Op.127-6との大きな相違はなく、主部集結前の[31]3拍目のsfやトリオ[17]開始時のpの指示が欠けているが、見落としといって差し支えない程度の変化である。

7. ヘ長調/変イ長調 → D146-5(トリオは変ロ長調に移調)
Op.127-5の主部とはほぼ相違なく、[35]3拍目の和音の左右の手の配置が異なることと、[40]3拍目の右手になぜかスタッカートが付いたことぐらいである。トリオ全体は変イ長調から長2度高い変ロ長調に移調されているが、むしろ主部との取り合わせの面では変ロ長調の方が違和感が少ないかもしれない。初稿で変イ長調が選ばれた理由は、おそらく[27]の最高音Fがこの時期の通常のピアノの最高音だったからで、1830年には音域の広い楽器も普及していたため変ロ長調(最高音はGになる)に移調して差し支えないという判断があったのだろう。

8. 変ロ長調 → D146-11
主部[15]右手にスラーが補われたことと、トリオのデュナーミク指示がppからpへ変更された他はOp.127-11と相違ない。

9. 変ト長調 → 主部はD146-8主部、トリオはD146-1トリオ(いずれもト長調に移調)
♭6個はさすがに出版には向かなかったと見え、♯1個のト長調に移調された上でバラバラに切り離され、次曲とカップリングされることになった。
主部とOp.127-8主部を比較すると、冒頭のf・[9]アウフタクトのffというデュナーミク指示が、冒頭はなし・[9]アウフタクトはfに減少させられている。トリオとOp.127-1の比較では、[1][17]アウフタクトの右手にスタッカートが追加されたのみである。

10. ニ長調 → 主部はD146-1主部、トリオはD146-8トリオ
勢いも良く祝祭的なこの曲を曲集の幕開けに据えたいという出版社の意図はよくわかるが、なぜ主部とトリオがバラバラにされて前曲と組み合わされなければならなかったのかはよくわからない。Op.127-1における主部の大きな変更点としては、和音連打に初稿にはなかったスタッカートの点が付加されたことである。トリオは同一。

11. イ長調 → D146-4
Op.127-4の主部では右手の多くの4分音符にスタッカートの点が付加されている。トリオはかなり大幅に改変されており、初稿では三部形式[T]だった舞曲の最後の8小節を端折って二部形式[B]に縮めている。[1][9]の左手の1拍目のバスのオクターヴも消え、単なる和音連打の伴奏型となった。

12. ハ長調 → D146-9
Op.127-9では主部[1][9][25]の1拍目の右手のGのオクターヴが装飾音つきの単音に変えられているが、これは左手の2拍目のGと右手の下声が衝突するのを避けるための処置だろう。同様に主部最終小節の右手のCのオクターヴも単音になっている。トリオは[1]等の右手の3拍目の8分音符にスラーが付加されている他は大差ない。
  1. 2022/04/06(水) 23:31:59|
  2. 舞曲自筆譜
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12の高雅なワルツ D969 概説

12の高雅なワルツ Zwölf "Valses nobles" D969 Op.77
作曲:1826年? 出版:1827年
楽譜・・・IMSLP

1827年の舞踏会シーズンに合わせて、年初にハスリンガー社から出版された。出版される以前から仲間内では好んで踊られていたようで、おそらく出版の前年に作曲されたものと考えられている。シューベルティアーデでの本作の演奏について記述を残しているハルトマン兄弟は、あるときには「ドイツ舞曲」、あるときには「ワルツ」と呼んでおり、作曲者晩年のこの時点においても舞曲の呼称は定まっていなかったことが窺える。

感傷的なワルツ」と同じく、この「高雅なワルツ」も、その形容詞が曲の内容と一致していないということは、作曲年の5月に刊行されたフランクフルト音楽新報で既に指摘されている。各出版社が舞踏会シーズンにこぞって舞曲集を出版し、趣向を凝らしたタイトルで人目を引くものも多かった中で、「高雅なワルツ」はまだ控えめなネーミングだったといえるだろう。実際には、シューベルトの舞曲の中でも最も大胆かつ激しい音楽が繰り広げられており、強弱のコントラストも際立っている。

