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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

シューベルトは『第九』を聴いたのか?

1824年5月7日、音楽史に残る一大イヴェントがウィーン・ケルントナートーア劇場で行われた。ベートーヴェンの「交響曲第9番」(いわゆる『第九』)の初演である。完全に聴力を失っていた作曲者は、それでも10年ぶりの交響曲の初演の指揮台に立ち、実際に演奏を取り仕切るミヒャエル・ウムラウフにテンポの指示を与えたという。演奏終了後、背後の聴衆の反応がわからずステージ上で立ち尽くすベートーヴェンに、アルトソロの歌手が近づき、喝采する聴衆を「見せた」というエピソードはあまりにも有名である。

ウィーン楽壇の大事件だったこの『第九』初演を、ウィーンに住むシューベルトが知らなかったはずはない。果たして彼はこの歴史的瞬間に居合わせたのだろうか?
普通に考えれば聴きに行ったはずだ。崇拝してやまないベートーヴェンの新作初演、何を措いても駆けつけただろう。
終演後にベートーヴェンの手を取って後ろを振り向かせた21歳のアルト歌手カロリーネ・ウンガーも知己だった。3年前に彼女のオペラデビューのコレペティトーアを務めた縁もあり(もっとも毎回稽古に遅刻するシューベルトは劇場関係者の不評を買うことになるのだが)、彼女の父親はツェリスのエステルハーツィ家の音楽教師の職を紹介してくれた恩人でもある。ちなみにカロリーネは若くしてなかなかのやり手だったらしく、『第九』のウィーン初演に尻込みをするベートーヴェンを焚き付け、この大興行を実現させた陰の功労者だったことが会話帳の書き込みからわかっている。歴史に名を刻んだあの行動も、もしかしたら巨匠と示し合わせてちょっとした芝居を打ったのではと思えなくもない。オペラ歌手ならそのくらい朝飯前だろう。
ところが、シューベルトが『第九』初演を聴いたという記録は何も残っていないのだ。聴いていたら、きっとはしゃいで友人たちに触れ回ったり、手紙を書きまくったりするだろうに(最晩年にパガニーニの演奏を2回も聴きに行ったことはよく知られている)、そういう資料も証言も残されていない。
実は、1824年4月・5月のシューベルトの足跡はほとんどわかっていないのだ。前年から続く体調不良は一進一退だったようで、たとえウィーンにいたとしても演奏会に行けるような健康状態ではなかったのかもしれない。
4月半ばの友人たちの報告には、

シューベルトはあまり良い体調ではない。左腕に痛みがあって、全然ピアノが弾けないんだ。それを除けば、機嫌は良さそうだ。
(1824年4月15日、シュヴィントからショーバーに宛てて)

とある。
遡って3月31日に、シューベルトはローマのクーペルヴィーザーに手紙を書いている。自らの病状を悲観し、「糸を紡ぐグレートヒェン」の冒頭の歌詞を引用して「『私の安らぎは去った、私の心は重い。私はそれを、もう二度と、二度と見出すことはない』、そう今僕は毎日歌いたい。毎晩床に就くときは、もう二度と目覚めることがないように祈り、朝になると昨日の苦悩だけが思い出される」という憂鬱な文章はよく知られているが、実はこの手紙に書かれているのはそんな愚痴ばかりではない。

歌曲では新しいものはあまり作っていないが、その代わり器楽ものはずいぶん試してみた。2つの弦楽四重奏曲と八重奏曲を作曲し、四重奏をもう1曲書こうと思っている。この方向で、なんとか大交響曲への道を切り開きたいと思うんだ。―ウィーンのニュースといえば、ベートーヴェンが演奏会を開いて、そこで新しい交響曲と、新しいミサ曲からの3曲と、新しい序曲をかけるということだ。―できることなら、近い将来僕も同じようなコンサートを開きたいと思っている。(中略)5月の初めにはエステルハーツィと一緒にハンガリーに行くので、そうなると僕の住所はザウアー&ライデスドルフ社気付ということになる。
(1824年3月31日、シューベルトからクーペルヴィーザーに宛てて)

