2021年6月3日(木) 19時開演 東京文化会館小ホール
♪メヌエット 嬰ハ短調 D600
♪ピアノ・ソナタ 断章 嬰ハ短調 D655(佐藤卓史による補筆完成版)
♪ピアノ・ソナタ 第9番 嬰ヘ短調 D571+604+570(佐藤卓史による補筆完成版)
♪ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 D894「幻想」
一般4,000円/学生2,000円
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2021/06/03(木) 19:00:00 |
シューベルトツィクルス
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ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 Klaviersonate Nr.18 G-dur D894 作曲:1826年10月 出版:1827年4月(「幻想曲、アンダンテ、メヌエットとアレグレット」作品78として)
この大ソナタは、シューベルトのコンヴィクト時代からの親友、
ヨーゼフ・フォン・シュパウン に献呈された。シュパウンはこの作品についてこんな証言を残している。
ある朝彼に会うと、ちょうどソナタを書き終えたところだった。つっかえながらもその場で彼が試演してくれたその曲に、私がすっかり夢中になったのを見て、彼は「気に入ったなら、君のソナタにしよう。君に喜んでもらえるのが僕は一番うれしい」といって、ページを切り取って、私に献呈してくれた。それが作品78だ。 なんと美しいエピソードだろうか。
シュパウンは後年こうしたシューベルトのさまざまな思い出を回顧録にまとめていて、それによって我々もシューベルトの人となりを知ることができる。何も書き残さなかった悪友ショーバーとはえらい違いである。
シュパウンは出版に際しての公式な「献呈許可」を1826年12月15日に認めており、そこには「フランツ・シューベルトの
第4ピアノ・ソナタ 」とある。
しかし実際には、これはシューベルトにとって
3曲目 の―そして生前最後の―ピアノ・ソナタ出版となる。なぜ「第4ソナタ」なのだろうか?
シューベルトの死の直後にペンナウアーから出版された
変ホ長調D568のタイトルは「第3グランド・ソナタ 」 となっている。ということは、1826年4月にD850のニ長調ソナタが出版されたあと、12月までの間にD568の出版契約を締結した、ということなのではないだろうか。だがD568の出版は遅れ、その間にシューベルトは他界してしまった。
D894は1827年4月にハスリンガー社から「Museum für Klaviermusik ピアノ音楽の博物館」というシリーズの第9巻として出版されたのだが、そのときのタイトルは
「幻想曲、アンダンテ、メヌエットとアレグレット」 となっている。おそらく急に降ってわいたような出版話だったのだろう。それにあたって、「ピアノ・ソナタ」では売れないから、タイトルを変えさせてくれ、という提案をシューベルトは受け入れたようだ。この作品は
4曲からなる小品集 として世に出たのである。
「幻想」ソナタ という愛称は、この初版タイトルに由来している。ただ第1楽章の冒頭に記された「幻想曲、または:ソナタ」という副題が、この作品の本来の姿を物語っている。
1825年以降の大ソナタへの取り組みの成果が結実した大作であるが、全体としては非常に穏和で、見方によっては冗長な印象も拭えない。
その一因は、
「繰り返し」の多さ にある。もともと繰り返しの多いシューベルトであるが、この曲では半ば意図的に繰り返しが多用されており、小さなモティーフから大きなセクションに至るまで、あらゆる要素は「繰り言」のように必ず反復される。だからといってシンメトリカルな楽節構造になっているかというと必ずしもそうではなく、「字余り」のような楽句もあって、音楽がドライヴするのを阻んでいる。
もうひとつ、この作品は
「和音」 の響きが支配する箇所が多く、シューベルトの本領である旋律の美しさでぐいぐい引っ張っていくようなところは少ない。減衰していくピアノの音にじっと耳を澄ますような、静的な音楽が聴き手の時間感覚を惑わせるのだ。
あわせて、両端楽章の左手の5度の響きの連続がいかにも
「田園」風 で、シューベルトならではの舞曲のリズムも相まって、田舎の鄙びた空気が濃厚に漂ってくる。「幻想」というニックネームがなかったら、きっと「田園」ソナタと呼ばれていたのではないだろうか? 大自然に身体ごと包み込まれるような安らぎと喜びを感じさせるこの作品が、夏の旅行中に書かれたというようなエピソードがあれば納得できるのだが、この年シューベルトは
