(承前) シューベルティアーデの前身として、近年発掘され注目されているのが
Unsinnsgesellschaft である。和訳すれば
『ナンセンス協会』 または
『狂騒クラブ』 (訳©堀朋平)といった意味になる。
このグループの解明は、カナダ出身の学者
リタ・ステブリン (1951-2019)が独力で成し遂げ、著書「Die Unsinnsgesellschaft」(1998)にまとめられた。
メンバーたちは
Unsinniaden と自称している。Unsinn「無意味」に接尾辞-iade(n)が付いたもの、「無意味愛好者」「ナンセンス主義者」。
Schubert-iade(シューベルト主義者、シューベルト党員)の語構成と似通っている 。構成員たちはコードネームで呼び合い、たとえば中心メンバーのアンシュッツAnschütz (Anschuetz)兄弟はシュナウツェSchnautze(鼻)と号している。アナグラム(文字の入れ換え)で作られた二つ名である。これはまだわかりやすいが、レオポルト・クーペルヴィーザーのDamian Klexなどはもはやどういう由来なのかよくわからない。
彼らの活動の痕跡として残されているものは、1817年4月から1818年12月にかけて週刊で制作・発行された同人誌で、「人間の狂騒の記録」と題されている。全体のおよそ3分の1にあたる29点が散逸を免れウィーン市立図書館に収蔵された。
紙面を満たすのは不思議な図像や文章たちだ。たとえば1818年8月13日の日付を持つある記事を引用しよう:
スペインからの報告によると、異端審問所は黒魔術に没頭した罪状で著名な画家フアン・デ・ラ・チンバラを逮捕した。彼は逮捕される前に魔術によってひどい火傷を負ったということで、無事の生還が望まれる。 一見デタラメかつ意味不明な内容だが、この時期シューベルトは人生で初めて
ウィーンを離れハンガリーのツェリスに出かけて いて、そのことをネタにした記事だとステブリンは推測する。チンバラはツィンバロンやシンバルといった楽器を連想させる名前であり、作曲家を画家に、ハンガリー(ヨーロッパの東端)をスペイン(ヨーロッパの西端)に置き換えたというわけだ。そしてスペインといえば異端審問、異端審問といえば火あぶりというのはもう枕詞のようなものである。
このように、仲間内だけで通じる隠語や言い換えを駆使した言葉遊びが展開されており、その作法を知らない部外者には「無意味」にしか思えないのだが、時にはそれが下ネタや醜聞の隠れ蓑になることもあったようだ。
例えば、こちらは1818年7月16日付で、近年よく見かけるようになった「万華鏡と自転車」のイラストである。
クーペルヴィーザーによる水彩で、万華鏡を手にした肥った男は見るからにシューベルトであろう。そこへ自転車で突っ込んでいるのはクーペルヴィーザー自身だ。E・アンシュッツによる注釈には
最近発明された万華鏡や自転車は危険。夢中で万華鏡を覗きながら道を歩いていると自転車に轢かれるぞ などとあり、数号あとの記事にはこれを引いてG・アンシュッツが
万華鏡を覗くと道行く人の服が透けて見えるらしい。グラーベンを歩くのが好きな若い男には最適 、
J・クーペルヴィーザーは
万華鏡は目だけではなく鼻にも悪影響がある と警鐘を鳴らす。
最新のトレンドを題材にしたナンセンスなジョークのようだが、深読みすればグラーベン(ウィーン中心部の目抜き通り)は当時売春窟として知られており、そんなところをうろうろしていると梅毒にかかって鼻を失うぞ、という警告とも受け取れる。
シューベルトが25歳頃に梅毒を発症したことは現在では周知の事実である。過去にはツェリスの館のメイドから伝染されたという説もあったが、ステブリンはこの記事をもとに、
シューベルトが若い頃売春街通いをしていたことは友人たちの間では公然の秘密 で、それが感染源に違いない、と論じて話題を呼んだ。
『狂騒クラブ』のメンバーの多くは
ウィーン人の画家の卵たち だった。後のシューベルティアーデの中核に残ったのは
レオポルト・クーペルヴィーザー とその兄弟だけだが、ウィーン美術アカデミーを拠点とする彼らのネットワークの中から、より年下の世代のシュヴィントやリーダーがシューベルティアーデに参加するようになり、それによってシューベルト周辺に関する多くの絵画やスケッチが残されることになった。
ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー(1796-1880)によるシューベルトの肖像画(1825、水彩)。ある日画家が突然の土砂降りに遭い雨宿りをした家にたまたまシューベルトが住んでいて、そのときスケッチして仕上げたもの、という伝説がある。右下にはシューベルト自身の署名と、その下に画家の筆跡で「1828年11月19日に死去」と記されている。この水彩を元に50年後、79歳のリーダーが完成させた立派な油彩画はシューベルトの最も有名な肖像画となり、今も音楽の教科書を飾っている。クーペルヴィーザーらが描いたシューベルトに比べるといずれもずいぶん美化されており、リーダーにとって1歳年下のシューベルトが「崇拝すべき相手」だったことが窺える。 彼らとシューベルトの接点と思われるのが、他ならぬ
フランツ・フォン・ショーバー である。ステブリンは「狂騒の記録」にたびたび登場する「Quanti Verdradi」(完全にごちゃ混ぜ)というコードネームの人物をショーバーと特定した。美術指向が強かったショーバーが、画家の面々と懇意だったとしてもまったく不思議はない。
現存する『狂騒クラブ』の会員名簿にはショーバーの名前も、シューベルトの名前もないが、彼らが中心的な役割を担っていた状況証拠は揃っている。もしかしたら、貴族のショーバーやコンヴィクト出のエリートであるシューベルトの名は意図的に隠されていたのかもしれないし、他にも名簿から漏れているメンバーが相当数いるのかもしれない。
『狂騒クラブ』のバンカラな連中は、インテリエリートのコンヴィクト組とは異質のカルチャーをシューベルティアーデにもたらすことになった。
ブルク劇場の俳優として活躍したハインリヒ・アンシュッツ(1785-1865)は、後年このように述べている。
カトリックの国では人はクリスマスに何の注意も払わない。この(1821年の)クリスマスが忘れがたいのは、シューベルトが初めて我が家を訪れたからだ。フランツ・シューベルトはかつてのUnsinnsgesellschaft(狂騒クラブ)で最も活発なメンバーのひとりだった。弟たちはそこで何年も彼と仲良くしていたので、その縁で我が家に来てくれたのだ。 ドイチュ編の「回想録集」にも採用されているこの証言を読めば、シューベルトが『狂騒クラブ』の中心メンバーだったことはもう疑い得ないのだが、ドイチュはこのUnsinnsgesellschaftを固有の団体名とは考えず、別の結社
『ルドラムの洞窟』 を指していると推定してしまった。しかも「この団体にシューベルトが所属したことはない」と注釈しており、早速アンシュッツの証言と齟齬を来している。
『ルドラムの洞窟』 は、1819年に劇作家のイグナーツ・フランツ・カステッリとアウグスト・フォン・ギュムニヒが中心となって発足した文芸サークルである。入会にあたっては独特の試問や儀式が課され、合格すると「ルドラム・ネーム」というコードネームと記念の歌を授けられるという、
秘密結社 的な性格が強いものだった。『ルドラムの洞窟』はウィーンの文化人たち、具体的には文学者、音楽家、俳優らの交流の場となり、作曲家では
サリエリ (ルドラムの歌を多数作曲した)、モシェレス、カール・マリア・フォン・ヴェーバー、文学者のレルシュタープやリュッケルトといったビッグネームから、シューベルトの周囲にいたアスマイヤー(作曲家)、前述のアンシュッツ(俳優)やクーペルヴィーザー(画家)、グリルパルツァーやザイドル(詩人)などもメンバーに名を連ねている。こうした面々を見れば、確かに『ルドラムの洞窟』もまたシューベルティアーデの前身のひとつといえるだろう。
しかし当時は、こうしたサークルがおおっぴらに活動できる状況ではなかった。宰相メッテルニヒによる保守体制が敷かれたウィーンでは、自由主義思想に繋がりかねない言論や結社は厳しく取り締まられ、この状況はウィーン会議後の1814年から1848年の三月革命まで続いた。だから結社の構成員たちはコードネームで素性を隠匿し、立場のある者は会員名簿に名を連ねなかったのだ。
『ルドラムの洞窟』はそもそも政治運動を目的としていたわけではなかったが、それでも1826年4月18日の夜に「国家反乱罪」で警察に一斉検挙され解散を命じられた。
