アントン・ディアベリのワルツによる変奏 ハ短調(『祖国芸術家協会』第2巻 第38変奏) Variation über einen Walzer von Anton Diabelli c-moll D718 (Var.38 aus "Vaterländischer Künstlerverein") 作曲:1821年3月 出版:1824年
ザルツブルク近郊の小村マットゼーで生まれた
アントン・ディアベリ (1781-1858)はハイドン兄弟に作曲を学び、1817年にウィーンで楽譜出版社を興して成功を収めた。起業の翌々年、一大プロジェクトとして立ち上げたのが、自らの主題による変奏を複数の作曲家に委嘱してオムニバス変奏曲集を作るという構想だった。当時オーストリアで活躍していた有名無名の作曲家たちに声をかけ、結果的に51人がその依頼に応じた。初めは1人1曲のはずだったが、唯一ベートーヴェンだけがその趣旨を理解したのかしていなかったのか、ひとりで33もの変奏を書き上げて、他とは別に出版するよう要求してきた。ディアベリは巨匠の無茶を受け入れ、普及の名作
「ディアベリ変奏曲」作品120 が
『祖国芸術家協会』 の第1巻として1823年に出版された。
他の50人の作曲家による50の変奏とコーダは第2巻としてまとめられ、翌1824年に刊行された。50曲は作曲者名のアルファベット順に並べられている。
・
カール・チェルニー (第4変奏・コーダ)
・
ヨハン・ネポムク・フンメル (第16変奏)
・
フリードリヒ・カルクブレンナー (第18変奏)
・
イグナーツ・モシェレス (第26変奏)
といったビッグネームから、変わったところでは
・
フランツ・リスト (第24変奏)※出版時12歳
・フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(第28変奏)※W.A.モーツァルトの末子
・
ルドルフ大公 (第40変奏)
シューベルトの周囲の作曲家では
・
イグナーツ・アスマイヤー (第1変奏)
・カール・マリア・フォン・ボクレット(第2変奏)※ピアニスト。「さすらい人幻想曲」の初演も務めた
・
アンゼルム・ヒュッテンブレンナー (第17変奏)
・ジモン・ゼヒター(第39変奏)※対位法の大家。シューベルトは晩年に指導を仰ぐ
・
ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェク (第43変奏)
・
ヤン・ヴァーツラフ・ヴォジーシェク (第50変奏)
といった面々が並んでいるが、今では忘れ去られた作曲家も少なくない。
第38変奏 として収められたのが、我らがフランツ・シューベルトの作品である。
シューベルトの変奏には1821年3月の日付があり、チェルニーやベートーヴェンが作曲に着手した1819年より2年ほどあとのことになる。
シューベルトとディアベリが本格的に接触したのはおそらく1821年に入ってからで、この年の4月に『魔王』が記念すべき「Op.1」としてディアベリから出版されている。それに先立って、ディアベリがこの企画にシューベルトを巻き込んだということなのだろう。さらに年少のリストに関しては、1822年のウィーン進出以前に委嘱が行われたとは考えにくく、そうなるとこのプロジェクトは数年をかけて依頼が繰り返され、次第に拡大していったものと考えられる。
ディアベリによる
ハ長調の主題 は、ワルツというにはいささか風変わりではあるが、快活で新奇なアイディアに満ちた主題であり、ベートーヴェンが「靴の継ぎ革Schusterfleck」などと酷評したほどひどいものではないと筆者は思う。
シューベルトの変奏は
ハ短調 で、主題よりもワルツらしい仕上がりなのはさすが舞曲王である。しっとりした情感の中に和声進行の粋が尽くされており、前半の終わり、主題では属調のト長調へ向かうところを、VI度調の変イ長調に終止させるあたりは実に見事だ。一方で後半は技巧に走りすぎているきらいがあり、頻繁な転調に耳が追いつかない感じもする。
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2022/10/01(土) 00:06:32 |
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アンゼルム・ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲 イ短調 13 Variationen über ein Thema von Anselm Hüttenbrenner a-moll D576 作曲:1817年8月 出版:1867年
独立した変奏曲以外にも、多楽章器楽曲の中間楽章にしばしば変奏曲形式を用いるシューベルトだが、その主題の多くは自作の歌曲である。他人の主題を借用することは非常に珍しく、連弾のための
・
