シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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シューベルトの旅 (5)1823年7-9月、リンツ・シュタイアー

フォーグルとの断絶は、長くは続かなかった。

オペラに関する屈辱的な出来事に苛まれていないときは、僕は元気にやっている。フォーグルは劇場を辞め、僕ももうそういうことに未練がなくなってしまったので、フォーグルとは仲直りした。来年の夏には彼と一緒に、あるいは彼を追ってまたそちらへ行ってみようとさえ思っている。君や友達とまた会えるのを楽しみにしているよ。
(1822年12月7日、シューベルトからシュパウンに宛てて)

というわけで1823年の夏、第2回のオーバーエスターライヒ旅行が計画されたわけだが、シューベルトに梅毒の症状が現れたのはその間の出来事だった。
梅毒の診断を受けたのは1822年の暮れとも、23年の初頭ともいわれている。シューベルト本人による体調不良の最初の記録は、1823年2月28日に音楽学者のイグナーツ・フォン・モーゼルに宛てた手紙の中にある。

またしてもこのようなお手紙を差し上げてご迷惑をおかけしなければならない失礼をお許し下さい。というのも、健康状態が未だ私を家から出すことを許さないのです。
(1823年2月28日、シューベルトからモーゼルに宛てて)

仲間内ではシューベルト発病のニュースはすぐに知れ渡ったが、病の性質からいってその病名を公にすることは憚られた。

人々はシューベルトを称賛していますが、しかし本人は引きこもっているそうです。
(1823年8月、ベートーヴェンの会話帳への甥カールの書き込み)

シューベルトはこの年に総合病院に入院したといわれるが、その時期については5月とも10月とも言われており定かではない。

7月25日、シューベルトはウィーンを発ち、3日後の28日の午後早くリンツに到着、先に行っていたフォーグルと合流し、シュパウンやシュタートラーと再会を果たした。
今回の滞在ではリンツのシュパウン家を拠点に、2度ほどシュタイアーに足を伸ばし、パウムガルトナー宅に宿泊したようだが、1819年や25年のオーバーエスターライヒ旅行と違ってほとんど記録が残されていない。旅の間中シューベルトの体調が悪く、活動が低調だったためとも言われているが、そもそもが転地療養を兼ねての旅行だったという見方もある。
8月14日、ショーバーに宛てた手紙で、その時点ではシュタイアーに移動していたことや、体調がある程度回復していたことがわかる。

親愛なるショーバー!
書くのが少し遅くなったが、君がこの手紙をウィーンで受け取れていると期待する。(医師の)シェッファーと頻繁にやりとりしていて、かなり具合は良くなってきた。でも再び完全に健康になれるかというと、ほとんど疑わしいと思う。ここでの生活はあらゆる点において簡素だ。熱心に散歩に行き、オペラを作曲し、ウォルター・スコットを読んでいる。
フォーグルとはうまくやっている。リンツにお互いがいた間は、彼はずいぶんたくさん、そして美しく歌ってくれた。(略)君が旅から帰る前にまた会うのは難しいだろうから、もう一度君の前途の多幸を祈り、君の不在を最大の痛みとする、僕の君への親愛を約束しておこう。

(1823年8月14日シュタイアーにて、シューベルトからショーバーに宛てて)

彼が当時作曲していたオペラとは、ヨーゼフ・クーペルヴィーザーの台本による「フィエラブラス」D796であり、今回の旅行中ずっと彼はその作業に関わっていた。ウィーン帰京後に完成し、シューベルトのオペラとしては最後の完成作となったが、例によって生前に日の目を見ることはなかった。
気になるのは、文中のフォーグルに対するどこか他人行儀な筆致である。「ずいぶんたくさん、そして美しく」歌ったという記述には、「引退後の老歌手にしては」という但し書きが見え隠れしないだろうか。少なくとも巨匠に対する敬意はあまり感じられない。「アルフォンソ」問題で生じた二人の間のわだかまりは、まだいくぶん残っていたのだろうか。
ミュラーの詩集に基づく連作歌曲「美しき水車屋の娘」D795の最初の数曲に着手したのもこの滞在中だったと伝えられるが、結局完成した歌曲集はフォーグルではなくもうひとりのシューベルト歌手、シェーンシュタイン男爵に献呈された。

