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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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こどもの行進曲 D928 概説

行進曲 ト長調(「こどもの行進曲」) Marcia G-dur D928 ("Kindermarsch")
作曲:1827年10月12日 出版:1870年
楽譜・・・IMSLP


D928自筆譜2

1827年9月、シューベルトは音楽愛好家マリー・パハラー夫人の招きを受け、オーストリア第2の都市グラーツを訪問した(詳細はこちら)。帰り際にパハラー夫人は、8歳の息子ファウストのために連弾曲を書いて欲しいとシューベルトに頼んだ。
ウィーン帰京後の10月12日、シューベルトは約束の行進曲を仕上げてグラーツへ送った。自筆譜の下部の余白にはパハラー夫人に宛てたこんな書き込みがある。

ファウスト君のための4手の行進曲を謹んでお送りします。もしかしたら彼の拍手は得られないかもしれません、私はこういう作曲には向いていないように感じるので。

シューベルトに同行した友人イェンガーもファウスト宛に「よく練習して、来月の4日には友達のシュヴァンメルル(シューベルトのあだ名)と僕のことを思い出してくれたまえ」とメッセージを残している。
11月4日は一家の主、カールの命名記念日で、そのお祝いの席でファウストとマリーが連弾でこの曲を披露する、という段取りになっていたようだ。この心温まるパハラー家内での初演が実際どのようなものだったのかは伝えられていない。自筆譜はただ「Marcia」(行進曲)とイタリア語で題されているだけだったが、このような成立事情から「Kindermarsch」(こどもの行進曲)のタイトルで1870年にゴットハルト社から出版され、現在もその名で呼び習わされている。

確かにこどもらしい、可愛らしくシンプルな曲調だが、実際に演奏するのはそれほど簡単ではなく、8歳の少年にうまく弾きこなせたのかどうかは疑わしい。シューベルト自身の言い訳もそのあたりを踏まえたものだったのかもしれない。
シューベルトのトレードマークともいうべきダクティルス(長短短)のリズムが支配する主部と、3連符が主導的なハ長調のトリオからなる。
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  1. 2021/12/01(水) 18:53:07|
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シューベルトの旅 (8)1827年9月、グラーツ

シューベルトがグラーツの「シュタイアーマルク楽友協会」の名誉会員に推挙されたのは、1823年の春のことだった。ウィーンよりも早くグラーツでこのような名誉を受けたのは、ひとえに協会の会長が同門の作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーであったためだろう。その返礼として「未完成交響曲」D759が贈られたが、ヒュッテンブレンナーはそれを私蔵し、シューベルトの死後40年近く公表しなかったという話はよく知られている。
シューベルトは名誉表彰を受けるためにグラーツには行かなかったし、その後も長い間グラーツのアンゼルムに会いに行こうとはしなかった。
ところがシューベルト30歳の年に、突然グラーツ行きの話が持ち上がったのである。


ウィーンと、その200kmほど南南西に位置するオーストリア第2の都市グラーツ

シューベルトをグラーツに招いたのは、マリー・パハラー Marie Pachler (1794-1855)という女性だった。彼女はピアニストで、弁護士で音楽愛好家の夫カール Karl Pachler (1789-1850)とともにグラーツの音楽界では有名な存在だった。マリー夫人のピアノの腕前は確かなもので、ベートーヴェンに「私の作品をあなたほど見事に演奏してくれる人に出会ったことはない」と激賞されたほどだった。
夫妻は崇拝するベートーヴェンを何とか自宅に招こうと企んでいたが、1827年3月に巨匠が死去したため、この計画は果たせなかった。そこで代わりに誰かウィーンの高名な作曲家をということで、シューベルトに白羽の矢が立ったのだった。
仲介の労を執ったのは官僚でピアニストでもあったヨハン・バプティスト・イェンガー Johann Baptist Jenger (1792-1856)で、彼は1823年のシュタイアーマルク楽友協会のときの功労者でもあった。