どこにも出かけられずにウィーンに留まっている 。
一方で
リズムの分割 に関する探求は前作D850よりもさらに進んでいて、第1楽章の11:1の鋭い長短のリズム(12/8拍子にベートーヴェンの「熱情」第1楽章からの影響を指摘する説もある)で和音が交代する第1主題はピアノならではの書法だし、第2楽章の反復時のリズム変奏の手法も手が込んでいる。
第1楽章 の第1主題、前述の和音が静かに交代するさまは瞑想的で、「幻想」のイメージはここから生まれたのだろう。ニ長調の第2主題では左手にシチリアーノ風の踊りのリズムが現れ、音楽に活気を与えている。確保時にメロディーは16分音符で細かく変奏され、それが下行音階へ続いてゆき、激しいドッペルドミナントの和音へなだれ込む。展開部は第1主題と第2主題をバランス良く扱っており、対位法的・和声的な盛り上がりもあり、規模的にも全く不足のない、充実した内容となっている。ただ、同じ要素の反復はやはり多く、いくぶん冗長な感じも否めない(なおこの展開部の構成は
D568の第1楽章の展開部 と酷似しており、D568がこの時期に改訂された可能性を推測させる)。再現部では第1主題部をぐっと短縮して、第2主題以降を主調で再現する。コーダも相変わらず繰り返しの連続で、次第に遠ざかって消えていく。
第2楽章 はニ長調で、ABAB'A'のロンド形式、あるいは展開部を欠くソナタ形式とも考えられる。A部はそれ自体がabaの三部形式で、本作の中では珍しくシューベルトらしい歌心が発揮された美しいメロディーだ。B部は一転して激しい和音の打撃と不安げな楽想が交互に登場する。反復される間に主題は細かい変奏を纏うようになる。
第3楽章 はロ短調のメヌエット。典型的な複合三部形式である。厳しい和音の連打で始まる主部のデモーニッシュさは、すぐにニ長調の優雅な衣に隠れてしまう。トリオはロ長調で、レントラーの趣が強い。再現時には嬰ト長調(!)に転調する。
第4楽章 はABACAのロンド形式のフィナーレ。のんきな調子の主題で始まり、合いの手のように現れるタタタタという和音連打(前楽章から引き継いだ要素である)がやがて主要なモティーフになっていく。最初のエピソード(B)はハ長調、シューベルトの好きなダクティルスのリズムに乗って無窮動のメロディーが続いていく。2番目のエピソード(C)は変ホ長調だが、ハ短調とハ長調の副エピソードを伴った長大なセクションである。ここでもダクティルスのリズムが支配的で、B部とのキャラクターの違いが明確化されない。ロンド主題にも反復時には細かい変奏が施されるものの、全体的にずっと同じようなことをやっているような、田園風景がどこまでも続いていくような長閑な印象を残したまま、静かに曲は終わっていく。
2021/05/31(月) 22:45:21 |
楽曲について
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ピアノ・ソナタ 第9番 嬰ヘ短調 (断章・未完) Sonate (Fragment) fis-moll D571 作曲:1817年7月 出版:1897年(旧全集)
アレグロ 嬰ヘ短調(未完) と スケルツォ ニ長調 Allegro (Fragment) fis-moll und Scherzo D-dur D570 作曲:1817年? 出版:1897年(旧全集)
ピアノ小品 イ長調 Klavierstück A-dur D604 作曲:1816~17年? 出版:1888年(旧全集)
(シューベルトのピアノ・ソナタの一覧は
こちら )
D571の嬰ヘ短調ソナタもまた
問題児 である。
第1楽章が完結しておらず、さらには後続楽章も揃っていないという
「二重苦」 にもかかわらず、バドゥラ=スコダが先鞭をつけた復元の試みが功を奏し、現在では時折演奏会やレコーディングのレパートリーに上るようになった。それに値するだけの唯一無二の音楽であることは疑いない。
冒頭楽章の断片(D571)は1817年7月に作曲された。タイトルには
「Sonate V」 とあり、
1817年に計画された6曲の連作ソナタ の第5番として書かれたことがはっきりしている。