1. ハ長調 [B] その他+メヌエット型ワルツ型
ファンファーレ風の威勢の良いユニゾンが舞踏の幕開けを告げる。
2. イ長調 [B] ワルツ型
2拍目にアクセントを置いたマズルカ風のリズムが特徴的。
3. ハ長調 ドイツ舞曲型
58小節まで拡大され、構造も不定である。空虚5度の保続で始まり、3度や6度を伴う並行オクターヴの旋律が、牧歌的な伴奏に乗って歌われていく。途中突如イ長調に転調する部分は幻想的。
4. ト長調 [T] ワルツ型
長い倚音がしなだれかかるようなしなを作る。
5. イ短調 [T] メヌエット型ワルツ型
前半が16小節に拡大。両手のオクターヴが力強く堂々とステップを踏む。
6. ハ長調 [B] ワルツ型
分散和音のメロディーが続く、シンプルな舞曲。
7. ホ長調 [T] その他+ワルツ型
オクターヴの跳躍が華やか。8分音符の和音連打はどことなく軍隊風である。
8. イ長調 [T] その他
前曲の軍隊風の要素を引き継ぎ、舞曲というよりかわいい行進曲のような作品。再現のA'は音域が下がり、コーダ風になる。
9. イ短調 [T] その他+ワルツ型ドイツ舞曲型
再び短調となり、舞曲としては異例の激烈かつ悲痛な感情が吐露される。終盤では第3曲由来の空虚5度の保続が再登場するが、それは決してのどかなものではなく、一種の狂気すら感じさせる。
10. ヘ長調 [B] ワルツ型
前曲の緊張をほどくかのような優雅なワルツ。
11. ハ長調 [B] その他+ワルツ型
和音の連打が印象的。
12. ハ長調 [T] ワルツ型ドイツ舞曲型
中間部で突然遠隔調の変ロ長調に転調、天上の世界が広がる。後半の繰り返しはなく、最後は冒頭と呼応するようなオクターヴのユニゾンで、力強く曲集を締めくくる。
  1. 2016/04/07(木) 10:13:20|
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34の感傷的なワルツ D779 概説

34の感傷的なワルツ Vierunddreißig "Valses sentimentales" D779
作曲:1823年? 出版:1825年
楽譜・・・IMSLP

1825年11月にディアベリ社から出版された、シューベルトの最も有名な舞曲集のひとつである。その知名度は、「感傷的なワルツ」という標題に負っているところが大きいが、実際にはシューベルト自身による命名ではないと考えられている。ディアベリとは1823年4月に絶縁しており、おそらくそれ以前に渡した自筆譜をもとに、ディアベリが無断で出版し、その際にこの魅力的なタイトルを付けたのだろうと思われる。
シューベルトの生前に出版された舞曲のほとんどは、自筆譜が失われている。製版後に自筆譜は破棄されるのが通例だったのだ。本作の自筆譜も消失しているが、いくつかの曲に関しては草稿が残されており、それらには1823年2月の日付がある。ディアベリとの関係を考えても、曲の成立はその前後と考えるのが自然だろう。
34曲という大規模な曲集が、はじめから連作として構想されたとは考えにくい。もしかしたら、もっと大量の舞曲の束の中から、出版社が34曲だけを選抜したという可能性もある。しかし曲の配列は闇雲なものではなく、調性が変わる際には近親調へ移動するように配慮されている。

曲集全体の印象は決して「感傷的」なものではなく、むしろ快活で軽やかである。短調のワルツはなく、たとえ短調の和音で始まっても平行長調で終止するように書かれていることも、曲集の明るい雰囲気の一翼を担っている。