ビーダーマイヤー期のウィーンには、こうしたいくつものサークルが生まれては消えていった。シューベルティアーデは、1820年のゼンの逮捕・国外追放などの危機がありながらも、比較的長い命脈を保ったグループだったといえるだろう。それも1828年のシューベルトの死によって終わりを告げた。
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2022/09/26(月) 23:30:09 |
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モーリツ・フォン・シュヴィントが1868年に描いた「シュパウン邸でのシューベルティアーデ」の図。シューベルティアーデの主要メンバーが全員揃っていて、これはさすがに「盛った」想像図と思われる。 シューベルティアーデ について、「シューベルトが自宅に友人たちを招いて催した音楽会のこと」という注釈をしばしば見かけるのだが、この説明は私の知る限り正しくない。シューベルトが、友人たちを招けるような空間のある「自宅」に暮らしていたことなど、おそらく一度もない。そもそも人生のほとんどを居候や共同生活で乗り切ってきたのがシューベルトである。
1815年から24年までのシューベルティアーデの大部分は、パトロンで宮廷官吏の
イグナーツ・フォン・ゾンライトナー の邸宅の大広間で開催されたと伝えられる。シュパウンやショーバーら裕福な友人たちも自宅のサロンを提供し、時には
郊外のアッツェンブルック城まで遠征 して開催することもあった。
しかし「シューベルティアーデ」はそうしたイヴェントの名称というより、むしろそこに集う仲間たちから構成される
「サークル」の名前 と解釈した方が適切に思える。
時にこの集まりは、
「カネヴァスCanevasの集い」 の別名で呼ばれた。カネヴァスとは"Kann er was?"、つまり「彼には何ができるの?」という疑問文の口語形。新入りを紹介されると、シューベルトはまずこの問いを投げかけたという。ある者は詩を作り、ある者は絵を描き、そんな才能のない者は会場を提供したりして、シューベルトとサークルの皆に何らかの形で貢献できる人だけが入会を許された。
シューベルティアーデは、単なるシューベルトのファンの集いではないのだ。 このような内輪の集まりを創作活動のベースにしていた作曲家は、少なくとも大作曲家の中ではシューベルト以外には見当たらない。シューベルトの音楽の特異性のいくつかは、この特殊な集団の内部で活動が完結していたことから説明できる。膨大な歌曲、その多くが友人たちの詩によるものであること、また自作の歌曲の主題による器楽変奏曲を多く手がけたこと、これらはシューベルティアーデの仲間たちの好みや趣味を反映したものだったのだろう。そもそも、隣に寄り添う人だけにそっと語りかけるような、共感を前提にしたプライベートな音楽はこの環境なくしては生まれなかったに違いない。
しかし別の見方をすれば、シューベルトがあまりにも若くして死んでしまったことを考えざるを得ない。事実、晩年には当時随一の新進作曲家として、その名は外国にも知れ渡っていた。あと10年、20年と長生きしていたら、友人たちの輪から大きく羽ばたいて、大交響曲を次々に発表したり、オペラの注文が殺到するような人気作曲家になっていたかもしれない。そして、「あのシューベルトは若い頃は仲間内でこんな歌曲を書いたりしていたのだよ」などと語り草になったかもしれない。仲間たちが願ったような大成を遂げるには、31年10ヶ月という人生は短すぎた。
シューベルティアーデの中核メンバーは大きく2つのグループに分けられる。ひとつはシュパウン、シュタットラー、ゼン、ホルツアプフェル、ヒュッテンブレンナーといった
コンヴィクト (シューベルトが11歳から16歳まで通った帝室寄宿学校)時代の仲間たちで、もうひとつはレオポルト・クーペルヴィーザー、モーリツ・フォン・シュヴィント、有名な肖像画を描いたヴィルヘルム・アウグスト・リーダーといったウィーンの
画家 のグループである。それぞれのメンバーが友人知人を招待して、シューベルティアーデはどんどん拡大していった。
グラーツ生まれの作曲家
アンゼルム・ヒュッテンブレンナー はコンヴィクト出身ではないが、サリエリ門下の同輩という意味ではティーンエイジャー時代からの仲間である。その弟