左手のアルペジオの伴奏型が初めに現れ(このような「前奏」から始まるソナタは当時としては非常に珍しい。同じ調性のシューマンのピアノ・ソナタ第1番を連想させるが、1897年の旧全集で初めて出版された本作をシューマンが知っていた可能性はない)、[5]から右手がオクターヴで第1主題を奏でる。属音の3連打で始まる旋律の、滴り落ちるような瑞々しさと儚い悲しみは、まさに稀代のメロディーメーカー、シューベルトならではのものだ。メロディーが終わったあと、伴奏の音型だけが残って展開の素材となり、転調を繰り返して[54]でニ長調の第2主題へ至る。前から引き継いだアルペジオの中からメロディーの断片が聞こえてきて、それが次第に繋がっていく。しかし第1主題のような歌謡的な旋律はもう現れず、全体としてはアルペジオが支配する器楽的なテクスチュアの提示部である。
ニ長調の主和音に終着したあと、[100]の1番括弧では主調嬰ヘ短調の四六の和音に進んで、冒頭に戻る。ところが2番括弧ではなんとヘ長調の四六の和音へスライドし、半音階的なゼクエンツを経て[106]で変ホ長調というとんでもない遠隔調へたどり着く。調号もこれに合わせてフラット3つに変更となる。アルペジオの伴奏型はずっと続いたままだが、最上声には第1主題の同音連打をモティーフにした新しい主題が登場する。曲は変ホ短調を経て変ハ長調、そして変イ短調の和音が現れたところで調号がシャープ3つに戻り、3度ずつ下降するゼクエンツがロ短調のドミナントの和音に到達し、メロディーは薄れて同音連打のモティーフだけが残る。そして[141]で自筆譜は中断する。
以上が残されたD571(第1楽章)の姿である。この断章をいかにして完成させるかという話題については次の記事に譲ることにして、
後続楽章 について触れることにしよう。
D570の
「アレグロとスケルツォ」 がD571の関連楽章であろうということは、比較的早い段階から推測されてきた。嬰ヘ短調という珍しい調性(シューベルトの器楽曲で嬰ヘ短調を基調とする作品は他に見当たらない)、アルペジオを多用したテクスチャー、またフィナーレにふさわしい軽快な曲調は、「アレグロ」がこの嬰ヘ短調ソナタの終楽章として計画されたことを窺わせる。同じ自筆譜に書きつけられていたニ長調の「スケルツォ」はその中間楽章と考えるのが自然だ。シューベルトらしい舞曲風の「スケルツォ」は時に突飛な展開で人を驚かす。変ロ長調の中間部を持ち、セクション間のしりとりのようなモティーフのやりとりが楽しい。
例によってブラームスがこの作品に興味を示し、シュナイダー博士という人から借りてきた自筆譜をもとに作成したという筆者譜が、ウィーン楽友協会に保存されている。
ひとつ引っかかるのは、自筆譜ではアレグロの方が先になっていて、アレグロの最終ページの裏にスケルツォが記されているということだ。D571の後続楽章とするには、この曲順をひっくり返さなくてはならない。
もうひとつの大きな問題は、この嬰ヘ短調の「アレグロ」が
またしても未完成 で、ソナタ形式の展開部までで筆が止まっているということだ。それこそ「一丁上がり」とばかりに、続きを端折って「スケルツォ」に取りかかったわけだ。この楽章の補作についても次の記事で触れよう。
D571にD570の2つの楽章を接続させることについては、研究者の間では概ねコンセンサスが取れていて、新全集でも同じ巻の中に収録されている。
ところが、このソナタは
緩徐楽章を欠いている 。
シューベルトの完成した3楽章構成のソナタでは、
例外なく第2楽章は緩徐楽章であり、スケルツォを持つものはない 。スケルツォやメヌエットがある場合は必ず緩徐楽章のあとに置かれ、全体は4楽章構成となる。
その緩徐楽章の有力候補として、
パウル・バドゥラ=スコダ が見繕ってきたのがD604の
イ長調の小品 であった。
この小品は音楽としては完結しているが、タイトルも速度表記もなく、何のために書かれたのかは判然としない。1816年9月に完成した序曲D470の四重奏形式のスコアの続きに記されているが、バドゥラ=スコダやデイヴィッド・ゴールドベルガーによれば、D604とD570はいずれも1815-16年の自筆譜の余白に書き込まれているという共通点があるという。いずれも日付や署名、楽器指定を欠いているが、シューベルトがピアノ・ソナタの中間楽章を書くときはいつもそうだったとゴールドベルガーはいう。しかしながらそれ以上の積極的な関連性については確証がないとして、新全集ではD604はソナタから切り離して「小品」の巻に収録された。
構成としては典型的な「展開部を欠くソナタ形式」だが、第1主題のイ長調に対して第2主題は下属調のニ長調をとるのがいっぷう変わっている。再現部では第1主題の確保の際に属調ホ長調に転調し、そこから形通りにイ長調に戻る。曲は弦楽四重奏を思わせるテクスチャーで、微妙な和音の移り変わりが表情に繊細な陰影をもたらしている。確かに、開始早々に嬰ヘ短調のドミナント和音が登場したり、第2主題ではD570のスケルツォの冒頭と同じfis-eis-fisという音型を使用するなど、D571/D570との関連をほのめかす証拠は多々ある。第2主題の後半では右手に装飾的なパッセージが登場して、キラキラと忙しく動き回る。
