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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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3つのメヌエット D380 概説

3つのメヌエット Drei Menuette mit je zwei Trios D380
作曲:1816年2月22日 出版:1897年(第1,2曲)、1956年(第3曲主部)、1989年(第3曲トリオ断片)
楽譜・・・IMSLP(第1,2曲のみ)

シューベルトが書いた舞踏のためのメヌエットとしては最後の作品。宮廷舞曲に由来するメヌエットは、既にこのころ舞踏会のメニューとしては古くさいものになっていたようだ。
以前紹介した「2つのメヌエット」D91「メヌエット」D335と同様に、2つのトリオを持つABACAの構成をとる。ただし第3曲は、第1トリオの後半以降が欠落している。
優雅な宮廷舞踏というよりは、軍隊風・行進曲風の勇ましいリズムと重厚な響きがこの作品全体の特徴となっている。

第1曲(ホ長調)はハイドン風の古典的な趣。流れるような第1トリオとファンファーレ風のオクターヴユニゾンが印象的な第2トリオ、どちらも楽節構造が基本単位の8小節を逸脱しており、この作品が必ずしも舞踏を目的として書かれたわけではないことを示唆している。

第2曲(イ長調)は威勢良く開始。第2トリオの左手で連打される和音のリズムは、メヌエットというよりポロネーズ風であり、強烈な個性を放つ。

第3曲(ハ長調)もファンファーレを思わせる分厚い和音で始まる。第1トリオは前半8小節と、後半冒頭のアウフタクト1拍まで残されている。自筆譜にはここで「V.S.」(早くめくれ)との指示があるのだが、めくった裏側は白紙なのだ。おそらく脳内では完成していたのだが、清書を途中でやめてしまったのだろう。全体の様式感と、1拍だけ残されたアウフタクトの音符を頼りに、後半8小節の補作を試みた。今回はABAの三部形式の補筆版で演奏する。
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  1. 2016/04/06(水) 03:41:42|
  2. 楽曲について
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舞曲の種類

前回の記事で述べた、シューベルトの手がけた舞曲のジャンルについて、少し解説しておきたい。


エコセーズ Ecossaise (Ecossaisen)
他の踊りとは異なり、2拍子の舞曲である。
エコセーズとはフランス語で「スコットランドの」という意味で、この舞曲がスコットランド起源であることを示している。本来3拍子系の舞曲であったが、1700年頃には既に2拍子化していたらしい。カントリーダンス(コントルダンス)の一種で、男女が常にパートナーを入れ替えながら踊る。その複雑なフォーメーションは、後のカドリーユの起源となった。シューベルティアーデでもエコセーズは人気で、よく踊られていたらしい。
音楽は急速な2拍子で、時にびっくりするようなスフォルツァンドや、強弱の対比を特徴とする。スコットランドではバグパイプで伴奏するのが習わしで、その名残で低音のドローン(保続低音)を持つこともある。ピアノのためのエコセーズとしては、シューベルトの他にベートーヴェン(6つのエコセーズWoO83)やショパン(3つのエコセーズ 作品72-3)が知られている。
シューベルトのエコセーズはいずれも2/4拍子、8小節+8小節の二部形式で書かれており、テンポが速いこともあって1曲1曲は非常に短い。しばしば連作としてまとめられている。

メヌエット Menuett (Menuette)
中庸な3拍子の舞曲。フランスの民俗舞曲を起源とするが、バロック期に宮廷舞踏に採り入れられ、後には古典派のソナタ楽章にも導入された、普遍性の高い舞曲である。
メヌエットのステップは2小節を基本単位としており、そのため奇数小節の第1拍にアクセントを置く(強弱弱、弱弱弱)。また同じくステップの関係上、8小節単位の楽節構造が要求され、8で割り切れない楽節構造のメヌエットは踊ることができない。つまりそれは舞踏を目的としていないメヌエットである。
中間部(トリオ)を伴う三部形式が基本で、「メヌエットとトリオ」という楽式は古典派ソナタにも受け継がれた。
シューベルトの時代、既にメヌエットは時代遅れの舞曲だったようだ。事実、1816年(18歳)を最後に、シューベルトは舞曲としてのメヌエットを作曲していない。シューベルトのメヌエットで特徴的なのは、2つのトリオを伴っていることで、ABACAという形式で演奏される。このようなメヌエットは他の大作曲家には類例がない。

