fc2ブログ


シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
次回公演詳細

「シューベルティアーデ」とコンヴィクトの仲間たち

Schubertiade
モーリツ・フォン・シュヴィントが1868年に描いた「シュパウン邸でのシューベルティアーデ」の図。シューベルティアーデの主要メンバーが全員揃っていて、これはさすがに「盛った」想像図と思われる。

シューベルティアーデについて、「シューベルトが自宅に友人たちを招いて催した音楽会のこと」という注釈をしばしば見かけるのだが、この説明は私の知る限り正しくない。シューベルトが、友人たちを招けるような空間のある「自宅」に暮らしていたことなど、おそらく一度もない。そもそも人生のほとんどを居候や共同生活で乗り切ってきたのがシューベルトである。
1815年から24年までのシューベルティアーデの大部分は、パトロンで宮廷官吏のイグナーツ・フォン・ゾンライトナーの邸宅の大広間で開催されたと伝えられる。シュパウンやショーバーら裕福な友人たちも自宅のサロンを提供し、時には郊外のアッツェンブルック城まで遠征して開催することもあった。
しかし「シューベルティアーデ」はそうしたイヴェントの名称というより、むしろそこに集う仲間たちから構成される「サークル」の名前と解釈した方が適切に思える。
時にこの集まりは、「カネヴァスCanevasの集い」の別名で呼ばれた。カネヴァスとは"Kann er was?"、つまり「彼には何ができるの?」という疑問文の口語形。新入りを紹介されると、シューベルトはまずこの問いを投げかけたという。ある者は詩を作り、ある者は絵を描き、そんな才能のない者は会場を提供したりして、シューベルトとサークルの皆に何らかの形で貢献できる人だけが入会を許された。シューベルティアーデは、単なるシューベルトのファンの集いではないのだ。
このような内輪の集まりを創作活動のベースにしていた作曲家は、少なくとも大作曲家の中ではシューベルト以外には見当たらない。シューベルトの音楽の特異性のいくつかは、この特殊な集団の内部で活動が完結していたことから説明できる。膨大な歌曲、その多くが友人たちの詩によるものであること、また自作の歌曲の主題による器楽変奏曲を多く手がけたこと、これらはシューベルティアーデの仲間たちの好みや趣味を反映したものだったのだろう。そもそも、隣に寄り添う人だけにそっと語りかけるような、共感を前提にしたプライベートな音楽はこの環境なくしては生まれなかったに違いない。
しかし別の見方をすれば、シューベルトがあまりにも若くして死んでしまったことを考えざるを得ない。事実、晩年には当時随一の新進作曲家として、その名は外国にも知れ渡っていた。あと10年、20年と長生きしていたら、友人たちの輪から大きく羽ばたいて、大交響曲を次々に発表したり、オペラの注文が殺到するような人気作曲家になっていたかもしれない。そして、「あのシューベルトは若い頃は仲間内でこんな歌曲を書いたりしていたのだよ」などと語り草になったかもしれない。仲間たちが願ったような大成を遂げるには、31年10ヶ月という人生は短すぎた。

シューベルティアーデの中核メンバーは大きく2つのグループに分けられる。ひとつはシュパウン、シュタットラー、ゼン、ホルツアプフェル、ヒュッテンブレンナーといったコンヴィクト(シューベルトが11歳から16歳まで通った帝室寄宿学校)時代の仲間たちで、もうひとつはレオポルト・クーペルヴィーザー、モーリツ・フォン・シュヴィント、有名な肖像画を描いたヴィルヘルム・アウグスト・リーダーといったウィーンの画家のグループである。それぞれのメンバーが友人知人を招待して、シューベルティアーデはどんどん拡大していった。
グラーツ生まれの作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーはコンヴィクト出身ではないが、サリエリ門下の同輩という意味ではティーンエイジャー時代からの仲間である。その弟ヨーゼフや、同じくシュタイアーマルク出身の作曲家ヨハン・バプティスト・イェンガーもシューベルティアーデで大きな役割を担い、1827年のグラーツ旅行のきっかけにもなった。
シュパウンをはじめとするコンヴィクト組はリンツやシュタイアーなどオーバーエスターライヒの地方貴族の子弟で(だからウィーンの全寮制のコンヴィクトにこどもが単身でやってきたのだ)、長じて法律を修め公務員になった者が多い。シューベルトがたびたびオーバーエスターライヒに演奏旅行に出かけたのは彼らの地縁があったという理由も大きい。
彼らは知的階級に属する「インテリ」である。総じて文学への造詣が深く、その繋がりから詩人のマイアホーファー、劇作家のバウエルンフェルトといった面々がやがてシューベルティアーデに加わっていく。前述のゾンライトナーの息子レオポルトや、その従兄弟である詩人グリルパルツァーもウィーン文芸界のエリートたちだ。

