(承前)シューベルティアーデの前身として、近年発掘され注目されているのが
Unsinnsgesellschaftである。和訳すれば
『ナンセンス協会』または
『狂騒クラブ』(訳©堀朋平)といった意味になる。
このグループの解明は、カナダ出身の学者
リタ・ステブリン(1951-2019)が独力で成し遂げ、著書「Die Unsinnsgesellschaft」(1998)にまとめられた。
メンバーたちは
Unsinniadenと自称している。Unsinn「無意味」に接尾辞-iade(n)が付いたもの、「無意味愛好者」「ナンセンス主義者」。
Schubert-iade(シューベルト主義者、シューベルト党員)の語構成と似通っている。構成員たちはコードネームで呼び合い、たとえば中心メンバーのアンシュッツAnschütz (Anschuetz)兄弟はシュナウツェSchnautze(鼻)と号している。アナグラム(文字の入れ換え)で作られた二つ名である。これはまだわかりやすいが、レオポルト・クーペルヴィーザーのDamian Klexなどはもはやどういう由来なのかよくわからない。
彼らの活動の痕跡として残されているものは、1817年4月から1818年12月にかけて週刊で制作・発行された同人誌で、「人間の狂騒の記録」と題されている。全体のおよそ3分の1にあたる29点が散逸を免れウィーン市立図書館に収蔵された。
紙面を満たすのは不思議な図像や文章たちだ。たとえば1818年8月13日の日付を持つある記事を引用しよう:
スペインからの報告によると、異端審問所は黒魔術に没頭した罪状で著名な画家フアン・デ・ラ・チンバラを逮捕した。彼は逮捕される前に魔術によってひどい火傷を負ったということで、無事の生還が望まれる。一見デタラメかつ意味不明な内容だが、この時期シューベルトは人生で初めて
ウィーンを離れハンガリーのツェリスに出かけていて、そのことをネタにした記事だとステブリンは推測する。チンバラはツィンバロンやシンバルといった楽器を連想させる名前であり、作曲家を画家に、ハンガリー(ヨーロッパの東端)をスペイン(ヨーロッパの西端)に置き換えたというわけだ。そしてスペインといえば異端審問、異端審問といえば火あぶりというのはもう枕詞のようなものである。
このように、仲間内だけで通じる隠語や言い換えを駆使した言葉遊びが展開されており、その作法を知らない部外者には「無意味」にしか思えないのだが、時にはそれが下ネタや醜聞の隠れ蓑になることもあったようだ。
例えば、こちらは1818年7月16日付で、近年よく見かけるようになった「万華鏡と自転車」のイラストである。

クーペルヴィーザーによる水彩で、万華鏡を手にした肥った男は見るからにシューベルトであろう。そこへ自転車で突っ込んでいるのはクーペルヴィーザー自身だ。E・アンシュッツによる注釈には
最近発明された万華鏡や自転車は危険。夢中で万華鏡を覗きながら道を歩いていると自転車に轢かれるぞなどとあり、数号あとの記事にはこれを引いてG・アンシュッツが
万華鏡を覗くと道行く人の服が透けて見えるらしい。グラーベンを歩くのが好きな若い男には最適 、
J・クーペルヴィーザーは
万華鏡は目だけではなく鼻にも悪影響があると警鐘を鳴らす。
最新のトレンドを題材にしたナンセンスなジョークのようだが、深読みすればグラーベン(ウィーン中心部の目抜き通り)は当時売春窟として知られており、そんなところをうろうろしていると梅毒にかかって鼻を失うぞ、という警告とも受け取れる。
シューベルトが25歳頃に梅毒を発症したことは現在では周知の事実である。過去にはツェリスの館のメイドから伝染されたという説もあったが、ステブリンはこの記事をもとに、
シューベルトが若い頃売春街通いをしていたことは友人たちの間では公然の秘密で、それが感染源に違いない、と論じて話題を呼んだ。
『狂騒クラブ』のメンバーの多くは
ウィーン人の画家の卵たちだった。後のシューベルティアーデの中核に残ったのは
レオポルト・クーペルヴィーザーとその兄弟だけだが、ウィーン美術アカデミーを拠点とする彼らのネットワークの中から、より年下の世代のシュヴィントやリーダーがシューベルティアーデに参加するようになり、それによってシューベルト周辺に関する多くの絵画やスケッチが残されることになった。
ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー(1796-1880)によるシューベルトの肖像画(1825、水彩)。ある日画家が突然の土砂降りに遭い雨宿りをした家にたまたまシューベルトが住んでいて、そのときスケッチして仕上げたもの、という伝説がある。右下にはシューベルト自身の署名と、その下に画家の筆跡で「1828年11月19日に死去」と記されている。この水彩を元に50年後、79歳のリーダーが完成させた立派な油彩画はシューベルトの最も有名な肖像画となり、今も音楽の教科書を飾っている。クーペルヴィーザーらが描いたシューベルトに比べるといずれもずいぶん美化されており、リーダーにとって1歳年下のシューベルトが「崇拝すべき相手」だったことが窺える。彼らとシューベルトの接点と思われるのが、他ならぬ
