シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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シューベルトの旅 (8)1827年9月、グラーツ

シューベルトがグラーツの「シュタイアーマルク楽友協会」の名誉会員に推挙されたのは、1823年の春のことだった。ウィーンよりも早くグラーツでこのような名誉を受けたのは、ひとえに協会の会長が同門の作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーであったためだろう。その返礼として「未完成交響曲」D759が贈られたが、ヒュッテンブレンナーはそれを私蔵し、シューベルトの死後40年近く公表しなかったという話はよく知られている。
シューベルトは名誉表彰を受けるためにグラーツには行かなかったし、その後も長い間グラーツのアンゼルムに会いに行こうとはしなかった。
ところがシューベルト30歳の年に、突然グラーツ行きの話が持ち上がったのである。


ウィーンと、その200kmほど南南西に位置するオーストリア第2の都市グラーツ

シューベルトをグラーツに招いたのは、マリー・パハラー Marie Pachler (1794-1855)という女性だった。彼女はピアニストで、弁護士で音楽愛好家の夫カール Karl Pachler (1789-1850)とともにグラーツの音楽界では有名な存在だった。マリー夫人のピアノの腕前は確かなもので、ベートーヴェンに「私の作品をあなたほど見事に演奏してくれる人に出会ったことはない」と激賞されたほどだった。
夫妻は崇拝するベートーヴェンを何とか自宅に招こうと企んでいたが、1827年3月に巨匠が死去したため、この計画は果たせなかった。そこで代わりに誰かウィーンの高名な作曲家をということで、シューベルトに白羽の矢が立ったのだった。
仲介の労を執ったのは官僚でピアニストでもあったヨハン・バプティスト・イェンガー Johann Baptist Jenger (1792-1856)で、彼は1823年のシュタイアーマルク楽友協会のときの功労者でもあった。

尊敬する令夫人! 友人イェンガーを通してお寄せ下さったご招待に対し、私のような者が果たしてご厚意に値するものであるか、またどのようにして報いることができるのかわかりません。しかし、名高いグラーツの街をついに見ることのできる喜び、それ以上に奥様とお近づきになる名誉を思うと、ご招待をお受けしないわけには参りません。
最高の敬意を持って
忠実なるしもべ
フランツ・シューベルト

(6月12日、シューベルトからパハラー夫人に宛てて)

シューベルトとイェンガーは、9月2日に馬車でウィーンを発ち、1日がかりでグラーツに到着して、パハラー家の歓迎を受けた。
到着の数日後にはグラーツの大劇場でシュタイアーマルク楽友協会主催の慈善演奏会があり、シューベルトも自作の合唱曲・重唱曲の伴奏者としてステージに現れた。パハラー邸での数度にわたるシューベルティアーデのほか、郊外のヴィルトバッハ城やハラー城でも催しが開かれ、グラーツの人々とすっかり仲良くなった。アンゼルム・ヒュッテンブレンナーとも再会を果たしたと伝えられている。

グラーツのハラー城
グラーツ郊外のハラー城

シューベルトはパハラー邸で、昔のオペラ「アルフォンソとエストレッラ」の一部をピアノで演奏してみせ、パハラー氏や劇場監督のヨーゼフ・キンスキーに上演を働きかけた。彼らも乗り気になり、シューベルトがウィーンへ戻ったら台本と総譜を送るという約束になった。
イェンガーとシューベルトは9月20日にグラーツを離れ、来たときとは別のルートを通ってウィーンへの帰途に就いた。途中フュルステンフェルト、ハルトベルク、フリートベルク、シュラインツなどの街を経由し、それぞれの名所をたっぷり見て回って、4日後にウィーンに到着した。