シューベルトが『第九』初演を事前に知っていたことがちゃんと書かれている。なんと、巨匠のこのイヴェントに触発されて、「個展」を開催する気になったわけだ。自分の作品だけを集めた演奏会は、それから4年後の1828年、ベートーヴェンの一周忌にあたる3月26日に楽友協会でようやく開催されたが、その8ヶ月後に帰らぬ人となるシューベルトにとってはそれが生涯で唯一の機会になる。
ところが、手紙にあるように5月の初めにツェリスへ旅立ったとすると、5月7日の『第九』初演時には既にウィーンにいなかった可能性がある。1824年春、ウィーンでのシューベルトの最後の足跡は、4月に男声4部のための「サルヴェ・レジナ」D811を書き上げているのみだ。ドイチュはウィーン出立の日を5月25日前後と推察しており、多くの伝記がそれに倣って「5月末頃にウィーンを発ちツェリスへ」と書いているが、その確かな根拠はない。もしドイチュ説を採るならば、5月23日にレドゥーテンザールで行われた『第九』の再演に立ち合った可能性すらある。ちなみに再演は散々な失敗だったと伝えられる。
6月末に両親がシューベルトに書いた手紙には

5月31日付のお前の手紙を6月3日に受け取った。お前が健康であること、伯爵の館に無事到着したことを知って嬉しく思っている。
(1824年6月末、父フランツ/継母アンナからフランツ・シューベルトに宛てて)

とある。この5月31日付の手紙は行方不明だが、その時点でシューベルトがツェリスに到着していたことは確実のようだ。

そういうわけで資料的な裏付けは何もないのだが、私はシューベルトは確かに『第九』をリアルタイムで聴いたはずだと考えている。なぜなら1826年出版の「フランス風の主題によるディヴェルティメント」D823の中に、『第九』がこだましているのが聴き取れるからだ。
「ディヴェルティメント」第1楽章の第2主題後半、この情緒的な旋律線はどこかで聴いたことがあると思っていた。
D823第1楽章第2主題

記憶をたどってようやく思い当たった。『第九』の第2楽章スケルツォである。
第九第2楽章副主題

そう考えると、妙に符合するところがいくつかある。「ディヴェルティメント」第2楽章「アンダンティーノ・ヴァリエ」の第2変奏と、『第九』スケルツォ主部のスタッカートの音型。
D823第2楽章第2変奏
第九第2楽章主題


「アンダンティーノ・ヴァリエ」第4変奏と、『第九』第3楽章の再現部。
D823第2楽章第4変奏
第九第3楽章

音型そのものが酷似しているというわけではないが、全体の拍子感やメロディーが6連符で細かく装飾されるさまはとてもよく似ている。

『第九』の楽譜出版は1826年8月で、「ディヴェルティメント」第1楽章の出版はその2ヶ月前なので、楽譜で読んで影響を受けた、ということはない。1824年5月の2度の『第九』の実演のどちらかに接し、その記憶が「ディヴェルティメント」の中に表出したのではないだろうか。

とはいえ、たまたま似ただけ、といわれればそれまでの話ではある。
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  1. 2020/12/06(日) 21:13:15|
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ハンガリー風ディヴェルティメント D818 概説

ハンガリー風ディヴェルティメント ト短調 Divertissement à l'hongroise D818
作曲:1824年? 出版:1826年(作品54)
楽譜・・・IMSLP

1826年4月に出版されたが、自筆譜は失われており正確な作曲年代はわからない。しかし1824年秋のツェリス滞在に深く関連する作品であることは、そのときシューベルトと一緒に耳にしたエステルハーツィ邸のメイドの歌がこのディヴェルティメントに転用されたというシェーンシュタインの証言や、ヒュッテンブレンナーの「この滞在中にシューベルトは有名なハンガリー風ロンドのための素材を集めていた。彼は私に、ツィゴイナー音楽にとても興味をひかれている、と話した」といった言葉から疑いないと思われる。シューベルトは10月16日にツェリスを離れているので、楽曲全体の仕上げはウィーン帰着後に行われたと考えられる。
出版に際して、ハンガリーの貴族パルフィ家に嫁いだ歌手のカタリーナ・ラシュニー・フォン・フォルクスファルヴァ(旧姓ブフヴィーザー) Katharina Lascny (Laszny) von Folkusfalva, geb. Buchwieser (1789-1828)に献呈された。