フランツ・フォン・ショーバーである。ステブリンは「狂騒の記録」にたびたび登場する「Quanti Verdradi」(完全にごちゃ混ぜ)というコードネームの人物をショーバーと特定した。美術指向が強かったショーバーが、画家の面々と懇意だったとしてもまったく不思議はない。
現存する『狂騒クラブ』の会員名簿にはショーバーの名前も、シューベルトの名前もないが、彼らが中心的な役割を担っていた状況証拠は揃っている。もしかしたら、貴族のショーバーやコンヴィクト出のエリートであるシューベルトの名は意図的に隠されていたのかもしれないし、他にも名簿から漏れているメンバーが相当数いるのかもしれない。
『狂騒クラブ』のバンカラな連中は、インテリエリートのコンヴィクト組とは異質のカルチャーをシューベルティアーデにもたらすことになった。
ブルク劇場の俳優として活躍したハインリヒ・アンシュッツ(1785-1865)は、後年このように述べている。
カトリックの国では人はクリスマスに何の注意も払わない。この(1821年の)クリスマスが忘れがたいのは、シューベルトが初めて我が家を訪れたからだ。フランツ・シューベルトはかつてのUnsinnsgesellschaft(狂騒クラブ)で最も活発なメンバーのひとりだった。弟たちはそこで何年も彼と仲良くしていたので、その縁で我が家に来てくれたのだ。ドイチュ編の「回想録集」にも採用されているこの証言を読めば、シューベルトが『狂騒クラブ』の中心メンバーだったことはもう疑い得ないのだが、ドイチュはこのUnsinnsgesellschaftを固有の団体名とは考えず、別の結社
『ルドラムの洞窟』を指していると推定してしまった。しかも「この団体にシューベルトが所属したことはない」と注釈しており、早速アンシュッツの証言と齟齬を来している。
『ルドラムの洞窟』は、1819年に劇作家のイグナーツ・フランツ・カステッリとアウグスト・フォン・ギュムニヒが中心となって発足した文芸サークルである。入会にあたっては独特の試問や儀式が課され、合格すると「ルドラム・ネーム」というコードネームと記念の歌を授けられるという、
秘密結社的な性格が強いものだった。『ルドラムの洞窟』はウィーンの文化人たち、具体的には文学者、音楽家、俳優らの交流の場となり、作曲家では
サリエリ(ルドラムの歌を多数作曲した)、モシェレス、カール・マリア・フォン・ヴェーバー、文学者のレルシュタープやリュッケルトといったビッグネームから、シューベルトの周囲にいたアスマイヤー(作曲家)、前述のアンシュッツ(俳優)やクーペルヴィーザー(画家)、グリルパルツァーやザイドル(詩人)などもメンバーに名を連ねている。こうした面々を見れば、確かに『ルドラムの洞窟』もまたシューベルティアーデの前身のひとつといえるだろう。
しかし当時は、こうしたサークルがおおっぴらに活動できる状況ではなかった。宰相メッテルニヒによる保守体制が敷かれたウィーンでは、自由主義思想に繋がりかねない言論や結社は厳しく取り締まられ、この状況はウィーン会議後の1814年から1848年の三月革命まで続いた。だから結社の構成員たちはコードネームで素性を隠匿し、立場のある者は会員名簿に名を連ねなかったのだ。
『ルドラムの洞窟』はそもそも政治運動を目的としていたわけではなかったが、それでも1826年4月18日の夜に「国家反乱罪」で警察に一斉検挙され解散を命じられた。
ビーダーマイヤー期のウィーンには、こうしたいくつものサークルが生まれては消えていった。シューベルティアーデは、1820年のゼンの逮捕・国外追放などの危機がありながらも、比較的長い命脈を保ったグループだったといえるだろう。それも1828年のシューベルトの死によって終わりを告げた。
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- 2022/09/26(月) 23:30:09|
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モーリツ・フォン・シュヴィントが1868年に描いた「シュパウン邸でのシューベルティアーデ」の図。シューベルティアーデの主要メンバーが全員揃っていて、これはさすがに「盛った」想像図と思われる。シューベルティアーデについて、「シューベルトが自宅に友人たちを招いて催した音楽会のこと」という注釈をしばしば見かけるのだが、この説明は私の知る限り正しくない。シューベルトが、友人たちを招けるような空間のある「自宅」に暮らしていたことなど、おそらく一度もない。そもそも人生のほとんどを居候や共同生活で乗り切ってきたのがシューベルトである。
1815年から24年までのシューベルティアーデの大部分は、パトロンで宮廷官吏の
イグナーツ・フォン・ゾンライトナーの邸宅の大広間で開催されたと伝えられる。シュパウンやショーバーら裕福な友人たちも自宅のサロンを提供し、時には
