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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

舞曲自筆譜とBrown, Ms.番号について

(→シューベルトの舞曲について 概略)

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ついに、「舞曲の自筆譜」という厄介な問題について言及しなければならない時が来てしまった。
あまりにややこしく把握が難しいので取り上げるのを躊躇っていたのだが、ツィクルスを続けるためにはどこかで乗り越えなくてはならない。自分ではどうにか事情を理解したつもりだが、わかりやすく説明できるかどうか甚だ心許ない。
要領を得ない点についてはお許しいただき、以下の話にお付き合いいただけたら幸甚です。

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シューベルトの生前(ならびに死の直後)に出版された舞曲集は次の通りである。

作品番号D番号タイトル出版年
Op. 9D36536のオリジナル舞曲(ワルツ)(「最初のワルツ」)1821
Op. 18D14512のワルツ、17のレントラーと9つのエコセーズ1823
Op. 33D78316のドイツ舞曲と2つのエコセーズ1825
Op. 49D735ギャロップと8つのエコセーズ1825
Op. 50D77934の感傷的なワルツ1825
Op. 67D73416のレントラーと2つのエコセーズ(「ウィーンの淑女たちのレントラー」)1826
Op. 77D96912の高雅なワルツ1827
Op. 91D92412のグラーツのワルツ1828
Op. 127D14620のワルツ(「最後のワルツ」)1830

これら総計197曲のほかに、他の作曲家の作品とともにオムニバスの舞曲集の中に収録された単発の舞曲もある。これらはまとめて新全集の「舞曲 第2巻」(Serie VII-2-7)に収められている。
それぞれの曲集について、全曲を包括した自筆譜は現存しない。製版に使われた清書譜は処分されるという当時の習慣については以前述べた通りである。

シューベルトの没後、舞曲の自筆譜が続々と発見された。
その中には多数の未出版の舞曲とともに、生前に出版された舞曲集の中に収録済みの舞曲も含まれていた。いくつかの舞曲は、複数の自筆譜の中に繰り返し書きつけられ、中には出版譜とは異なる調性を持つものもある。
D783収録の2曲の舞曲の異稿を含む「12のドイツ舞曲(レントラー)」D790は1864年に作品171として刊行。また複数の自筆譜の中から未出版のレントラーだけを選り分けた「17のレントラー」D366は1869年に刊行された。いずれも、編纂を務めたのはヨハネス・ブラームスである。
手つかずの自筆譜については、出版済みの舞曲を取り除き、未出版の舞曲のみを自筆譜ごとにグループにして、旧全集に収録することとなった。ドイチュ番号は、この旧全集の方針に従って振られている。

この整理方法に疑義を呈したのが研究者のモーリス・ブラウンである。
たとえば「6つのレントラー」D970は、20曲からなる舞曲集の自筆譜のうちの、第2・3・4・7・8・12曲を抜き出したものである。他の曲はD145やD366に収められており、いわばそうした曲集に選ばれなかった「残り物」を無理矢理バルクにしたに過ぎない。
舞曲集を編むにあたり、シューベルトが曲の配列についてどの程度気を配ったのかは不明だが、本来であればこの自筆譜に書きつけられた20曲をひとまとまりの曲集として扱うべきなのではないか。
そういった問題意識から、ブラウンはD番号とは別に、舞曲自筆譜を対象にして独自の整理番号を振った。
これがBrown, Ms.(ブラウン自筆譜番号)である(MsはManuscript(自筆譜)の略)。

新全集「舞曲 第1巻」(Serie VII-2-6)は、このブラウン自筆譜番号を元に編集されており、同じ舞曲の別ヴァージョンが多数収められていて、一見すると大変わかりにくい。
ブラウン自筆譜番号は、1966年のブラウンの著書「Essays on Schubert」の中で一般に提唱されたが、その一覧はウェブ上には見当たらない。ここにその一部を掲載し、複数のD番号にまたがる自筆譜についてはその詳細を別記事で紹介していこうと思う。
=で曲名と繋がれたものは、D番号で整理された作品と完全に一致する自筆譜である。