シューベルトは9月半ばに旅を終えてウィーンに戻ったが、体調は一進一退だった。11月6日、ローマに旅立つ画家のレオポルト・クーペルヴィーザーのために友人たちが催した宴会に、シューベルトは体調不良で参加できなかった。その後の数ヶ月には、シューベルトの回復を報告する記録がいくつか残っている。
「すっかり良くなったので、厳しい生活規則を守るのをやめようという気を起こしている」(12月9日、ヨハンナ・ルッツから婚約者のクーペルヴィーザーへ)、「よほど良くなり、発疹のために丸坊主だった髪も生え揃い、まもなくカツラなしで出歩けるほどになるだろう」(12月26日、シュヴィント)、「具合は大変良い。彼はカツラを取って、巻き髪が生えかけているのを見せてくれた」(1824年2月22日、シュヴィントからショーバーへ)など、シューベルトは自らの病状をおどけて周囲の友人たちに披露していたが、内心は絶望に満ちていた。

一言で言うと、僕は、自分がこの世で最も不幸で惨めな人間だ、と感じているのだ。健康がもう二度と回復しそうにないという、その恐れのために物事を少しも良くしようとせず、悪い方向へ向かわせてしまう人間のことを考えてみてくれ。輝かしい希望が無に帰してしまい、愛や友情の幸せが最大の苦痛にしかならず、(せめて心を励ましてくれる)美に対する感動すら消え去ろうとしている人間、そんな人間は最も惨めで、最も不幸だと思わないか? 「私の安らぎは去った、私の心は重い。私はそれを、もう二度と、二度と見出すことはない」、そう今僕は毎日歌いたい。毎晩床に就くときは、もう二度と目覚めることがないように祈り、朝になると昨日の苦悩だけが思い出される。こんな風に、僕は友達も喜びもなしに毎日を送っている、時々シュヴィントが訪ねてきて、過ぎ去った甘い日々の輝きを僕に分けてくれるとき以外は。
(1824年3月31日、シューベルトからローマのクーペルヴィーザーへ)

「私の安らぎは去った」以降の引用文は、ゲーテの「ファウスト」に登場するグレートヒェンの台詞で、シューベルトが17歳のときに作曲した不滅の名曲「糸を紡ぐグレートヒェン」D118の冒頭の歌詞である。
この陰鬱な手紙が書かれたときには、翌々月からの2度目のツェリス赴任が既に決まっていた。
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  1. 2018/04/04(水) 23:02:39|
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シューベルトの旅 (2)1819年7-9月、シュタイアー・リンツ

フォーグルとシューベルト
毀誉褒貶の絶えない「シューベルトの親友」、フランツ・フォン・ショーバー Franz von Schober (1796-1882)の、生前のシューベルトへの最大の貢献といわれるのが、オペラ歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグル Johann Michael Vogl (1768-1840)の知己を取り付けたことだ。
フォーグルは26歳でケルントナートーア劇場にデビューして以来、圧倒的な人気と実力を誇ったスーパースターだったが、シューベルトと知り合う頃には、その四半世紀に及ぶオペラ歌手としてのキャリアに終止符を打とうとしていた。ショーバーは、この大ベテランにシューベルトを紹介しようと画策し、早世した姉の夫でやはり劇場の歌手を務めていたジュゼッペ・シボーニ Giuseppe Siboni (1780-1839)のコネクションを使ってフォーグルに接触した。フォーグルは当初「若き天才現るという話はこれまで何度も聞いたが、そのたびに失望してきた。もうそういうことには関わりたくない」と突っぱねたが、他の友人たちの口添えもあって渋々面会を承知し、当時シューベルトが居候していたショーバーの家を訪れた。1817年の春から夏にかけての出来事と思われる。
シューベルトの伴奏に合わせて、はじめは気乗りせずに歌っていたフォーグルだったが、何曲か歌うにつれて次第に熱が入り、この若い作曲家に興味を持つようになった。
「君はいいものを持っているが、コメディアン的、山師的な部分が少なすぎる。素晴らしいアイディアが、充分に磨かれずに浪費されている」
と助言して退去したが、その後しばしばシューベルトに会いに来て、やがてその熱烈な信奉者、サポーターとなり、リート演奏を通してシューベルトの天才を世に知らしめる広告塔を買って出た。大柄で恰幅の良いフォーグルと、風采の上がらないシューベルトが連れ立って歩くカリカチュアはあまりにも有名である。