それから3日後、シューベルトはパハラー夫人に親密な礼状をしたためた。

令夫人様! グラーツがあまりにも居心地が良かったので、ウィーンがまだ頭に入らないでいます。もちろんウィーンは少しばかり都会ではありますが、優しい心、率直さ、実のある思考、理性ある言葉、何より精神性溢れる行動というものにいささか欠けています。利口なのか馬鹿なのかわからなくなるほど、いろんなことをごちゃごちゃとしゃべって、それでいて心が朗らかになることは滅多にありません。もっとも私が人と打ち解けるのに時間がかかるせいかもしれませんが。
グラーツでは、人と交わる自然で率直な方法がすぐにわかりました。もっと長くいられたら、もっと溶け込めただろうにと思います。特に決して忘れることができないのは、親愛なる奥様、力強いパハレロス氏、そして小さいファウスト君のいる心温まる宿のことです。これほど満ち足りた日々を過ごしたことは、長い間ありませんでした。私の感謝の気持ちを、しかるべき形で表明させていただきたく筆を執りました。
あなたを尊敬する
フランツ・シューベルト
追伸 オペラの台本は、2,3日中にお送りできると思います。

(9月27日、シューベルトからパハラー夫人に宛てて)

「パハレロス氏」というのは一家の主カールのことだが、おそらく屈強な彼をギリシャ神話の登場人物にでも喩えたのだろう。そういえば、ずんぐりむっくりのシューベルトが「シュヴァンメル」(きのこ)という渾名を賜ったのはグラーツ滞在中の宴席でと伝えられているので、「パハレロス」もそうした遊びの一環だったのかもしれない。
シューベルトは夫人の求めに応じ、当時7歳だった長男ファウスト君のために連弾曲「こどもの行進曲」D928を作曲し、グラーツに送った。
グラーツでの忙しい日々の間にも、数曲の歌曲が書き上げられた。翌年の初めに出版された舞曲「12のグラーツのワルツ」D924、「グラーツのギャロップ」D925も、この滞在中の舞踏会の折に作曲されたものと考えられている。

シューベルトにとって最後の長い旅行となったグラーツ行きは、とても楽しく充実した旅だった。
ウィーンに戻るとシューベルトは再び体調が悪化しはじめ、もっと残念なことに、グラーツでのオペラの上演計画は翌年に頓挫してしまった。
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  1. 2018/04/16(月) 16:07:45|
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改訂は「いつ」「なぜ」行われたのか?(D567→D568)

D568はもちろんのこと、D567についても、成立状況を教えてくれる文献は残っていないのだが、ひとつ面白い証言がある。
ニ短調の緩徐楽章初稿の記事で登場した、シューベルトの友人アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、1854年にフランツ・リストの求めに応じて「歌曲作曲家フランツ・シューベルトの生涯の断片 Bruchstücke aus dem Leben des Liederkomponisten Franz Schubert」という回顧録を残していて、その中で「嬰ハ長調のピアノ・ソナタ」について言及している箇所があるのだ。

非常に難しくて、シューベルト本人も間違えずに弾くことができなかった。私は3週間、熱心に練習して、彼と友人たちの前で演奏したところ、彼はこの曲を私に献呈してくれた。その後ある外国の出版社に送付したのだが、「こんなひどく難しい作品は、売れ行きが期待できないので、あえて出版しようとは思わない」という内容のメッセージとともに返送されてきた。

嬰ハ長調(!)のソナタというのは知られていないので、きっと変ニ長調のソナタ(D567)を指しているのだろう、ということで、この証言は新全集のD568の解説にも引用されている。
この時期にシューベルトがピアノ・ソナタをヒュッテンブレンナーに献呈したという事実も、外国の出版社に送ったという事実も、この証言以外には知られていない。ヒュッテンブレンナーという人は以前「グラーツ幻想曲」D605Aの記事でも述べた通り、ちょっと怪しげなところがある人物で、とりわけシューベルトの死後26年も経った1854年の証言を信用できるかどうかは微妙なところなのだが、もし本当だとすると、いろいろ符号が合うことがある。

まず第一に、D567がヒュッテンブレンナーに献呈されていたとしたら、例のニ短調の草稿の紙片を、ヒュッテンブレンナーが持っていたことも説明がつく。「これは君にあげたソナタのスケッチだから、あげるよ。ベートーヴェンの自筆譜の裏に書いちゃったんだけども」なんて言って渡したのかもしれない。その紙片をヒュッテンブレンナーは生徒の記譜練習に使わせてしまうわけなのだが・・・。

