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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

ディアベリのワルツによる変奏 D718 概説

アントン・ディアベリのワルツによる変奏 ハ短調(『祖国芸術家協会』第2巻 第38変奏) Variation über einen Walzer von Anton Diabelli c-moll D718 (Var.38 aus "Vaterländischer Künstlerverein")
作曲:1821年3月 出版:1824年
楽譜・・・IMSLP

ディアベリ
ザルツブルク近郊の小村マットゼーで生まれたアントン・ディアベリ(1781-1858)はハイドン兄弟に作曲を学び、1817年にウィーンで楽譜出版社を興して成功を収めた。起業の翌々年、一大プロジェクトとして立ち上げたのが、自らの主題による変奏を複数の作曲家に委嘱してオムニバス変奏曲集を作るという構想だった。当時オーストリアで活躍していた有名無名の作曲家たちに声をかけ、結果的に51人がその依頼に応じた。初めは1人1曲のはずだったが、唯一ベートーヴェンだけがその趣旨を理解したのかしていなかったのか、ひとりで33もの変奏を書き上げて、他とは別に出版するよう要求してきた。ディアベリは巨匠の無茶を受け入れ、普及の名作「ディアベリ変奏曲」作品120『祖国芸術家協会』の第1巻として1823年に出版された。
他の50人の作曲家による50の変奏とコーダは第2巻としてまとめられ、翌1824年に刊行された。50曲は作曲者名のアルファベット順に並べられている。
祖国芸術家協会表紙
カール・チェルニー(第4変奏・コーダ)
ヨハン・ネポムク・フンメル(第16変奏)
フリードリヒ・カルクブレンナー(第18変奏)
イグナーツ・モシェレス(第26変奏)
といったビッグネームから、変わったところでは
フランツ・リスト(第24変奏)※出版時12歳
・フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(第28変奏)※W.A.モーツァルトの末子
ルドルフ大公(第40変奏)
シューベルトの周囲の作曲家では
イグナーツ・アスマイヤー(第1変奏)
・カール・マリア・フォン・ボクレット(第2変奏)※ピアニスト。「さすらい人幻想曲」の初演も務めた
アンゼルム・ヒュッテンブレンナー(第17変奏)
・ジモン・ゼヒター(第39変奏)※対位法の大家。シューベルトは晩年に指導を仰ぐ
ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェク(第43変奏)
ヤン・ヴァーツラフ・ヴォジーシェク(第50変奏)
といった面々が並んでいるが、今では忘れ去られた作曲家も少なくない。
第38変奏として収められたのが、我らがフランツ・シューベルトの作品である。

シューベルトの変奏には1821年3月の日付があり、チェルニーやベートーヴェンが作曲に着手した1819年より2年ほどあとのことになる。
シューベルトとディアベリが本格的に接触したのはおそらく1821年に入ってからで、この年の4月に『魔王』が記念すべき「Op.1」としてディアベリから出版されている。それに先立って、ディアベリがこの企画にシューベルトを巻き込んだということなのだろう。さらに年少のリストに関しては、1822年のウィーン進出以前に委嘱が行われたとは考えにくく、そうなるとこのプロジェクトは数年をかけて依頼が繰り返され、次第に拡大していったものと考えられる。

ディアベリによるハ長調の主題は、ワルツというにはいささか風変わりではあるが、快活で新奇なアイディアに満ちた主題であり、ベートーヴェンが「靴の継ぎ革Schusterfleck」などと酷評したほどひどいものではないと筆者は思う。
シューベルトの変奏はハ短調で、主題よりもワルツらしい仕上がりなのはさすが舞曲王である。しっとりした情感の中に和声進行の粋が尽くされており、前半の終わり、主題では属調のト長調へ向かうところを、VI度調の変イ長調に終止させるあたりは実に見事だ。一方で後半は技巧に走りすぎているきらいがあり、頻繁な転調に耳が追いつかない感じもする。
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  1. 2022/10/01(土) 00:06:32|
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ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲 D576 概説

アンゼルム・ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲 イ短調 13 Variationen über ein Thema von Anselm Hüttenbrenner a-moll D576
作曲:1817年8月 出版:1867年
楽譜・・・IMSLP