3つの楽章は、いずれも行進曲のエレメントを内包している。
第1楽章は幻想的なアンダンテに、行進曲風の2つのエピソードが挿入される、ABACAのロンド形式。エピソードから主部に戻る際には、ツィンバロンを彷彿とさせるトレモロが激した調子で掻き鳴らされ、プリモがツィゴイナー風の増2度を多用した即興的なパッセージを奏でるあたり、まさにハンガリーの香りが芬々としている。
第2楽章は三部形式の短い行進曲。主部はハ短調で、セコンドのシンコペーションの伴奏型が耳を引く。変イ長調の中間部ではシューベルトの偏愛したダクティルス(長短短)のリズムでメロディーが歌われていく。
第3楽章「ハンガリーのメロディー」D817の主題による長大なロンドである。ABACAの小ロンド形式だが、間のエピソード部がそれぞれ三部形式を取る巨大な構成(A-B(aba)-A'-C(cdc)-A''-コーダ)となっている。主部(A)の半ばにあるゼクエンツ(同型反復)による盛り上がりはD817にはなかったものだ。ハ短調の第1エピソード(B)は和音連打を伴う行進曲風のきびきびした曲調で、夢見るような中間部を挟んで回帰する。2度目の主部(A')では伴奏型がダクティルスのリズムに変奏される。第2エピソード(C)は変ロ長調の穏やかな曲想だが、中間部では突如遠隔調の嬰ヘ短調に転調し、トレモロや和音の強打が異国情緒を盛り立てる。最後の主部回帰(A'')では伴奏型がシンコペーションのリズムとなり、さらに急き立てられるような印象となる。D817と同様のコーダで、最後は消え入るように静かに終わる。

面白いのは、ハンガリー出身を標榜していたフランツ・リストがこの作品に強い興味を抱き、2度にわたって「シューベルトによるハンガリーのメロディー」というタイトルで全編のピアノ独奏用編曲を発表しているほか、第2楽章にオーケストレーションまで施している(「ハンガリー行進曲」)ということだ。
独奏用「ハンガリーのメロディー」第1版(S.425)は1838-39年に編曲され、ほぼ原曲通りのサイズにリストならではの華麗な技巧的パッセージが鏤められているのだが、1846年に出版された第2版(S.425a)では両端楽章が大幅に短縮されており、そのせいで第3楽章はオリジナルの「ハンガリーのメロディー」D817とよく似た構成になっている。当時D817の存在は知られていなかったのに、実に興味深い一致といえよう。
出生地が当時ハンガリー領だっただけで、マジャール語も解さなかったというリストが代表作「ハンガリー狂詩曲」シリーズに着手し始めるのは、ちょうどその1846年のことである。
  1. 2020/12/02(水) 23:16:22|
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ハンガリーのメロディー D817 概説

ハンガリーのメロディー ロ短調 Ungarische Melodie h-moll D817
作曲:1824年9月2日 出版:1928年
楽譜・・・IMSLP

「ツェリスにて、1824年9月2日」と書き込まれた自筆譜が、1925年に作家シュテファン・ツヴァイクのコレクションに加わるまで、この作品の存在は知られていなかった。一聴するに、1826年出版の「ハンガリー風ディヴェルティメント」D818の第3楽章ロンド(こちらはト短調)と同一のテーマを扱っていることは明らかで、その初稿的存在と見做される。
1824年、シューベルトとともにツェリスのエステルハーツィ邸に滞在したシェーンシュタイン男爵の証言によれば

『ハンガリー風ディヴェルティメント』のテーマになったのは、エステルハーツィ家の厨房でハンガリー人のメイドが歌っていたハンガリーの歌で、シューベルトは私と出かけた散歩の帰りに、通りがかりに耳にしたのだ。私たちはしばらく耳を傾けていたのだが、シューベルトはどうやらこれが気に入ったようで、歩きながら続きをハミングしていた。

タイトルの通り、その「ハンガリーのメロディー」を書きつけておいたスケッチとも捉えられる。
曲はコーダを伴う三部形式(A-B-A'-コーダ)で、A部とコーダがディヴェルティメントに転用されている。ただ、ロ短調から嬰ヘ短調へ向かうAは、A'ではホ短調から始まってロ短調で終わるように設定されており(いわゆる下属調再現)、民謡そのものというよりもかなり作曲家の手が加わった作品と思われる。そもそもこのメロディーじたい器楽的で、歌うのに適した旋律線とはいえない。オリジナルのメロディーにもある程度改変が加えられているのかもしれない。

細かい装飾音やシンコペーションの多用は確かにエキゾティックであり、後の「楽興の時」第3曲や「即興曲」D935-4などにも通じる、ハンガリー風味の源流にある作品といえるだろう。
  1. 2020/11/29(日) 23:29:21|
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シューベルトの旅 (6)1824年5-10月、ツェリス