そして第二に、なぜシューベルトがD567を改訂しようと思い立ったのか、その理由の一端がこのエピソードには示されている。自分では弾けないような難曲だったが、ヒュッテンブレンナーが弾いてくれたら良い曲で、友人たちにも好評だった。それで自信がついて、外国の出版社に送ってみたが、「難しすぎてダメ」と言われた。
ならば、♭5つの変ニ長調から、♭3つで読譜しやすい変ホ長調に直せば、受け入れられるのではなかろうか。つまり、作曲家自身の内的欲求というより、受容を優先し、出版を視野に入れた上での改訂作業、という可能性があるのだ。緩徐楽章を同主短調の変ホ短調にしなかったのも、♭が多すぎる(6個)から避けた、という理由もあるだろう。
実際にD568が現在も演奏会の主要レパートリーに君臨しているところを見ても、シューベルトの目算は当たったということになる。


さて、肝心の改訂の時期については特定されておらず、1817年(D567の作曲年)から1828年(シューベルトの最期の年)までさまざまな説がある。

1817年説を唱えたのは著名なシューベルト学者のモーリス・ブラウンである。
ブラウンはD593の2つのスケルツォを、D567の挿入楽章の習作と捉えている。D567が1817年6月に完成したあと、すぐにシューベルトはD568への改訂作業に着手し、11月までに完成させて、そのとき捨てられた2つのスケルツォを譜面にまとめて、11月の日付を書き込んだ。つまりD593の作曲日付の「1817年11月」は、D568の完成時期を示している、という見立てである。
なぜそのようなロジックが成り立つのか、原文を何度読んでもさっぱりわからないのだが、おそらくは「D568は1817年作曲」という希望的観測が最初にあって、論を進めているだろう。「1817年の6曲のソナタ」の、失われた第3番・第4番のいずれかにD568を当て込みたかったものと思われる。

現在ではこの説の信憑性は低い。まず、D567の清書稿では、第2楽章の最終ページの裏面に第3楽章(フィナーレ)が書かれていて、その間にスケルツォ(あるいはメヌエット)が入り込む余地はない。D567は3楽章構成のソナタとして完成したのであり、D593のスケルツォがD567のために書かれたのだとしたら、1817年6月以前の時点で捨てられていたはずである。D567からD568への改訂作業の途中でスケルツォが書かれたとすると、変ロ長調の第1番はともかく、第2番の変ニ長調という調性はD568には合致しない。
D593が、何らかのソナタの中間楽章として書かれた可能性は否定できないものの、それがD567/D568であるという明確な証拠もなく、その作曲の日付がD568の完成を示すというのはあまりにも飛躍が多い。
さらに言えば、単なる移調だけならともかく、これほどの内容のブラッシュアップを伴う改訂を、D567完成直後のシューベルトが成し遂げたとはちょっと思えない。D567の完成からしばらく時間が経って、過去作を客観的に見ることができるようになった作曲者が校訂したもの、と捉えるのが自然だろう。少なくともこの時期のシューベルトが、いったん完成した作品にさらに手を加えるような習慣を持たなかったことは確かである。

一方で、改訂時期をシューベルトの晩年と見なしている学者もいる。
マーティン・チューシッドMartin Chusidは展開部の書法について、「1824年以前のシューベルトは、これほど広範囲における、複雑な転調のシークエンスを書いたことはない」という。さらに、展開部の内容を検討するとピアノ三重奏曲第2番D929や弦楽五重奏曲D956に似ているとして、改訂作業はシューベルト最晩年の1828年、もしかしたらその最期の数ヶ月か、数週間で行われたのかもしれない、と論じている。
論文そのものを参照できなかったので、どの部分を比較しているのかは詳しくわからないのだが、以前に分析した通り、D568で新たに書き足された部分は、終楽章の展開部の前半40小節のみであり、あののどかな舞曲風の部分の転調が、最晩年のシューベルトにしか書き得なかったものとはちょっと思われない。

マルティーノ・ティリモが編纂したウィーン原典版の解説には、「改訂作業が1826年に行われたことを示唆するいくつかの証拠がある」として、複数の論文が紹介されているが、その内容については詳述されておらず、そこに挙げられた論文のオリジナルを参照することもできなかったので、この説の信憑性については詳しい検討はできなかった。