左 はピアノ小品D604の[19]、第2主題冒頭部。赤くマークしたfis-eis-fisの音型 は右 のスケルツォD570-2の冒頭と一致する。 ちなみに青くマークした同音連打 がD571の第1主題から来ているという説もあるが、クラウゼによれば「考えすぎ」。D570-1のアレグロと、(
またしても )
ベートーヴェンの「月光」ソナタ 終楽章との調性配置の類似を指摘しているアンドレアス・クラウゼは、D604の追加には否定的で、このソナタは「月光」と同様、中間楽章にスケルツォを置く3楽章ソナタであるべきだと主張している。しかし「月光」ソナタの場合は冒頭楽章が既に緩徐楽章であったわけで、D571も緩やかな曲想とはいえ同列には論じられないと私は思う。
今回はバドゥラ=スコダの提案の通り、
D604を含む4楽章ソナタ(D571+D604+D570-2+D570-1) の形で演奏することにしたが、未完の両端楽章にはオリジナルの補筆を行った。これについては次の記事で触れよう。
2021/05/22(土) 21:56:35 |
楽曲について
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ピアノ・ソナタ 断章 嬰ハ短調 Sonate (Fragment) cis-moll D655 作曲:1819年4月 出版:1897年(旧全集)
(シューベルトのピアノ・ソナタの一覧は
こちら )
未完成の多いシューベルトのソナタの中でも、
D769Aと並んで「落ちこぼれ」 組に入る本作は、実際にはほとんど演奏されることがない。とはいえ、楽想のスケッチの域を出ないD769Aと比べれば、D655は演奏が不可能ではない程度にはまとまった音楽を形成している。
D567とD568 を「第7番」にまとめて、このD655に「第12番」の通し番号を与える数え方もある(
IMSLP もこのシステムを採用している)。
自筆譜の冒頭にはSonateというタイトルが大書され、脇には1819年4月という日付も記されているが、
発想標語が欠けている ことからして既に雲行きが怪しい。そして2枚目の五線紙の裏面、
2段目の大譜表の末尾 に反復記号を記したところまでで中断している。
その
全73小節 の内容を点検すると、以下の4つのセクションに大別することができる。少し詳しく見ていこう。
セクション1 [1]-[13] 第1主題部 [1]、リズミカルな
第1主題 が両手ユニゾンで力強く提示される。5小節間の提示の中で主題は嬰ハ短調から平行調のホ長調へ移っていくが、[6]で嬰ハ短調に戻り対位法的な主題の確保が行われる。ここでは音楽はさらにドラマティックに展開し、[9]でナポリの六の和音、[10]でドイツ六の和音のアルペジオを強奏してドミナントへと至る。このように、
1小節間を1つの和音でベタ塗りしていく ような書法がこの作品のひとつの特徴になっている。[12]のドミナントから始まる単声のパッセージが行き着く先はホ長調である。
セクション2 [14]-[38] 第2主題部 [14]、平行調のホ長調で
第2主題 が提示される。静的で滑らかな上声の旋律、同じリズムで影のように寄り添うバス、その間で内声が16分音符のトリルを休み無く続けていく。旋律的ではあるが美しいというより不気味な雰囲気が漂う。和声は常にドミナント調(ロ長調)への接近を見せ、[25]で半終止する。[26]からの主題の確保は、構造的には全く同じ内容の繰り返しであるが、トリルに代えて3連符の伴奏型が左手に現れるとともに、なんとバスとソプラノの声部が入れ替わり、両方を右手が奏するという面白いヴァリアントが施されており、そのためたびたび右手は10度の開きを要求される。[37][38]でやはり単声のパッセージが残され、それに導かれて主調嬰ハ短調のドミナントの和音がやってくる。
セクション3 [39]-[61] 第1主題の展開 [39]-[42]、fzを伴う第1主題のモティーフとともにドミナントの和音が執拗に繰り返された後、[43][44]でニ長調の属七(=嬰ハ短調のドイツ六の和音)、[45][46]でヘ長調の属七という
怒濤の展開 となる。引き続き第1主題のモティーフを繰り返しながら、[47]からはヘ長調、[51]からは変イ長調とどんどん転調していき、[58]で確定した変イ長調を異名同音の嬰ト長調(調号で書くならばシャープ8個!)に読み替えて、さらにドミナントとトニカの反復で調性を定着させていく。