ドイツ舞曲 Deutscher Tanz (Deutsche Tänze) ・ レントラー Ländler ・ ワルツ Walzer
いずれも3拍子のこれらの舞曲の違いについて、これまでさまざまな説明がなされてきた。しかし正直なところ、あまりぴんと来ないと思っていた。

言葉の登場する順序としては、歴史的に一番古いのが「ドイツ舞曲」である。ドイツ語でそのままDeutscher Tanz(ドイツの踊り)だが、実際にはTanzを省略してDeutscher(複数形はDeutsche)と呼ばれることも多い。これは英語のGermanに相当する、「ドイツの」を意味する形容詞である。「エコセーズ」と同様、舞曲の名称に地域名を用いることは多々あった。
Deutscherをそのままフランス語に直せば、allemande「アルマンド」である。つまり古い時代の文献に登場する「ドイツ舞曲」とは、宮廷舞曲のアルマンドのことを指している。アルマンドはご存じの通り、短いアウフタクトを伴う4拍子の中庸な踊りである。宮廷に入った時点で、既にかなり古い時代の舞曲と見なされていたらしく、その起源をたどることはほとんど不可能である。

これと全く異なる舞曲が、18世紀の後半に同じ「ドイツ舞曲」の名で登場する。シューベルト以前で最も有名なのは、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の第1幕のあるシーンである。
まず第15場のドン・ジョヴァンニの有名なアリア(「シャンパンの歌」)の中で、大宴会を企画しているこの好色家が、従者レポレッロにこんなことを言う。「広場に行って、かわいい娘たちを連れてくるんだ。踊りなら何でも構わない、メヌエットでも、ラ・フォリアでも、アルマンド(l'alemanna)でも、踊らせてやれ。私はその間に、あっちこっちで恋のお楽しみだ」。
そしてその後の宴会で、オーケストラが3群に分かれ、拍子の違う3つの舞曲を同時に演奏するという、前衛的な場面がある(第22場)。まずドン・オッターヴィオとドンナ・アンナがメヌエットを踊り、ドン・ジョヴァンニとツェルリーナのコントルダンスが加わり、更にレポレッロとマゼットが踊るダンスはla Teitsch

teitsch 1
レポレッロのパートのト書きに、「マゼットと無理矢理Teitschを踊る」とある

訛っているが、これこそDeutschすなわち「ドイツ舞曲」のことであり、「シャンパンの歌」で言及されたアルマンドl'alemannaもおそらく同じものを指すのだろう。3/8拍子の速い踊りだ。

teitsch 2
上2段が、レポレッロとマゼットが踊るTeitsch。3・4段目はドン・ジョヴァンニとツェルリーナが踊るコントルダンス。下4段はメヌエット。

注目すべきは、メヌエットを踊るのがドン・オッターヴィオとドンナ・アンナという貴族のカップルであるのに対し、ドイツ舞曲を踊るのは従者レポレッロとマゼットという平民の(しかも男同士の)ペアだということだ。ドイツ舞曲は、宮廷の上品なメヌエットと対極にある、庶民的で粗野な踊りという性格が与えられていたのである。このドイツ舞曲が、同じ名前の宮廷舞曲のアルマンドの流れを引いていないことは明らかだろう。

一方で「レントラー」は、「土地・田舎」を意味するLandに由来する言葉で、いわば「地方の踊り、田舎の踊り」といった意味を持つ。南ドイツやオーストリアの各地方で踊られていた民衆の踊りを総称して、18世紀の初頭からこの呼び名で記録されるようになった。レントラーも、ドイツ舞曲と同様に男女のペアがくるくると円を描くように踊る。