独立した変奏曲以外にも、多楽章器楽曲の中間楽章にしばしば変奏曲形式を用いるシューベルトだが、その主題の多くは自作の歌曲である。他人の主題を借用することは非常に珍しく、連弾のための
フランスの歌による8つの変奏曲 D624(オルタンス妃の主題)
・エロルドのオペラ『マリー』の主題による8つの変奏曲 D908
と、独奏のための
ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲 D576
(・ディアベリのワルツによる変奏 D718(オムニバスに寄稿した単独変奏))
を数えるのみである。友人の主題を用いた変奏曲はD576が唯一ということになる。

イェンガー、ヒュッテンブレンナー、シューベルト
ヨーゼフ・エドゥアルト・テルチャーが描いた「3人の友人たち」。画面右からイェンガー、ヒュッテンブレンナー、シューベルトが並ぶ。イェンガーもヒュッテンブレンナーと同じシュタイアーマルク出身の作曲家だった。

アンゼルム・ヒュッテンブレンナー(1794-1868)はグラーツの裕福な地主の息子として生まれた。グラーツ大学で法律を学ぶが、その楽才に感心したモーリツ・フォン・フリース伯爵の援助を受けて1815年4月にウィーンに進出しサリエリの門を叩く。ベートーヴェンからも認められた若き作曲家は早々に頭角を現し、シュタイナー社から次々に作品が発表されていった。まさに注目の新進作曲家であり、この時点でシューベルトとは段違いのキャリアを築いていたといえる。
1817年に作曲されたこの「13の変奏曲」の主題は、前年に作曲されたヒュッテンブレンナーの最初の弦楽四重奏曲から採られている。第3楽章「アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニ」は、原曲そのものが変奏曲形式(主題と4つの変奏)になっている。シューベルトは同じ主題に新たに13もの変奏を書いて本人に見せたのだ。それは友情の証か、遥か先を行く朋友への憧れだったのか、それとも自負心の表れだったのだろうか。弦楽四重奏曲は翌1818年にOp.3として出版され、ヒュッテンブレンナーの出世作となった。
2年前に作曲されたピアノ独奏のためのもうひとつの変奏曲、創作主題による「10の変奏曲」D156に比べると、変奏の自由度は減り、厳格変奏の趣が強い。中には高度な演奏技術を要する場面もあり、技巧派ピアニストだったヒュッテンブレンナーの前作「6つの変奏曲」Op.2の影響も見てとれるが、同時にこの年にシューベルト自身がピアノ・ソナタの制作に打ち込んだ、その書法研究の成果が反映されているともいえるだろう。

主題 イ短調 8+8の16小節からなるシンメトリカルな主題は、シューベルトが偏愛した長短短のダクティルスのリズムに支配されている。ベートーヴェンの交響曲第7番(1812)の第2楽章からの影響や、シューベルトの弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」D810 (1824)の第2楽章との類似が指摘されている。第8小節の空虚5度の響きは意表を突くが、ヒュッテンブレンナーの原曲を踏襲したもので、これも前出ベートーヴェン(第2楽章の第5小節、第3音を欠くドミナント和音)のオマージュという説もある。
第1変奏 イ短調 バスがスタッカートで細かく動き始める。そのモティーフも縮小されたダクティルスである。
第2変奏 イ短調 3度で重ねられた左手の主題の上で、右手が16分音符のオブリガートをなめらかに奏でる。減七の和音の多用がより濃厚な表情を生む。
第3変奏 イ短調 ダクティルスの逆行、すなわち短短長(アナペスト)のリズムによる和音連打が強調され、後半では音域を変えて毎小節登場する。
第4変奏 イ短調 左手に16分音符のパッセージが現れる。中央のラ(A4)から始まり、第6小節で3オクターヴ下のラ(A1)にまで降りていくという音域の広さは圧倒的だ。
第5変奏 イ長調 早くも長調の変奏が登場。右手は16分音符の3連符に装飾音がついた細やかなパッセージを優雅に奏でる。移旋による和音の表情の変化は驚くべきもので、楽園のような安らぎに包まれている。
第6変奏 嬰ヘ短調→イ長調 前変奏の平行調から始まる変則的な調性配置はシューベルトの真骨頂。コラール風の厳かさと温かさを湛えている。
第7変奏 イ短調 主調に戻り、右手は冒頭主題をそのまま再現するが、左手の3連符のパッセージは非常に技巧的で、もはやエチュードの域である。
第8変奏 イ短調 3声の対位法的なテクスチュア。両外声は主題と同型だが、中声部が16分音符で細かく動く。右手の伸張を要求するため、地味な曲調のわりに演奏は難しい。
第9変奏 イ長調 2度目の同主調へ。前変奏と同じく3声の書法で始まるが、動的な中声部(16分3連符)は分散和音音型で、「無言歌」に似たロマン派的な書法を見せる。左手は次第に和音に膨らんでいき、さらに甘い響きに満たされていく。
第10変奏 イ短調 一転して激しくデモーニッシュな変奏。オクターヴでダクティルスの主題を強奏する左手の上で、右手が32分音符のアルペジオの嵐を繰り広げる。
第11変奏 イ短調 左手の3度重音の主題を2小節遅れで右手が模倣し、しかしその後は和声的に展開される。後半に登場する付点リズムがだんだん全体を支配していくなど自由な発想に満ちている。
第12変奏 イ短調 第8変奏に似た3声の書法だが、左手がリズミカルな動きを見せる。弾むような短長リズムは即興曲D935-3(いわゆる「ロザムンデ変奏曲」)の第4変奏を想起させる。
第13変奏 イ長調 フィナーレで3度目の同主調へ。はじめて拍子が3/8に変わり、繰り返し時にオクターヴ高くなるため延べで書かれている、という特徴は前作D156のフィナーレと一致する。型どおりの変奏に続き、第241小節でイ短調に戻って付点リズムのモティーフに基づく自由なコーダが展開される。嬰ハ短調から突如ハ長調に転じ、しばらくハ長調のドミナントペダルが続いた後、再びイ長調(4度目)へ。高音域で変奏冒頭の8小節を反復し、突如怒り狂ったようにイ短調の和音を叩きつけて驚愕の幕切れとなる。