1. ハ長調 [B] ワルツ型
 第1-4,33,34曲は、その他の3曲の舞曲とともに合計9曲の曲集として編まれた異稿が存在する。これによると、第1曲と第2曲はハ長調ではなくロ長調であり、もともとはロ長調で構想された可能性が高い。確かにシャープ5個のロ長調は一般向けには読譜しにくいので、出版にあたって移調したのかもしれないが、ハ長調とロ長調ではかなり調性感が異なる。
 最初の4曲に共通するのは、1と1/4拍、つまり16分音符1個+8分音符2個という変則的なアウフタクトのリズムである。このリズミカルなアウフタクトは他の曲集には見られないもので、音楽に活気を与えている。
 第1曲は爽やかな印象の舞曲で、上声に長い音符のオブリガートが現れる。
2. ハ長調 [T] ワルツ型
 右手が三和音を連打するモティーフ。B部分で変ホ長調に転調する。
3. ト長調 [T] ワルツ型
 D音を基軸に8分音符でジグザグする音型がスケルツァンドの雰囲気を演出する。B部分は属調のニ長調。
4. ト長調 [B] ワルツ型
 第2曲に似た和音連打、付点リズムのアウフタクトが威勢の良い印象を与える。
5. 変ロ長調 [T] ワルツ型
 分散和音形の跳躍の多い旋律線が、ヨーデル風でもある。B部分は属調のヘ長調。
6. 変ロ長調 [B] ワルツ型
 和音やオクターヴの連打が続く。3拍目に置かれたアクセントが民俗的な趣を醸す。
7. ト短調→変ロ長調 [B] ワルツ型
 装飾を伴い、高音からひらひらと舞い降りるような優雅な旋律。前半はト短調、後半は平行調の変ロ長調となる。
8. ニ長調 [B] メヌエット型
 ff、左手のオクターヴも相まって力強く男性的なステップ。第8,9,12,14曲は他の13の舞曲とともに草稿が残っており、そこには「1823年2月」の日付と、「ドイツ舞曲」のタイトルがある。
9. ニ長調 [B] ワルツ型
 右手が鍵盤上を駆け回る。2拍3連のヘミオラのリズムで、フレーズが分割されている。
10. ト長調 [B] ワルツ型
 冒頭4曲と同様の、16分音符が追加されたアウフタクトを持つ。8分音符2つずつスラーがかけられ、ヴァイオリンのボウイングを彷彿とさせる。
11. ト長調 [B] ワルツ型
 分散和音が高音域まで駆け上がる。爽快な印象のワルツ。
12. ニ長調 [B] ワルツ型
 前曲と対照的に、半音階を多用した音域の狭いモティーフ。後半の短調系の借用和音も相まって、洒落た印象を与える。A部分は1回目と2回目に違いがあるため、繰り返しではなくのべで書かれている。
13. イ長調 [T] ワルツ型
 前半の山場とも言うべき名曲。2小節の序奏も含めて、やや変則的な小節数をとる。2声で重ねられたヘミオラのメロディーには、「zart」(甘く、やさしく)との指示がある。B部分は幻想的な嬰ハ長調に転調、そこから主部に戻るときの魔法のような転調は、19世紀の舞踏会の優雅な空気を想起させる。リストが「ウィーンの夜会」S.427の第6曲に大々的にフィーチャーしたことでも有名。
14. ニ長調 [B] ワルツ型
 2拍目・3拍目のffの和音連打、強弱の対比がダイナミック。
15. ヘ長調 [T] ワルツ型
 1拍目にきびきびしたアクセントを伴い、8分音符のメロディーが音階的に上下行する。中間部は平行調のニ短調。
16. ハ長調 [B] メヌエット型ワルツ型
 前曲を引きずって、ヘ長調のドミナントから始まる。ファンファーレ風の分厚い和音が威勢良く連打される。
17. ハ長調 [T] ワルツ型
 倚音が豊かな表情を生み出す。属調・ト長調のB部分では右手が長い上行スケールを奏でる。
18. 変イ長調 [B] ワルツ型
 付点4分音符がリズムにスイングをもたらす。
19. 変イ長調 [B] ワルツ型+その他
 上声が属音のミ♭を保続。伴奏型はワルツ型から時折解放され、対旋律を担当したりと音楽を重層的にする。
20. 変イ長調 [B] ワルツ型
 付点4分音符+8分音符+4分音符の同音によるリズムが主要モティーフ。
21. 変ホ長調 [B] ワルツ型
 前曲のモティーフを受け継ぐ。後半の和声は変イ長調に傾く。
22. 変ホ長調 [T] ワルツ型
 1拍目の4分音符に精力的なアクセントを伴う分散和音のメロディー。B部分は属調の変ロ長調。
23, 変ホ長調 [B] ワルツ型
 ト短調のII度という特殊な和音から始まる。B部分はA部分の終結部のモティーフを引き継いで展開される。
24. ト短調→変ロ長調 [B] ワルツ型
 長く伸ばされたバスが主音を保続。メロディーに付けられたプラルトリラーが懐古の趣を醸す。
25. ト長調 [T] ワルツ型
 前曲に引き続きバスが主音を保続しがちで、田園風の情緒がある。B部分では3拍目に執拗なアクセントが置かれ、Aの再現はかなり変化している。
26. ハ長調 [B] ワルツ型
 第22曲と似たアクセントと分散和音のモティーフ。後半で和声が表情豊かに変化する。
27. 変ホ長調 [T] ワルツ型
 スタッカートや装飾音を伴う、スケルツァンドなワルツ。B部分は平行調のハ短調に転調し、ややワイルドな曲想になる。
28. 変ホ長調 [B] ワルツ型
 シューベルトの偏愛したダクティルスのリズムをフィーチャー。メロディーはオクターヴで重ねられる。後半同主調の変ホ短調から変ト長調へと美しく転調する。
29. 変ホ長調 [T] ワルツ型レントラー型
 16分音符1つぶん多いアウフタクトが復活。重音を伴う複雑な旋律音型がエレガントな印象を与える。
30. ハ長調 [B] ワルツ型+その他
 呼びかけるようなヨーデル風の音型が特徴。後半では2拍ごとにフレーズが分かれ、伴奏もこれに追随するため、拍感が不明瞭になる。
31. イ短調→ハ長調 [B] ワルツ型
 同じく短調で始まる第24曲同様、メロディーを古典的なプラルトリラーが装飾する。
32. ハ長調 [B] ワルツ型
 付点のリズムが全曲を支配。A部分は1回目と2回目で後半4小節が大きく変化する。
33. 変イ長調 [B] ワルツ型
 3拍目にアクセントを伴う1小節目の音型がモティーフとなり、全体に展開される。
34. 変イ長調 [B] メヌエット型
 これまでのワルツとは明らかに異なるメヌエット風の書法。