1829年6月にフェルディナントが作成した、弟フランツの遺産台帳によると、1829年1月5日に、ペンナウアー社からの58グルデン36クロイツァーの支払いが記録されている。ドイチュは、これをD568の作曲料とみている。
時期的に考えて、D568の出版契約は、シューベルトの生前に締結されたのだろう。しかし1828年11月19日に急死したシューベルトは、その対価を受け取ることさえできなかったのだった。
  1. 2016/10/05(水) 22:44:28|
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幻想曲 ハ長調 D605a「グラーツ幻想曲」 概説

幻想曲 ハ長調 Fantasie C-dur D605a 「グラーツ幻想曲」 "Grazer Fantasie"
作曲:1818年頃? 出版:1969年
楽譜・・・IMSLP(2つ目のBärenreiter版の楽譜。1つ目の楽譜は別作品(D605))

シューベルトのピアノ作品中極めつけの「問題作」である。以下、新シューベルト全集の序文(校訂者ヴァルター・デューアWalther Dürrによる)を参考に本作にまつわるエピソードをまとめてみたい。

まずは主要登場人物を紹介しよう。
アンゼルム・ヒュッテンブレンナー Anselm Hüttenbrenner (1794-1868)
 オーストリアの作曲家。グラーツ出身。裕福な地主の長男として生まれ、1815年にウィーンに出てサリエリに作曲を学ぶ。同時に晩年のベートーヴェンのもとに出入りするようになり、1827年には大作曲家の最期を看取った。同門のシューベルトと親しく、du(きみ、ドイツ語の親称(親しい間柄だけの呼びかけ))で呼び合う数少ない作曲家仲間だった。1821年故郷に戻り、シュタイアーマルク楽友協会の会長を務めた。この頃シューベルトから「未完成交響曲」D759の総譜を受け取るが、そのまま私蔵し、シューベルトの死後37年経った1865年に指揮者ヨハン・フォン・ヘルベック(1831-1877)が訪ねてくるまで公表しないという不可解な行動を取った。
ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナー Josef Hüttenbrenner (1796-1882)
 アンゼルムのすぐ下の弟。同じく作曲家で、シューベルティアーデの仲間だったが、兄ほどの才能はなく、シューベルトともそれほど親密にはなれず、ほとんどグループの使いっ走りのような存在だった。多くのシューベルト作品の写譜を担当している。
エドゥアルト・ピルクヘルト Eduard Pirkhert (1817-1881)
 ピアニスト、作曲家。ウィーンでハルムやチェルニーに師事し、20代前半でヨーロッパツアーを敢行。華麗な演奏技巧を誇り、モシェレスらに激賞された。ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの友人で、その膨大なコレクションの中からよく楽譜を借り出していたらしい。
ルドルフ・フォン・ヴァイス=オストボーン Rudolf von Weis-Ostborn (1876-1962)
 グラーツの作曲家、教会合唱指揮者。母はヒュッテンブレンナー家の出身で、アンゼルム、ヨーゼフの下の3番目の弟アンドレアスの娘である。シューベルトと同い年のアンドレアスはグラーツ市長を務めた。