ヨーゼフ や、同じくシュタイアーマルク出身の作曲家
ヨハン・バプティスト・イェンガー もシューベルティアーデで大きな役割を担い、
1827年のグラーツ旅行 のきっかけにもなった。
シュパウン をはじめとするコンヴィクト組はリンツやシュタイアーなど
オーバーエスターライヒの地方貴族の子弟 で(だからウィーンの全寮制のコンヴィクトにこどもが単身でやってきたのだ)、長じて法律を修め
公務員 になった者が多い。シューベルトが
たびたびオーバーエスターライヒに演奏旅行に出かけた のは彼らの地縁があったという理由も大きい。
彼らは知的階級に属する
「インテリ」 である。総じて
文学 への造詣が深く、その繋がりから詩人の
マイアホーファー 、劇作家の
バウエルンフェルト といった面々がやがてシューベルティアーデに加わっていく。前述のゾンライトナーの息子
レオポルト や、その従兄弟である詩人
グリルパルツァー もウィーン文芸界のエリートたちだ。
シュパウンの紹介で親交を結んだ重要人物が
フランツ・フォン・ショーバー である。スウェーデン出身の貴族だが、少年期をオーバーエスターライヒで過ごす間にシュパウン一族と親しくなり、1815年にウィーンに進出してシューベルティアーデの一員となった。コネクションを駆使して
大歌手フォーグル をシューベルトに引き合わせた のはショーバーの最大の功績といえる。また歌曲『音楽に寄す』等の詩や、オペラの台本を手がけたことから詩人と称されることも多いが、絵画や石版画にも手を染める多才な人物だった。
官吏として働きながら余暇に創作活動に勤しんでいたコンヴィクト組と比べると、ショーバーは同じようなディレッタントでありながら定職に就かずふらふらと遊び暮らしていたところに決定的な違いがある。そのくらい経済的に余裕があったということなのかもしれない。
一方で金がなくとも芸術に人生を捧げようという若者たちもいた。他ならぬシューベルト自身がそうだったし、シューベルティアーデに参加した
画家の一派 もそんな無頼な若者たちだった。彼らの話題は次の記事で触れよう。
2022/09/25(日) 22:44:23 |
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「双子の兄弟」の上演 が1820年7月に終わった後も、シューベルトのオペラ(舞台作品)への挑戦は続いた。
1820年8月19日には魔法劇
「魔法の竪琴」 D644がアン・デア・ヴィーン劇場で初演。当時流行っていた魔法劇の新企画に、レオポルト・ゾンライトナーがシューベルトを推薦したことで実現したが、台本(「双子の兄弟」と同じくゲオルク・フォン・ホフマンの作)が錯綜している上に、魔法のスペクタクルを演出する大がかりな舞台装置が動作せず、惨憺たる評判であった。それでも8回上演されたが、劇場は財政難を理由にシューベルトに支払うべき報酬を踏み倒したらしい。
10月にはインド古代劇に基づくオペラ
「サクンターラ」 D701に取りかかるが、翌年の初めに未完のまま投げ出した。
劇場関係者にも名が知られてきたシューベルトは、1821年2月にケルントナートーア劇場の臨時のコレペティトーアとして雇われる。同月、モーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」でデビューする18歳のアルト歌手
カロリーネ・ウンガー に下稽古を付けるという役目だったが、毎回遅刻してくる上に歌唱指導もおざなりで、劇場関係者の心証をだいぶ悪くした。6月には
エロルドのオペラ「鐘」への挿入曲 を2曲(D723)作曲し称賛を得たものの、シューベルトがコレペティトーアとして雇われることは二度となかった。
この怠慢さと倫理観の欠如の一因として取り沙汰されているのが、他ならぬ
フランツ・フォン・ショーバー との交友関係である。
ショーバーは「風景画家になる」という夢を抱いて修行に出ていたが、1821年の初めにそれを諦めてウィーンに戻っていた。彼は芸術全般において多才な人物だったが、ひとつのことを極めるだけの忍耐力がいささか以上に欠けていた。外交的でお調子者のショーバーは、知り合って間もない人には魅力的な人物に映るが、やがてその薄っぺらさや胡散臭さが目に付き、みな距離を取るようになるのだった――ただひとり、シューベルトを除いて。純粋なシューベルトがショーバーに丸め込まれているのだと周囲は思っていたが、あるいは心のもっと深い部分で繋がりを感じていたのかもしれない。シューベルトは死ぬまでショーバーを信頼し続けていた。