フランスの歌による8つの変奏曲 D624 (オルタンス妃の主題)
・エロルドのオペラ『マリー』の主題による8つの変奏曲 D908
と、独奏のための
・
ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲 D576 (・ディアベリのワルツによる変奏 D718(オムニバスに寄稿した単独変奏))
を数えるのみである。友人の主題を用いた変奏曲はD576が唯一ということになる。
ヨーゼフ・エドゥアルト・テルチャーが描いた「3人の友人たち」。画面右からイェンガー、ヒュッテンブレンナー、シューベルトが並ぶ。イェンガーもヒュッテンブレンナーと同じシュタイアーマルク出身の作曲家だった。 アンゼルム・ヒュッテンブレンナー (1794-1868)はグラーツの裕福な地主の息子として生まれた。グラーツ大学で法律を学ぶが、その楽才に感心したモーリツ・フォン・フリース伯爵の援助を受けて1815年4月にウィーンに進出しサリエリの門を叩く。ベートーヴェンからも認められた若き作曲家は早々に頭角を現し、シュタイナー社から次々に作品が発表されていった。まさに注目の新進作曲家であり、この時点でシューベルトとは段違いのキャリアを築いていたといえる。
1817年に作曲されたこの「13の変奏曲」の主題は、前年に作曲されたヒュッテンブレンナーの最初の
弦楽四重奏曲 から採られている。第3楽章「アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニ」は、原曲そのものが変奏曲形式(主題と4つの変奏)になっている。シューベルトは同じ主題に新たに13もの変奏を書いて本人に見せたのだ。それは友情の証か、遥か先を行く朋友への憧れだったのか、それとも自負心の表れだったのだろうか。弦楽四重奏曲は翌1818年にOp.3として出版され、ヒュッテンブレンナーの出世作となった。
2年前に作曲されたピアノ独奏のためのもうひとつの変奏曲、創作主題による
「10の変奏曲」D156 に比べると、変奏の自由度は減り、
厳格変奏 の趣が強い。中には高度な演奏技術を要する場面もあり、技巧派ピアニストだったヒュッテンブレンナーの前作「6つの変奏曲」Op.2の影響も見てとれるが、同時にこの年にシューベルト自身がピアノ・ソナタの制作に打ち込んだ、その書法研究の成果が反映されているともいえるだろう。
主題 イ短調 8+8の16小節からなるシンメトリカルな主題は、シューベルトが偏愛した長短短の
ダクティルス のリズムに支配されている。
ベートーヴェンの交響曲第7番 (1812)の第2楽章からの影響や、シューベルトの弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」D810 (1824)の第2楽章との類似が指摘されている。第8小節の
空虚5度 の響きは意表を突くが、ヒュッテンブレンナーの原曲を踏襲したもので、これも前出ベートーヴェン(第2楽章の第5小節、第3音を欠くドミナント和音)のオマージュという説もある。
第1変奏 イ短調 バスがスタッカートで細かく動き始める。そのモティーフも縮小されたダクティルスである。
第2変奏 イ短調 3度で重ねられた左手の主題の上で、右手が16分音符のオブリガートをなめらかに奏でる。減七の和音の多用がより濃厚な表情を生む。
第3変奏 イ短調 ダクティルスの逆行、すなわち短短長(アナペスト)のリズムによる和音連打が強調され、後半では音域を変えて毎小節登場する。
第4変奏 イ短調 左手に16分音符のパッセージが現れる。中央のラ(A4)から始まり、第6小節で3オクターヴ下のラ(A1)にまで降りていくという音域の広さは圧倒的だ。
第5変奏 イ長調 早くも長調の変奏が登場。右手は16分音符の3連符に装飾音がついた細やかなパッセージを優雅に奏でる。移旋による和音の表情の変化は驚くべきもので、楽園のような安らぎに包まれている。
第6変奏 嬰ヘ短調→イ長調 前変奏の平行調から始まる変則的な調性配置はシューベルトの真骨頂。コラール風の厳かさと温かさを湛えている。
第7変奏 イ短調 主調に戻り、右手は冒頭主題をそのまま再現するが、左手の3連符のパッセージは非常に技巧的で、もはやエチュードの域である。
第8変奏 イ短調 3声の対位法的なテクスチュア。両外声は主題と同型だが、中声部が16分音符で細かく動く。右手の伸張を要求するため、地味な曲調のわりに演奏は難しい。
第9変奏 イ長調 2度目の同主調へ。前変奏と同じく3声の書法で始まるが、動的な中声部(16分3連符)は分散和音音型で、「無言歌」に似たロマン派的な書法を見せる。左手は次第に和音に膨らんでいき、さらに甘い響きに満たされていく。
第10変奏 イ短調 一転して激しくデモーニッシュな変奏。オクターヴでダクティルスの主題を強奏する左手の上で、右手が32分音符のアルペジオの嵐を繰り広げる。