シューベルトが贈った清書譜をアンゼルム・ヒュッテンブレンナーは大事に保管していた。シューベルトの死から25年後の1853年、そこに「フランツ・シューベルトが作曲し、友人であり共に学んだアンゼルム・ヒュッテンブレンナー氏に献呈された」との注記を加筆した。しかしウィーン市立図書館に残るオリジナルの自筆譜にはそのような献辞はない。
ヒュッテンブレンナーが秘蔵していた「未完成交響曲」のスコアが発見されたのはそれからさらに12年後の1865年のことだった。
  1. 2022/09/30(金) 10:55:11|
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ドイツ舞曲とエコセーズ D643 概説

ドイツ舞曲 嬰ハ短調 と エコセーズ 変ニ長調 Deutscher cis-moll und Ecossaise Des-dur D643
作曲:1819年 出版:1889年(旧全集)
楽譜・・・IMSLP

ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナー Josef Hüttenbrenner(1796-1888)はアンゼルム・ヒュッテンブレンナーの2歳下の弟で、兄と同様に故郷グラーツで音楽を学んだが、それを本職にすることはなかった。官吏の職を得るために22歳のときにウィーンに進出し、シューベルティアーデの仲間に加わった。
ヨーゼフの作曲能力はシューベルトもある程度認めていたようで、交響曲第1番やオペラ『魔法の竪琴』第1幕のピアノ編曲といった下仕事を任せたりしている。
この2つの舞曲はヨーゼフに献呈されている、という以上にヨーゼフと深い結びつきがある。ヨーゼフの作品の自筆譜の裏面に書きつけられているのだ。

ヨーゼフの作品は『怒りの踊り』というタイトルのピアノ曲で、♯4つ・♭3つという変わった調号のついた4分の3拍子の舞曲だ。この調号は、嬰ハ短調またはハ短調のどちらでも演奏可能、ということだろう。オクターヴを駆使した技巧的な小品だが、楽想は野暮ったくアマチュアの域を出ない。
五線紙にはくしゃくしゃに丸められたような跡があり、おそらくヨーゼフ自身が作曲後に破棄したものと考えられる。シューベルトがそれを拾ってきて、表裏と上下をひっくり返し、同じ嬰ハ短調の「ドイツ舞曲」(Teutscher)と、その下に同主長調(異名同音)の変ニ長調の「エコセーズ」を書いてヨーゼフに贈った、ということらしい。単なるプレゼントというよりは、作曲スキルの差を見せつけているような感じがしなくもない。
ヨーゼフはシューベルトの熱心な崇拝者だったが、少々度が過ぎるきらいがあり、シューベルトからは逆に疎まれていたようだ。