ここからがストーリーの始まりである。
1962年、グラーツの音楽家ルドルフ・フォン・ヴァイス=オストボーンが死去した。遺品を整理していた妻マリア・ルッケンバウアー=ヴァイス=オストボーンと音楽学者コンラート・シュテークルは、1969年にその中から手書きの楽譜と書類の束を発見する。それはヴァイス=オストボーンが大伯父のヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーから受け継いだもので、その中には知られていないシューベルト作品の筆写譜が大量に含まれていた。
その中の1曲がこのハ長調の幻想曲である。ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの手になる非常に丁寧な表紙には、「ピアノフォルテのための幻想曲 フランツ・シューベルト作曲」と記されており、更に鉛筆で「オリジナルはピルクヘルト教授に貸し出した。この筆写譜には作曲の日付がない」とメモされている。ヨーゼフの筆跡は表紙ページのみで、楽譜そのものは別のコピイストが書き写しているが、このコピイストはヒュッテンブレンナー旧蔵の多くの他の筆写譜を担当しており、この1作だけが例外というわけではない。
どうやらヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーは、楽譜や資料を関係者に気前よく貸し出して、そのまま返却されないことがあったらしい。同じ遺品の束の中に発見されたヨーゼフのメモ書きで、シューベルトが兄アンゼルムに宛てた手紙でヨーゼフの歌の才能を評価したものがあったのだが、友人テルチャーとイェンガーに預けたら戻ってこない旨、また作曲家ヴェーバーがヨーゼフに宛てて、シューベルトの歌劇「アルフォンソとエストレッラ」について書いた手紙もショーバーに貸したら返ってこない旨、そしてそれらの「写しもとっていなかった!」という嘆きを記している。そうした失敗に懲りたのか、ピアニストのピルクヘルトにこの幻想曲の楽譜を貸して欲しいと頼まれたとき、写譜して手元に1部保管しておいたのだろう。つまりヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーはもともとこの作品の自筆譜を所有していた可能性が高い。そしてそれをピルクヘルトに貸し出し、予想通り戻ってこなかった。そこで筆写譜の表紙に鉛筆で、この散逸の経緯を書き留めておいたのであろう。願わくば筆写譜の方を貸し出しておいてくれたなら・・・と思わずにはいられないが、今となっては仕方のないことである。ピルクヘルトに渡った自筆譜はどこかに消え失せ、今のところ見つかっていない。1969年にこの筆写譜が発見されるまで、この作品は存在したことさえ全く知られていなかったのである。

1969年のうちにヴァルター・デューアの校訂でベーレンライター社より出版され、シューベルトの新作発見!とニュースになったわけだが、出てきた譜面を見、曲を聴いて、人々はヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの記述の信憑性に疑問を抱くことになる。つまりこれは、シューベルトの真作ではないのではないか、ということである。
以降、この「グラーツ(で発見された新しい)幻想曲」についての議論が巻き起こり、結果この作品は「グラーツ幻想曲」の名で呼ばれるようになったが、オーストリア・シュタイアーマルク州の州都グラーツはこの作品そのものの成立過程とは全く関係がない。

なぜ人々はこの作品に疑念を抱いたのであろうか。
一言で言えば、シューベルトの作品としては非常に異色であり、もっと言えば、響きがより新しい感じがするのだ。
まずシューベルトはこんな構成の「幻想曲」を書いたことはない。「さすらい人幻想曲」D760以降の幻想曲は、いわば「切れ目のないソナタ」であり、論理的で秩序だった構成が取られている。それ以前の幻想曲、たとえば前に取り上げたD2eや、連弾用のD1、D9などは「さまざまな楽想が脈絡なく続いていく」スタイルで、一見すると「グラーツ幻想曲」もこのグループに含まれるように思われる。
しかし細かく分析すると、そう単純ではない。この作品はハ長調の静かな主題で始まり、次のセクション([55]-)はなんと嬰ヘ長調(!)のAlla polacca、すなわちポロネーズになるわけだが、ポロネーズの3拍子を保ちながら嬰ヘ短調、ニ長調へ到達したところで冒頭主題がわかりやすく引用されるのである([93]-)。次のセクションは変イ長調で、ここも冒頭主題の変奏([129]-)。そしてその中の2度下行のモティーフ(冒頭部では第6小節に登場する「呼びかけ」のような表情豊かな音型)を操作して、そこから変ホ長調の新しい主題が生まれる([159]-)。変イ長調からホ長調に至り、行進曲のような付点リズムが印象的なセクションに到達するが([213]-)、ここでは冒頭主題の後半([39]-)のメランコリックな和声進行が引用されている。ト長調のパッセージが続く12/8拍子のセクション([244]-)は一見新しい楽想だが、ひとしきり落ち着いたところで例の2度下行のモティーフが現れる([253]-)。そしてハ長調に戻り、冒頭主題がそのまま回帰して([283]-)美しい余韻とともに曲が終わる。
つまりこの幻想曲のうち「ポロネーズ」を除くすべてのセクションは冒頭主題のモティーフを使った変奏なのだ。しかしそれは「さすらい人幻想曲」のようなあからさまな主題労作とは違ってさりげなく展開されるので、一聴しただけでは気がつかず、気まぐれに転調が続いていくとりとめのない楽想の羅列のように聴かせてしまう。
これは作曲技法としては相当に高度なもので、プロフェッショナルな作曲家のみが書きうる作品である。決して無名の素人が趣味的に書いたものではない。