1824年5月、シューベルトは6年ぶりにハンガリー・ツェリスのエステルハーツィの館を訪れた。
令嬢姉妹の姉マリーは16歳から22歳になり、婚約者のアウグスト・フォン・ブロインナー=エンケヴォイルト伯爵 Graf August von Breunner-Enkevoirt (1796-1877)を連れてツェリスにやってきた(彼らは1827年に結婚する)。13歳だった妹カロリーネは19歳に、そして駆け出しの作曲家だったシューベルトは、今やウィーン中にその名を知られるようになっていた。
そんな変化を、互いにこのとき初めて知ったということはないだろう。ウィーンに戻ってからも、市内のエステルハーツィ邸で姉妹へのレッスンはしばらく続いており、定期的なレッスンが必要なくなってからもシューベルトはしばしば彼らを訪ねていたらしい。
シューベルトが再び夏のツェリスに招かれたのは、家庭教師というより、一家の客人としてという性格が強かった。もちろん姉妹へのレッスンは必要に応じて行われたが、今回は使用人の住む管理棟ではなく本館の中に1室が与えられ、報酬も増額された。シューベルトと若い頃から懇意にしていたことは、彼が有名になった今、エステルハーツィ家にとっても名誉なことだったに違いない。

シューベルトが1824年のツェリス滞在中に家族・友人へ宛てた手紙は3通残っている。その一部を紹介しよう。

もちろん、どんなものでも僕らには青春の栄光に包まれて輝いて見えた、あの幸せな時代はもう戻ってこないし、その代わりに今やみじめな現実を致命的に認識しなければならないのだが、僕はそのことをファンタジーを駆使して(ありがたいことに)できる限り美化しようと努めている。人は、昔幸せだった場所には今も幸せの拠り所があると思っているが、本当の幸せは僕ら自身の中にしかないものだ。それで僕は、不快な妄想を経験し、以前シュタイアーでした体験にまた直面することになったが、それでもそのときよりは、幸せと安らぎを自分の中に見出すことができるようになった。
その証拠として、大ソナタと創作主題の変奏曲を供することができる。どちらも4手のための作品で、ちょうど作曲したばかりだ。変奏曲は特別な称賛を得ている。

(7月16~18日、シューベルトから兄フェルディナントに宛てて)

僕はありがたいことに元気で、もし君やショーバーやクーペルヴィーザーも一緒にいたらかなり楽しく暮らせると思うが、例の魅力的な星がいるにもかかわらず、僕はしばしばウィーンへの渇望を感じてしまうのだ。9月の終わりには君にまた会えると願っている。
4手のための大ソナタと変奏曲を作曲した。後者は特別な称賛を得たが、ハンガリー人の趣味は完全には信じられないので、君たちやウィーン人たちの判断に委ねることにしたい。

(8月、シューベルトからシュヴィントに宛てて)

残念ながら2度までも誘い出されてきてしまった、このハンガリーの奥地に今僕はいる。ここには知的な言葉が話せるような人間はひとりもいない。君が行ってしまってから歌曲は1曲も作曲していないが、器楽ものにはいくらか挑戦してみた。
(9月21日、シューベルトからショーバーに宛てて)

ここからいくつかのことが見えてくる。

まず、滞在中の創作活動について。言及されている「大ソナタ」とは「グラン・デュオ」とも呼ばれるハ長調 D812、「変奏曲」とは創作主題による8つの変奏曲 D813を指している。1818年のツェリス赴任時に書かれた数多くの4手作品と同様に、マリーとカロリーネの姉妹との共演を目的に生み出されたと考えて間違いないだろう。いずれも大作だが、他のジャンル―当時のシューベルトにとって喫緊の課題だったオペラや交響曲―に手を付けた形跡は全くない。おそらく夜の舞踏会の伴奏用に、いくつかの舞曲が書かれた。
他に特記すべきなのは、ピアノ独奏のための小品「ハンガリー風のメロディー」D817、それを元にした連弾のための大作「ハンガリー風ディヴェルティメント」D818であろう。D818についてはツェリス滞在中に完成したかどうかは定かではないが、こうしたハンガリー風のエッセンスはウィーン帰郷直後の「アルペジオーネ・ソナタ」D821や後の「即興曲」D935-4などにたびたび顔を出し、以後のシューベルト作品にエキゾティックな彩りを添えていくことになる。