派手な転調とヴィルトゥオーゾな書法 がこのセクションの性格を特徴づけている。
セクション4 [62]-[73] 第2主題による小結尾 16分音符のパッセージが終わるとともに[62]で第2主題の不気味なトリルが両手に登場し、第2主題冒頭の3音を拡大した動機を、初めは嬰ト短調で、次に嬰ト長調で繰り返す。この音楽の異様さは
不気味を通り越して恐怖 をも感じさせる。さらに自然な音楽の流れを阻むような[72]のゲネラルパウゼ(全休止)。そして冒頭の第1主題を導くためのユニゾンのパッセージが[73]に記されて、この断章は終わっている。
さて、
シューベルトは楽章全体の「どこまで」を書いて筆を置いたのだろうか 。逆の視点からいえば、このあとにどんな音楽が続くべきなのだろうか。このことは長らく議論の対象になってきた。研究者の間でも意見は一致していない。
説1 :中断箇所は「提示部の末尾」 であり、このあとに展開部と再現部 が続くはずだった。これは最も古典的な説である。中断箇所の末尾に付された
反復記号 がその何よりの根拠であり、シューベルトが常にソナタ形式の提示部の反復を指示する伝統主義者だった(ベートーヴェンは作品57(「熱情」)でこの伝統を捨てている)ことを考えても説得力がある。セクション4の小結尾も提示部の終わりにふさわしい安定した内容を備えている。
ところがセクション3で提示部の中に既にドラマティックな展開を書いてしまったため、このあとの展開部の
先行きが見えなくなり、ここで完成を諦めてしまった 、という推測も成り立つ。
説2 :中断箇所は「展開部の末尾」 であり、このあとは再現部 となる。[38]までが提示部、[39]からが展開部であるという説。確かにセクション3の激しい展開はソナタ形式の展開部というにふさわしい。ベートーヴェンの前例に倣って提示部の繰り返しの省略に踏み切ったのかもしれないし、[37][38]のパッセージの音型を少し変えれば[1]へ戻ることもたやすく、改稿時にそうした整備を行うつもりだったのかもしれない。[74]からの再現部の記譜を省略し、代わりに[73]に暫定的に反復記号を書いておいたのだろう、というのがこの説である。
そもそもこの時期のシューベルトは
ソナタ形式の展開部まで書いて筆を置く ことが多い(D571・D570、D613、D625)。本人にとっては、展開部まで書けてしまえばあとは「型どおり」に再現すればよいので、わざわざ記譜する必要を感じなかったのだろう。この断章についても同様に、作曲者の脳内ではこれで「一丁上がり」だったのかもしれない。
説3 :中断箇所は「提示部の末尾」であるが、このソナタは展開部を欠き 、このあと再現部 が続く。上記2説と似て非なるこの説は、そもそも実際のソナタ楽章が形式上の「提示部・展開部・再現部」の3部分を満たしている必要はない、という前提からスタートしている。
「展開部を欠くソナタ形式」 という形式は実作においては非常に多く、モーツァルトのオペラ序曲などはほとんどこの形式をとる。ほぼ同じ長さと内容を持つ「提示部+再現部」というシンメトリカルな構成となり、楽式的には大規模な二部形式ということもできる。
この説の根拠になっているのは、同じ嬰ハ短調で書かれたベートーヴェンの有名な「幻想曲風ソナタ」、すなわちあの
「月光」 (作品27-2)の第1楽章がこの「展開部を欠くソナタ形式」と見なせるからだ。曲想は全く違うが、嬰ハ短調から平行調のホ長調を経由して嬰ト短調(ドミナント)へと至るという調性配置も似通っている。嬰ハ短調というのは当時それほど一般的な調性ではなく、作曲者が先人による先行作品を連想しなかったとは考えにくい。シューベルトにしては他に類を見ない実験作ということになる。
上記2説とどう違うのかという具体的な例として、完成版の想定小節数を挙げておくと(赤字は既に完成している部分):
説1・・・170小節以上 (
73小節の提示部 +最短でも24小節程度の展開部+73小節の再現部)
説2・・・111小節程度 (
38小節の提示部+35小節の展開部 +38小節の再現部)
説3・・・146小節程度 (
73小節の提示部 +73小節の再現部)
ということで、想定される全体像の規模に違いがあることがわかるだろう。
説4:この作品は未完ではなく、これで完結している。 上記3説と根本的に異なり、あり得べき
完成形という存在を想定していない 極めてラディカルな立場である。確かにこの作品は指示通り[73]から[1]に戻れば音楽として成立しており、演奏可能である。通常、反復記号は1回限り有効であるが、これを何度でも反復すれば終わりのない