更にこの曲の信憑性に疑念をもたらすのが、響き、もっと開いて言えば「聴き面」の新しさである。
冒頭主題の回帰部分で頻出する左手の幅の広い分散和音、右手の高音域での輝かしいパッセージ、半音階の多用とそれを利用した転調は、ほとんどショパンのノクターンの世界に重なる。先入観なしで鑑定すれば、ショパンと同時代か、それ以降の作曲家の作品と判定されるのではないだろうか。そのくらい、ピアノでしか表現できない新しい響きを追求した作品なのだ。
上に列挙した要素は、それぞれ単独ではシューベルトのピアノ曲に登場しないこともない。しかしこれほどまとまって現れるのは非常に稀で、それゆえにシューベルト作品としては聴いたことのない響きが立ち現れる。

これがシューベルトの作品だという根拠は、ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの表紙しかない。となると、彼の故意の偽装か、あるいは不注意によるミスで、別人の作品にシューベルトの名を被せたのではないかという疑惑が生じてくる。
しかし、本作が名曲であるがゆえに、真の作曲者として挙げることのできる名はかなり限られてくる。ヴァルター・デューアが挙げた候補は、フンメル、ヴェーバー、そしてヨーゼフの兄アンゼルム・ヒュッテンブレンナーの3人だ。
最初の2人はビッグネームである。ヨハン・ネポムク・フンメル(1778-1837)は当時のピアノ界の巨匠で、1816年に「気まぐれな美女、幻想曲風ポロネーズ」作品55というピアノ曲を発表している。本作の第2セクションが流行のポロネーズであることを考え合わせると、少なくともこの「気まぐれな美女」が本作の下敷きになった可能性はある。「魔弾の射手」で名高いオペラ作曲家のカール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)も、「この時代にこんな曲を書けるとすれば・・・」ということで挙がってきた名前だと思われるが、フンメルとヴェーバーに関して言えば、彼らのような大家がこうした作品を書いて、筆写譜1部だけがヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの手元に残り、他の全ての資料が消え失せるという事態はちょっと考えにくい。
そこで有力な候補となったのがアンゼルム・ヒュッテンブレンナーである。