1818年の手紙にはあった、到着当初のうきうきした気分を描いた言葉はない。とにかくこの辺鄙な場所にいなければならない退屈さだけが伝わってくる。引用部分には含めなかったが、不在中のウィーンの取次先になってくれた出版社ライデスドルフが何の手紙も転送してこないというのでずいぶん苛立っている。
フェルディナント宛の手紙から窺われるのは、シューベルトが前年のシュタイアー旅行時に深刻な精神の危機に陥っていたことだ。一種の鬱のような症状だったのだろうか。1823年の旅行中の記録がほとんど残されていないのもそのせいかもしれない。

そして、シュヴィント宛の手紙に一言触れられているだけの「例の魅力的な星」、つまりエステルハーツィ伯爵令嬢カロリーネへの恋について言及しなければなるまい。
実際のところ、シューベルト本人がカロリーネのことを書いた手紙はこの1通しか残っていないのだが、シューベルトの友人たちは揃って彼がカロリーネに恋をしていたことを証言しているから、友人たちの間ではよく知られた話だったのだろう。
この恋について最も多くを語っているのは作家のエドゥアルト・フォン・バウエルンフェルトである。1828年2月の日記には
「シューベルトは伯爵令嬢Eに真剣に恋をしている。私はそのことを喜んでいる。彼は彼女にレッスンをしている。」
とある。後にもっと詳しく、次のように回想した。

彼は実際のところ、弟子の若きエステルハーツィ伯爵令嬢に首っ丈で、最も美しいピアノ曲のひとつ、連弾のための幻想曲ヘ短調を彼女に捧げた。レッスンとは別に、彼はパトロンの歌手フォーグルの庇護下にたびたび伯爵家を訪ねていた。・・・そんなとき、彼は後方の席に甘んじて座り、崇拝する生徒のそばに静かに佇んで、恋の矢をますます深く自分の心に突き刺すのだった。・・・カロリーネ嬢は彼にとって目に見える、慈悲深いミューズであり、この音楽のタッソーにとってのレオノーレだった。
(ドイチュ編「シューベルトの友人たちの思い出」より)

一方で、1858年に記した回顧録には、こんな意味深長な詩を載せている。

Verliebt war Schubert; der Schülerinシューベルトが生徒に恋をした、
Galt's, einer der jungen Comtessenそれは若い伯爵令嬢のひとりだった。
Doch gab er sich einer ― ganz andern hin,   ところが彼はとある―全然別の人に自らを捧げた、
Um die ― Andere zu vergessen.それは―もうひとりを忘れるためだった。
 Ideell, daß uns das Herz fast brach, 理想は私たちの胸を裂いた、
So liebt auch Schwind, wir Alle;だからこそシュヴィントや私たちはみんな理想を愛した。
Den realen Schubert ahmten wir nach(でも結局)現実的なシューベルトを私たちは真似たのだ、
In diesem vermischten Falle.こういう複雑な局面においては。

(ルスティコカンピウス(バウエルンフェルトの筆名)著「我らウィーン人の本」中の詩「若き日の友人たち」より抜粋)

この詩は何を意味しているのだろうか。
シューベルトと、ヨゼファ(ペピ)・ペックルホーファー Josefa (Pepi) Pöcklhofer との関係をここに見出そうという見方もある。ペピはツェリスの館で働く小間使いで、1818年の手紙で「可愛くて、よく僕と連んでいる」と書かれている人物である。シューベルトが彼女と関係を持っていたことをシェーンシュタイン男爵が証言しているが、シュパウンは否定している。シューベルトは彼女から梅毒を感染されたという説が一時期盛んに唱えられていた。
シューベルトの病についてはまた別の機会に取り上げることがあると思われるが、少なくとも事実関係から言えば、バウエルンフェルトの言う「別の人」がペピを指すとは思えない。シューベルトがペピと出会ったのは1818年のツェリス滞在のときのことで、当時カロリーネは13歳だった。シューベルトのカロリーネへの恋が語られるようになるのはもっと後のことで、おそらくこの1824年の滞在中にカロリーネへの想いが深まったのだろうと考えられている。
バウエルンフェルトの認識が事実かどうかは別として、彼の詩はこのように読み取れる。シューベルトはカロリーネに恋をしていたが、それが叶わぬ恋であることを十分に知っていて、別の女性と関係を持っていた。若き日のシュヴィントやバウエルンフェルト自身は、シューベルトのように手近な女性で済ませることを良しとしなかったが、結局最後は「現実的な」シューベルトと同じようなことをしてしまっていた、ということだろう。だからこそカロリーネはシューベルトの「現実の」恋の相手ではなく、「理想の」憧れの対象であり続けたのだ。
それにしても詩の中で2度も使われている「―」(ダッシュ)は極めて意味深である。なぜそこまで言い淀む必要があったのだろうか。