「無限ループ」 となる。サティの「ヴェクサシオン」(52拍の楽曲を840回反復することが求められる)を半世紀以上先取りした前衛的な音楽解釈である。概念としてはなるほどそれで完結しているが、実際の演奏にあたっては、どうやって終わるのかという問題に直面することになる。その際は、[72]の全休止の代わりに嬰ト長調の主和音を静かに何度か奏して音楽から離脱すればよい、という
パウル・バドゥラ=スコダ のアイディアを拝借することもできるだろう。
今回この作品を取り上げるにあたっての私の立場は初めからはっきりしていた。
私は明確に説1をとる。 シューベルトが毎回欠かさずに記した反復記号は、まさにこれが提示部の末尾であることを明確に示している。再現部へ戻るための指示として反復記号を用いた例はない。
そして、
提示部の内部にいわば「小さな展開部」を内包する構成 はシューベルトの他のソナタにもたびたび登場する。楽章全体で大きなクライマックスを築くのではなく、小さな緊張と弛緩の波を繰り返す構成は、ソナタ形式が本来持っている求心力を減じるという指摘があるにも関わらず、シューベルトは
晩年に至るまでこの方法を採用 してきた。その際の展開部は、ドラマティックというよりもむしろ静的で平行的な内容となることが多い。
今回はこの見方をもとに、どちらかというとスタティックな内容の展開部を創作してみた。モデルにしたのは最晩年のD959(第20番)の第1楽章である。
一般的な展開部の素材として有望と思われる第1主題ではなく、あえて第2主題部に素材を求め、ドラマティックな展開ではなく楽節を転調とともに並列させていく手法で40小節の小規模な展開部を構成した。
再現部では第2主題をまず嬰ハ長調で、次いでイ長調で再現し、あとは型どおりの移調で嬰ハ長調のコデッタへ向かう。最後にトリルを伴う短いコーダを置いて終結とした。
この作品への補筆の試みは私の知る限り行われていない。ヘンレ版のソナタ集第3巻にバドゥラ=スコダによる、あまりにも安易な終結和音の提案(「アドリブで」との但し書き付き)があるのみだが、逆に言えばあの
超人バドゥラ=スコダさえ手を出そうとしなかった 、この「落ちこぼれ」を救出する難しさを物語っている。しかし、他にもさまざまな試みがあってもよいと思うし、私の補作がそうした今後の試みを勇気づけることになればとも願っている。
補作を必要としない説4を除けば、説3が最も補作が容易であり、説2がそれに続き(セクション2の再現のあと楽章を終わらせる方策を考えねばならない)、私が採用した説1は最も困難な方法といえる。何しろ
展開部をまるまるでっち上げた ことになるのだ。あの世でシューベルトに会ったときに怒られない程度の補作ということを心がけているつもりだが、正統的でない(シューベルトの筆とは無関係の)部分が多いことに対しては批判の声もあるだろうと思う。
一見トリッキーな説4は、なるべくシューベルトのオリジナルに筆を足さずに、それでも音楽として成立させるというテーゼのもとに考え出された案であることを断っておこう。この種のアイディア、たとえば展開部の末尾で中断したところから次の楽章へアタッカで繋げて演奏するというようなアクロバティックな解決法は、学者
アンドレアス・クラウゼ Andreas Krauseの著書「シューベルトのピアノ・ソナタ Die Klaviersonaten Franz Schuberts」の中に多く挙げられている。未完のソナタを、なんとかして実際に演奏可能なレパートリーに加えたいという思いは私とも一致している。
上に挙げた4つの説は、クラウゼの著書内での議論をもとに私の言葉でわかりやすく書き直したものだ。説3や説4の可能性は、クラウゼの議論を読むまで私自身は全く思いつかなかったものである。
補筆に対する私のスタンスについては、またいつか改めて文章にしたいと思っている。
2021/05/18(火) 19:32:27 |
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ピアノ・ソナタ 第3番 ホ長調 Sonate Nr.3 E-dur D459 作曲:1816年8月 出版:1843年(「5つのピアノ曲」として)
3つのピアノ曲 Drei Klavierstücke D459A 作曲:不明 出版:1843年(「5つのピアノ曲」として)
