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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

メヌエット 嬰ハ短調 D600 概説

メヌエット 嬰ハ短調 Menuetto cis-moll D600
作曲:1814年? 出版:1897年(旧全集)
楽譜・・・IMSLP

ヘ長調のミサ曲D105の「ベネディクトゥス」の合唱パートだけの自筆譜の裏に書きつけられていたメヌエット(自筆譜:schubert-online)。「ベネディクトゥス」の方には1814年5月29日という日付が書き込まれており、メヌエットの大譜表の冒頭にある「Clav.」(Clavier=鍵盤楽器の略)という楽器指定も、シューベルトが1813年からせいぜい1814年前半までしか使用しなかった表記法なので(それ以降はForte-PianoあるいはPianoforteと書くようになる)、この時期(17歳頃)の作品であるという見方が主流である。
低弦のピツィカートを思わせる荘重なオクターヴのスタッカートの上で、2声のメロディーが対位法的に絡み合っていく。|:A:|:BA':|の三部形式で、B部では下降音型が模倣されカノン風の展開となる。全体的に厳粛な雰囲気が漂い、ミサ曲の裏面ということも関係するのか、どうも宗教音楽の趣がある(主音で始まる2声が上と下に分かれていく様子はバッハの「マタイ受難曲」の冒頭を彷彿とさせる)。
いったいシューベルトは何のつもりでこんなシリアスな「メヌエット」を書いたのだろうか。踊りの伴奏とは考えにくい。
モーリス・ブラウンはこの作品の成立時期をもっとずっと遅く「1817年の暮れ」と推定している。1813-14年当時のシューベルトの他のメヌエット(D41D91D335など)とあまりにも作風が違うという理由だが、1817年仮説の背後にあるのは、関連作品とされるホ長調の「トリオ」D610の日付が1818年2月となっている事実である。



わずか16小節のこのトリオには「あるメヌエットの失われた息子と見做される」という風変わりな但し書きがある。文字通り受け取るならば、あるメヌエットのトリオとして作曲されたのだが、何らかの事情で取り除かれた、あるいは消失してしまったトリオ部分だけを後からもう一度記したもの、ということで、実際に作曲後しばらく経ってからフェルディナントのためにわざわざ書き直した自筆譜が残ったということらしい(つまり1818年2月に作曲されたわけでもないのだ)。本体たる「あるメヌエット」というのがどれを指すのかはもちろん、それが現存しているのかさえも不明なのだが、ブラウンはこれをD600と同定したのである。
確かに嬰ハ短調のD600とホ長調(平行調)のD610、調性関係はぴたりと合致する。ドイチュも同様の可能性を考えていたらしい。実際にこの2作品を「メヌエットとトリオ」として、ダ・カーポ形式(D600+D610+D600)で演奏している例も多い。

この問題に関して私自身の見解を述べれば、D610がD600のトリオだということはまずありえないと思う。D610は1拍ぶんの弱起(アウフタクト)で始まるのだが、D600の最終小節には3拍目まで音があり、単純にうまく合致しない。実際にD600とD610を組み合わせて演奏する際には、間に2拍程度の休みを入れて辻褄を合わせなければならない。オリジナルのトリオとして作られたのならば、こういうことは起きないだろう。
もう一つ理由を挙げるとすれば、曲想があまりにも違いすぎる。D610は親しげな表情の、カジュアルで可愛らしいトリオであり、いかめしいD600とちぐはぐな印象がある。
以上のことからD600とD610の関連性は低いと判断し、今回も組み合わせて演奏することはしない。

考えてみれば、シューベルトのメヌエットはほぼ必ず1拍のアウフタクトで始まるのが通例で、D600はそういう意味でも慣例から外れている。
メヌエットと題されてはいるが、舞踏目的ではなく、おそらくソナタや他の大規模楽曲の中間楽章として書かれたのではないだろうか。新全集もその立場を取っているのか、「舞曲」ではなく「小品」の巻に収録されている。
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  1. 2021/05/17(月) 22:16:48|
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30のメヌエット D41 概説