Brown, Ms.(ブラウン自筆譜番号)リストより抜粋
Brown, Ms. 2  =12のウィーン風ドイツ舞曲 D128
Brown, Ms. 3  =30のメヌエット D41
Brown, Ms. 7  =2つのメヌエット D91
Brown, Ms. 8  =エコセーズ ニ短調/ヘ長調 D158
Brown, Ms. 9  12のドイツ舞曲
Brown, Ms. 10  =12のエコセーズ D299
Brown, Ms. 13  =8つのレントラー 変ロ長調 D378
Brown, Ms. 14  =3つのメヌエット D380
Brown, Ms. 15  =6つのエコセーズ D421
Brown, Ms. 16  =2つのレントラー 変ホ長調 D980B
Brown, Ms. 17  =メヌエット ホ長調 D335
Brown, Ms. 20  9つの舞曲のインデックス
Brown, Ms. 21  =8つのエコセーズ D529
Brown, Ms. 23  =トリオ ホ長調 D610
Brown, Ms. 24  2つの舞曲
Brown, Ms. 25  ドイツ舞曲 D365-2
Brown, Ms. 26  ドイツ舞曲 D365-2
Brown, Ms. 28  5つのレントラー
Brown, Ms. 29  2つのエコセーズと2つのドイツ舞曲
Brown, Ms. 30  6つのレントラー
Brown, Ms. 31  6つの舞曲の草稿
Brown, Ms. 32  =ドイツ舞曲 嬰ハ短調 と エコセーズ 変ニ長調 D643
Brown, Ms. 33  9つのドイツ舞曲 変イ長調
Brown, Ms. 34  20のレントラー
Brown, Ms. 35  =6つのエコセーズ 変イ長調 D697
Brown, Ms. 36  =12のレントラー D681
Brown, Ms. 37  10のエコセーズ
Brown, Ms. 38  8つのレントラー 変ニ長調
Brown, Ms. 39  7つのドイツ舞曲
Brown, Ms. 40  4つのドイツ舞曲
Brown, Ms. 41  2つのドイツ舞曲 変ホ短調
Brown, Ms. 42  6つのアッツェンブルックのドイツ舞曲
Brown, Ms. 43  4つのドイツ舞曲
Brown, Ms. 44  =12のエコセーズ D781
Brown, Ms. 45  17のドイツ舞曲
Brown, Ms. 46  9つのドイツ舞曲
Brown, Ms. 47  =12のドイツ舞曲 D790
Brown, Ms. 48  エコセーズ 嬰ト短調 D145-E8
Brown, Ms. 49  =2つのドイツ舞曲 D769
Brown, Ms. 50  4つのドイツ舞曲
Brown, Ms. 51  11のレントラー
Brown, Ms. 52  4つの舞曲
Brown, Ms. 53  =3つのエコセーズ D816
Brown, Ms. 54  =6つのドイツ舞曲 D820
Brown, Ms. 55  2つのドイツ舞曲 変ホ長調
Brown, Ms. 56  6つのドイツ舞曲
Brown, Ms. 57  =ワルツ ト長調 D844
Brown, Ms. 58  =2つのドイツ舞曲 D841


シューベルトは、なぜある種の舞曲だけを何度も繰り返し五線に書き残したのか。調性や細部の異同の問題、そして「佐藤卓史シューベルトツィクルス」での舞曲に対するスタンスについては次回に譲りたい。
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  1. 2019/03/15(金) 13:34:29|
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改訂は「いつ」「なぜ」行われたのか?(D567→D568)

D568はもちろんのこと、D567についても、成立状況を教えてくれる文献は残っていないのだが、ひとつ面白い証言がある。
ニ短調の緩徐楽章初稿の記事で登場した、シューベルトの友人アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、1854年にフランツ・リストの求めに応じて「歌曲作曲家フランツ・シューベルトの生涯の断片 Bruchstücke aus dem Leben des Liederkomponisten Franz Schubert」という回顧録を残していて、その中で「嬰ハ長調のピアノ・ソナタ」について言及している箇所があるのだ。

非常に難しくて、シューベルト本人も間違えずに弾くことができなかった。私は3週間、熱心に練習して、彼と友人たちの前で演奏したところ、彼はこの曲を私に献呈してくれた。その後ある外国の出版社に送付したのだが、「こんなひどく難しい作品は、売れ行きが期待できないので、あえて出版しようとは思わない」という内容のメッセージとともに返送されてきた。

嬰ハ長調(!)のソナタというのは知られていないので、きっと変ニ長調のソナタ(D567)を指しているのだろう、ということで、この証言は新全集のD568の解説にも引用されている。
この時期にシューベルトがピアノ・ソナタをヒュッテンブレンナーに献呈したという事実も、外国の出版社に送ったという事実も、この証言以外には知られていない。ヒュッテンブレンナーという人は以前「グラーツ幻想曲」D605Aの記事でも述べた通り、ちょっと怪しげなところがある人物で、とりわけシューベルトの死後26年も経った1854年の証言を信用できるかどうかは微妙なところなのだが、もし本当だとすると、いろいろ符号が合うことがある。

まず第一に、D567がヒュッテンブレンナーに献呈されていたとしたら、例のニ短調の草稿の紙片を、ヒュッテンブレンナーが持っていたことも説明がつく。「これは君にあげたソナタのスケッチだから、あげるよ。ベートーヴェンの自筆譜の裏に書いちゃったんだけども」なんて言って渡したのかもしれない。その紙片をヒュッテンブレンナーは生徒の記譜練習に使わせてしまうわけなのだが・・・。