アンゼルムはシューベルトの親しい友人で、シューベルト同様に相当な多作家だった。250曲を超える歌曲を含む総計500曲以上の声楽曲、80曲あまりのピアノ曲などを書いている。サリエリのもとで学び始めたのはシューベルトよりも遅いが、歳は3つ上で、おそらく門下の優等生だったのではないだろうか。シューベルトは尊敬のあまり近づくこともできなかったベートーヴェンのところへ出入りし、「君(ヒュッテンブレンナー)に訪ねてきてもらうほど、私(ベートーヴェン)は価値のある人間ではない」という謎の言葉を賜っている。まさか才能のことを言っているとは思えないし、身分の高い家柄だったのだろうか。1827年3月26日の大作曲家の臨終の床に、女中のサリとともに居合わせ、雷鳴に向かって拳を突き上げ云々という有名なエピソードを語ったのもこのアンゼルム・ヒュッテンブレンナーである。彼のレクイエム ハ短調は、1825年のサリエリの死、1827年のベートーヴェンの死、そして1828年のシューベルトの死のあと、それぞれ追悼ミサで演奏された。当時その才能が認められていたのは、故郷グラーツに戻った直後、20代半ばの若さでシュタイアーマルクの楽友協会の会長を務めたという経歴からもよくわかる。何の地位も得られず仲間内で作品を発表するばかりだったシューベルトとは大きな違いである。
シューベルトが1823年にシュタイアーマルク楽友協会から名誉表彰を受けたのは、おそらくアンゼルムの口利きによるのだろう。その返礼としてシューベルトがヨーゼフを通じてアンゼルムに送ったのがあの「未完成交響曲」である。しかし彼がこの曲の存在を長年公表しなかったことは上に書いた通りである。2楽章で終わっていたので続きを待っていたのかもしれないが、シューベルトが死んだらもう続きはないのだから、少なくとも周囲の人間には存在を明かしてもよいようなものである。あるいは後続楽章の譜面も持っていたのだが紛失し、その露見を恐れて秘匿していたのかもしれない。あるいはもっと根深い嫉妬や複雑な感情が絡んでいたのかもしれない。アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは1840年から神秘主義者ヤーコプ・ローバー Jakob Lorberの新興宗教にはまり、彼の口から発される「神の言葉」を書き留めることに尽力したと伝えられている。
さて、ヨーゼフは本作を兄アンゼルムの作品と知りながら、その表紙に「シューベルトの作品」と記すという詐欺行為を行ったのだろうか。だとすると、「ピルクヘルトに貸し出して云々」という鉛筆書きも悪質な虚偽かもしれない。ヴァルター・デューアはさまざまな可能性についてずいぶん詳細に検討を行っている。
デューアはこの可能性を否定する。もしアンゼルムの作品をシューベルト作と騙るとすれば、それはシューベルトの名を使ってこの作品を出版しようとするときだけだ(音楽作品の偽作はほとんどそのようなビジネス上の方便で行われる)。しかし本作を出版しようとした形跡は見当たらない。もし出版しようとしたならば、その過程でもっと多くの筆写譜や校正譜が残っているはずである。デューアは、もし詐欺を行うとすれば「シューベルトの作品を兄アンゼルムの作品と騙って発表する」のであって、その逆は考えにくいとしている。
では不注意によるミスだろうか。もしそうだとしたら、シューベルトの真作のピアノ用の幻想曲があって、それとこのアンゼルムの作品の表紙を付け間違ったということになる。しかしこの仮定に該当するようなアンゼルム・ヒュッテンブレンナーの(実際にはシューベルトが作曲した)作品は知られていないし、遺品の束にも見当たらない。とするとこの「ミス説」も可能性は薄い。
更にデューアは、何らかの既存の作品のシューベルトによる編曲ではないか、などという説を提案しているが、これは考えるまでもなく現実的ではない。

デューアの結論としては、これはフンメルやヴェーバーなど当時の流行のピアノ曲のフォーマットに則ったシューベルトの真作で、せっかく流行のスタイルで書いたのに出版せず、友情の証としてヒュッテンブレンナー兄弟のもとに預けたのではないか、ということらしい。
確かに、この曲を出版していたら結構売れたかもしれない、と思わなくもない。でもポロネーズの嬰ヘ長調はシャープが多すぎてダメかな・・・。

私自身は、密かに考えている別の説がある。
個人的には、この傑作がシューベルトの真作であって欲しいし、楽想のみずみずしさや美しさは紛れもなくシューベルトの天才の所産だと信じている。しかし、シューベルトがこんな曲を書くだろうかと考えると、一抹の疑問が残るのも否めない。
私は研究者でも何でもないので、全く論拠のない仮説だが、これはシューベルトの楽想を別人、おそらくヒュッテンブレンナー兄弟のどちらかが繋ぎ合わせた合作なのではないだろうか。もしかしたらシューベルティアーデの席で、シューベルトがさらさらと即興で弾いたピアノ曲を、その場で、あるいは後から必死に思い出して記譜したのかもしれない。だから楽想はシューベルトの作だが、伴奏パートなどの細かい書法はヒュッテンブレンナーの手が入っていて、長生きした彼らがショパンの響きを知ってから書き直すこともできたはずだ。ヨハン・ペーター・フォーゲルの指摘通り、シューベルトが生涯に一度も書かなかったModerato con espressioneという発想標語が冒頭に記されている件も、これで説明はつく。
そうして完成した「シューベルトの主題による幻想曲」を、自作として発表するのは気が引けて、いきおい「シューベルト作曲」と書いてしまったのではないだろうか。
ちょっとタイムリーな話題に近づいてしまった気もしないでもない。
  1. 2014/03/25(火) 18:29:48|
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