ドイツ舞曲で嬰ハ短調という珍しい調性をとったのは、ヨーゼフの原曲に寄せたからなのだろう。調性ともども、ショパンのワルツを彷彿とさせる繊細な音使いに驚かされる。後半ではイ長調、嬰ハ長調へと転調していき、そのまま次の変ニ長調のエコセーズに繋がる。
エコセーズは3度重音を駆使した技巧的な曲で、第5-7小節の右手の下降3度音階、それを左手で模倣する第13-15小節は特に演奏至難である。ピアノの名手だったアンゼルムが難しい嬰ハ長調のピアノ・ソナタ」(D567?)を弾きこなして献呈を受けたというエピソードを思い起こさせる。
  1. 2022/09/28(水) 11:59:46|
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シューベルトの旅 (8)1827年9月、グラーツ

シューベルトがグラーツの「シュタイアーマルク楽友協会」の名誉会員に推挙されたのは、1823年の春のことだった。ウィーンよりも早くグラーツでこのような名誉を受けたのは、ひとえに協会の会長が同門の作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーであったためだろう。その返礼として「未完成交響曲」D759が贈られたが、ヒュッテンブレンナーはそれを私蔵し、シューベルトの死後40年近く公表しなかったという話はよく知られている。
シューベルトは名誉表彰を受けるためにグラーツには行かなかったし、その後も長い間グラーツのアンゼルムに会いに行こうとはしなかった。
ところがシューベルト30歳の年に、突然グラーツ行きの話が持ち上がったのである。


ウィーンと、その200kmほど南南西に位置するオーストリア第2の都市グラーツ

シューベルトをグラーツに招いたのは、マリー・パハラー Marie Pachler (1794-1855)という女性だった。彼女はピアニストで、弁護士で音楽愛好家の夫カール Karl Pachler (1789-1850)とともにグラーツの音楽界では有名な存在だった。マリー夫人のピアノの腕前は確かなもので、ベートーヴェンに「私の作品をあなたほど見事に演奏してくれる人に出会ったことはない」と激賞されたほどだった。
夫妻は崇拝するベートーヴェンを何とか自宅に招こうと企んでいたが、1827年3月に巨匠が死去したため、この計画は果たせなかった。そこで代わりに誰かウィーンの高名な作曲家をということで、シューベルトに白羽の矢が立ったのだった。
仲介の労を執ったのは官僚でピアニストでもあったヨハン・バプティスト・イェンガー Johann Baptist Jenger (1792-1856)で、彼は1823年のシュタイアーマルク楽友協会のときの功労者でもあった。

尊敬する令夫人! 友人イェンガーを通してお寄せ下さったご招待に対し、私のような者が果たしてご厚意に値するものであるか、またどのようにして報いることができるのかわかりません。しかし、名高いグラーツの街をついに見ることのできる喜び、それ以上に奥様とお近づきになる名誉を思うと、ご招待をお受けしないわけには参りません。
最高の敬意を持って
忠実なるしもべ
フランツ・シューベルト

(6月12日、シューベルトからパハラー夫人に宛てて)

シューベルトとイェンガーは、9月2日に馬車でウィーンを発ち、1日がかりでグラーツに到着して、パハラー家の歓迎を受けた。
到着の数日後にはグラーツの大劇場でシュタイアーマルク楽友協会主催の慈善演奏会があり、シューベルトも自作の合唱曲・重唱曲の伴奏者としてステージに現れた。パハラー邸での数度にわたるシューベルティアーデのほか、郊外のヴィルトバッハ城やハラー城でも催しが開かれ、グラーツの人々とすっかり仲良くなった。アンゼルム・ヒュッテンブレンナーとも再会を果たしたと伝えられている。

グラーツのハラー城
グラーツ郊外のハラー城

シューベルトはパハラー邸で、昔のオペラ「アルフォンソとエストレッラ」の一部をピアノで演奏してみせ、パハラー氏や劇場監督のヨーゼフ・キンスキーに上演を働きかけた。彼らも乗り気になり、シューベルトがウィーンへ戻ったら台本と総譜を送るという約束になった。
イェンガーとシューベルトは9月20日にグラーツを離れ、来たときとは別のルートを通ってウィーンへの帰途に就いた。途中フュルステンフェルト、ハルトベルク、フリートベルク、シュラインツなどの街を経由し、それぞれの名所をたっぷり見て回って、4日後にウィーンに到着した。