第11変奏 イ短調 左手の3度重音の主題を2小節遅れで右手が模倣し、しかしその後は和声的に展開される。後半に登場する付点リズムがだんだん全体を支配していくなど自由な発想に満ちている。
第12変奏 イ短調 第8変奏に似た3声の書法だが、左手がリズミカルな動きを見せる。弾むような短長リズムは即興曲D935-3(いわゆる「ロザムンデ変奏曲」)の第4変奏を想起させる。
第13変奏 イ長調 フィナーレで3度目の同主調へ。はじめて拍子が3/8に変わり、繰り返し時にオクターヴ高くなるため延べで書かれている、という特徴は
前作D156 のフィナーレと一致する。型どおりの変奏に続き、第241小節でイ短調に戻って付点リズムのモティーフに基づく自由なコーダが展開される。嬰ハ短調から突如ハ長調に転じ、しばらくハ長調のドミナントペダルが続いた後、再びイ長調(4度目)へ。高音域で変奏冒頭の8小節を反復し、突如怒り狂ったようにイ短調の和音を叩きつけて驚愕の幕切れとなる。
シューベルトが贈った清書譜をアンゼルム・ヒュッテンブレンナーは大事に保管していた。シューベルトの死から25年後の1853年、そこに
「フランツ・シューベルトが作曲し、友人であり共に学んだアンゼルム・ヒュッテンブレンナー氏に献呈された」 との注記を加筆した。しかしウィーン市立図書館に残るオリジナルの自筆譜にはそのような献辞はない。
ヒュッテンブレンナーが秘蔵していた「未完成交響曲」のスコア が発見されたのはそれからさらに12年後の1865年のことだった。
2022/09/30(金) 10:55:11 |
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(
インタビュー第3回はこちら )
崎谷 実は
シューベルト を弾かせていただくのは本当に久しぶりで、ご迷惑をかけないようにと思ってるんですが。
佐藤 以前はどんなものをお弾きになったんですか?
崎谷 19番のソナタ (D958)。
佐藤 ああ、c-mollのね。
崎谷 そう、c-moll…(笑)以上、みたいな。
佐藤 以上! なるほど。
崎谷 大きいレパートリーはそうですよね。あとシューベルト=リストをちょっと。
佐藤 ああ。
崎谷 それから、室内楽でヴァイオリン・ソナタとか、「鱒」をやったりとかはありましたけど。あとファンタジー、連弾の(D940)。
佐藤 おお。f-mollの。
崎谷 それは
居福(健太郎) さんと。
佐藤 へえ! それはまたすごい組み合わせだね。どこで弾いたんですか?
崎谷 ヤマハホールさんで。確か浜松アカデミーの絡みだったんじゃないかな、上野優子さんと居福さんと私で演奏会をするというので。
佐藤 なるほど。そのときはどっち弾いたんですか? 下(=セコンド)?
崎谷 上(=プリモ)弾きました。
佐藤 上弾いたんだ。シューベルトについては、こんな作曲家だなあとか印象ありますか?
崎谷 結構ね、シューベルト、生徒には弾かせるんですよ。好きなんですよね。
佐藤 ほう。
崎谷 でもね、すごく私の中では
難しい …ダイナミックレンジで表現する方なので。
佐藤 うーん。
崎谷 それが、そこまで許されないというのがあって、上限が特に。ただ、こう、なんでしょうねえ…シューベルトのイメージですか…(笑)もうそれは先輩に語っていただいた方が。
佐藤 いやいや、正しいこととかじゃなくて、どう考えているのかをね。皆さん結構面白いことをおっしゃって「ああ、なるほど!」って思うので。
崎谷 演奏の目線でいうと、とにかく決めたらダメだなっていうのがありますね。決め打ちして、こう弾くんだっていうふうにやらないという。
佐藤 はあー、なるほど。
崎谷 動詞が存続形 、みたいな…
佐藤 なるほどなるほど。
崎谷 理詰めでああやってこうやって、というのじゃなくて、もちろん実際演奏するときには計画構築はあるんですけど…。まあたとえばお茶を入れるとしたら、お茶を入れてお茶を飲むんじゃなくて、お茶から立ち上る湯気をね、顔に浴びながら。
佐藤 湯気(笑)
崎谷 そういうところを楽しむ。香りとか、熱さとか。でももちろんお茶はあるんですけどね。
佐藤 (笑)
崎谷 抽象的で申し訳ない(笑)。だからお茶の味をどうこうっていうんじゃなくて、そういうところでやらなきゃいけないのかなあと。a-mollの16番のソナタ(D845)とかも、結構好きなんですけど。情熱は、非常にある人だったと思うんですね。ただ、その表し方が、普通の人が情熱を表す表現とちょっと違うのかなっていう。
佐藤 うん。
崎谷 内面に秘めるっていう、本人は秘めてるつもりじゃないと思うんですけど、なんかちょっと違うんですよね。そんなふうにしか言えないですけど。
佐藤 なるほどね。
崎谷 シューベルト今回15回目でらっしゃいますよね。
佐藤 そうなんです。
崎谷 もちろん他の作曲家も弾いてらっしゃると思うんですけど、シューベルトをお弾きになるときに特別な部分というのはありますか?