以上全34曲を見渡すと、ワルツ型の伴奏型が圧倒的大多数を占めているが、楽式はどちらかというと二部形式が多い中、要所要所に三部形式が点在し、コントラストを作っている。
ハ長調で始まりハ長調で終わる第1-17曲、変イ長調で始まり変イ長調で終わる第18-34曲の2部分に大きく分けると、前半はほぼ2曲または1曲ごとに転調するのに比べ、後半は3曲ずつ同じ調性の舞曲が並んでいることがわかる。また、前半は快活な曲調だが、後半になるに従って付点4分音符が頻出するようになり、ブラームス風の大人っぽい曲想の曲が増えていく。
この配列に作曲者もしくは編集者の意図が働いていることはおそらく確実だが、最後の変イ長調の2曲は、この長大な曲集を終わらせるにふさわしい舞曲かどうか、やや疑わしい。むしろ第32曲(ハ長調)で曲集を閉じた方が、全体の調性の流れとしてもしっくりくるような気がするのだが・・・。
そういった意味で、これら34曲は通奏を目的としておらず、はじめから抜粋での演奏を前提として集められたのかもしれない。
  1. 2016/04/06(水) 12:19:51|
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舞曲の種類

前回の記事で述べた、シューベルトの手がけた舞曲のジャンルについて、少し解説しておきたい。


エコセーズ Ecossaise (Ecossaisen)
他の踊りとは異なり、2拍子の舞曲である。
エコセーズとはフランス語で「スコットランドの」という意味で、この舞曲がスコットランド起源であることを示している。本来3拍子系の舞曲であったが、1700年頃には既に2拍子化していたらしい。カントリーダンス(コントルダンス)の一種で、男女が常にパートナーを入れ替えながら踊る。その複雑なフォーメーションは、後のカドリーユの起源となった。シューベルティアーデでもエコセーズは人気で、よく踊られていたらしい。
音楽は急速な2拍子で、時にびっくりするようなスフォルツァンドや、強弱の対比を特徴とする。スコットランドではバグパイプで伴奏するのが習わしで、その名残で低音のドローン(保続低音)を持つこともある。ピアノのためのエコセーズとしては、シューベルトの他にベートーヴェン(6つのエコセーズWoO83)やショパン(3つのエコセーズ 作品72-3)が知られている。
シューベルトのエコセーズはいずれも2/4拍子、8小節+8小節の二部形式で書かれており、テンポが速いこともあって1曲1曲は非常に短い。しばしば連作としてまとめられている。