ともかく、久々に街に帰ってきたショーバーと、シューベルトは以前よりも親密な関係となった。ショーバーの流儀に倣って享楽的な生活を送り、創作量は減り、決められた時間に職場に通うような仕事はすっぽかすようになった。2人が嗜んでいた麻薬の影響だと唱える研究者もいる。
1821年7月の
アッツェンブルック城でのパーティー から戻った2人は、新たな共同作業を始めることになる。シューベルトのオペラへの取り組みがことごとく失敗してきたのは、何よりも台本が稚拙だったからだ。ショーバーが「それなら僕が台本を書いてあげよう」とシューベルトに持ちかけたのだろうか。
ブルーがウィーン、オレンジがザンクト・ペルテン、赤がオクセンブルク城 9月の初め、2人はウィーンを離れた。アッツェンブルックに数日滞在したあと、ウィーンから西に約50kmのところにある
ザンクト・ペルテン の街に到着する。同地の司教、
ヨハン・ネポムク・フォン・ダンケスライター Johann Nepomuk von Dankesreither (1750-1823)はショーバーの親戚だった。2週間あまりの滞在の間、彼らは毎晩のようにショーバーの友人の家に招かれ、舞踏会が開かれた。ショーバーによれば3回のシューベルティアーデが開催され、そのうち2回は司教の邸宅だった。そうした忙しい毎日でいくらか稼ぎを得たのだろうか、9月20日に彼らは司教の所有する郊外の
オクセンブルク城 に移動する。約1ヶ月間、2人はこの屋敷に籠もって
オペラ「アルフォンソとエストレッラ」 D732の創作に取りかかった。
シュパウンは2人がウィーンを離れて仕事を忘れ、遊び呆けるのでは(そして良からぬことに手を染めるのでは)と心配したようだが、実際のところ2人は本気でオペラ制作に没頭したらしい。自筆譜には、冒頭に「9月20日」、第1幕の終わりに「10月16日」、第2幕の始めに「10月18日」との日付があり、ショーバーが報告したところによると、ウィーンへ戻る頃には「台本は第3幕、音楽は第2幕まで完成」していた。彼らはおそらく毎日顔を突き合わせながら、台本と音楽を並行して進めていったのだろう。人気作家や脚本家が「ホテルに缶詰になる」という話があるが、それと似たようなもので、外部から隔絶された、仕事に集中できる環境をショーバーがシューベルトと自分自身に提供したわけである。
現在のオクセンブルク城 オクセンブルクが「本当に美しい環境だった」というショーバーの報告以外、2人が同地でどんな日々を過ごしたかについての詳細な記録は残されていない。彼らがオペラ完成を目前にウィーンに帰ってきたのは、おそらく11月3日にケルントナートーア劇場で行われたヴェーバーのオペラ「魔弾の射手」のウィーン初演に立ち会うためだったと思われる(検閲対策の改竄のせいで、この初演は大失敗に終わった)。その前日にシュパウンに宛てた手紙で、シューベルトはイタリアの辣腕オペラ興行師、ドメニコ・バルバヤがウィーンの2つの劇場、すなわちケルントナートーア劇場とアウフ・デン・ヴィーデン劇場の支配人に12月に就任するというニュースを伝えている。バルバヤはウィーンでのロッシーニ大フィーバーを仕掛けた張本人だったが、就任直後にヴェーバーとシューベルトに対し、翌シーズンに上演するためのドイツ語オペラを提供するよう依頼した。イタリア・オペラでウィーンを侵略するつもりだという保守層からの批判をかわす思惑もあったと思われる。シューベルトは意を強くして「アルフォンソとエストレッラ」の仕上げの作業に取りかかり、年が明けて1822年2月27日に脱稿した。
舞台は中世のスペイン。王位を奪われた国王フロイラの息子アルフォンソと、王位簒奪者マウレガートの娘エストレッラが恋に落ちる。台本こそドイツ語だが、娯楽的なジングシュピールとは一線を画した本格的なイタリア・オペラの様式が採用された。
当時のシューベルトにとって、最大の自信作が完成した。
僕たちはこのオペラに大きな期待をかけている。 (1821年11月2日、シューベルトからシュパウンに宛てて)