佐藤 僕自身はね、シューベルトは共感する部分が多いので、全然難しいと思わないの。
崎谷 ああ。
佐藤 もちろん弾くのが難しいっていうことはあるかもしれないけど、表現で「これはどういうつもりで書いたんだろうな」って思うようなところがほとんどないんですよね。
崎谷 なるほど。
佐藤 他の作曲家には、多かれ少なかれあるんです。「この人なんでこんな音書いたんだろう」とか、「なんでここにフォルテって書いてるんだろう」とか、思う瞬間っていうのが楽譜のあちこちにあるんだけれども、そういうのがあんまりないので、なんかすごく自然に「ああそうだねそうだね」って思って弾いていってるかな、演奏者の視点としては。というか、僕はどちらかというと、どうも
作曲家目線 らしいんですよ。
崎谷 ああ。
佐藤 だから自分がこの主題で曲を書き始めたらどう書くだろうか、って考えるんですよね。で、「たぶんここはこうは書かない」っていうところが、あるんですけど、それがシューベルトの場合はないっていうか。
崎谷 へえ。
佐藤 もちろん僕にはそんな能力はないから、同じようには書けないですけど、もし思いついたらこれを採用しただろうなって。
崎谷 ああそうなんですね。
佐藤 でも、もちろんシューベルトにもいろんなフェイズがあるし、今言ってくれた、動詞が存続する感じってすごくよくわかるけどね。
崎谷 そうですか。
佐藤 それこそ今日崎谷君がレコーディングされていた
ブラームス も、シューベルトのことが好きというか、よく調べていて。
崎谷 うんうん。
佐藤 シューベルトの自筆譜をずいぶん持ってたんだよね。あと、その当時シューベルトの未完成の曲なんてほとんど出版されてなかったので、ウィーンのそういうのを持ってるコレクターから貸してもらったりして、ブラームスの筆写したシューベルトの楽譜っていうのが大量に
楽友協会 に残ってるのね。ブラームスは亡くなる前に資料を全部寄贈したので。だからそこからブラームスがインスパイアっていうか、ヒントを得て作曲したものが結構あるし、シューマンも実はそうなんだけど…シューベルトの知られていなかった曲から、かなりいろんなものを取っていったな(笑)という感じがあるんですよね。
崎谷 なるほど。
佐藤 だからある意味では受け継いでくれたところもあると思うし。あとはなんといってもシューベルトは
ベートーヴェン と同じ時代に生きてたので。
崎谷 ああ、そうですよね。
佐藤 ほとんどベートーヴェンと人生はかぶってたわけじゃないですか、もちろんずっと若いけれども。だからベートーヴェンへのコンプレックスっていうかね。
崎谷 うーん。
佐藤 ベートーヴェンはシューベルトのことはほとんど知らなかったかもしれないけど、シューベルトはすごく意識していて。それこそc-mollのソナタはすごくベートーヴェンチックな、ベートーヴェンみたいな曲を書こうって思って書いたんだろうなっていう感じですよね。
ベートーヴェンのソナタ全集 もここで録ってるの?
崎谷 そうですね。
佐藤 どのくらい進んでるんですか?