30のメヌエット Dreißig Menuette D41
作曲:1813年 出版:1889年(旧全集)
楽譜・・・IMSLP

はじめに自筆譜の問題に触れておこう。ウィーン市立図書館に所蔵されており、SCHUBERT onlineでも閲覧可能である。
全30曲のうち、第9・10曲、第19曲、第24~30曲が消失しており、現存するのは残る20曲である。つまり全体で合計3カ所の消失部分があるということになる。現存するすべての曲に通し番号が降られていることから消失曲が判明しているのだが、冒頭に「30曲」と明示されているわけではないので、最後の7曲は散逸したのか最初から書かれなかったのかは判然としない。
自筆譜は、時折書き間違いを修正している他は推敲の跡のない整然とした筆跡で、おそらく下書きを見ながら清書したものと思われる。

トリオを伴うメヌエットは、各曲とも五線紙の片面に収まるように書かれており、裏面にはみ出す曲は1つもない。第1曲と第16曲では収まらなかった部分を、余白部分に手書きで五線を補って書き終えている。
はじめの16曲、つまり最初の消失部分の第9・10曲をまたぐ第1~18曲については、奇数番号曲と偶数番号曲が1葉の五線紙の表裏に書かれていて、合計8枚の自筆譜にまとめられている。消失した第9・10曲も同様に1枚の紙の表裏に記されていたと想定して差し支えないだろう。

(1) 表 メヌエット D41-1 / 裏 メヌエット D41-2
(2) 表 メヌエット D41-3 / 裏 メヌエット D41-4
(3) 表 メヌエット D41-5 / 裏 メヌエット D41-6
(4) 表 メヌエット D41-7 / 裏 メヌエット D41-8

(おそらく1枚が消失)
(5) 表 メヌエット D41-11 / 裏 メヌエット D41-12
(6) 表 メヌエット D41-13 / 裏 メヌエット D41-14
(7) 表 メヌエット D41-15 / 裏 メヌエット D41-16
(8) 表 メヌエット D41-17 / 裏 メヌエット D41-18


ところがこのスタイルが変化するのは次の消失部分を越えた第20曲からの4曲である。それぞれ片面にメヌエットが書かれ、その裏面には違う作品のスケッチが書き付けられているのだ。全部で13枚からなる自筆資料のうち、上述した8枚のあと、9枚目からの内容はこうなっている。

(9) 表 メヌエット D41-20 / 裏 フーガD41Aの断片、続けて歌曲「子守歌」D498のピアノ独奏用編曲(ハ長調)
(10) 表 メヌエット D41-21 /  裏 ピアノ曲D459A-3(Allegro patetico)の最後の8小節、完結後同じ段からアダージョD349の第1-31小節
(11) 表 アダージョD349の第32-84小節 / 裏 歌曲「憧れ」D516のスケッチ(ピアノパートの前奏(決定稿には存在しない)の右手の他は歌唱パートのみ・未完)
(12) 表 メヌエット D41-22 / 裏 アンダンティーノD348の第42-71小節
(13) 表 メヌエット D41-23 / 裏 アンダンティーノD348の第1-41小節


11枚目の紙片は、鉛筆でそのようにナンバリングされているが(おそらくその主は例によってサインを残している以前の所有者ニコラウス・ドゥンバ)、後から挿入されたものと見られ、紙の縁の形状が若干異なる。これについてはD349の項で詳述したい。
2つ目の消失部分が第19曲1曲のみであることから、第19曲以降、シューベルトは書式を変更して、五線紙の表面だけにメヌエットを記し、その時点では裏面を空白のまま空けておいたようなのだ。そして後年、おそらく1816年頃に新しい作品のスケッチに「裏紙」を再利用したと考えられている。
裏面に書き付けられた作品のうち、作曲年代が判明しているのは子守歌D498のみであり、ヴィッテチェク=シュパウン・コレクションの記述により1816年11月とされている。ただしこのピアノ用編曲の筆跡は、いつものフランツ・シューベルトのものとは異なるように見受けられ、ドイチュによると兄フェルディナントのものだという。フェルディナントはおそらくこの主題でピアノの変奏曲を書こうとしたのだろうとドイチュは推測している。だが、最上段に1小節だけペン入れされているフーガD41Aは、その後も4段目まで薄く鉛筆で下書きされていて、子守歌の編曲はその上を塗りつぶすように書き始められているのだ。もしかしたらこのフーガの下書きを実施したのもフェルディナントだったのだろうか? いずれにしても、ここに登場するD348、D349、D459A-3、D516がすべて1816年の作品という推定はあまり説得力のあるものとはいえない。
メヌエットの中で他と明らかに状況が異なるのが第22曲である。1段目がまるごと削除されていて、2段目から新たに書き直され、その際に通し番号にも訂正の跡がある(訂正前は何番と書かれていたのかは丹念に塗りつぶされているため判読できない)。つまりこの自筆譜は清書稿ではなく、推敲を含む段階の稿のようなのだ。
そう考えると、現存する最後の4曲、第20~23曲は初期稿であり、後で清書譜を作ろうとしたか、あるいは作ったとも考えられ、さらにその後(不要になった)裏紙として再利用された、と見るのが妥当かもしれない。再利用の時点ではメヌエットはバラバラになっていて、適当な順番で使用されていったと思われる。アンダンティーノD348の続き、アダージョD349の続きを含め、消失してしまったメヌエットの裏に未知の作品が書き付けられていた可能性も高い。