ところが事はそう簡単には運ばなかった。シューベルトの最大の理解者であり、フロイラ役を演じることを想定していたフォーグルが、この作品を全く評価しなかったのである。オペラそのものの出来に満足しなかったことに加え、フォーグルはシューベルトがこのような重要な局面で、オペラ界の重鎮である自分に何の相談もなく、ショーバーの稚拙な台本を扱ったことにおそらく憤慨していた。ショーバーの帰還以降、他の友人たちと疎遠になっていたシューベルトだったが、この件を契機にフォーグルと決裂してしまう。その年の夏にシュタイアーでフォーグルと会ったアントン・フォン・シュパウン(ヨーゼフ・フォン・シュパウンの弟)は、「オペラ(「アルフォンソ」)は失敗作であり、全体的にシューベルトは間違った方向に進んでいる」というフォーグルの言葉を聞いて心を痛めた。
自信作だった「アルフォンソとエストレッラ」は、結局バルバヤにも受け取りを拒否されてしまう。
あのオペラはウィーンではどうにもならない。提出した楽譜は返却してもらったし、フォーグルは本当に舞台から引退してしまった。僕は近いうちにあのオペラを、ヴェーバーが好意的な手紙をくれたドレスデンか、ベルリンにでも送ってみようと思っている。 (1822年12月7日、シューベルトからシュパウンに宛てて)
シューベルトは諦めず、ドレスデンでの上演を期待して1824年にヴェーバーにスコアを送ったが、返答はなかった。ヴェーバーの次作「オイリアンテ」についてシューベルトが否定的な見解を口にしたことが彼の機嫌を損ねた、とも伝えられるが、本当のところはわからない。
同年末にはベルリンのソプラノ歌手アンナ・ミルダー=ハウプトマンからの依頼を受けてスコアを提出するも、「この台本は当地の趣味に合わない」と体よく断られた。実際には彼女が演じるべき役がこのオペラの中に無かったからだと思われる。
1827年のグラーツ旅行のホストであったパハラー夫妻にも本作の上演を働きかけたが、これも徒労に終わった。
結局このオペラが日の目を見たのはシューベルトの死後25年以上が経過した
1854年6月24日 のことだった。場所はドイツの
ヴァイマール 、指揮したのはかの
フランツ・リスト である。上演にあたって作品を大幅に短縮したリストは、歴史的初演を経て次のように述べている。
この歌劇の一連のアリアは軽やかで美しく、幅広い旋律を持っている。これらすべてにシューベルトの叙情性を読み取ることができ、その多くは彼のリートの最高のものとも考えられる。また、彼が愛用した音程、終止法、フレーズの処理方法が多用されている。 しかし、至るところに情景描写や劇把握の欠点が目に付く。これらの欠点を補うために、オーケストレーションの利点が生かされることはなく、音楽が効果を発揮している箇所はどこにも見いだせない。管弦楽法は極めて控えめな役割を演じるだけで、実際はピアノ伴奏のオーケストラ用編曲に過ぎない。特にしばしば用いられるヴィオラのアルペジオと、さまざまな楽器で和音・装飾・パッセージを重ね合わせる(しかも他の楽器は少しも気分転換をもたらすことがない)その単調さは、聴き手を飽きさせる。(略)劇場はシューベルトの視野にはあまりに広すぎ、突如として湧き上がる彼の霊感にとっては、舞台が要求する織物はあまりに複雑すぎたのだ。 (1854年9月1日、フランツ・リストによる「新音楽時報 Neue Zeitschrift fuer Musik」の記事)
シューベルトの熱烈な崇拝者であるリストでさえも、「アルフォンソとエストレッラ」を佳作と認めることはできなかったのである。台本作家ショーバーはシューベルトの死後、リストの秘書を務めていて、そのことがこのヴァイマール初演のきっかけとなった可能性が高い。そのショーバーもまた、このオペラについて後年、「ひどい台本で、シューベルトの天才をもってしても、生き返らすことはできなかった」と顧みた。
意気盛んな2人の若者の、儚い夢の舞台となったオクセンブルク城。提供の返礼として、ダンケスライター司教には連作歌曲「ヴィルヘルム・マイスターの竪琴弾き」(D478-480)が献呈され、1822年に献辞とともに出版された。
2018/03/31(土) 16:29:07 |
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