崎谷 ちょうどヘンレ(原典版)の1巻が終わったところで。
佐藤 おお、切りの良いところですね。
崎谷 前期から中期に差し掛かるところまで弾かせてもらって、だんだん一番難しいところに差し掛かってるというか。後期ももちろんいろいろあるんですけど、ある程度自分の考えでやればいいのかなって思ってるんですけど。中期の、特にOp.31の3曲(第16~18番)に取り組むにあたって、どういうふうに作っていったらいいんだろうっていうのに一番悩んでるかもしれないですね。
佐藤 うんうん。
崎谷 私はやっぱりテンポに興味があるんで、
テンポをどういうふうに設定 するのか。たとえば第18番のソナタ、慣例的に最初ゆっくり始まって、だんだん加速していくじゃないですか。
佐藤 第1楽章ね。うん。
崎谷 でも僕の中であれは納得できなくて。楽譜にはそう書いてないから。
佐藤 そうだね。
崎谷 だからそういう折り合いを、どういうふうに考えてたんだろうって。
佐藤 ああ、「折り合い」ってわかりますね。
崎谷 一方でテンペスト(第17番)は、明らかに緩急で書いているから、そういったところも18番でもあえて採り入れても良いのかなとか。だから去年の12月にはそうやって弾いたんですけど、変なことするねって言われて。
佐藤 ああそうなの?
崎谷 でも演奏家としては、ちょっと新しいアイディアでやってみたいなあと(笑)
佐藤 ぜひいろんな試みをね。もともとなんでベートーヴェンの全集を録ることになったの?
崎谷 そのレコード会社が全曲ものをやるという、たとえば巡礼の年とか、他の方がやられてるんですけど、そういう方針だったので。
佐藤 なるほど、そういうことだったのね。
崎谷 僕ハンガリー狂詩曲(リスト)弾いてたんで、ハンガリー全曲とか言われたんですけど、ハンガリー全曲はいいやと思って。
佐藤 それはなかなかつらい感じですね(笑)
崎谷 素晴らしい名盤もあるし、ハンガリーは。ベートーヴェンだってもちろん名盤あるんですけど、まず自分の勉強になるし、そのときは特にベートーヴェンが自分の中で非常に共感する作曲家だったんですよね。
佐藤 うん。なるほど。
崎谷 ルヴィエ先生もベートーヴェンがお好きで、よくレッスンされてましたし、恩師の迫先生も、松方ホールで全集録られてて。そういった影響もあり、ベートーヴェンやりたいですって言ったらすんなり通ったということなんですけど。ただ、自分自身は、得意か苦手かって言ったら、
あんまり得意じゃないですよね、ベートーヴェンは 。
佐藤 え、そうなの?
崎谷 たぶん。好きですけどね、好きですし勉強になってますけど、なんでしょう、まあ
ブラームスの方がやはり得意 かな。ベートーヴェンは自分で聴いて、もうちょっとなんとかならんかったのかなって思うことは多い。
佐藤 ああそうなんだ(笑)
崎谷 それはこれからの課題ですけど。
佐藤 どのくらいのペースでここまで録ってきたの?
崎谷 12年から19年まで、7年かけて5枚。
佐藤 じゃあ十分に時間はかけつつ。でも1番から順番に出してるんだもんね。
崎谷 そうですね。だから本当はソナチネ(やさしいソナタ)を最初に弾いておかなきゃいけなかったんですけど。19・20番(作品49)ね。
佐藤 実は僕も全部録りたいと思っていて、僕は全然遅いペースでまだ2枚しか録ってないので、これ一生かけて終わるのかみたいな感じになってるんだけど(笑)。僕は最初に21から23を録ったんですよ。
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第21-23番ほか 佐藤卓史(ピアノ)
Tactual Sound TSCP-0001
定価¥2,500+税
崎谷 それはなんでですか?
佐藤 ちょうどそのあと全国ツアーをやろうと思ってて、そこで有名な曲を8・14・21・23って弾くんだったので、そのプログラムの中で、自分が特にしっかり勉強したワルトシュタイン(21番)とアパッショナータ(23番)は録りたいと、じゃあ間の22も録るか、みたいな感じで、ゆくゆくは全部録るつもりでそこを録ったはいいものの、ウィーンのそのCDを録ったスタジオがそのあとなくなっちゃったりとかいうことがあって。
崎谷 ああそうなんですか!
佐藤 しばらく難航した挙げ句、2018年に、今度は12から15を録ったんですよ。
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第12-15番 佐藤卓史(ピアノ)
Tactual Sound TSCP-0002
定価¥2,500+税
崎谷 なるほど。12から15。
佐藤 というところで今止まっていて、さあ次どこに行こうかなと。間のね、同じ作品31のあたりをいくか。そうすると中期がほぼ揃う。
崎谷 そうですね。
佐藤 あるいはまた全然違うところを攻めていった方がいいのか、いろいろ考えつつ、ちょっとあちこちを摘まんで弾いてみては「うーん」って腕組みをしてるんだけど。
崎谷 シューベルトは全部出されてる?
