fc2ブログ


シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

「シューベルティアーデ」とコンヴィクトの仲間たち

Schubertiade
モーリツ・フォン・シュヴィントが1868年に描いた「シュパウン邸でのシューベルティアーデ」の図。シューベルティアーデの主要メンバーが全員揃っていて、これはさすがに「盛った」想像図と思われる。

シューベルティアーデについて、「シューベルトが自宅に友人たちを招いて催した音楽会のこと」という注釈をしばしば見かけるのだが、この説明は私の知る限り正しくない。シューベルトが、友人たちを招けるような空間のある「自宅」に暮らしていたことなど、おそらく一度もない。そもそも人生のほとんどを居候や共同生活で乗り切ってきたのがシューベルトである。
1815年から24年までのシューベルティアーデの大部分は、パトロンで宮廷官吏のイグナーツ・フォン・ゾンライトナーの邸宅の大広間で開催されたと伝えられる。シュパウンやショーバーら裕福な友人たちも自宅のサロンを提供し、時には郊外のアッツェンブルック城まで遠征して開催することもあった。
しかし「シューベルティアーデ」はそうしたイヴェントの名称というより、むしろそこに集う仲間たちから構成される「サークル」の名前と解釈した方が適切に思える。
時にこの集まりは、「カネヴァスCanevasの集い」の別名で呼ばれた。カネヴァスとは"Kann er was?"、つまり「彼には何ができるの?」という疑問文の口語形。新入りを紹介されると、シューベルトはまずこの問いを投げかけたという。ある者は詩を作り、ある者は絵を描き、そんな才能のない者は会場を提供したりして、シューベルトとサークルの皆に何らかの形で貢献できる人だけが入会を許された。シューベルティアーデは、単なるシューベルトのファンの集いではないのだ。
このような内輪の集まりを創作活動のベースにしていた作曲家は、少なくとも大作曲家の中ではシューベルト以外には見当たらない。シューベルトの音楽の特異性のいくつかは、この特殊な集団の内部で活動が完結していたことから説明できる。膨大な歌曲、その多くが友人たちの詩によるものであること、また自作の歌曲の主題による器楽変奏曲を多く手がけたこと、これらはシューベルティアーデの仲間たちの好みや趣味を反映したものだったのだろう。そもそも、隣に寄り添う人だけにそっと語りかけるような、共感を前提にしたプライベートな音楽はこの環境なくしては生まれなかったに違いない。
しかし別の見方をすれば、シューベルトがあまりにも若くして死んでしまったことを考えざるを得ない。事実、晩年には当時随一の新進作曲家として、その名は外国にも知れ渡っていた。あと10年、20年と長生きしていたら、友人たちの輪から大きく羽ばたいて、大交響曲を次々に発表したり、オペラの注文が殺到するような人気作曲家になっていたかもしれない。そして、「あのシューベルトは若い頃は仲間内でこんな歌曲を書いたりしていたのだよ」などと語り草になったかもしれない。仲間たちが願ったような大成を遂げるには、31年10ヶ月という人生は短すぎた。

シューベルティアーデの中核メンバーは大きく2つのグループに分けられる。ひとつはシュパウン、シュタットラー、ゼン、ホルツアプフェル、ヒュッテンブレンナーといったコンヴィクト(シューベルトが11歳から16歳まで通った帝室寄宿学校)時代の仲間たちで、もうひとつはレオポルト・クーペルヴィーザー、モーリツ・フォン・シュヴィント、有名な肖像画を描いたヴィルヘルム・アウグスト・リーダーといったウィーンの画家のグループである。それぞれのメンバーが友人知人を招待して、シューベルティアーデはどんどん拡大していった。
グラーツ生まれの作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーはコンヴィクト出身ではないが、サリエリ門下の同輩という意味ではティーンエイジャー時代からの仲間である。その弟ヨーゼフや、同じくシュタイアーマルク出身の作曲家ヨハン・バプティスト・イェンガーもシューベルティアーデで大きな役割を担い、1827年のグラーツ旅行のきっかけにもなった。
シュパウンをはじめとするコンヴィクト組はリンツやシュタイアーなどオーバーエスターライヒの地方貴族の子弟で(だからウィーンの全寮制のコンヴィクトにこどもが単身でやってきたのだ)、長じて法律を修め公務員になった者が多い。シューベルトがたびたびオーバーエスターライヒに演奏旅行に出かけたのは彼らの地縁があったという理由も大きい。
彼らは知的階級に属する「インテリ」である。総じて文学への造詣が深く、その繋がりから詩人のマイアホーファー、劇作家のバウエルンフェルトといった面々がやがてシューベルティアーデに加わっていく。前述のゾンライトナーの息子レオポルトや、その従兄弟である詩人グリルパルツァーもウィーン文芸界のエリートたちだ。

フランツ・フォン・ショーバー
シュパウンの紹介で親交を結んだ重要人物がフランツ・フォン・ショーバーである。スウェーデン出身の貴族だが、少年期をオーバーエスターライヒで過ごす間にシュパウン一族と親しくなり、1815年にウィーンに進出してシューベルティアーデの一員となった。コネクションを駆使して大歌手フォーグルをシューベルトに引き合わせたのはショーバーの最大の功績といえる。また歌曲『音楽に寄す』等の詩や、オペラの台本を手がけたことから詩人と称されることも多いが、絵画や石版画にも手を染める多才な人物だった。

官吏として働きながら余暇に創作活動に勤しんでいたコンヴィクト組と比べると、ショーバーは同じようなディレッタントでありながら定職に就かずふらふらと遊び暮らしていたところに決定的な違いがある。そのくらい経済的に余裕があったということなのかもしれない。
一方で金がなくとも芸術に人生を捧げようという若者たちもいた。他ならぬシューベルト自身がそうだったし、シューベルティアーデに参加した画家の一派もそんな無頼な若者たちだった。彼らの話題は次の記事で触れよう。
スポンサーサイト



  1. 2022/09/25(日) 22:44:23|
  2. 伝記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0