ワルツ」の起源にはさまざまな説があり、13世紀頃からアルプス地方で踊られていた「ヴェラー」というダンスに由来するとか、16世紀のイタリアの踊り「ヴォルタ」が起源であるとか、いろいろと言われている。ただ、それらが直接的にワルツの起源になったかどうかは疑わしい。
直接的な起源としてよく言及されるのは、18世紀中頃、ドナウ川の上流から舟に乗ってウィーンへやってきた「リンツのヴァイオリン弾きLinzer Geiger」と呼ばれる楽士たちの集団である。ドナウ河畔の飲食店に居着いた彼らが、レントラーなどの舞曲をウィーンに広めていった。こうして都会に出た踊りを、人々はwalzen(転げ回る)と呼ぶようになり、その音楽は「ヴァルツァー Walzer」(ドイツ語でワルツのこと)と呼ばれるようになったのである。この説に基づけば、「ワルツ」は「ドイツ舞曲」や「レントラー」の発展形であり、最も新しく誕生した概念ということになる。

さてここからは私の個人的な見解である。

1.「ドイツ舞曲」と「レントラー」は、起源をたどれば同じ舞曲だった。
おそらく、オーストリアの田舎で、3拍子の民俗舞曲が踊られていたのだろう。同じドイツ語文化圏の人々は、それを「レントラー」(田舎の踊り)と呼び、他の文化圏に出ていけば、既に国際的になっていた老齢のアルマンドの名前を借りて「ドイツ舞曲」と称するようになったのだろう。だから「ドイツ舞曲」と「レントラー」には、そもそも本質的に違いはない。

2.シューベルトの時代には、「ドイツ舞曲」「レントラー」「ワルツ」には全く差がなかった。
シューベルト自身や仲間たちがさまざまな呼び名を混同していることからもわかる通り、これらの名称は交換可能なものだったのだろう。ただし、上に記した通り、「ワルツ」は当時ウィーンで生まれたばかりの言葉だったから、「ドイツ舞曲」や「レントラー」よりもナウい語感だったことは間違いない。だから出版社たちは、好んで「ワルツ」のタイトルを使いたがったのである。その方が実際に楽譜も売れたのだろう。

3.それぞれの舞曲の差が出てくるのは、シューベルトより後の時代のことである。
とりわけ「ワルツ」は、その後「メヌエット」を遙かにしのぐ、国際的な普遍性を獲得した。フランスやロシアでも独自のワルツが生まれたが、本場ウィーンでの発展は特別だった。ヴェーバーの「舞踏への勧誘」を嚆矢として、短いワルツを数珠繋ぎにするグランド・ワルツの形式が流行し、ヨーゼフ・ランナーやヨハン・シュトラウス1世が「ウィンナ・ワルツ」の様式を確立、シュトラウス・ファミリーによって伝統芸能化する。
快活なテンポと華やかな旋律。1拍目のバスに重さがあり、2拍目・3拍目が刻みを担当する、いわゆる「ぶんちゃっちゃっ」という伴奏型、そして2拍目がやや前につんのめるという「ウィーン訛り」。そうした様式が世界中に知られるようになってから、シューベルトはその元祖として再注目されるようになったのである(でも実際は、当のシューベルトが書こうとしたのは、ドイツ舞曲かレントラーだったかもしれないのだ)。
そして、「ワルツ」が進化していく過程でふるい落とされた要素が、「レントラー」の言葉の中に残された。中庸なテンポ、素朴なメロディー、単純な和声進行、そして「ぶんちゃっちゃっ」ではない3拍子の伴奏型。それらが、鄙びた田園の情景とともに「レントラー」としてまとめられた。そして、もともとあった古い名称を借りた「ドイツ舞曲」は廃れていった。

以上、学術的な信憑性は乏しいが、私の考えるドイツ舞曲=レントラー=ワルツ論である。つまり、
「シューベルトのドイツ舞曲とレントラーとワルツは、違いがない」
ということを主張したかったわけだ。