佐藤 シューベルトはね、セッションで録ったのはシューベルトコンクールのご褒美で録っていただいた単発のディスクしかないんです。
崎谷 そうなんですね。
佐藤 でも一応このシリーズは全部ライヴ録音してるので、それこそちゃんと自分で編集を覚えて、リリースしないとと思ってるんですけど、まだ長い道のりです(笑)
崎谷 それは当然出さないと。
佐藤 ちょっと崎谷君を見習って頑張らないと、と今日思いました。
(インタビュー完 ・ 2021年8月18日、ヤマハアーティストサービス東京にて)
2021/11/27(土) 23:33:04 |
シューベルトツィクルス
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1824年5月7日、音楽史に残る一大イヴェントがウィーン・ケルントナートーア劇場で行われた。
ベートーヴェンの「交響曲第9番」(いわゆる『第九』)の初演 である。完全に聴力を失っていた作曲者は、それでも10年ぶりの交響曲の初演の指揮台に立ち、実際に演奏を取り仕切るミヒャエル・ウムラウフにテンポの指示を与えたという。演奏終了後、背後の聴衆の反応がわからずステージ上で立ち尽くすベートーヴェンに、アルトソロの歌手が近づき、喝采する聴衆を「見せた」というエピソードはあまりにも有名である。
ウィーン楽壇の大事件だったこの『第九』初演を、ウィーンに住むシューベルトが知らなかったはずはない。果たして彼はこの歴史的瞬間に居合わせたのだろうか?
普通に考えれば聴きに行ったはずだ。崇拝してやまないベートーヴェンの新作初演、何を措いても駆けつけただろう。
終演後にベートーヴェンの手を取って後ろを振り向かせた21歳のアルト歌手
カロリーネ・ウンガー も知己だった。
3年前に彼女のオペラデビューのコレペティトーアを務めた 縁もあり(もっとも毎回稽古に遅刻するシューベルトは劇場関係者の不評を買うことになるのだが)、
彼女の父親はツェリスのエステルハーツィ家の音楽教師の職を紹介してくれた恩人 でもある。ちなみにカロリーネは若くしてなかなかのやり手だったらしく、『第九』のウィーン初演に尻込みをするベートーヴェンを焚き付け、この大興行を実現させた陰の功労者だったことが会話帳の書き込みからわかっている。歴史に名を刻んだあの行動も、もしかしたら巨匠と示し合わせてちょっとした芝居を打ったのではと思えなくもない。オペラ歌手ならそのくらい朝飯前だろう。
ところが、
シューベルトが『第九』初演を聴いたという記録は何も残っていない のだ。聴いていたら、きっとはしゃいで友人たちに触れ回ったり、手紙を書きまくったりするだろうに(最晩年にパガニーニの演奏を2回も聴きに行ったことはよく知られている)、そういう資料も証言も残されていない。
実は、1824年4月・5月のシューベルトの足跡はほとんどわかっていないのだ。前年から続く体調不良は一進一退だったようで、たとえウィーンにいたとしても演奏会に行けるような健康状態ではなかったのかもしれない。
4月半ばの友人たちの報告には、
シューベルトはあまり良い体調ではない。左腕に痛みがあって、全然ピアノが弾けないんだ。それを除けば、機嫌は良さそうだ。 (1824年4月15日、シュヴィントからショーバーに宛てて)
とある。
遡って3月31日に、シューベルトはローマのクーペルヴィーザーに手紙を書いている。自らの病状を悲観し、「糸を紡ぐグレートヒェン」の冒頭の歌詞を引用して
「『私の安らぎは去った、私の心は重い。私はそれを、もう二度と、二度と見出すことはない』、そう今僕は毎日歌いたい。毎晩床に就くときは、もう二度と目覚めることがないように祈り、朝になると昨日の苦悩だけが思い出される」という憂鬱な文章 はよく知られているが、実はこの手紙に書かれているのはそんな愚痴ばかりではない。
歌曲では新しいものはあまり作っていないが、その代わり器楽ものはずいぶん試してみた。2つの弦楽四重奏曲と八重奏曲を作曲し、四重奏をもう1曲書こうと思っている。この方向で、なんとか大交響曲への道を切り開きたいと思うんだ。―ウィーンのニュースといえば、ベートーヴェンが演奏会を開いて、そこで新しい交響曲と、新しいミサ曲からの3曲と、新しい序曲をかけるということだ。―できることなら、近い将来僕も同じようなコンサートを開きたいと思っている。(中略)5月の初めにはエステルハーツィと一緒にハンガリーに行くので、そうなると僕の住所はザウアー&ライデスドルフ社気付ということになる。 (1824年3月31日、シューベルトからクーペルヴィーザーに宛てて)