いずれにせよ、1824年のツェリス滞在中にシューベルトとカロリーネの間にどんなことがあったのか、確かなことはわかっていない。
シューベルトは約5ヶ月の滞在を経て、10月17日にウィーンに帰着した。
  1. 2018/04/14(土) 22:18:19|
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シューベルトの旅 (1)1818年7-11月、ツェリス

1818年夏から秋にかけての、第1回「ツェリス行き」は、エステルハーツィ家の音楽家庭教師としての赴任である。

シューベルトのキャリアにとって重要な出来事が2つ、1818年の初めにあった。
ひとつは1月に歌曲「エルラフ湖」D586の楽譜が冊子の挟み込み付録として印刷され、刊行されたこと。冊子というのは「Mahlerisches Taschenbuch für Freunde interessanter Gegenden : Natur- und Kunst-Merkwürdigkeiten der Österreichischen Monarchie」という長いタイトルを持つ、年1回の定期刊行物である。内容はオーストリア各地の名所景勝を描いた画集に詩や散文が付いたもので、当時の市民階級に好評だったらしい。シューベルトの作品の譜面が世に出るのはこれが初めてで、実際のところ楽譜として出版するよりもはるかに多くの人々の目に触れることになった。
もうひとつは3月1日、ホテル「ローマ皇帝 Zum römischen Kaiser」のホールでのエドゥアルト・ジャエル Eduard Jaëll (1793-1849)(ヴァイオリニスト)主催の公開演奏会で、「イタリア風序曲」(D590かD591のいずれか)が演奏されたこと。教会でのミサ曲を別にすれば、シューベルトの作品が公開の場で披露された最初の出来事である。ウィーンだけでなくドレスデンやライプツィヒの新聞にも批評が載り、これを皮切りにシューベルトの作品がしばしば演奏会のプログラムを飾るようになる。
こうした、華々しいとは言えないまでも着実な成功の裏で、シューベルトの1818年前半の創作量は激減していた。6曲ものピアノ・ソナタに着手した、1817年の旺盛な創造力はどこへ行ってしまったのか。不振の主因は、生活環境の変化だった。
一度は父の家を離れ、ショーバー宅に身を寄せて創作に打ち込んでいたシューベルトだが、1817年8月の末、ショーバーが病気の兄に部屋を明け渡す必要が出たため、シューベルトはやむなく実家に戻ることになった。年末に父が、より中心部に近いロサウ地区の学校の校長に就任し、一家は住み慣れたヒンメルプフォルトグルントから翌年の初めにロサウへ引っ越した。シューベルトは再び補助教員として父の仕事を手伝っていたが、この忙しい異動の最中、もはや作曲に多くの時間を割くことはできなくなっていた。いったん味わった自由を手放して、窮屈な教員生活に戻らなくてはならないストレスが、シューベルトの精神を苛んだ。謹厳な父が、音楽家になりたいという息子の願いを聞き入れるはずもなく、二人の間には軋轢が絶えなかった。「音楽をやるというならこの家を出ていけ!」などという啖呵を父が本当に切ったのかどうかわからないが、そんなような重大な衝突がこの時期にあったのかもしれない。

そんな折に、友人アンゼルム・ヒュッテンブレンナー Anselm Hüttenbrenner(1794-1868)を通して知り合ったヨハン・カール・ウンガー Johann Karl Unger (1771-1836)が、ガランタのエステルハーツィ家の音楽家庭教師にシューベルトを推薦する。
ウンガー氏は文筆家・作曲家として活動する傍ら、さまざまな貴族の家庭教師も務め、その名前が示すとおりハンガリー系の出自だった(ドイツ語でハンガリーはウンガーンUngarnという)ことからか、ハンガリーに本拠を置くエステルハーツィ伯と親交があった。ちなみにウンガー氏の娘、カロリーネ・ウンガーCaroline Unger (1803-1877)はその後オペラ歌手となり、18歳でケルントナートーア劇場の「コシ・ファン・トゥッテ」に出演した際にはシューベルトがコレペティトーアとして共に仕事をしている。その3年後にはベートーヴェンの交響曲第9番の初演でアルト独唱を務めた。演奏が終わっても指揮台を離れないベートーヴェンのもとに歩み寄って客席へ振り向かせ、耳の聞こえない作曲家に喝采する聴衆を「見せた」という、あの有名なエピソードに出てくる若きアルト歌手その人である。
ガランタのエステルハーツィ家は、かのハイドンが仕えていたアイゼンシュタットのエステルハーツィ本家の分家筋にあたる。ガランタというのは、現在のスロヴァキアの首都ブラティスラヴァの50kmほど東にある地域で、エステルハーツィ家の代々の領地だった。一家は夏の間、ガランタから更に80km以上東にあるツェリスの館に滞在するのが慣わしとなっていて、当主ヨハン・カール・エステルハーツィ伯爵 Graf Johann-Karl (János Károly) Esterházy de Galántha (1775-1834)は、その休暇の間に2人の令嬢、マリー Marie (1802-1837)とカロリーネ Caroline (1805-1851)の姉妹にピアノを教えてくれる先生を探していたのだった。