このメヌエット集の来歴を明かしているのは、フェルディナントが作成したフランツの作品リストである。1813年の作品の中に「ピアノのための30のメヌエットとトリオ(消失)」とあり、長兄イグナーツのために作曲されたという。この記述を信じた上で、20曲のみが現存するD41をこれと同定したわけなのだが、若干怪しいところがある。この自筆譜の束はフェルディナントの所有物の中から発見されたのだが、にも関わらずなぜわざわざ「消失」と書いたのだろうか?
実は第4・6・12・13・22曲のトリオを、フェルディナントは(他の作品も含めて)「自作」のパストラール・ミサ(1833)に盗用し、1846年に初演・出版までしている。フェルディナントは既に弟の生前からその作品を盗用しては自作として発表し、時にそれを弟に直接詫びたりしているのだが、弟の死後はおおっぴらにこれを行うようになったようだ(同様に盗用されたD968についてはこちら)。とすると、フェルディナントはこのメヌエット集を消失したことにして、自分の作品に転用するためのマテリアルとして死蔵しようとした可能性すらある。「1813年」「30曲」という数字の信用性も揺らいでくるではないか。

全20曲はいずれも1つのトリオを持つメヌエットで、主部・トリオの前半部と後半部にそれぞれ繰り返しが設定されている(第11曲のトリオの後半のみ例外で、繰り返しがない)。D91(1813年11月22日)以降のシューベルトのメヌエットが、「2つのトリオ」を持つABACAという特異な構成を採っているのと比較すると、より一般的なスタイルといえる。
はじめの数曲、同じような付点のアウフタクトのモティーフが続くので、並べて聴くとやや面食らうのだが、次第に作風が変化していく。勇ましい軍隊風の曲想が次第に後景に退き、室内楽風のインティメイトな楽想や、モーツァルトを思わせる古典的なテクスチュアが増加してくる。またメヌエットというよりはポロネーズに近いようなリズムパターンも登場し、第16曲・第20曲(トリオ)・第23曲(トリオ)ではもはやエチュード的ともいえる16分音符のパッセージに埋め尽くされている。はじめは単純極まりなかった和声も、後半に近づくに従って複雑な色合いを帯びてくる。
このようなことから想像するに、この長大な曲集は1813年という一時期に一気に作曲されたのではなく、数年間にわたって書き続けてきたメヌエットを整理したものなのではないだろうか。その最初の数曲は少年期に遡るものかもしれない。第18曲までで過去の下書きが尽き、そこからは五線紙の片面に、新たに書き下ろしたのだろう。その成立時期は、シューベルトが「2つのトリオ」を持つメヌエットに取り組む直前、すなわち1813年と仮定しても大きく間違っていないと思う。
もうひとつ特徴的なのは、第1曲のトリオで既に4小節単位のフレーズを逸脱していることで、その後もたびたびこの基本を踏み外しているのだ。このことはこれらのメヌエットが、舞踏を目的として書かれたのではないことを物語っている。曲調から言っても通常のメヌエットのスタイルとは根本的に異なっている。「イグナーツのために書かれた」というフェルディナントの注記、そして特に最初の数曲に顕著な祝祭的な雰囲気を鑑みると、何らかの慶事(誕生日など?)に際して作曲されたのかもしれない。
  1. 2020/02/26(水) 22:00:56|
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3つのメヌエット D380 概説