尊敬する令夫人! 友人イェンガーを通してお寄せ下さったご招待に対し、私のような者が果たしてご厚意に値するものであるか、またどのようにして報いることができるのかわかりません。しかし、名高いグラーツの街をついに見ることのできる喜び、それ以上に奥様とお近づきになる名誉を思うと、ご招待をお受けしないわけには参りません。
最高の敬意を持って
忠実なるしもべ
フランツ・シューベルト

(6月12日、シューベルトからパハラー夫人に宛てて)

シューベルトとイェンガーは、9月2日に馬車でウィーンを発ち、1日がかりでグラーツに到着して、パハラー家の歓迎を受けた。
到着の数日後にはグラーツの大劇場でシュタイアーマルク楽友協会主催の慈善演奏会があり、シューベルトも自作の合唱曲・重唱曲の伴奏者としてステージに現れた。パハラー邸での数度にわたるシューベルティアーデのほか、郊外のヴィルトバッハ城やハラー城でも催しが開かれ、グラーツの人々とすっかり仲良くなった。アンゼルム・ヒュッテンブレンナーとも再会を果たしたと伝えられている。

グラーツのハラー城
グラーツ郊外のハラー城

シューベルトはパハラー邸で、昔のオペラ「アルフォンソとエストレッラ」の一部をピアノで演奏してみせ、パハラー氏や劇場監督のヨーゼフ・キンスキーに上演を働きかけた。彼らも乗り気になり、シューベルトがウィーンへ戻ったら台本と総譜を送るという約束になった。
イェンガーとシューベルトは9月20日にグラーツを離れ、来たときとは別のルートを通ってウィーンへの帰途に就いた。途中フュルステンフェルト、ハルトベルク、フリートベルク、シュラインツなどの街を経由し、それぞれの名所をたっぷり見て回って、4日後にウィーンに到着した。

それから3日後、シューベルトはパハラー夫人に親密な礼状をしたためた。

令夫人様! グラーツがあまりにも居心地が良かったので、ウィーンがまだ頭に入らないでいます。もちろんウィーンは少しばかり都会ではありますが、優しい心、率直さ、実のある思考、理性ある言葉、何より精神性溢れる行動というものにいささか欠けています。利口なのか馬鹿なのかわからなくなるほど、いろんなことをごちゃごちゃとしゃべって、それでいて心が朗らかになることは滅多にありません。もっとも私が人と打ち解けるのに時間がかかるせいかもしれませんが。
グラーツでは、人と交わる自然で率直な方法がすぐにわかりました。もっと長くいられたら、もっと溶け込めただろうにと思います。特に決して忘れることができないのは、親愛なる奥様、力強いパハレロス氏、そして小さいファウスト君のいる心温まる宿のことです。これほど満ち足りた日々を過ごしたことは、長い間ありませんでした。私の感謝の気持ちを、しかるべき形で表明させていただきたく筆を執りました。
あなたを尊敬する
フランツ・シューベルト
追伸 オペラの台本は、2,3日中にお送りできると思います。

(9月27日、シューベルトからパハラー夫人に宛てて)

「パハレロス氏」というのは一家の主カールのことだが、おそらく屈強な彼をギリシャ神話の登場人物にでも喩えたのだろう。そういえば、ずんぐりむっくりのシューベルトが「シュヴァンメル」(きのこ)という渾名を賜ったのはグラーツ滞在中の宴席でと伝えられているので、「パハレロス」もそうした遊びの一環だったのかもしれない。
シューベルトは夫人の求めに応じ、当時7歳だった長男ファウスト君のために連弾曲「こどもの行進曲」D928を作曲し、グラーツに送った。
グラーツでの忙しい日々の間にも、数曲の歌曲が書き上げられた。翌年の初めに出版された舞曲「12のグラーツのワルツ」D924、「グラーツのギャロップ」D925も、この滞在中の舞踏会の折に作曲されたものと考えられている。

シューベルトにとって最後の長い旅行となったグラーツ行きは、とても楽しく充実した旅だった。
ウィーンに戻るとシューベルトは再び体調が悪化しはじめ、もっと残念なことに、グラーツでのオペラの上演計画は翌年に頓挫してしまった。
  1. 2018/04/16(月) 16:07:45|
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