1819年、23年、25年の3度にわたるオーバーエスターライヒへの旅行は、いずれもフォーグルの同伴で実現したものだった。
オーバーエスターライヒとは、現在はオーストリアの9つの連邦州の1つとなっているが、元来は地域名である。現在のオーバーエスターライヒ州と、その東側にあり首都ウィーンを取り囲むように広がるニーダーエスターライヒ州の両州に相当する地域が、古くからオーストリアの国土の中核を成してきた。15世紀の半ばに、エンス川を境に2つの地域に分かれ、オーバーエスターライヒ Oberösterreich(英語でUpper Austria、「上部(高地)オーストリア」)とニーダーエスターライヒNiederösterreich(英語でLower Austria、「下部(低地)オーストリア」)と呼ばれるようになった。ウィーンから見ると、オーバーエスターライヒは真西におよそ200kmといったところである。
1818年秋、ツェリスから帰郷したシューベルトのところに、フォーグルが大きな仕事を持ってきた。なんと、ケルントナートーア劇場から新作オペラの依頼を取り付けてきたのである。この1幕物のオペラ「双子の兄弟」D647は2年後の1820年に上演されることとなる。
そしてフォーグルは、翌1819年の夏の休暇に一緒にシュタイアーへ旅行しようと、シューベルトに持ちかけたのだ。

ウィーンと、オーバーエスターライヒの各都市。三角形の上の点がリンツ、右下がシュタイアー、左下がクレムスミュンスター。

シュタイアー Steyrは州都リンツに次ぐオーバーエスターライヒの街で、ニーダーエスターライヒ州との境目に位置する。エンス川とシュタイアー川の間に広がる市街地には10世紀から続く美しい街並みが残されており、シューベルトの時代に既に古都として知られていた。
フォーグルはもともとシュタイアーの生まれであったので、要するに毎夏恒例の里帰りにシューベルトを同行させた、という格好になる。シューベルトにとって、シュタイアーはフォーグルだけでなく、当時の同居人のヨハン・マイアホーファー、コンヴィクト同窓生のアルベルト・シュタートラーの生まれ故郷でもあり、是非訪れてみたい土地であったに違いない。
旅行の手配と支払いはフォーグルの自腹だったが、旅行中に自由に使える小遣いも欲しかろうと、オペラの委嘱料の一部を劇場から前借りし、シューベルトに持たせてやるほどの親切ぶりだった。

7月中旬、フォーグルの休暇が始まるやいなやふたりはシュタイアーへ向かった。シュタイアーでのシューベルトの滞在先は、旧友シュタートラーの叔父で弁護士のアルベルト・シェルマン Albert Schellmann (1759-1844)の大邸宅で、そこにはシュタートラーとその母も住んでいた。1階のシェルマン家には5人の娘がいて、隣のヴァイルンベック家の3人と合わせて8人の少女たちがわいわいと生活していた。

僕が住んでいる家には8人もの娘たちがいて、しかもほとんどみんな可愛い。僕が忙しいのがわかるだろう?
(7月13日、シューベルトから兄フェルディナントへ)

シューベルトはシュタートラーとともに2階の部屋に住んで、シェルマン氏のピアノを借りて仕事をした。
一方でフォーグルは、シェルマン家のすぐ近く、鉄鋼商のヨーゼフ・フォン・コラー Josef von Koller (1780-1864)の邸宅に滞在していたらしい。

毎日フォーグルと食事をご馳走になっているフォン・コラー氏のところには娘がいて、とても可愛い。ピアノが上手で、僕の歌曲をいくつか歌ってくれることになっている。
(同前)

当時18歳だったこの娘はヨゼフィーネ Josefine (Josefa) (1801-1874)といい、シューベルトのシュタイアー滞在中の「ミューズ」であった。シューベルトは彼女を「ペピ」の愛称で呼んだ。
コラー家ではたびたびプライベートの音楽会が開かれ、あるときにはシューベルトの「魔王」の歌唱パートを人物ごとに分担して、ヨゼフィーネがこどもを、シューベルトが父親を、フォーグルが魔王を演じ、シュタートラーが伴奏する、なんていう楽しい一幕もあったらしい。また8月10日のフォーグルの誕生日には、シュタートラー作詩、シューベルト作曲の新作カンタータ「歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグルの誕生日に寄せて」(D666)をコラー邸で披露。ヨゼフィーネがソプラノ、地元の歌手ベルンハルト・ベネディクトがテノール、シューベルトがバスを担当し、ピアノ伴奏のシュタートラーとの4人で51歳になった歌手を祝福した。
シュタートラーによると、シューベルトはこの滞在中に、直近で書き上げたピアノ・ソナタの楽譜をヨゼフィーネにプレゼントしたという。これはD664のイ長調ソナタのことだと考える向きが多い。