3つのメヌエット Drei Menuette mit je zwei Trios D380
作曲:1816年2月22日 出版:1897年(第1,2曲)、1956年(第3曲主部)、1989年(第3曲トリオ断片)
楽譜・・・IMSLP(第1,2曲のみ)

シューベルトが書いた舞踏のためのメヌエットとしては最後の作品。宮廷舞曲に由来するメヌエットは、既にこのころ舞踏会のメニューとしては古くさいものになっていたようだ。
以前紹介した「2つのメヌエット」D91「メヌエット」D335と同様に、2つのトリオを持つABACAの構成をとる。ただし第3曲は、第1トリオの後半以降が欠落している。
優雅な宮廷舞踏というよりは、軍隊風・行進曲風の勇ましいリズムと重厚な響きがこの作品全体の特徴となっている。

第1曲(ホ長調)はハイドン風の古典的な趣。流れるような第1トリオとファンファーレ風のオクターヴユニゾンが印象的な第2トリオ、どちらも楽節構造が基本単位の8小節を逸脱しており、この作品が必ずしも舞踏を目的として書かれたわけではないことを示唆している。

第2曲(イ長調)は威勢良く開始。第2トリオの左手で連打される和音のリズムは、メヌエットというよりポロネーズ風であり、強烈な個性を放つ。

第3曲(ハ長調)もファンファーレを思わせる分厚い和音で始まる。第1トリオは前半8小節と、後半冒頭のアウフタクト1拍まで残されている。自筆譜にはここで「V.S.」(早くめくれ)との指示があるのだが、めくった裏側は白紙なのだ。おそらく脳内では完成していたのだが、清書を途中でやめてしまったのだろう。全体の様式感と、1拍だけ残されたアウフタクトの音符を頼りに、後半8小節の補作を試みた。今回はABAの三部形式の補筆版で演奏する。
  1. 2016/04/06(水) 03:41:42|
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舞曲の種類

前回の記事で述べた、シューベルトの手がけた舞曲のジャンルについて、少し解説しておきたい。


エコセーズ Ecossaise (Ecossaisen)
他の踊りとは異なり、2拍子の舞曲である。
エコセーズとはフランス語で「スコットランドの」という意味で、この舞曲がスコットランド起源であることを示している。本来3拍子系の舞曲であったが、1700年頃には既に2拍子化していたらしい。カントリーダンス(コントルダンス)の一種で、男女が常にパートナーを入れ替えながら踊る。その複雑なフォーメーションは、後のカドリーユの起源となった。シューベルティアーデでもエコセーズは人気で、よく踊られていたらしい。
音楽は急速な2拍子で、時にびっくりするようなスフォルツァンドや、強弱の対比を特徴とする。スコットランドではバグパイプで伴奏するのが習わしで、その名残で低音のドローン(保続低音)を持つこともある。ピアノのためのエコセーズとしては、シューベルトの他にベートーヴェン(6つのエコセーズWoO83)やショパン(3つのエコセーズ 作品72-3)が知られている。
シューベルトのエコセーズはいずれも2/4拍子、8小節+8小節の二部形式で書かれており、テンポが速いこともあって1曲1曲は非常に短い。しばしば連作としてまとめられている。

メヌエット Menuett (Menuette)
中庸な3拍子の舞曲。フランスの民俗舞曲を起源とするが、バロック期に宮廷舞踏に採り入れられ、後には古典派のソナタ楽章にも導入された、普遍性の高い舞曲である。
メヌエットのステップは2小節を基本単位としており、そのため奇数小節の第1拍にアクセントを置く(強弱弱、弱弱弱)。また同じくステップの関係上、8小節単位の楽節構造が要求され、8で割り切れない楽節構造のメヌエットは踊ることができない。つまりそれは舞踏を目的としていないメヌエットである。
中間部(トリオ)を伴う三部形式が基本で、「メヌエットとトリオ」という楽式は古典派ソナタにも受け継がれた。
シューベルトの時代、既にメヌエットは時代遅れの舞曲だったようだ。事実、1816年(18歳)を最後に、シューベルトは舞曲としてのメヌエットを作曲していない。シューベルトのメヌエットで特徴的なのは、2つのトリオを伴っていることで、ABACAという形式で演奏される。このようなメヌエットは他の大作曲家には類例がない。