郊外のアッツェンブルック城まで遠征して開催することもあった。
しかし「シューベルティアーデ」はそうしたイヴェントの名称というより、むしろそこに集う仲間たちから構成される
「サークル」の名前と解釈した方が適切に思える。
時にこの集まりは、
「カネヴァスCanevasの集い」の別名で呼ばれた。カネヴァスとは"Kann er was?"、つまり「彼には何ができるの?」という疑問文の口語形。新入りを紹介されると、シューベルトはまずこの問いを投げかけたという。ある者は詩を作り、ある者は絵を描き、そんな才能のない者は会場を提供したりして、シューベルトとサークルの皆に何らかの形で貢献できる人だけが入会を許された。
シューベルティアーデは、単なるシューベルトのファンの集いではないのだ。このような内輪の集まりを創作活動のベースにしていた作曲家は、少なくとも大作曲家の中ではシューベルト以外には見当たらない。シューベルトの音楽の特異性のいくつかは、この特殊な集団の内部で活動が完結していたことから説明できる。膨大な歌曲、その多くが友人たちの詩によるものであること、また自作の歌曲の主題による器楽変奏曲を多く手がけたこと、これらはシューベルティアーデの仲間たちの好みや趣味を反映したものだったのだろう。そもそも、隣に寄り添う人だけにそっと語りかけるような、共感を前提にしたプライベートな音楽はこの環境なくしては生まれなかったに違いない。
しかし別の見方をすれば、シューベルトがあまりにも若くして死んでしまったことを考えざるを得ない。事実、晩年には当時随一の新進作曲家として、その名は外国にも知れ渡っていた。あと10年、20年と長生きしていたら、友人たちの輪から大きく羽ばたいて、大交響曲を次々に発表したり、オペラの注文が殺到するような人気作曲家になっていたかもしれない。そして、「あのシューベルトは若い頃は仲間内でこんな歌曲を書いたりしていたのだよ」などと語り草になったかもしれない。仲間たちが願ったような大成を遂げるには、31年10ヶ月という人生は短すぎた。
シューベルティアーデの中核メンバーは大きく2つのグループに分けられる。ひとつはシュパウン、シュタットラー、ゼン、ホルツアプフェル、ヒュッテンブレンナーといった
コンヴィクト(シューベルトが11歳から16歳まで通った帝室寄宿学校)時代の仲間たちで、もうひとつはレオポルト・クーペルヴィーザー、モーリツ・フォン・シュヴィント、有名な肖像画を描いたヴィルヘルム・アウグスト・リーダーといったウィーンの
画家のグループである。それぞれのメンバーが友人知人を招待して、シューベルティアーデはどんどん拡大していった。
グラーツ生まれの作曲家
アンゼルム・ヒュッテンブレンナーはコンヴィクト出身ではないが、サリエリ門下の同輩という意味ではティーンエイジャー時代からの仲間である。その弟
ヨーゼフや、同じくシュタイアーマルク出身の作曲家
ヨハン・バプティスト・イェンガーもシューベルティアーデで大きな役割を担い、
1827年のグラーツ旅行のきっかけにもなった。
シュパウンをはじめとするコンヴィクト組はリンツやシュタイアーなど
オーバーエスターライヒの地方貴族の子弟で(だからウィーンの全寮制のコンヴィクトにこどもが単身でやってきたのだ)、長じて法律を修め
公務員になった者が多い。シューベルトが
たびたびオーバーエスターライヒに演奏旅行に出かけたのは彼らの地縁があったという理由も大きい。
彼らは知的階級に属する
「インテリ」である。総じて
文学への造詣が深く、その繋がりから詩人の
マイアホーファー、劇作家の
バウエルンフェルトといった面々がやがてシューベルティアーデに加わっていく。前述のゾンライトナーの息子
レオポルトや、その従兄弟である詩人
グリルパルツァーもウィーン文芸界のエリートたちだ。
シュパウンの紹介で親交を結んだ重要人物が
フランツ・フォン・ショーバーである。スウェーデン出身の貴族だが、少年期をオーバーエスターライヒで過ごす間にシュパウン一族と親しくなり、1815年にウィーンに進出してシューベルティアーデの一員となった。コネクションを駆使して
大歌手フォーグルをシューベルトに引き合わせたのはショーバーの最大の功績といえる。また歌曲『音楽に寄す』等の詩や、オペラの台本を手がけたことから詩人と称されることも多いが、絵画や石版画にも手を染める多才な人物だった。
官吏として働きながら余暇に創作活動に勤しんでいたコンヴィクト組と比べると、ショーバーは同じようなディレッタントでありながら定職に就かずふらふらと遊び暮らしていたところに決定的な違いがある。そのくらい経済的に余裕があったということなのかもしれない。
一方で金がなくとも芸術に人生を捧げようという若者たちもいた。他ならぬシューベルト自身がそうだったし、シューベルティアーデに参加した
画家の一派もそんな無頼な若者たちだった。彼らの話題は次の記事で触れよう。
- 2022/09/25(日) 22:44:23|
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