シューベルトが『第九』初演を事前に知っていたことがちゃんと書かれている。なんと、巨匠のこのイヴェントに触発されて、「個展」を開催する気になったわけだ。自分の作品だけを集めた演奏会は、それから4年後の1828年、ベートーヴェンの一周忌にあたる3月26日に楽友協会でようやく開催されたが、その8ヶ月後に帰らぬ人となるシューベルトにとってはそれが生涯で唯一の機会になる。
ところが、手紙にあるように5月の初めにツェリスへ旅立ったとすると、5月7日の『第九』初演時には既にウィーンにいなかった可能性がある。1824年春、ウィーンでのシューベルトの最後の足跡は、4月に男声4部のための「サルヴェ・レジナ」D811を書き上げているのみだ。ドイチュはウィーン出立の日を5月25日前後と推察しており、多くの伝記がそれに倣って「5月末頃にウィーンを発ちツェリスへ」と書いているが、その確かな根拠はない。もしドイチュ説を採るならば、5月23日にレドゥーテンザールで行われた『第九』の再演に立ち合った可能性すらある。ちなみに再演は散々な失敗だったと伝えられる。
6月末に両親がシューベルトに書いた手紙には
5月31日付のお前の手紙を6月3日に受け取った。お前が健康であること、伯爵の館に無事到着したことを知って嬉しく思っている。 (1824年6月末、父フランツ/継母アンナからフランツ・シューベルトに宛てて)
とある。この5月31日付の手紙は行方不明だが、その時点でシューベルトがツェリスに到着していたことは確実のようだ。
そういうわけで資料的な裏付けは何もないのだが、私は
シューベルトは確かに『第九』をリアルタイムで聴いたはずだ と考えている。なぜなら1826年出版の
「フランス風の主題によるディヴェルティメント」D823 の中に、『第九』がこだましているのが聴き取れるからだ。
「ディヴェルティメント」第1楽章の第2主題後半、この情緒的な旋律線はどこかで聴いたことがあると思っていた。
記憶をたどってようやく思い当たった。『第九』の第2楽章スケルツォである。
そう考えると、妙に符合するところがいくつかある。「ディヴェルティメント」第2楽章「アンダンティーノ・ヴァリエ」の第2変奏と、『第九』スケルツォ主部のスタッカートの音型。
「アンダンティーノ・ヴァリエ」第4変奏と、『第九』第3楽章の再現部。
音型そのものが酷似しているというわけではないが、全体の拍子感やメロディーが6連符で細かく装飾されるさまはとてもよく似ている。
『第九』の楽譜出版は1826年8月で、「ディヴェルティメント」第1楽章の出版はその2ヶ月前なので、楽譜で読んで影響を受けた、ということはない。1824年5月の2度の『第九』の実演のどちらかに接し、その記憶が「ディヴェルティメント」の中に表出したのではないだろうか。
とはいえ、たまたま似ただけ、といわれればそれまでの話ではある。
2020/12/06(日) 21:13:15 |
伝記
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フランスの歌による8つの変奏曲 ホ短調 Acht Variationen über ein französisches Lied e-moll D624 作曲:1818年9月 出版:1822年(作品10)
変奏曲の主題である「フランスの歌」とは、1813年に
オルタンス王妃 の作曲として発表された
『忠実な騎士 Le bon chevalier』 という題名のロマンス(歌曲)である。
オルタンス王妃こと
オルタンス・ド・ボアルネ Hortense de Beauharnais (1783-1837)は、ナポレオン妃ジョゼフィーヌの前夫との間の娘で、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトの妻となった人物である。すなわちナポレオンの義娘であり、義妹でもある。ナポレオン皇帝即位後の1806年、ルイはオランダ王に就任し、オルタンスは王妃となった。しかし、この作曲者クレジットは多分に建前的なもので、実際には王室の音楽教師だったフランス人フルーティストのルイ・ドロエ Louis Drouet (1792-1873)の作曲と考えられている。作詞者は不明である。
数年後にはヨーロッパ中の愛唱歌となり、エステルハーツィ家でもよく歌われていたらしい。シューベルトは
1818年夏のツェリス滞在時 に初めてこの曲の譜面を目にし、その旋律を未完の4手のためのポロネーズ(D618A)の自筆譜の隅に書き留めた。そして、一家が好むこの曲を主題として変奏曲を書こうと思い立ったのだろう。9月には草稿が完成している。