ドイツ舞曲 Deutscher Tanz (Deutsche Tänze) ・ レントラー Ländler ・ ワルツ Walzer
いずれも3拍子のこれらの舞曲の違いについて、これまでさまざまな説明がなされてきた。しかし正直なところ、あまりぴんと来ないと思っていた。

言葉の登場する順序としては、歴史的に一番古いのが「ドイツ舞曲」である。ドイツ語でそのままDeutscher Tanz(ドイツの踊り)だが、実際にはTanzを省略してDeutscher(複数形はDeutsche)と呼ばれることも多い。これは英語のGermanに相当する、「ドイツの」を意味する形容詞である。「エコセーズ」と同様、舞曲の名称に地域名を用いることは多々あった。
Deutscherをそのままフランス語に直せば、allemande「アルマンド」である。つまり古い時代の文献に登場する「ドイツ舞曲」とは、宮廷舞曲のアルマンドのことを指している。アルマンドはご存じの通り、短いアウフタクトを伴う4拍子の中庸な踊りである。宮廷に入った時点で、既にかなり古い時代の舞曲と見なされていたらしく、その起源をたどることはほとんど不可能である。

これと全く異なる舞曲が、18世紀の後半に同じ「ドイツ舞曲」の名で登場する。シューベルト以前で最も有名なのは、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の第1幕のあるシーンである。
まず第15場のドン・ジョヴァンニの有名なアリア(「シャンパンの歌」)の中で、大宴会を企画しているこの好色家が、従者レポレッロにこんなことを言う。「広場に行って、かわいい娘たちを連れてくるんだ。踊りなら何でも構わない、メヌエットでも、ラ・フォリアでも、アルマンド(l'alemanna)でも、踊らせてやれ。私はその間に、あっちこっちで恋のお楽しみだ」。
そしてその後の宴会で、オーケストラが3群に分かれ、拍子の違う3つの舞曲を同時に演奏するという、前衛的な場面がある(第22場)。まずドン・オッターヴィオとドンナ・アンナがメヌエットを踊り、ドン・ジョヴァンニとツェルリーナのコントルダンスが加わり、更にレポレッロとマゼットが踊るダンスはla Teitsch

teitsch 1
レポレッロのパートのト書きに、「マゼットと無理矢理Teitschを踊る」とある

訛っているが、これこそDeutschすなわち「ドイツ舞曲」のことであり、「シャンパンの歌」で言及されたアルマンドl'alemannaもおそらく同じものを指すのだろう。3/8拍子の速い踊りだ。

teitsch 2
上2段が、レポレッロとマゼットが踊るTeitsch。3・4段目はドン・ジョヴァンニとツェルリーナが踊るコントルダンス。下4段はメヌエット。

注目すべきは、メヌエットを踊るのがドン・オッターヴィオとドンナ・アンナという貴族のカップルであるのに対し、ドイツ舞曲を踊るのは従者レポレッロとマゼットという平民の(しかも男同士の)ペアだということだ。ドイツ舞曲は、宮廷の上品なメヌエットと対極にある、庶民的で粗野な踊りという性格が与えられていたのである。このドイツ舞曲が、同じ名前の宮廷舞曲のアルマンドの流れを引いていないことは明らかだろう。

一方で「レントラー」は、「土地・田舎」を意味するLandに由来する言葉で、いわば「地方の踊り、田舎の踊り」といった意味を持つ。南ドイツやオーストリアの各地方で踊られていた民衆の踊りを総称して、18世紀の初頭からこの呼び名で記録されるようになった。レントラーも、ドイツ舞曲と同様に男女のペアがくるくると円を描くように踊る。

ワルツ」の起源にはさまざまな説があり、13世紀頃からアルプス地方で踊られていた「ヴェラー」というダンスに由来するとか、16世紀のイタリアの踊り「ヴォルタ」が起源であるとか、いろいろと言われている。ただ、それらが直接的にワルツの起源になったかどうかは疑わしい。
直接的な起源としてよく言及されるのは、18世紀中頃、ドナウ川の上流から舟に乗ってウィーンへやってきた「リンツのヴァイオリン弾きLinzer Geiger」と呼ばれる楽士たちの集団である。ドナウ河畔の飲食店に居着いた彼らが、レントラーなどの舞曲をウィーンに広めていった。こうして都会に出た踊りを、人々はwalzen(転げ回る)と呼ぶようになり、その音楽は「ヴァルツァー Walzer」(ドイツ語でワルツのこと)と呼ばれるようになったのである。この説に基づけば、「ワルツ」は「ドイツ舞曲」や「レントラー」の発展形であり、最も新しく誕生した概念ということになる。

