1824年5月、シューベルトは6年ぶりにハンガリー・ツェリスのエステルハーツィの館を訪れた。 令嬢姉妹の姉マリーは16歳から22歳になり、婚約者のアウグスト・フォン・ブロインナー=エンケヴォイルト伯爵 Graf August von Breunner-Enkevoirt (1796-1877)を連れてツェリスにやってきた(彼らは1827年に結婚する)。13歳だった妹カロリーネは19歳に、そして駆け出しの作曲家だったシューベルトは、今やウィーン中にその名を知られるようになっていた。 そんな変化を、互いにこのとき初めて知ったということはないだろう。ウィーンに戻ってからも、市内のエステルハーツィ邸で姉妹へのレッスンはしばらく続いており、定期的なレッスンが必要なくなってからもシューベルトはしばしば彼らを訪ねていたらしい。 シューベルトが再び夏のツェリスに招かれたのは、家庭教師というより、一家の客人としてという性格が強かった。もちろん姉妹へのレッスンは必要に応じて行われたが、今回は使用人の住む管理棟ではなく本館の中に1室が与えられ、報酬も増額された。シューベルトと若い頃から懇意にしていたことは、彼が有名になった今、エステルハーツィ家にとっても名誉なことだったに違いない。
シューベルトのキャリアにとって重要な出来事が2つ、1818年の初めにあった。 ひとつは1月に歌曲「エルラフ湖」D586の楽譜が冊子の挟み込み付録として印刷され、刊行されたこと。冊子というのは「Mahlerisches Taschenbuch für Freunde interessanter Gegenden : Natur- und Kunst-Merkwürdigkeiten der Österreichischen Monarchie」という長いタイトルを持つ、年1回の定期刊行物である。内容はオーストリア各地の名所景勝を描いた画集に詩や散文が付いたもので、当時の市民階級に好評だったらしい。シューベルトの作品の譜面が世に出るのはこれが初めてで、実際のところ楽譜として出版するよりもはるかに多くの人々の目に触れることになった。 もうひとつは3月1日、ホテル「ローマ皇帝 Zum römischen Kaiser」のホールでのエドゥアルト・ジャエル Eduard Jaëll (1793-1849)(ヴァイオリニスト)主催の公開演奏会で、「イタリア風序曲」(D590かD591のいずれか)が演奏されたこと。教会でのミサ曲を別にすれば、シューベルトの作品が公開の場で披露された最初の出来事である。ウィーンだけでなくドレスデンやライプツィヒの新聞にも批評が載り、これを皮切りにシューベルトの作品がしばしば演奏会のプログラムを飾るようになる。 こうした、華々しいとは言えないまでも着実な成功の裏で、シューベルトの1818年前半の創作量は激減していた。6曲ものピアノ・ソナタに着手した、1817年の旺盛な創造力はどこへ行ってしまったのか。不振の主因は、生活環境の変化だった。 一度は父の家を離れ、ショーバー宅に身を寄せて創作に打ち込んでいたシューベルトだが、1817年8月の末、ショーバーが病気の兄に部屋を明け渡す必要が出たため、シューベルトはやむなく実家に戻ることになった。年末に父が、より中心部に近いロサウ地区の学校の校長に就任し、一家は住み慣れたヒンメルプフォルトグルントから翌年の初めにロサウへ引っ越した。シューベルトは再び補助教員として父の仕事を手伝っていたが、この忙しい異動の最中、もはや作曲に多くの時間を割くことはできなくなっていた。いったん味わった自由を手放して、窮屈な教員生活に戻らなくてはならないストレスが、シューベルトの精神を苛んだ。謹厳な父が、音楽家になりたいという息子の願いを聞き入れるはずもなく、二人の間には軋轢が絶えなかった。「音楽をやるというならこの家を出ていけ!」などという啖呵を父が本当に切ったのかどうかわからないが、そんなような重大な衝突がこの時期にあったのかもしれない。
そんな折に、友人アンゼルム・ヒュッテンブレンナー Anselm Hüttenbrenner(1794-1868)を通して知り合ったヨハン・カール・ウンガー Johann Karl Unger (1771-1836)が、ガランタのエステルハーツィ家の音楽家庭教師にシューベルトを推薦する。 ウンガー氏は文筆家・作曲家として活動する傍ら、さまざまな貴族の家庭教師も務め、その名前が示すとおりハンガリー系の出自だった(ドイツ語でハンガリーはウンガーンUngarnという)ことからか、ハンガリーに本拠を置くエステルハーツィ伯と親交があった。ちなみにウンガー氏の娘、カロリーネ・ウンガーCaroline Unger (1803-1877)はその後オペラ歌手となり、18歳でケルントナートーア劇場の「コシ・ファン・トゥッテ」に出演した際にはシューベルトがコレペティトーアとして共に仕事をしている。その3年後にはベートーヴェンの交響曲第9番の初演でアルト独唱を務めた。演奏が終わっても指揮台を離れないベートーヴェンのもとに歩み寄って客席へ振り向かせ、耳の聞こえない作曲家に喝采する聴衆を「見せた」という、あの有名なエピソードに出てくる若きアルト歌手その人である。 ガランタのエステルハーツィ家は、かのハイドンが仕えていたアイゼンシュタットのエステルハーツィ本家の分家筋にあたる。ガランタというのは、現在のスロヴァキアの首都ブラティスラヴァの50kmほど東にある地域で、エステルハーツィ家の代々の領地だった。一家は夏の間、ガランタから更に80km以上東にあるツェリスの館に滞在するのが慣わしとなっていて、当主ヨハン・カール・エステルハーツィ伯爵 Graf Johann-Karl (János Károly) Esterházy de Galántha (1775-1834)は、その休暇の間に2人の令嬢、マリー Marie (1802-1837)とカロリーネ Caroline (1805-1851)の姉妹にピアノを教えてくれる先生を探していたのだった。
後にシューベルトの想い人となるカロリーネ・フォン・エステルハーツィ嬢について、この時点ではこれだけしか述べられていない。 この滞在の間にシューベルトが出会った重要な人物に、カール・フォン・シェーンシュタイン男爵 Carl Freiherr von Schönstein (1796-1876)がいる。シェーンシュタインは宮廷官吏でありながら、プロ並みの実力を誇るハイバリトン歌手でもあった。ツェリスの館でシューベルトと知り合った彼は、その天賦の才に惚れ込み、生涯を尽くしてリートの演奏・紹介に携わった。 シューベルト歌曲の受容に決定的な役割を果たしたベテランテノール歌手、ミヒャエル・フォーグルの歌唱が時に過度に演劇的で大仰すぎるという同時代の批判が多く残されている一方で、シェーンシュタインの節度ある表現は高く評価されており、「おそらく最も理想的なシューベルト歌手」(レオポルト・フォン・ゾンライトナー)とまで見なされていた。シューベルトもそれ以降、シェーンシュタインの声域を念頭に歌曲を作曲したと伝えられており、後に連作歌曲「美しき水車屋の娘」D795が彼に献呈された。