D459- I. Allegro moderato D459- II. Allegro D459A- 1. Adagio D459A- 2. Scherzo. Allegro D459A- 3. Allegro patetico これらの5つの楽章(あるいは小品)は、1843年10月にライプツィヒのC.A.クレム社から「5つのピアノ曲」のタイトルで出版された。作曲者の死後25年後のことである。初版譜の表紙には
「作曲者の遺作 確かな筋から合法的な手段で取得された作品」 という物々しい断り書きが記されている。普通に考えて、原稿はフェルディナントから入手したのだろう。
その後、最初の2楽章の自筆譜が発見される。そこには「ソナタ」の標題と、1816年8月の日付があり、第2楽章(出版譜ではスケルツォとなっているが、自筆譜にはただアレグロとのみ記されている)の中間部までで中断され、未完となっている。第3楽章・第4楽章の自筆譜は今に至るまで発見されていない。
ともあれこの自筆譜の存在によって、「5つのピアノ曲」は
「ソナタ第3番」 (5楽章構成)として
ピアノ・ソナタの仲間入り をすることになる。
ただ、シューベルトのピアノ・ソナタで5楽章構成の作品は他に例がなく、スケルツォを2つ持つソナタというのも据わりが悪いことから、これが作曲者の意図した形ではないということは薄々感づかれてきた。第2楽章の自筆譜が未完であることから、シューベルトはこの時点でこの楽章を捨て、新たに第4楽章のスケルツォを書き下ろしたのだ、という説もある。
ところが、
第5楽章アレグロ・パテティコ の最後の8小節が、
メヌエットD41-21 の自筆譜の裏面に書き付けられ、それに続けてアダージョD349が書かれていることが発見されてから事情が変わってきた。アレグロ・パテティコは、おそらくソナタのフィナーレではなく、
第1楽章として構想された作品であり、D349はそれに続く緩徐楽章 なのだ。つまり
D459-I,IIとは別個のホ長調ソナタ がここに存在することになる。
そういうわけで現在のドイチュ目録では、ソナタとしてのアイデンティティが確かめられている最初の2楽章をソナタD459、それらと一緒に出版された残りの3楽章(3曲)を「3つのピアノ曲」D459Aとして、別々の番号で整理している。
クレムのもとに「確かな筋から合法的な手段で」もたらされた自筆譜はどのような状態だったのか。5曲がまとまっていたのか、他の多くの小品の中から任意に選び取ったのか、今となっては知る由もない。ただ、現在検討できる自筆譜の状況から察するに、
(A) D459-I(第1楽章)+D459-II(スケルツォ?) (B) D459A-3(第1楽章)+D349(緩徐楽章) という別系統のソナタ楽章が混在していることは確かである。
ひとつのソナタの中に、2つの緩徐楽章や2つのスケルツォが共存することはない。すると、類推となるが、明らかに緩徐楽章であるD459A-1はソナタ(A)に属し、D459-IIとは共存できないスケルツォD459A-2はソナタ(B)の後続楽章という可能性もある。ただしいずれも終楽章にあたる楽章がない。ファビオ・ビゾーニは従来
D566のホ短調ソナタ の関連楽章とされてきたホ長調のロンドD506が、ソナタ(B)のフィナーレとして構想されたのではないかと唱えている。
ソナタ(A)の成立時期は1816年8月で確定しているが、ソナタ(B)についてはさまざまな可能性がある。同じく1816年頃だとすれば、1817年作曲の第4番D537を
「第5ソナタ」と記した謎 にひとつの解決の糸口がもたらされるし、1817年とすれば同年の「6曲セット」の欠番たる第3ソナタ・第4ソナタの候補作品となり得るだろう。
ところで、シューベルトの完成されたピアノ・ソナタで第2楽章にスケルツォが来る作品はない。緩徐楽章とスケルツォの配置を逆転させたベートーヴェンの方式にシューベルトは従わず、モーツァルト以来の「緩徐楽章→スケルツォ」という順番に固執した。ところがピアノ・ソナタ以外の多楽章作品の中にはスケルツォが先行する作品もある。そのひとつが
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(二重奏)D574 だ。
1817年の作品とされるD574と、この作品には非常に似通った楽想が認められる。
たとえば主和音の第2転回形のアルペジオで始まるスケルツォ(D574-IIとD459A-2)。
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ D547~第2楽章 スケルツォ 3つのピアノ曲 D459A~第2曲 スケルツォ ハ長調・3/8拍子で16分音符の刻みと3連符のポリリズムを持つ緩徐楽章(D574-IIIとD459A-1)。