もうひとり、1819年のシュタイアー滞在でシューベルトが出会った、忘れてはならない人物はシルヴェスター・パウムガルトナー Silvester Paumgartner (1764-1841)である。彼は鉱山組合の役員で、アマチュアのチェリストでもあり、豪邸でのサロンコンサートをたびたび催していた。地元出身のスターであるフォーグルと、シューベルトによるパウムガルトナー邸での歌曲の夕べは大喝采をもって迎えられた。
パウムガルトナーの委嘱によって作曲され、彼に献呈されたのがかの名曲、ピアノ五重奏曲「ます」D667である。おそらく歌曲「ます」の旋律を気に入ったパウムガルトナーが、チェロの入った編成で楽しく演奏できる室内楽曲を、とシューベルトに頼んだのだろう。パウムガルトナー邸に設置された記念碑には「この家で『ます』五重奏曲が作曲された」とあるが、これはどうやら誤りで、シューベルトは依頼を受けてからいったんウィーンに戻り、完成させた譜面をシュタイアーに送ったようだ。1819年暮れから1820年初めにかけての冬のシーズンに、パウムガルトナー邸で初演されたが、そこにシューベルトは立ち会わなかった。

さてシューベルトとフォーグルは、シュタイアーを根城にしてリンツにも足を伸ばしている。8月19日付の、ウィーンでの同居人マイアホーファーに宛てた手紙はリンツから出された。

僕は現在リンツにいる。シュパウン家に滞在し、ケンナー、クライル、フォルストマイアーに会った。シュパウンの母親、それからオッテンヴァルトと知り合い、彼の詩に作曲した「子守歌」を歌ってあげた。シュタイアーではとても良い時間を過ごしたし、このあともそうなると思う。あのあたりはまるで天国だ。リンツもとても美しい。僕たち、つまりフォーグルと僕は、向こう数日間ザルツブルクに旅行するつもりだ。どんなに楽しみにしていることか。
(8月19日、シューベルトからマイアホーファーへ)

リンツはシュパウン家の本拠地だが、残念ながらコンヴィクト時代の親友ヨーゼフ・フォン・シュパウンは他所に赴任中のため不在で、代わりに弟で文学史・民俗学者のアントン・フォン・シュパウン Anton von Spaun (1790-1849)や、彼らの妹の夫アントン・オッテンヴァルト Anton Ottenwalt (1789-1845)らと親交を深めた。
彼らを中心に、コンヴィクト時代の友人ヨーゼフ・ケンナー、シュタイアーのアルベルト・シュタートラー、それにマイアホーファーといった面々が、リンツ=シュタイアー地域の友人グループを形成している。彼らは文学や哲学に精通し、その詩作にシューベルトが付曲したリートも多い。この「リンツ=シュタイアー」一派は、シューベルトのウィーンの友人たち(画家が多い)とともに、後の「シューベルティアーデ」メンバーの中核となっていく。
マイアホーファーに予告したザルツブルク行きは結局このときは実現しなかったようだ。シュタイアーに戻る途中、8月26日にはクレムスミュンスターの修道院に立ち寄っている。修道院のギムナジウムは、フォーグル、そしてショーバーが少年時代を過ごした場所でもあった。
残りの休暇の日々をシュタイアーで過ごし、9月の半ばにウィーンへ帰着した。旅行中にシューベルトが書いた作品は少なく、歌曲に至っては1曲も作曲していない。おそらくフォーグルとの演奏もあって忙しかったのだろう。

フォーグルがこの旅行にシューベルトを同行させた理由は、単に自分の故郷を見せたいというだけでなく、ウィーン以外の地方にもシューベルト・ファンのネットワークを広げるという目的があったと思われる。シュタイアーのシェルマン、コラー、パウムガルトナー、リンツのシュパウン、オッテンヴァルトの各家は、1823年・25年の旅行時にもフォーグルとシューベルトに便宜を図り、さらにシューベルトの没後もその名声を高めることに貢献した。

[参考文献]
・Rudolf Klein著「Schubert Stätten」(Elisabeth Lafite, 1972)
・Otto Erich Deutsch編「Franz Schubert Die Dokumente seines Lebens und Schaffens」(Georg Müller, 1914)
・藤田晴子著「シューベルト 生涯と作品」(音楽之友社, 2002)
・オットー・エーリヒ・ドイッチュ編 實吉晴夫訳「シューベルトの手紙」(メタモル出版, 1997)
  1. 2018/03/06(火) 22:45:11|
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