曲は主題と8つの変奏からなり、最終変奏には長大なコーダがついている。
16小節の
主題 は8小節ずつの前半と後半に分かれ、それぞれに繰り返し記号がついている。歯切れの良いスタッカートや、バスの主音と属音の交代は、この主題に行進曲的な性格を纏わせている。それは当時の人々に、実父を処刑されたオルタンス王妃が象徴する「フランス革命」の記憶を呼び起こしたことだろう。
第1変奏 ではプリモの右手にアラベスク状の3連符が登場し、主題旋律を優雅に装飾する。
第2変奏 は8分音符で動くバスをセコンドの両手がオクターヴのスタッカートで奏する。冒頭に「(前半の繰り返しの)1回目はピアノ、2回目はフォルテで」と指示されているのも珍しい。軍隊風の性格が強調された、決然たる変奏である。
第3変奏 はハ長調。ホルンの合奏を思わせるプリモの音型で始まり、セコンドが不気味な不協和音でそれに応える。前半は変ホ長調で終止するなど、不思議な雰囲気を漂わせる。
第4変奏 はホ短調に戻り、一転快活な性格。セコンドの主題の上で、プリモの16分音符による音階風パッセージが駆け抜ける。
第5変奏 はホ長調へ。3連符の安定した伴奏型が、ひとときの安らぎを感じさせる。主題の繰り返しの1回目と2回目は別々の変奏を施されており、延べで32小節となっている。
第6変奏 はその平行調である嬰ハ短調に転ずる。セコンドの決然たるオクターヴユニゾンに呼応してプリモが音階やアルペジオのパッセージを華やかに披露する。このように、全曲を通してセコンドよりもプリモの技術的難易度が高めに設定されているのは、マリーとカロリーネの姉妹のいずれかにセコンドを弾かせ、シューベルト自身がプリモを担当することを念頭に作曲されたためと考えられている。
第7変奏 はPiú lento(より遅く)と指示され、葬送行進曲の趣となる。繰り返しの2回目ではプリモに6連符のパッセージが現れ、秋風のような侘びしさが通り過ぎる。
一転してホ長調の
第8変奏 はTempo di Marcia, Piú mosso(行進曲のテンポで、より速く)と性格が明示されており、きびきびした付点のリズムに乗って勝利の凱歌が喜ばしく奏されていく。そのまま途切れなく続くコーダでは、シューベルトならではの遠隔調([223]で変イ長調、[241]で変ロ長調)への巧みな転調によって新しい世界の扉が開く。
作曲の4年後、1822年にカッピ&ディアベリ社から「作品10」として出版された。初版譜の表紙には
「崇拝者であるフランツ・シューベルトより、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏へ献呈される」 と大書されている。
シューベルトの全作品中、公式にベートーヴェンに献呈された曲は他にないことから、この作品はベートーヴェンとシューベルトの直接の接点として語られることが多い。しかし実際のところ、このとき彼らが既に知り合っていたのか、あるいはこの献呈がきっかけで知り合うことになったのか、その詳細については確証がない。
「シューベルトはベートーヴェン宅を訪れ、おずおずと変奏曲の自筆譜を差し出した。ベートーヴェンは一見するや、いくつかの間違いを指摘し助言を与えた。シューベルトは恐れ入って、逃げるようにベートーヴェン宅を後にした」 という有名なエピソードは、おそらくはアントン・シントラーの例の作り話であろうし、
「ベートーヴェンはこの献呈を喜び、甥のカールと一緒にこの曲を連弾して楽しんだ」 ともいわれるが、この頃のベートーヴェンは既に聴力を完全に失っていたはずなので、疑問も残る。出版社が仲介して、ベートーヴェンを名義上の被献呈者とした可能性もある。
いずれにせよ確実に言えることは、1822年時点のシューベルトが
4年前に作曲したこの作品の仕上がりに強い自信を持っていた ということだ。そうでなければ、限りなく尊敬する先達であり、まして変奏曲の大家でもあるこの巨匠に本作を捧げようとは思わなかったはずである。献呈相手ともなれば、必ず本人の目に触れるし、隅々まで点検される可能性も高いからだ。
さらに踏み込んでいえば、
フランス革命の自由主義精神に共感し、ナポレオンに交響曲を捧げようとまでしたベートーヴェン に、オルタンス妃の主題によるこの変奏曲を献呈したということに、特別な意味を見出すこともできるだろう。
2018/10/02(火) 22:29:05 |
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