メヌエット Menuett (Menuette)
中庸な3拍子の舞曲。フランスの民俗舞曲を起源とするが、バロック期に宮廷舞踏に採り入れられ、後には古典派のソナタ楽章にも導入された、普遍性の高い舞曲である。
メヌエットのステップは2小節を基本単位としており、そのため奇数小節の第1拍にアクセントを置く(強弱弱、弱弱弱)。また同じくステップの関係上、8小節単位の楽節構造が要求され、8で割り切れない楽節構造のメヌエットは踊ることができない。つまりそれは舞踏を目的としていないメヌエットである。
中間部(トリオ)を伴う三部形式が基本で、「メヌエットとトリオ」という楽式は古典派ソナタにも受け継がれた。
シューベルトの時代、既にメヌエットは時代遅れの舞曲だったようだ。事実、1816年(18歳)を最後に、シューベルトは舞曲としてのメヌエットを作曲していない。シューベルトのメヌエットで特徴的なのは、2つのトリオを伴っていることで、ABACAという形式で演奏される。このようなメヌエットは他の大作曲家には類例がない。

ドイツ舞曲 Deutscher Tanz (Deutsche Tänze) ・ レントラー Ländler ・ ワルツ Walzer
いずれも3拍子のこれらの舞曲の違いについて、これまでさまざまな説明がなされてきた。しかし正直なところ、あまりぴんと来ないと思っていた。

言葉の登場する順序としては、歴史的に一番古いのが「ドイツ舞曲」である。ドイツ語でそのままDeutscher Tanz(ドイツの踊り)だが、実際にはTanzを省略してDeutscher(複数形はDeutsche)と呼ばれることも多い。これは英語のGermanに相当する、「ドイツの」を意味する形容詞である。「エコセーズ」と同様、舞曲の名称に地域名を用いることは多々あった。
Deutscherをそのままフランス語に直せば、allemande「アルマンド」である。つまり古い時代の文献に登場する「ドイツ舞曲」とは、宮廷舞曲のアルマンドのことを指している。アルマンドはご存じの通り、短いアウフタクトを伴う4拍子の中庸な踊りである。宮廷に入った時点で、既にかなり古い時代の舞曲と見なされていたらしく、その起源をたどることはほとんど不可能である。

これと全く異なる舞曲が、18世紀の後半に同じ「ドイツ舞曲」の名で登場する。シューベルト以前で最も有名なのは、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の第1幕のあるシーンである。
まず第15場のドン・ジョヴァンニの有名なアリア(「シャンパンの歌」)の中で、大宴会を企画しているこの好色家が、従者レポレッロにこんなことを言う。「広場に行って、かわいい娘たちを連れてくるんだ。踊りなら何でも構わない、メヌエットでも、ラ・フォリアでも、アルマンド(l'alemanna)でも、踊らせてやれ。私はその間に、あっちこっちで恋のお楽しみだ」。
そしてその後の宴会で、オーケストラが3群に分かれ、拍子の違う3つの舞曲を同時に演奏するという、前衛的な場面がある(第22場)。まずドン・オッターヴィオとドンナ・アンナがメヌエットを踊り、ドン・ジョヴァンニとツェルリーナのコントルダンスが加わり、更にレポレッロとマゼットが踊るダンスはla Teitsch

teitsch 1
レポレッロのパートのト書きに、「マゼットと無理矢理Teitschを踊る」とある

訛っているが、これこそDeutschすなわち「ドイツ舞曲」のことであり、「シャンパンの歌」で言及されたアルマンドl'alemannaもおそらく同じものを指すのだろう。3/8拍子の速い踊りだ。

teitsch 2
上2段が、レポレッロとマゼットが踊るTeitsch。3・4段目はドン・ジョヴァンニとツェルリーナが踊るコントルダンス。下4段はメヌエット。

注目すべきは、メヌエットを踊るのがドン・オッターヴィオとドンナ・アンナという貴族のカップルであるのに対し、ドイツ舞曲を踊るのは従者レポレッロとマゼットという平民の(しかも男同士の)ペアだということだ。ドイツ舞曲は、宮廷の上品なメヌエットと対極にある、庶民的で粗野な踊りという性格が与えられていたのである。このドイツ舞曲が、同じ名前の宮廷舞曲のアルマンドの流れを引いていないことは明らかだろう。

一方で「レントラー」は、「土地・田舎」を意味するLandに由来する言葉で、いわば「地方の踊り、田舎の踊り」といった意味を持つ。南ドイツやオーストリアの各地方で踊られていた民衆の踊りを総称して、18世紀の初頭からこの呼び名で記録されるようになった。レントラーも、ドイツ舞曲と同様に男女のペアがくるくると円を描くように踊る。