さてここからは私の個人的な見解である。

1.「ドイツ舞曲」と「レントラー」は、起源をたどれば同じ舞曲だった。
おそらく、オーストリアの田舎で、3拍子の民俗舞曲が踊られていたのだろう。同じドイツ語文化圏の人々は、それを「レントラー」(田舎の踊り)と呼び、他の文化圏に出ていけば、既に国際的になっていた老齢のアルマンドの名前を借りて「ドイツ舞曲」と称するようになったのだろう。だから「ドイツ舞曲」と「レントラー」には、そもそも本質的に違いはない。

2.シューベルトの時代には、「ドイツ舞曲」「レントラー」「ワルツ」には全く差がなかった。
シューベルト自身や仲間たちがさまざまな呼び名を混同していることからもわかる通り、これらの名称は交換可能なものだったのだろう。ただし、上に記した通り、「ワルツ」は当時ウィーンで生まれたばかりの言葉だったから、「ドイツ舞曲」や「レントラー」よりもナウい語感だったことは間違いない。だから出版社たちは、好んで「ワルツ」のタイトルを使いたがったのである。その方が実際に楽譜も売れたのだろう。

3.それぞれの舞曲の差が出てくるのは、シューベルトより後の時代のことである。
とりわけ「ワルツ」は、その後「メヌエット」を遙かにしのぐ、国際的な普遍性を獲得した。フランスやロシアでも独自のワルツが生まれたが、本場ウィーンでの発展は特別だった。ヴェーバーの「舞踏への勧誘」を嚆矢として、短いワルツを数珠繋ぎにするグランド・ワルツの形式が流行し、ヨーゼフ・ランナーやヨハン・シュトラウス1世が「ウィンナ・ワルツ」の様式を確立、シュトラウス・ファミリーによって伝統芸能化する。
快活なテンポと華やかな旋律。1拍目のバスに重さがあり、2拍目・3拍目が刻みを担当する、いわゆる「ぶんちゃっちゃっ」という伴奏型、そして2拍目がやや前につんのめるという「ウィーン訛り」。そうした様式が世界中に知られるようになってから、シューベルトはその元祖として再注目されるようになったのである(でも実際は、当のシューベルトが書こうとしたのは、ドイツ舞曲かレントラーだったかもしれないのだ)。
そして、「ワルツ」が進化していく過程でふるい落とされた要素が、「レントラー」の言葉の中に残された。中庸なテンポ、素朴なメロディー、単純な和声進行、そして「ぶんちゃっちゃっ」ではない3拍子の伴奏型。それらが、鄙びた田園の情景とともに「レントラー」としてまとめられた。そして、もともとあった古い名称を借りた「ドイツ舞曲」は廃れていった。

以上、学術的な信憑性は乏しいが、私の考えるドイツ舞曲=レントラー=ワルツ論である。つまり、
「シューベルトのドイツ舞曲とレントラーとワルツは、違いがない」
ということを主張したかったわけだ。

しかし、個々の舞曲を見ていくと、タイトルとは関係なく、いくつかのタイプに分類できることがわかる。そのことについて、次の記事で述べてみたい。
  1. 2016/04/01(金) 22:33:01|
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シューベルトの舞曲について 概略

シューベルトは、こと舞曲の分野では大変に成功した作曲家だったと言ってよいだろう。
シューベルトは、モーツァルトやメンデルスゾーンのような神童ではなかった。試行錯誤しながら自らの道を切り拓いていった、努力の人である。しかし舞曲においては、誰に習うことなく、若い頃からごく自然に完璧なスタイルを会得していた。ウィーン生まれウィーン育ち、生粋のウィーンっ子ならではのセンスなのだろうか。