それから3日後、シューベルトはパハラー夫人に親密な礼状をしたためた。

令夫人様! グラーツがあまりにも居心地が良かったので、ウィーンがまだ頭に入らないでいます。もちろんウィーンは少しばかり都会ではありますが、優しい心、率直さ、実のある思考、理性ある言葉、何より精神性溢れる行動というものにいささか欠けています。利口なのか馬鹿なのかわからなくなるほど、いろんなことをごちゃごちゃとしゃべって、それでいて心が朗らかになることは滅多にありません。もっとも私が人と打ち解けるのに時間がかかるせいかもしれませんが。
グラーツでは、人と交わる自然で率直な方法がすぐにわかりました。もっと長くいられたら、もっと溶け込めただろうにと思います。特に決して忘れることができないのは、親愛なる奥様、力強いパハレロス氏、そして小さいファウスト君のいる心温まる宿のことです。これほど満ち足りた日々を過ごしたことは、長い間ありませんでした。私の感謝の気持ちを、しかるべき形で表明させていただきたく筆を執りました。
あなたを尊敬する
フランツ・シューベルト
追伸 オペラの台本は、2,3日中にお送りできると思います。

(9月27日、シューベルトからパハラー夫人に宛てて)

「パハレロス氏」というのは一家の主カールのことだが、おそらく屈強な彼をギリシャ神話の登場人物にでも喩えたのだろう。そういえば、ずんぐりむっくりのシューベルトが「シュヴァンメル」(きのこ)という渾名を賜ったのはグラーツ滞在中の宴席でと伝えられているので、「パハレロス」もそうした遊びの一環だったのかもしれない。
シューベルトは夫人の求めに応じ、当時7歳だった長男ファウスト君のために連弾曲「こどもの行進曲」D928を作曲し、グラーツに送った。
グラーツでの忙しい日々の間にも、数曲の歌曲が書き上げられた。翌年の初めに出版された舞曲「12のグラーツのワルツ」D924、「グラーツのギャロップ」D925も、この滞在中の舞踏会の折に作曲されたものと考えられている。

シューベルトにとって最後の長い旅行となったグラーツ行きは、とても楽しく充実した旅だった。
ウィーンに戻るとシューベルトは再び体調が悪化しはじめ、もっと残念なことに、グラーツでのオペラの上演計画は翌年に頓挫してしまった。
  1. 2018/04/16(月) 16:07:45|
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改訂は「いつ」「なぜ」行われたのか?(D567→D568)

D568はもちろんのこと、D567についても、成立状況を教えてくれる文献は残っていないのだが、ひとつ面白い証言がある。
ニ短調の緩徐楽章初稿の記事で登場した、シューベルトの友人アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、1854年にフランツ・リストの求めに応じて「歌曲作曲家フランツ・シューベルトの生涯の断片 Bruchstücke aus dem Leben des Liederkomponisten Franz Schubert」という回顧録を残していて、その中で「嬰ハ長調のピアノ・ソナタ」について言及している箇所があるのだ。

非常に難しくて、シューベルト本人も間違えずに弾くことができなかった。私は3週間、熱心に練習して、彼と友人たちの前で演奏したところ、彼はこの曲を私に献呈してくれた。その後ある外国の出版社に送付したのだが、「こんなひどく難しい作品は、売れ行きが期待できないので、あえて出版しようとは思わない」という内容のメッセージとともに返送されてきた。

嬰ハ長調(!)のソナタというのは知られていないので、きっと変ニ長調のソナタ(D567)を指しているのだろう、ということで、この証言は新全集のD568の解説にも引用されている。
この時期にシューベルトがピアノ・ソナタをヒュッテンブレンナーに献呈したという事実も、外国の出版社に送ったという事実も、この証言以外には知られていない。ヒュッテンブレンナーという人は以前「グラーツ幻想曲」D605Aの記事でも述べた通り、ちょっと怪しげなところがある人物で、とりわけシューベルトの死後26年も経った1854年の証言を信用できるかどうかは微妙なところなのだが、もし本当だとすると、いろいろ符号が合うことがある。

まず第一に、D567がヒュッテンブレンナーに献呈されていたとしたら、例のニ短調の草稿の紙片を、ヒュッテンブレンナーが持っていたことも説明がつく。「これは君にあげたソナタのスケッチだから、あげるよ。ベートーヴェンの自筆譜の裏に書いちゃったんだけども」なんて言って渡したのかもしれない。その紙片をヒュッテンブレンナーは生徒の記譜練習に使わせてしまうわけなのだが・・・。