ワルツ」の起源にはさまざまな説があり、13世紀頃からアルプス地方で踊られていた「ヴェラー」というダンスに由来するとか、16世紀のイタリアの踊り「ヴォルタ」が起源であるとか、いろいろと言われている。ただ、それらが直接的にワルツの起源になったかどうかは疑わしい。
直接的な起源としてよく言及されるのは、18世紀中頃、ドナウ川の上流から舟に乗ってウィーンへやってきた「リンツのヴァイオリン弾きLinzer Geiger」と呼ばれる楽士たちの集団である。ドナウ河畔の飲食店に居着いた彼らが、レントラーなどの舞曲をウィーンに広めていった。こうして都会に出た踊りを、人々はwalzen(転げ回る)と呼ぶようになり、その音楽は「ヴァルツァー Walzer」(ドイツ語でワルツのこと)と呼ばれるようになったのである。この説に基づけば、「ワルツ」は「ドイツ舞曲」や「レントラー」の発展形であり、最も新しく誕生した概念ということになる。

さてここからは私の個人的な見解である。

1.「ドイツ舞曲」と「レントラー」は、起源をたどれば同じ舞曲だった。
おそらく、オーストリアの田舎で、3拍子の民俗舞曲が踊られていたのだろう。同じドイツ語文化圏の人々は、それを「レントラー」(田舎の踊り)と呼び、他の文化圏に出ていけば、既に国際的になっていた老齢のアルマンドの名前を借りて「ドイツ舞曲」と称するようになったのだろう。だから「ドイツ舞曲」と「レントラー」には、そもそも本質的に違いはない。

2.シューベルトの時代には、「ドイツ舞曲」「レントラー」「ワルツ」には全く差がなかった。
シューベルト自身や仲間たちがさまざまな呼び名を混同していることからもわかる通り、これらの名称は交換可能なものだったのだろう。ただし、上に記した通り、「ワルツ」は当時ウィーンで生まれたばかりの言葉だったから、「ドイツ舞曲」や「レントラー」よりもナウい語感だったことは間違いない。だから出版社たちは、好んで「ワルツ」のタイトルを使いたがったのである。その方が実際に楽譜も売れたのだろう。

3.それぞれの舞曲の差が出てくるのは、シューベルトより後の時代のことである。
とりわけ「ワルツ」は、その後「メヌエット」を遙かにしのぐ、国際的な普遍性を獲得した。フランスやロシアでも独自のワルツが生まれたが、本場ウィーンでの発展は特別だった。ヴェーバーの「舞踏への勧誘」を嚆矢として、短いワルツを数珠繋ぎにするグランド・ワルツの形式が流行し、ヨーゼフ・ランナーやヨハン・シュトラウス1世が「ウィンナ・ワルツ」の様式を確立、シュトラウス・ファミリーによって伝統芸能化する。
快活なテンポと華やかな旋律。1拍目のバスに重さがあり、2拍目・3拍目が刻みを担当する、いわゆる「ぶんちゃっちゃっ」という伴奏型、そして2拍目がやや前につんのめるという「ウィーン訛り」。そうした様式が世界中に知られるようになってから、シューベルトはその元祖として再注目されるようになったのである(でも実際は、当のシューベルトが書こうとしたのは、ドイツ舞曲かレントラーだったかもしれないのだ)。
そして、「ワルツ」が進化していく過程でふるい落とされた要素が、「レントラー」の言葉の中に残された。中庸なテンポ、素朴なメロディー、単純な和声進行、そして「ぶんちゃっちゃっ」ではない3拍子の伴奏型。それらが、鄙びた田園の情景とともに「レントラー」としてまとめられた。そして、もともとあった古い名称を借りた「ドイツ舞曲」は廃れていった。

以上、学術的な信憑性は乏しいが、私の考えるドイツ舞曲=レントラー=ワルツ論である。つまり、
「シューベルトのドイツ舞曲とレントラーとワルツは、違いがない」
ということを主張したかったわけだ。

しかし、個々の舞曲を見ていくと、タイトルとは関係なく、いくつかのタイプに分類できることがわかる。そのことについて、次の記事で述べてみたい。
  1. 2016/04/01(金) 22:33:01|
  2. 楽曲について
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