(→シューベルトの舞曲について 概略) ***
ついに、「舞曲の自筆譜」という厄介な問題について言及しなければならない時が来てしまった。
あまりにややこしく把握が難しいので取り上げるのを躊躇っていたのだが、ツィクルスを続けるためにはどこかで乗り越えなくてはならない。自分ではどうにか事情を理解したつもりだが、わかりやすく説明できるかどうか甚だ心許ない。
要領を得ない点についてはお許しいただき、以下の話にお付き合いいただけたら幸甚です。
***
シューベルトの生前(ならびに死の直後)に出版された舞曲集 は次の通りである。
作品番号 D番号 タイトル 出版年 Op. 9 D365 36のオリジナル舞曲(ワルツ)(「最初のワルツ」) 1821 Op. 18 D145 12のワルツ、17のレントラーと9つのエコセーズ 1823 Op. 33 D783 16のドイツ舞曲と2つのエコセーズ 1825 Op. 49 D735 ギャロップと8つのエコセーズ 1825 Op. 50 D779 34の感傷的なワルツ 1825 Op. 67 D734 16のレントラーと2つのエコセーズ(「ウィーンの淑女たちのレントラー」) 1826 Op. 77 D969 12の高雅なワルツ 1827 Op. 91 D924 12のグラーツ のワルツ 1828 Op. 127 D146 20のワルツ(「最後のワルツ」) 1830
これら総計197曲のほかに、他の作曲家の作品とともにオムニバスの舞曲集の中に収録された単発の舞曲もある。これらはまとめて新全集の
「舞曲 第2巻」 (Serie VII-2-7)に収められている。
それぞれの曲集について、全曲を包括した自筆譜は現存しない。
製版に使われた清書譜は処分されるという当時の習慣については以前述べた 通りである。
シューベルトの没後、舞曲の自筆譜が続々と発見された。
その中には多数の未出版の舞曲とともに、生前に出版された舞曲集の中に収録済みの舞曲も含まれていた。いくつかの舞曲は、複数の自筆譜の中に繰り返し書きつけられ、中には出版譜とは異なる調性を持つものもある。
D783収録の2曲の舞曲の異稿を含む
「12のドイツ舞曲(レントラー)」D790 は1864年に作品171として刊行。また複数の自筆譜の中から未出版のレントラーだけを選り分けた
「17のレントラー」D366 は1869年に刊行された。いずれも、編纂を務めたのは
ヨハネス・ブラームス である。
手つかずの自筆譜については、
出版済みの舞曲を取り除き、未出版の舞曲のみを自筆譜ごとにグループにして、旧全集に収録 することとなった。ドイチュ番号は、この旧全集の方針に従って振られている。
この整理方法に疑義を呈したのが研究者の
モーリス・ブラウン である。
たとえば
「6つのレントラー」D970 は、20曲からなる舞曲集の自筆譜のうちの、第2・3・4・7・8・12曲を抜き出したものである。他の曲はD145やD366に収められており、いわばそうした曲集に選ばれなかった「残り物」を無理矢理バルクにしたに過ぎない。
舞曲集を編むにあたり、シューベルトが曲の配列についてどの程度気を配ったのかは不明だが、本来であればこの自筆譜に書きつけられた20曲をひとまとまりの曲集として扱うべきなのではないか。
そういった問題意識から、ブラウンはD番号とは別に、舞曲自筆譜を対象にして独自の整理番号を振った。
これが
Brown, Ms.(ブラウン自筆譜番号) である(MsはManuscript(自筆譜)の略)。
新全集
「舞曲 第1巻」 (Serie VII-2-6)は、このブラウン自筆譜番号を元に編集されており、同じ舞曲の別ヴァージョンが多数収められていて、一見すると大変わかりにくい。
ブラウン自筆譜番号は、1966年のブラウンの著書「Essays on Schubert」の中で一般に提唱されたが、その一覧はウェブ上には見当たらない。ここにその一部を掲載し、複数のD番号にまたがる自筆譜についてはその詳細を別記事で紹介していこうと思う。
=で曲名と繋がれたものは、D番号で整理された作品と完全に一致する自筆譜である。
Brown, Ms.(ブラウン自筆譜番号)リストより抜粋 Brown, Ms. 2 =12のウィーン風ドイツ舞曲 D128 Brown, Ms. 3 =30のメヌエット D41 Brown, Ms. 7 =2つのメヌエット D91 Brown, Ms. 8 =エコセーズ ニ短調/ヘ長調 D158 Brown, Ms. 9 12のドイツ舞曲 Brown, Ms. 10 =12のエコセーズ D299 Brown, Ms. 13 =8つのレントラー 変ロ長調 D378 Brown, Ms. 14 =3つのメヌエット D380 Brown, Ms. 15 =6つのエコセーズ D421 Brown, Ms. 16 =2つのレントラー 変ホ長調 D980B Brown, Ms. 17 =メヌエット ホ長調 D335 Brown, Ms. 20 9つの舞曲のインデックス Brown, Ms. 21 =8つのエコセーズ D529 Brown, Ms. 23 =トリオ ホ長調 D610 Brown, Ms. 24 2つの舞曲 Brown, Ms. 25 ドイツ舞曲 D365-2 Brown, Ms. 26 ドイツ舞曲 D365-2 Brown, Ms. 28 5つのレントラー Brown, Ms. 29 2つのエコセーズと2つのドイツ舞曲 Brown, Ms. 30 6つのレントラー Brown, Ms. 31 6つの舞曲の草稿 Brown, Ms. 32 =ドイツ舞曲 嬰ハ短調 と エコセーズ 変ニ長調 D643Brown, Ms. 33 9つのドイツ舞曲 変イ長調 Brown, Ms. 34 20のレントラー Brown, Ms. 35 =6つのエコセーズ 変イ長調 D697 Brown, Ms. 36 =12のレントラー D681 Brown, Ms. 37 10のエコセーズ Brown, Ms. 38 8つのレントラー 変ニ長調Brown, Ms. 39 7つのドイツ舞曲 Brown, Ms. 40 4つのドイツ舞曲 Brown, Ms. 41 2つのドイツ舞曲 変ホ短調 Brown, Ms. 42 6つのアッツェンブルックのドイツ舞曲 Brown, Ms. 43 4つのドイツ舞曲 Brown, Ms. 44 =12のエコセーズ D781 Brown, Ms. 45 17のドイツ舞曲 Brown, Ms. 46 9つのドイツ舞曲 Brown, Ms. 47 =12のドイツ舞曲 D790 Brown, Ms. 48 エコセーズ 嬰ト短調 D145-E8 Brown, Ms. 49 =2つのドイツ舞曲 D769 Brown, Ms. 50 4つのドイツ舞曲 Brown, Ms. 51 11のレントラー Brown, Ms. 52 4つの舞曲 Brown, Ms. 53 =3つのエコセーズ D816 Brown, Ms. 54 =6つのドイツ舞曲 D820 Brown, Ms. 55 2つのドイツ舞曲 変ホ長調 Brown, Ms. 56 6つのドイツ舞曲 Brown, Ms. 57 =ワルツ ト長調 D844 Brown, Ms. 58 =2つのドイツ舞曲 D841 シューベルトは、なぜある種の舞曲だけを何度も繰り返し五線に書き残したのか。調性や細部の異同の問題、そして「佐藤卓史シューベルトツィクルス」での舞曲に対するスタンスについては
次回 に譲りたい。
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2019/03/15(金) 13:34:29 |
用語解説
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D568はもちろんのこと、D567についても、成立状況を教えてくれる文献は残っていないのだが、ひとつ面白い証言がある。
ニ短調の緩徐楽章初稿の記事で登場 した、シューベルトの友人
アンゼルム・ヒュッテンブレンナー は、1854年にフランツ・リストの求めに応じて
「歌曲作曲家フランツ・シューベルトの生涯の断片 Bruchstücke aus dem Leben des Liederkomponisten Franz Schubert」 という回顧録を残していて、その中で
「嬰ハ長調のピアノ・ソナタ」 について言及している箇所があるのだ。
非常に難しくて、シューベルト本人も間違えずに弾くことができなかった。私は3週間、熱心に練習して、彼と友人たちの前で演奏したところ、彼はこの曲を私に献呈してくれた。その後ある外国の出版社に送付したのだが、「こんなひどく難しい作品は、売れ行きが期待できないので、あえて出版しようとは思わない」という内容のメッセージとともに返送されてきた。 嬰ハ長調(!)のソナタというのは知られていないので、きっと変ニ長調のソナタ(D567)を指しているのだろう、ということで、この証言は新全集のD568の解説にも引用されている。
この時期にシューベルトがピアノ・ソナタをヒュッテンブレンナーに献呈したという事実も、外国の出版社に送ったという事実も、この証言以外には知られていない。ヒュッテンブレンナーという人は以前
「グラーツ幻想曲」D605Aの記事 でも述べた通り、ちょっと怪しげなところがある人物で、とりわけシューベルトの死後26年も経った1854年の証言を信用できるかどうかは微妙なところなのだが、もし本当だとすると、いろいろ符号が合うことがある。
まず第一に、D567がヒュッテンブレンナーに献呈されていたとしたら、例のニ短調の草稿の紙片を、ヒュッテンブレンナーが持っていたことも説明がつく。「これは君にあげたソナタのスケッチだから、あげるよ。ベートーヴェンの自筆譜の裏に書いちゃったんだけども」なんて言って渡したのかもしれない。その紙片をヒュッテンブレンナーは生徒の記譜練習に使わせてしまうわけなのだが・・・。
