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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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改訂は「いつ」「なぜ」行われたのか?(D567→D568)

D568はもちろんのこと、D567についても、成立状況を教えてくれる文献は残っていないのだが、ひとつ面白い証言がある。
ニ短調の緩徐楽章初稿の記事で登場した、シューベルトの友人アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、1854年にフランツ・リストの求めに応じて「歌曲作曲家フランツ・シューベルトの生涯の断片 Bruchstücke aus dem Leben des Liederkomponisten Franz Schubert」という回顧録を残していて、その中で「嬰ハ長調のピアノ・ソナタ」について言及している箇所があるのだ。

非常に難しくて、シューベルト本人も間違えずに弾くことができなかった。私は3週間、熱心に練習して、彼と友人たちの前で演奏したところ、彼はこの曲を私に献呈してくれた。その後ある外国の出版社に送付したのだが、「こんなひどく難しい作品は、売れ行きが期待できないので、あえて出版しようとは思わない」という内容のメッセージとともに返送されてきた。

嬰ハ長調(!)のソナタというのは知られていないので、きっと変ニ長調のソナタ(D567)を指しているのだろう、ということで、この証言は新全集のD568の解説にも引用されている。
この時期にシューベルトがピアノ・ソナタをヒュッテンブレンナーに献呈したという事実も、外国の出版社に送ったという事実も、この証言以外には知られていない。ヒュッテンブレンナーという人は以前「グラーツ幻想曲」D605Aの記事でも述べた通り、ちょっと怪しげなところがある人物で、とりわけシューベルトの死後26年も経った1854年の証言を信用できるかどうかは微妙なところなのだが、もし本当だとすると、いろいろ符号が合うことがある。

まず第一に、D567がヒュッテンブレンナーに献呈されていたとしたら、例のニ短調の草稿の紙片を、ヒュッテンブレンナーが持っていたことも説明がつく。「これは君にあげたソナタのスケッチだから、あげるよ。ベートーヴェンの自筆譜の裏に書いちゃったんだけども」なんて言って渡したのかもしれない。その紙片をヒュッテンブレンナーは生徒の記譜練習に使わせてしまうわけなのだが・・・。

そして第二に、なぜシューベルトがD567を改訂しようと思い立ったのか、その理由の一端がこのエピソードには示されている。自分では弾けないような難曲だったが、ヒュッテンブレンナーが弾いてくれたら良い曲で、友人たちにも好評だった。それで自信がついて、外国の出版社に送ってみたが、「難しすぎてダメ」と言われた。
ならば、♭5つの変ニ長調から、♭3つで読譜しやすい変ホ長調に直せば、受け入れられるのではなかろうか。つまり、作曲家自身の内的欲求というより、受容を優先し、出版を視野に入れた上での改訂作業、という可能性があるのだ。緩徐楽章を同主短調の変ホ短調にしなかったのも、♭が多すぎる(6個)から避けた、という理由もあるだろう。
実際にD568が現在も演奏会の主要レパートリーに君臨しているところを見ても、シューベルトの目算は当たったということになる。


さて、肝心の改訂の時期については特定されておらず、1817年(D567の作曲年)から1828年(シューベルトの最期の年)までさまざまな説がある。

1817年説を唱えたのは著名なシューベルト学者のモーリス・ブラウンである。
ブラウンはD593の2つのスケルツォを、D567の挿入楽章の習作と捉えている。D567が1817年6月に完成したあと、すぐにシューベルトはD568への改訂作業に着手し、11月までに完成させて、そのとき捨てられた2つのスケルツォを譜面にまとめて、11月の日付を書き込んだ。つまりD593の作曲日付の「1817年11月」は、D568の完成時期を示している、という見立てである。
なぜそのようなロジックが成り立つのか、原文を何度読んでもさっぱりわからないのだが、おそらくは「D568は1817年作曲」という希望的観測が最初にあって、論を進めているだろう。「1817年の6曲のソナタ」の、失われた第3番・第4番のいずれかにD568を当て込みたかったものと思われる。

現在ではこの説の信憑性は低い。まず、D567の清書稿では、第2楽章の最終ページの裏面に第3楽章(フィナーレ)が書かれていて、その間にスケルツォ(あるいはメヌエット)が入り込む余地はない。D567は3楽章構成のソナタとして完成したのであり、D593のスケルツォがD567のために書かれたのだとしたら、1817年6月以前の時点で捨てられていたはずである。D567からD568への改訂作業の途中でスケルツォが書かれたとすると、変ロ長調の第1番はともかく、第2番の変ニ長調という調性はD568には合致しない。
D593が、何らかのソナタの中間楽章として書かれた可能性は否定できないものの、それがD567/D568であるという明確な証拠もなく、その作曲の日付がD568の完成を示すというのはあまりにも飛躍が多い。
さらに言えば、単なる移調だけならともかく、これほどの内容のブラッシュアップを伴う改訂を、D567完成直後のシューベルトが成し遂げたとはちょっと思えない。D567の完成からしばらく時間が経って、過去作を客観的に見ることができるようになった作曲者が校訂したもの、と捉えるのが自然だろう。少なくともこの時期のシューベルトが、いったん完成した作品にさらに手を加えるような習慣を持たなかったことは確かである。

一方で、改訂時期をシューベルトの晩年と見なしている学者もいる。
マーティン・チューシッドMartin Chusidは展開部の書法について、「1824年以前のシューベルトは、これほど広範囲における、複雑な転調のシークエンスを書いたことはない」という。さらに、展開部の内容を検討するとピアノ三重奏曲第2番D929や弦楽五重奏曲D956に似ているとして、改訂作業はシューベルト最晩年の1828年、もしかしたらその最期の数ヶ月か、数週間で行われたのかもしれない、と論じている。
論文そのものを参照できなかったので、どの部分を比較しているのかは詳しくわからないのだが、以前に分析した通り、D568で新たに書き足された部分は、終楽章の展開部の前半40小節のみであり、あののどかな舞曲風の部分の転調が、最晩年のシューベルトにしか書き得なかったものとはちょっと思われない。

マルティーノ・ティリモが編纂したウィーン原典版の解説には、「改訂作業が1826年に行われたことを示唆するいくつかの証拠がある」として、複数の論文が紹介されているが、その内容については詳述されておらず、そこに挙げられた論文のオリジナルを参照することもできなかったので、この説の信憑性については詳しい検討はできなかった。

1829年6月にフェルディナントが作成した、弟フランツの遺産台帳によると、1829年1月5日に、ペンナウアー社からの58グルデン36クロイツァーの支払いが記録されている。ドイチュは、これをD568の作曲料とみている。
時期的に考えて、D568の出版契約は、シューベルトの生前に締結されたのだろう。しかし1828年11月19日に急死したシューベルトは、その対価を受け取ることさえできなかったのだった。
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  1. 2016/10/05(水) 22:44:28|
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