西から順にウィーン、ガランタ、ツェリス

この土地の呼び名は言語によって揺れがあり、ジェリズ、ゼレチュなどと表記されることもあるが、ここではドイツ語表記Zselizに基づき「ツェリス」で統一することにする。当時はハンガリー領だったが、現在はスロヴァキアの領土であり、ジェリエゾフツェ Želiezovceと呼ばれている。
21歳のシューベルトにとって、降って沸いたようなこの話はストレスフルな日常から抜け出す絶好のチャンスだった。あるいは、実家で鬱々とするシューベルトを見かねた友人たちが、ウンガーに働きかけたのかもしれない。7月7日にビザを受け取るなり、いそいそと旅立った。ウィーンからツェリスまで馬車を乗り継いで200km。シューベルトがウィーンを離れるのは、これが初めてだった。

Zseliz Esterhazy Castle
ツェリスのエステルハーツィ家の館。現在は周囲も含めて「シューベルト公園」となっている。

シューベルトが滞在したエステルハーツィ家の夏の館は1787年に建造されたバロック様式の邸宅で、広い敷地と美しい庭園に面していた。16歳のマリーと13歳のカロリーネの個人レッスンの他に、一家や客人の求めに応じてダンスの伴奏など、音楽的な楽しみを提供するのがシューベルトの務めで、それで資格教員と遜色ない給料を受け取ることができたのだから、仕事としては申し分なかった。
滞在中のシューベルトの様子については、家族や友人宛の手紙で知ることができる。

僕は神のごとく作曲している、あたかもそうあらねばならなかったかのように。・・・
君たちが僕と同じように元気で幸せであることを願っている。今僕は生を実感する、やれやれ、ようやく時は来たのだ。さもなくば、僕はまだ駄目な音楽家のままだったろう。

(8月3日、シューベルトからショーバーとその他の友人たちへ)

シューベルトがスランプからの脱出を実感したことが、はっきりとわかる。4ヶ月半に及ぶツェリス滞在中の作品の多くは、「大ソナタ」D617を筆頭とするピアノ連弾曲である。特に「フランスの歌による変奏曲」D624や「4つのポロネーズ」D599など、プリモとセコンドの難易度に差がある作品は、令嬢姉妹のレッスンにおいて、それぞれとシューベルト自身が連弾するために作曲されたものと考えられている。他に、どうやら兄フェルディナントのゴーストライターを務めたらしい「ドイツ・レクイエム」D621や、未完成のピアノ・ソナタD625、いくつかの歌曲がこのツェリス滞在から生まれた。

僕らのお城は大きくはないが、とても可愛いなりをしている。周りはとても美しい庭園に囲まれている。・・・ここはかなり静かだ、ときどき40羽近くのガチョウが一斉に鳴いて、自分の言葉すら聞き取れなくなる以外は。周りはみんないい人たちだ。伯爵家の使用人たちがこんなに息が合うなんて、珍しいことだろう。管理人はスラヴォニア人の良い奴で、自らの天賦の音楽の才能に自惚れている。今もちょうど、2と4分の3曲のドイツ舞曲を、名人芸でもってリュートで吹いているところだ。
(9月8日、シューベルトからショーバーとその他の友人たちへ)

弦楽器のリュートを「吹く」名人芸。もちろんこれはシューベルトならではのジョークである。このあと、「自分の懐具合に異常に目ざとい」財務長、「老婦人のように病気がちな」医師、いい加減な料理人、可愛くてよく自分と連んでいる小間使いなど、城で暮らす「風変わりな」使用人たちがユーモラスに紹介される。この長文の手紙からは、仲間たちに自分の近況を面白おかしく伝えようとする、上機嫌のシューベルトの様子が見て取れる。