そして第二に、なぜシューベルトがD567を改訂しようと思い立ったのか、その理由の一端がこのエピソードには示されている。自分では弾けないような難曲だったが、ヒュッテンブレンナーが弾いてくれたら良い曲で、友人たちにも好評だった。それで自信がついて、外国の出版社に送ってみたが、「難しすぎてダメ」と言われた。
ならば、♭5つの変ニ長調から、♭3つで読譜しやすい変ホ長調に直せば、受け入れられるのではなかろうか。つまり、作曲家自身の内的欲求というより、受容を優先し、出版を視野に入れた上での改訂作業、という可能性があるのだ。緩徐楽章を同主短調の変ホ短調にしなかったのも、♭が多すぎる(6個)から避けた、という理由もあるだろう。
実際にD568が現在も演奏会の主要レパートリーに君臨しているところを見ても、シューベルトの目算は当たったということになる。


さて、肝心の改訂の時期については特定されておらず、1817年(D567の作曲年)から1828年(シューベルトの最期の年)までさまざまな説がある。

1817年説を唱えたのは著名なシューベルト学者のモーリス・ブラウンである。
ブラウンはD593の2つのスケルツォを、D567の挿入楽章の習作と捉えている。D567が1817年6月に完成したあと、すぐにシューベルトはD568への改訂作業に着手し、11月までに完成させて、そのとき捨てられた2つのスケルツォを譜面にまとめて、11月の日付を書き込んだ。つまりD593の作曲日付の「1817年11月」は、D568の完成時期を示している、という見立てである。
なぜそのようなロジックが成り立つのか、原文を何度読んでもさっぱりわからないのだが、おそらくは「D568は1817年作曲」という希望的観測が最初にあって、論を進めているだろう。「1817年の6曲のソナタ」の、失われた第3番・第4番のいずれかにD568を当て込みたかったものと思われる。

現在ではこの説の信憑性は低い。まず、D567の清書稿では、第2楽章の最終ページの裏面に第3楽章(フィナーレ)が書かれていて、その間にスケルツォ(あるいはメヌエット)が入り込む余地はない。D567は3楽章構成のソナタとして完成したのであり、D593のスケルツォがD567のために書かれたのだとしたら、1817年6月以前の時点で捨てられていたはずである。D567からD568への改訂作業の途中でスケルツォが書かれたとすると、変ロ長調の第1番はともかく、第2番の変ニ長調という調性はD568には合致しない。
D593が、何らかのソナタの中間楽章として書かれた可能性は否定できないものの、それがD567/D568であるという明確な証拠もなく、その作曲の日付がD568の完成を示すというのはあまりにも飛躍が多い。
さらに言えば、単なる移調だけならともかく、これほどの内容のブラッシュアップを伴う改訂を、D567完成直後のシューベルトが成し遂げたとはちょっと思えない。D567の完成からしばらく時間が経って、過去作を客観的に見ることができるようになった作曲者が校訂したもの、と捉えるのが自然だろう。少なくともこの時期のシューベルトが、いったん完成した作品にさらに手を加えるような習慣を持たなかったことは確かである。

一方で、改訂時期をシューベルトの晩年と見なしている学者もいる。
マーティン・チューシッドMartin Chusidは展開部の書法について、「1824年以前のシューベルトは、これほど広範囲における、複雑な転調のシークエンスを書いたことはない」という。さらに、展開部の内容を検討するとピアノ三重奏曲第2番D929や弦楽五重奏曲D956に似ているとして、改訂作業はシューベルト最晩年の1828年、もしかしたらその最期の数ヶ月か、数週間で行われたのかもしれない、と論じている。
論文そのものを参照できなかったので、どの部分を比較しているのかは詳しくわからないのだが、以前に分析した通り、D568で新たに書き足された部分は、終楽章の展開部の前半40小節のみであり、あののどかな舞曲風の部分の転調が、最晩年のシューベルトにしか書き得なかったものとはちょっと思われない。

マルティーノ・ティリモが編纂したウィーン原典版の解説には、「改訂作業が1826年に行われたことを示唆するいくつかの証拠がある」として、複数の論文が紹介されているが、その内容については詳述されておらず、そこに挙げられた論文のオリジナルを参照することもできなかったので、この説の信憑性については詳しい検討はできなかった。

1829年6月にフェルディナントが作成した、弟フランツの遺産台帳によると、1829年1月5日に、ペンナウアー社からの58グルデン36クロイツァーの支払いが記録されている。ドイチュは、これをD568の作曲料とみている。
時期的に考えて、D568の出版契約は、シューベルトの生前に締結されたのだろう。しかし1828年11月19日に急死したシューベルトは、その対価を受け取ることさえできなかったのだった。
  1. 2016/10/05(水) 22:44:28|
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