しかし、個々の舞曲を見ていくと、タイトルとは関係なく、いくつかのタイプに分類できることがわかる。そのことについて、次の記事で述べてみたい。
  1. 2016/04/01(金) 22:33:01|
  2. 楽曲について
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シューベルトの舞曲について 概略

シューベルトは、こと舞曲の分野では大変に成功した作曲家だったと言ってよいだろう。
シューベルトは、モーツァルトやメンデルスゾーンのような神童ではなかった。試行錯誤しながら自らの道を切り拓いていった、努力の人である。しかし舞曲においては、誰に習うことなく、若い頃からごく自然に完璧なスタイルを会得していた。ウィーン生まれウィーン育ち、生粋のウィーンっ子ならではのセンスなのだろうか。

ウィーンの舞踏会シーズンは冬である。他にレジャーのないこの時期、人々は踊りに熱中した。メッテルニヒ体制のもと、舞踏会の開催時期はカトリックの祝日をもとに厳しく規制されていた。舞踏会を開いてよいのは、1月6日の「東方三博士の祝日」から、復活祭に伴って2月3日~3月9日の間で移動する祝日「告解の火曜日」(パンケーキデー)の間のみ。すなわち1年のうち1ヶ月か2ヶ月の間だけ、人々は心おきなく踊ることができた。この法を犯すと重い罰金が課せられたり、逮捕されることすらあった。
しかし、許可されていない期間にも、個人邸などでの非公式のダンスパーティーはこっそりと開かれていた。シューベルティアーデの仲間たちも、時期を選ばず、集まれば結局舞踏会になった。ウィーンの冬は長く寒い。舞踏は、楽しみながら暖を取れる格好のレクリエーションだったのである。シューベルトたちも、1822年の舞踏会の最中、警察に踏み込まれて危うく逮捕されるところだったらしい。
そのような楽しく密やかな集まりで、シューベルトはピアノの前に座り、ひたすら即興で舞曲を弾き続けた。シュパウンをはじめとする友人たちが口を揃えて証言するには、シューベルトは決して自分では踊らず、ただ踊りの伴奏をするだけだった。そして、即興の舞曲の中で特に気に入ったもの、友人たちの評判の良かった曲を、五線に書きつけたのだという。そのようにして、あの膨大な数の舞曲が生まれていったのである。

シューベルト自身か友人が出版社に売り込んだのか、あるいは評判を聞きつけた出版社から話が持ち込まれたのか、その経緯は明らかではないが、あるときから舞曲が出版のルートに乗るようになる。1821年、「36のオリジナル舞曲」(D365)が作品9として出版された。自費出版ではなく、出版社から委嘱を受けて作品が刊行されるのはこれが初めてだった。
以降、出版社たちはこぞってシューベルトに舞曲を委嘱するようになる。作曲家シューベルトにとって、「舞曲」はほとんど唯一の、安定した収入源であった。現代ではシューベルトの代名詞ともいえる歌曲さえ、当時は自費出版を余儀なくされ、そうでなくともシューベルトにはわずかな収入しかもたらさなかった。そこには圧倒的な需要の差があったのだろう。
毎年舞踏会のシーズンが近づくと、出版社たちは次々と「今年のトレンドの」舞曲集を刊行した。さまざまな作曲家に委嘱したオムニバスの舞曲集も人気で、シューベルトの後年の単発の舞曲はこうした楽譜の収録曲として残されたものも多い。
シューベルトは生前から絶大な人気を誇った「舞曲王」だったのである。

新全集の解説によれば、自筆譜の残っている舞曲をジャンルごとに大別すると、次のような割合になるという。
「ドイツ舞曲」が40%。
「レントラー」25%。
「エコセーズ」20%。
「メヌエット」15%。