伯爵は意外に無骨で、伯爵夫人はプライドが高いが優しい感性の持ち主、令嬢たちは良いこどもたちだ。
(9月8日、シューベルトからショーバーとその他の友人たちへ)

後にシューベルトの想い人となるカロリーネ・フォン・エステルハーツィ嬢について、この時点ではこれだけしか述べられていない。
この滞在の間にシューベルトが出会った重要な人物に、カール・フォン・シェーンシュタイン男爵 Carl Freiherr von Schönstein (1796-1876)がいる。シェーンシュタインは宮廷官吏でありながら、プロ並みの実力を誇るハイバリトン歌手でもあった。ツェリスの館でシューベルトと知り合った彼は、その天賦の才に惚れ込み、生涯を尽くしてリートの演奏・紹介に携わった。
シューベルト歌曲の受容に決定的な役割を果たしたベテランテノール歌手、ミヒャエル・フォーグルの歌唱が時に過度に演劇的で大仰すぎるという同時代の批判が多く残されている一方で、シェーンシュタインの節度ある表現は高く評価されており、「おそらく最も理想的なシューベルト歌手」(レオポルト・フォン・ゾンライトナー)とまで見なされていた。シューベルトもそれ以降、シェーンシュタインの声域を念頭に歌曲を作曲したと伝えられており、後に連作歌曲「美しき水車屋の娘」D795が彼に献呈された。

実家から出た開放感に浸るのも束の間、やがて仲間たちのいない、刺激の少ない田舎生活にシューベルトは飽きてくる。

ここツェリスでは、僕はひとりですべてをこなさなくてはならない。作曲家、批評家、聴衆、その他なんでも。芸術の価値がわかる者はここにはいない、せいぜい(僕の思い違いでなければ)伯爵夫人ぐらいだ。
(9月8日、シューベルトからショーバーとその他の友人たちへ)

ここは既に寒くなりつつあるけれど、たぶん11月の半ばまではウィーンに戻らないと思う。来月には数週間、伯爵の伯父にあたるエルデーディ伯爵の領地フライシュタットルに行きたいと思っている。素敵な場所だと聞いているよ。それからペストにも行きたい、そこからそう遠くないボチュメディエで葡萄の収穫をすることになっているんだ。・・・
僕はこんなに元気で、ここにはこんなにいい人たちがいて、なのにこんなにも待ちこがれている瞬間は・・・「ウィーンへ、ウィーンへ!」という言葉。そう、愛するウィーンよ、最も大切で、最も愛すべきものを、おまえはその小さな空間に閉じこめていて、ただ再会、天国的な再会のときにだけ、この憧れは満たされるのだ。

(8月24日、シューベルトから兄フェルディナントへ)

周りの人たちと、日増しに仲良くなるというわけにはいかないが、それでも最初の頃と同じように僕は元気にしている。だけどやっぱりわかるんだ、この人々の中で僕はどうしたって孤独だということが。2,3人の良い女の子たちを別にすればね。ウィーンへの憧れは、日ごとに膨らんでいく。11月の半ばには帰るよ。
(10月29日、シューベルトから兄フェルディナントへ)

「2,3人の良い女の子たち」というのは誰のことなのだろう。8月24日付の手紙に書かれている、フライシュタットルへの遠足やペスト近郊での葡萄狩りが実際に行われたのかどうかは定かではないが、ウィーンへの帰郷は予定通り11月の半ばとなった。
帰路にはシェーンシュタイン男爵が連れ添ったともいわれる。11月19日にツェリスを発ち、21日にウィーンに到着すると、実家には戻らず、そのまま友人の詩人マイアホーファーの家で共同生活を始めた。心ならずも教職に就くことはもはやなかった。父は用意していた息子の教員復職の申請書を破り捨てた。

[参考文献]
・Walther Dürr & Andreas Krause編「SCHUBERT HANDBUCH」(Bärenreiter, 1997)
・Otto Erich Deutsch編「Franz Schubert Die Dokumente seines Lebens und Schaffens」(Georg Müller, 1914)
・Walther Dürr & Arnold Feil著「Franz Schubert Musikführer」(Reclam, 1991/2002)
・藤田晴子著「シューベルト 生涯と作品」(音楽之友社, 2002)
・オットー・エーリヒ・ドイッチュ編 實吉晴夫訳「シューベルトの手紙」(メタモル出版, 1997)
  1. 2018/02/27(火) 19:37:06|
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