シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

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シューベルトの旅 (9)1828年10月、アイゼンシュタット

1828年9月、シューベルトはしばらく暮らしていた市中心部のショーバーの家を出て、兄フェルディナントの住まいに引っ越す。彼はこの頃、持病の頭痛とめまいに加え、食欲不振にも悩まされていた。兄の新居は少し郊外のヴィーデン地区にあり、その新鮮な空気が体調に良い影響を与えるだろうと、医者に勧められたのである。この家は現在のウィーン4区・Kettenbrückengasseにあり、「シューベルトの最期の家」として公開されている。

シューベルト最後の家外観
4区・ケッテンブリュッケンガッセにある「シューベルトの最期の家」

シューベルトは死去する11月19日までの間、「冬の旅」の校訂などを行いながらほとんど床に伏せっていたというイメージで語られるが、実は10月の初め、シューベルトはフェルディナントとその他2人の友人とともに、徒歩でブルゲンラント州のアイゼンシュタットへ出かけている。


ウィーンと、やや南方に位置するアイゼンシュタット

アイゼンシュタットはエステルハーツィ家の本拠地であり、ハイドンが同家に仕えて長年暮らしたことでも知られる。そのハイドンの墓所に参ったほか、行き帰りでは当時ハンガリー領だったブルゲンラントや、ニーダーエスターライヒ州内の街々にも立ち寄ったという。
この3日間の小旅行についてはただフェルディナントの証言があるのみで、詳しいことはほとんどわかっていない。

それにしても、常識的に考えて驚くべきことである。瀕死の病人が、ウィーンからアイゼンシュタットまで24kmもの道のりを徒歩で行き帰りできるものなのだろうか。
そう考えると、少なくともこの時点ではシューベルトは死に至るような病状ではなく、それなりの体力が残っていたと推測するのが自然だろう。
病状がいよいよ重篤になるのは10月31日以降のことで、それから3週間も経たずにシューベルトは最期の時を迎えたのである。おそらく本人を含め周りの誰もが、彼がこれほど速やかに死に向かうとは想像していなかったに違いない。
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  1. 2018/04/17(火) 08:31:09|
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アレグロ・モデラート ハ長調 と アンダンテ イ短調 D968 概説

アレグロ・モデラート ハ長調 と アンダンテ イ短調 Allegro moderato C-dur und Andante a-moll D968
作曲:1815~19年? 出版:1888年
楽譜・・・IMSLP

自筆譜はいわゆる「清書譜」ではなく、タイトルも日付も記されていない。筆跡から、1815年から19年頃の初期の作品と推定されている。特徴的なのは、インクと鉛筆で指使いが念入りに書き込まれていることで、そこから、この作品がピアノレッスンの教材として使用されたこと、もっと言えば教材目的で作曲されたことが推測できる。だとすると、やはりエステルハージ家の姉妹に関連する作品とも考えられる。ドイチュは、シューベルトが1818年夏のツェリス滞在以前から、ウィーンのエステルハージ邸を訪れて姉妹のレッスンをしていたという可能性を示唆していて、曲の習作的な簡潔さを考え合わせても、1818年以前に成立していた可能性は高いかもしれない。「ソナチネ」の愛称で呼ばれることもある。

ハ長調のアレグロ・モデラートは教科書的とすらいえるソナタ形式で書かれている。バスの4分音符の刻みの上で3度の重音で提示される第1主題、8分音符の伴奏型に乗ってダクティルスのリズムで始まる第2主題は、いずれも極めて古典的で、明瞭かつ純粋な性格を持つ。展開部は意表を突いた変ロ長調で始まるが、その後の転調はいささか図式的。再現は型どおりである。

イ短調のアンダンテは緩徐楽章で、プリモが旋律、セコンドが伴奏という役割から離れない。ややセレナーデ的な性格はあるものの、感情の深みや劇的な展開には遠い。ピカルディ終止でイ長調の和音で終わるが、普通に考えればこの後にハ長調のフィナーレが続いてしかるべきだろう。この作品を「ソナチネ」と捉えるならば、フィナーレを欠いた「未完」作品という解釈が妥当かもしれない。

ちなみに兄フェルディナントは、1833年に自身の作品「パストラール・ミサ」のクレドに、この曲を引用というか、そっくりそのまま編曲して用いている。フェルディナントはフランツの生前から、弟の作品を勝手に自作として発表することがあったが、フランツもそれをあまり問題にはしていなかったようだ。D968の自筆譜のプリモパートには、鉛筆の筆跡で「クレド」の歌詞が書き込まれているが、これはおそらくフェルディナントによるメモと考えられる。
「パストラール・ミサ」は1846年のクリスマスにウィーンの聖アンナ教会で初演され、「紛う方無きシューベルトの精神の遺産」と新聞で絶賛されたが、実際にはその大部分がフランツの作品の盗用だったことが判明している。
  1. 2017/06/15(木) 21:37:14|
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