ウィーンの舞踏会シーズンは冬である。他にレジャーのないこの時期、人々は踊りに熱中した。メッテルニヒ体制のもと、舞踏会の開催時期はカトリックの祝日をもとに厳しく規制されていた。舞踏会を開いてよいのは、1月6日の「東方三博士の祝日」から、復活祭に伴って2月3日~3月9日の間で移動する祝日「告解の火曜日」(パンケーキデー)の間のみ。すなわち1年のうち1ヶ月か2ヶ月の間だけ、人々は心おきなく踊ることができた。この法を犯すと重い罰金が課せられたり、逮捕されることすらあった。
しかし、許可されていない期間にも、個人邸などでの非公式のダンスパーティーはこっそりと開かれていた。シューベルティアーデの仲間たちも、時期を選ばず、集まれば結局舞踏会になった。ウィーンの冬は長く寒い。舞踏は、楽しみながら暖を取れる格好のレクリエーションだったのである。シューベルトたちも、1822年の舞踏会の最中、警察に踏み込まれて危うく逮捕されるところだったらしい。
そのような楽しく密やかな集まりで、シューベルトはピアノの前に座り、ひたすら即興で舞曲を弾き続けた。シュパウンをはじめとする友人たちが口を揃えて証言するには、シューベルトは決して自分では踊らず、ただ踊りの伴奏をするだけだった。そして、即興の舞曲の中で特に気に入ったもの、友人たちの評判の良かった曲を、五線に書きつけたのだという。そのようにして、あの膨大な数の舞曲が生まれていったのである。

シューベルト自身か友人が出版社に売り込んだのか、あるいは評判を聞きつけた出版社から話が持ち込まれたのか、その経緯は明らかではないが、あるときから舞曲が出版のルートに乗るようになる。1821年、「36のオリジナル舞曲」(D365)が作品9として出版された。自費出版ではなく、出版社から委嘱を受けて作品が刊行されるのはこれが初めてだった。
以降、出版社たちはこぞってシューベルトに舞曲を委嘱するようになる。作曲家シューベルトにとって、「舞曲」はほとんど唯一の、安定した収入源であった。現代ではシューベルトの代名詞ともいえる歌曲さえ、当時は自費出版を余儀なくされ、そうでなくともシューベルトにはわずかな収入しかもたらさなかった。そこには圧倒的な需要の差があったのだろう。
毎年舞踏会のシーズンが近づくと、出版社たちは次々と「今年のトレンドの」舞曲集を刊行した。さまざまな作曲家に委嘱したオムニバスの舞曲集も人気で、シューベルトの後年の単発の舞曲はこうした楽譜の収録曲として残されたものも多い。
シューベルトは生前から絶大な人気を誇った「舞曲王」だったのである。

新全集の解説によれば、自筆譜の残っている舞曲をジャンルごとに大別すると、次のような割合になるという。
「ドイツ舞曲」が40%。
「レントラー」25%。
「エコセーズ」20%。
「メヌエット」15%。

あれっ、と思われる方もいるかもしれない。「ワルツ」が入っていない。実はシューベルト自身が自筆譜に「ワルツ」と書きつけた曲は、1曲しか確認されていない(D365-3)。そして、生前に出版された舞曲は、製版に使われた原稿が残っていないのである。
印刷してしまえば、手稿は破棄するのが当時は普通だったのだが、そのせいでシューベルト自身がどのような題を与えていたのかを知ることはできない。ただ、いくつかの舞曲については製版用とは異なる自筆譜が残っており、それに周りの友人たちの証言も総合すると、「ワルツ」として出版された舞曲の大多数は、どうやら本来は「ドイツ舞曲」だったようだ。「感傷的なワルツ」「高雅なワルツ」といった命名や、さらに選曲に至るまで、どうやら出版社が恣意的に行ったのではないかと思われるふしは多々ある。

シューベルトは舞曲を書くとき、構想を練ることも、推敲することもなかった。後世に残す芸術作品ではなく、あくまでその場で消費する実用音楽である。題名にもこだわらなかったし、実際のところ、楽譜通りの曲順で一音も変えずに演奏されるような性質のものではなかったのだろう。演奏する側が好きな曲を選んで、適当に音を抜いたり加えたり、場合によっては小さいアンサンブルを組んだりして、楽しい舞踏会の伴奏に供したのである。
  1. 2016/03/22(火) 22:51:32|
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