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ D547~第3楽章 3つのピアノ曲 D459A~第1曲 低音部の半音階に導かれて始まる3/4拍子の舞曲調の無窮動(D574-IVとD459-II)。
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ D547~第4楽章 ピアノ・ソナタ 第3番 D459~第2楽章 こうやって並べてみると、どこか同種の表現の根から生まれた双子のように思えてならない。
そう考えると、D459-IIは主調のホ長調、ソナタ形式で書かれているのだから、D574-IVのような急速な3拍子のフィナーレと考えることも可能だ。初版譜にスケルツォと題されている先入観で見てしまうわけで、本来自筆譜にはスケルツォとは書かれていない。すると、D459-IとIIだけで、たとえばベートーヴェンの作品78の嬰ヘ長調ソナタ(「テレーゼ」)のような2楽章ソナタとして完結しているとみることも可能だ。シューベルトのピアノ・ソナタに2楽章で完結しているものは他に無いけれども・・・。
というふうに、楽章構成の可能性を考えていくときりがない。
今回は1843年の初版譜の通りの順番で5つの楽章を並べて演奏し、その後にアダージョD349も付け加えることとした。
D459-I の書法上の際だった特徴は、
弦楽四重奏の発想 で書かれていることである。シューベルトの初期のピアノ曲に弦楽四重奏を連想させる部分はとても多いが、ここまで楽章全体にわたって線的なテクスチュアが貫かれている作品は珍しい。声部の絡み合うさまが提示部の両主題の性格を決定づけており、ホモフォニック=ピアニスティックな書法はコデッタで部分的に現れるのみである。展開部は相変わらず主題を並列的に配置していくスタイルであり、主題間の相克はみられない。ホ短調のドミナントペダル(H音の連打)上で始まり、ハ長調に転調、そこからイ短調を経由して、イ長調(下属調)から再現部を開始する。モーツァルトのK.545が典型例である下属調再現はシューベルトのピアノ・ソナタにはあまり例がないが、ヴァイオリン・ソナタ(ソナチネ)イ短調D385で行われている。
D459-II は前述の通り、三部形式の舞曲楽章のように見えて実際には明瞭なソナタ形式でまとめられている。奇妙なオクターヴユニゾンで始まる第1主題はやはり弦楽四重奏のスタイルに嵌め込まれたあと、ドミナントペダルの上で切迫感のある展開を始める。属調に転調して、右手のオクターヴトレモロ音型が印象的な第2主題となる。両主題に共通するのは2分音符+4分音符の「長短」のリズムモティーフである。展開部は4つの和音によるカデンツで強引にト長調に転調して始まり、線的な書法でゼクエンツ(同型反復)を繰り返しながら次々とさまざまな調性へ転調していく。再現部はほぼ型どおりだが、実際には第2主題部にいくつかの細かいヴァリアントが施されており、これは出版社や第三者による改変とは考えにくいので、現存する未完の自筆譜とは別に
シューベルト自身が完成稿を書き上げた と考えるのが自然だろう。決して途中で見捨てられ、D459A-2に取って代わられた不出来なスケルツォではないのである。
D459A-1 は穏和かつ深い情感を湛えた緩徐楽章だが、楽式としては展開部を欠くソナタ形式であり、この作品にはソナタ形式の楽章がことのほか多いのがわかる。冒頭はやはり弦楽四重奏風だが、次第にピアニスティックな書法が支配的になっていく。
D459A-2 は三部形式の精力的なスケルツォ。時折伴奏型に舞曲の要素が顔を出す。中間部はPiù tardo(とても遅く)と指示され、やはり弦楽四重奏的なポリフォニックな音楽となる。
D459A-3 の
Allegro patetico という指示は、他のシューベルト作品では目にしたことがなく、出版社による改変かもしれないが、楽曲のキャラクターと合致しているようにも思えない。5連符・6連符といった自由なリズムによるアルペジオのモティーフはシューベルト作品としては異色で、ベートーヴェンの「熱情」ソナタの展開部を想起させる。第1主題提示後の推移部はやはり弦楽四重奏風のスタイルになるが、第2主題、そして展開部においては完全にピアニスティックな書法に移行している。コーダも甚だ精力的であり、ヴィルトゥオジティを存分に発揮させて曲を閉じる。
2020/09/03(木) 23:35:11 |
楽曲について
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