あれっ、と思われる方もいるかもしれない。「ワルツ」が入っていない。実はシューベルト自身が自筆譜に「ワルツ」と書きつけた曲は、1曲しか確認されていない(D365-3)。そして、生前に出版された舞曲は、製版に使われた原稿が残っていないのである。
印刷してしまえば、手稿は破棄するのが当時は普通だったのだが、そのせいでシューベルト自身がどのような題を与えていたのかを知ることはできない。ただ、いくつかの舞曲については製版用とは異なる自筆譜が残っており、それに周りの友人たちの証言も総合すると、「ワルツ」として出版された舞曲の大多数は、どうやら本来は「ドイツ舞曲」だったようだ。「感傷的なワルツ」「高雅なワルツ」といった命名や、さらに選曲に至るまで、どうやら出版社が恣意的に行ったのではないかと思われるふしは多々ある。

シューベルトは舞曲を書くとき、構想を練ることも、推敲することもなかった。後世に残す芸術作品ではなく、あくまでその場で消費する実用音楽である。題名にもこだわらなかったし、実際のところ、楽譜通りの曲順で一音も変えずに演奏されるような性質のものではなかったのだろう。演奏する側が好きな曲を選んで、適当に音を抜いたり加えたり、場合によっては小さいアンサンブルを組んだりして、楽しい舞踏会の伴奏に供したのである。
  1. 2016/03/22(火) 22:51:32|
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メヌエット イ長調 D334 概説

メヌエット イ長調 Menuett A-dur D334
作曲:1815年夏? 出版:1897年
楽譜・・・IMSLP

自筆譜に残された楽器指定の「Fortepiano」という表記から、この作品はおそらく1815年夏頃に作曲されたと推測されている。シューベルトの普段の表記は「Pianoforte」であり、「Fortepiano」を用いたのはこの時期のみだからである。

このメヌエットは既に述べたD91D335とは異なり、トリオを1つしか持たない。舞踏の性格は弱く、おそらくソナタの中間楽章として書かれたメヌエットであろう。主部のメロディーはリート風で、「美しき水車屋の娘」の「水車屋の花」にも似た情緒と優しさが感じられる。トリオ部分は繰り返しを持たず、左手の4分音符の和音の刻みの上にシチリアーノ調の旋律が歌われていく。繊細な和声の変化が美しい。

研究者のエルンスト・ヒルマーはD178のアダージョ ト長調(第1稿第2稿)との関連性を指摘しており、この2作品は同一のソナタに含まれる楽章ではないかと推定している。もしそうだとすると、D178が第2楽章(緩徐楽章)、D334が第3楽章(舞曲楽章)の、4楽章構成のソナタということになる(両端楽章はニ長調?)。ただし根拠は薄く憶測の域を出ない。
  1. 2015/10/26(月) 19:08:54|
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メヌエット ホ長調 D335 概説

メヌエット ホ長調 Menuett mit zwei Trios D335
作曲:1813年? 出版:1897年
楽譜・・・IMSLP

D335のメヌエットは、D91の2つのメヌエットと同じように2つのトリオを持つメヌエットであり、自筆譜の状況も鑑みてD91と同じ1813年頃の作品と考えられている。
ただし、小節構造が自由であるため、こちらは実用ではなく芸術作品として構想されたふしがある。たとえば主部後半の途中、半終止に付されたフェルマータは、踊りには不向きであるが、音楽的には極めて魅力的な表情を生んでいる。一方で、シンプルな和声は前作同様に古典派様式を感じさせるもので、終止の手前にあるヘミオラ(3拍子の2小節を2拍子×3に錯覚させるリズム書法)の使用もバロック以来の伝統を踏襲している。
2つのトリオはよく似たアイディアから出発しているが、いずれも後半の展開が秀逸で、第1トリオではやはり半終止のあとに置かれたゲネラルパウゼ(総休止)が聴き手をはっとさせる。第2トリオでは始まりのアウフタクトの付点リズムを効果的に繰り返して統一感を出している。
  1. 2015/10/26(月) 00:52:07|
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