そして第二に、なぜシューベルトがD567を改訂しようと思い立ったのか、その理由の一端がこのエピソードには示されている。自分では弾けないような難曲だったが、ヒュッテンブレンナーが弾いてくれたら良い曲で、友人たちにも好評だった。それで自信がついて、外国の出版社に送ってみたが、「難しすぎてダメ」と言われた。
ならば、
♭5つの変ニ長調から、♭3つで読譜しやすい変ホ長調に直せば、受け入れられるのではなかろうか 。つまり、作曲家自身の内的欲求というより、
受容を優先し、出版を視野に入れた上での改訂作業 、という可能性があるのだ。緩徐楽章を同主短調の変ホ短調にしなかったのも、♭が多すぎる(6個)から避けた、という理由もあるだろう。
実際にD568が現在も演奏会の主要レパートリーに君臨しているところを見ても、シューベルトの目算は当たったということになる。
さて、肝心の改訂の時期については特定されておらず、1817年(D567の作曲年)から1828年(シューベルトの最期の年)までさまざまな説がある。
1817年説 を唱えたのは著名なシューベルト学者の
モーリス・ブラウン である。
ブラウンはD593の2つのスケルツォを、D567の挿入楽章の習作と捉えている。D567が1817年6月に完成したあと、すぐにシューベルトはD568への改訂作業に着手し、11月までに完成させて、そのとき捨てられた2つのスケルツォを譜面にまとめて、11月の日付を書き込んだ。つまり
D593の作曲日付の「1817年11月」は、D568の完成時期を示している 、という見立てである。
なぜそのようなロジックが成り立つのか、原文を何度読んでもさっぱりわからないのだが、おそらくは「D568は1817年作曲」という希望的観測が最初にあって、論を進めているだろう。
「1817年の6曲のソナタ」 の、失われた第3番・第4番のいずれかにD568を当て込みたかったものと思われる。
現在ではこの説の信憑性は低い。まず、
D567の清書稿 では、第2楽章の最終ページの裏面に第3楽章(フィナーレ)が書かれていて、その間にスケルツォ(あるいはメヌエット)が入り込む余地はない。D567は3楽章構成のソナタとして完成したのであり、D593のスケルツォがD567のために書かれたのだとしたら、1817年6月以前の時点で捨てられていたはずである。D567からD568への改訂作業の途中でスケルツォが書かれたとすると、変ロ長調の第1番はともかく、第2番の変ニ長調という調性はD568には合致しない。
D593が、何らかのソナタの中間楽章として書かれた可能性は否定できないものの、それがD567/D568であるという明確な証拠もなく、その作曲の日付がD568の完成を示すというのはあまりにも飛躍が多い。
さらに言えば、単なる移調だけならともかく、これほどの内容のブラッシュアップを伴う改訂を、D567完成直後のシューベルトが成し遂げたとはちょっと思えない。D567の完成からしばらく時間が経って、過去作を客観的に見ることができるようになった作曲者が校訂したもの、と捉えるのが自然だろう。少なくともこの時期のシューベルトが、いったん完成した作品にさらに手を加えるような習慣を持たなかったことは確かである。
一方で、改訂時期を
シューベルトの晩年 と見なしている学者もいる。
マーティン・チューシッドMartin Chusidは展開部の書法について、「1824年以前のシューベルトは、これほど広範囲における、複雑な転調のシークエンスを書いたことはない」という。さらに、展開部の内容を検討するとピアノ三重奏曲第2番D929や弦楽五重奏曲D956に似ているとして、改訂作業はシューベルト最晩年の1828年、もしかしたらその最期の数ヶ月か、数週間で行われたのかもしれない、と論じている。
論文そのものを参照できなかったので、どの部分を比較しているのかは詳しくわからないのだが、
以前に分析した通り 、D568で新たに書き足された部分は、
終楽章の展開部の前半40小節のみ であり、あののどかな舞曲風の部分の転調が、最晩年のシューベルトにしか書き得なかったものとはちょっと思われない。
マルティーノ・ティリモが編纂した
ウィーン原典版 の解説には、
「改訂作業が1826年に行われたことを示唆するいくつかの証拠がある」 として、複数の論文が紹介されているが、その内容については詳述されておらず、そこに挙げられた論文のオリジナルを参照することもできなかったので、この説の信憑性については詳しい検討はできなかった。
1829年6月にフェルディナントが作成した、弟フランツの遺産台帳によると、1829年1月5日に、ペンナウアー社からの58グルデン36クロイツァーの支払いが記録されている。ドイチュは、これをD568の作曲料とみている。
時期的に考えて、D568の出版契約は、シューベルトの生前に締結されたのだろう。しかし1828年11月19日に急死したシューベルトは、その対価を受け取ることさえできなかったのだった。
2016/10/05(水) 22:44:28 |
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