そして第二に、なぜシューベルトがD567を改訂しようと思い立ったのか、その理由の一端がこのエピソードには示されている。自分では弾けないような難曲だったが、ヒュッテンブレンナーが弾いてくれたら良い曲で、友人たちにも好評だった。それで自信がついて、外国の出版社に送ってみたが、「難しすぎてダメ」と言われた。
ならば、♭5つの変ニ長調から、♭3つで読譜しやすい変ホ長調に直せば、受け入れられるのではなかろうか。つまり、作曲家自身の内的欲求というより、受容を優先し、出版を視野に入れた上での改訂作業、という可能性があるのだ。緩徐楽章を同主短調の変ホ短調にしなかったのも、♭が多すぎる(6個)から避けた、という理由もあるだろう。
実際にD568が現在も演奏会の主要レパートリーに君臨しているところを見ても、シューベルトの目算は当たったということになる。


さて、肝心の改訂の時期については特定されておらず、1817年(D567の作曲年)から1828年(シューベルトの最期の年)までさまざまな説がある。

1817年説を唱えたのは著名なシューベルト学者のモーリス・ブラウンである。
ブラウンはD593の2つのスケルツォを、D567の挿入楽章の習作と捉えている。D567が1817年6月に完成したあと、すぐにシューベルトはD568への改訂作業に着手し、11月までに完成させて、そのとき捨てられた2つのスケルツォを譜面にまとめて、11月の日付を書き込んだ。つまりD593の作曲日付の「1817年11月」は、D568の完成時期を示している、という見立てである。
なぜそのようなロジックが成り立つのか、原文を何度読んでもさっぱりわからないのだが、おそらくは「D568は1817年作曲」という希望的観測が最初にあって、論を進めているだろう。「1817年の6曲のソナタ」の、失われた第3番・第4番のいずれかにD568を当て込みたかったものと思われる。

現在ではこの説の信憑性は低い。まず、D567の清書稿では、第2楽章の最終ページの裏面に第3楽章(フィナーレ)が書かれていて、その間にスケルツォ(あるいはメヌエット)が入り込む余地はない。D567は3楽章構成のソナタとして完成したのであり、D593のスケルツォがD567のために書かれたのだとしたら、1817年6月以前の時点で捨てられていたはずである。D567からD568への改訂作業の途中でスケルツォが書かれたとすると、変ロ長調の第1番はともかく、第2番の変ニ長調という調性はD568には合致しない。
D593が、何らかのソナタの中間楽章として書かれた可能性は否定できないものの、それがD567/D568であるという明確な証拠もなく、その作曲の日付がD568の完成を示すというのはあまりにも飛躍が多い。
さらに言えば、単なる移調だけならともかく、これほどの内容のブラッシュアップを伴う改訂を、D567完成直後のシューベルトが成し遂げたとはちょっと思えない。D567の完成からしばらく時間が経って、過去作を客観的に見ることができるようになった作曲者が校訂したもの、と捉えるのが自然だろう。少なくともこの時期のシューベルトが、いったん完成した作品にさらに手を加えるような習慣を持たなかったことは確かである。

一方で、改訂時期をシューベルトの晩年と見なしている学者もいる。
マーティン・チューシッドMartin Chusidは展開部の書法について、「1824年以前のシューベルトは、これほど広範囲における、複雑な転調のシークエンスを書いたことはない」という。さらに、展開部の内容を検討するとピアノ三重奏曲第2番D929や弦楽五重奏曲D956に似ているとして、改訂作業はシューベルト最晩年の1828年、もしかしたらその最期の数ヶ月か、数週間で行われたのかもしれない、と論じている。
論文そのものを参照できなかったので、どの部分を比較しているのかは詳しくわからないのだが、以前に分析した通り、D568で新たに書き足された部分は、終楽章の展開部の前半40小節のみであり、あののどかな舞曲風の部分の転調が、最晩年のシューベルトにしか書き得なかったものとはちょっと思われない。

マルティーノ・ティリモが編纂したウィーン原典版の解説には、「改訂作業が1826年に行われたことを示唆するいくつかの証拠がある」として、複数の論文が紹介されているが、その内容については詳述されておらず、そこに挙げられた論文のオリジナルを参照することもできなかったので、この説の信憑性については詳しい検討はできなかった。

1829年6月にフェルディナントが作成した、弟フランツの遺産台帳によると、1829年1月5日に、ペンナウアー社からの58グルデン36クロイツァーの支払いが記録されている。ドイチュは、これをD568の作曲料とみている。
時期的に考えて、D568の出版契約は、シューベルトの生前に締結されたのだろう。しかし1828年11月19日に急死したシューベルトは、その対価を受け取ることさえできなかったのだった。
  1. 2016/10/05(水) 22:44:28|
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