フランツ・フォン・ショーバー
シュパウンの紹介で親交を結んだ重要人物がフランツ・フォン・ショーバーである。スウェーデン出身の貴族だが、少年期をオーバーエスターライヒで過ごす間にシュパウン一族と親しくなり、1815年にウィーンに進出してシューベルティアーデの一員となった。コネクションを駆使して大歌手フォーグルをシューベルトに引き合わせたのはショーバーの最大の功績といえる。また歌曲『音楽に寄す』等の詩や、オペラの台本を手がけたことから詩人と称されることも多いが、絵画や石版画にも手を染める多才な人物だった。

官吏として働きながら余暇に創作活動に勤しんでいたコンヴィクト組と比べると、ショーバーは同じようなディレッタントでありながら定職に就かずふらふらと遊び暮らしていたところに決定的な違いがある。そのくらい経済的に余裕があったということなのかもしれない。
一方で金がなくとも芸術に人生を捧げようという若者たちもいた。他ならぬシューベルト自身がそうだったし、シューベルティアーデに参加した画家の一派もそんな無頼な若者たちだった。彼らの話題は次の記事で触れよう。
スポンサーサイト



  1. 2022/09/25(日) 22:44:23|
  2. 伝記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

シューベルトの旅 (7)1825年、オーバーエスターライヒ

1825年5月から10月にかけての、オーバーエスターライヒへの3度目の旅は、シューベルトの生涯の中でもひとつのハイライトと言うべき大イヴェントだった。
1819年1823年の旅行先だったシュタイアーとリンツの両都市を根城にして、グムンデン、バート・ガスタインといった名勝地に長期滞在を果たし、その間にはザルツブルクにまで足を伸ばしたのである。今回もまたフォーグルと連れ立っての旅行だったが、フォーグルは既に4月の初めからシュタイアーに滞在中で、シューベルトは1ヶ月半ほど遅れてウィーンを発ち、フォーグルと合流した。
旅行中の彼らの足取りは、かなり詳しく判明している。順を追って見ていこう。


水色がウィーン。オレンジがシュタイアー、赤がリンツ、紫がその近郊のシュタイアエック。
緑がグムンデン、黒がザルツブルク、紺がバート・ガスタイン。


[1] 5月20日~6月3日 シュタイアー→リンツ→シュタイアー
5月20日にシュタイアーに到着したシューベルトは、フォーグルと共にパウムガルトナー宅に宿泊した。24日にリンツに移動したが、同地に住んでいた親友ヨーゼフ・フォン・シュパウンはそのほんの数日前にポーランドのレンベルク(現在のウクライナのリヴォフ)への赴任に出立してしまった後だった。

僕は5月20日からオーバーエスターライヒにいるのに、君がその2~3日前にリンツを去ってしまったというので腹立たしい限りだ。僕はもう一度君に会いたかったよ、君がポーランドの悪魔に引き渡される前に。
(7月21日リンツにて、シューベルトからシュパウンに宛てて)

リンツではシュパウンの義弟オッテンヴァルト宅に滞在したが、シュパウンがいないので意気消沈したのだろう。早々にそこを出て、26日にサンクト・フローリアンの修道院、27日には以前も訪れたクレムスミュンスターの修道院を経由してシュタイアーに戻った。この2つの修道院では演奏の機会を得た。

オーバーエスターライヒでは至るところで自分の作品を演奏することができました。特にフローリアンとクレムスミュンスターの修道院では、素晴らしいピアニストに協力してもらって、4手のための変奏曲と行進曲を演奏して賞賛を得ました。特に好評だったのは僕が一人で弾いた、新しい独奏用ソナタの中の変奏曲で、何人かの人が「あなたの手にかかると、鍵盤がまるで歌声を発しているかのようだった」と言ってくれました。もしそれが本当なら嬉しいことです。なぜなら、優秀なピアニストにもありがちな、忌々しい打撃奏法には、僕は我慢できないし、耳も心も喜ばないからです。
(7月25日シュタイアーにて、シューベルトから両親に宛てて)

文中の独奏用ソナタの変奏曲というのは、ソナタ第16番イ短調D845の第2楽章、ハ長調の変奏曲形式の緩徐楽章のことである。シューベルトの演奏ぶりと、それに対する当時の人々の評価を示す貴重な記録である。
シュタイアーにはそれから1週間ほど滞在し、顔なじみのシェルマン家やコラー家を再訪、彼らは再会を祝して毎晩のように音楽会を開いた。

[2] 6月4日~7月12日 グムンデン
6月4日、シューベルトとフォーグルはリゾート地のグムンデンへ移動し、同地に6週間にわたって滞在した。主要な温泉地を巡る今回の旅行には、痛風を患っていたフォーグルの湯治という目的があったようだ。
グムンデン滞在中の2人の宿はフェルディナント・トラヴェガー Ferdinand Trawegerの邸宅だった。トラヴェガーはグムンデンの熱心な音楽愛好家で、2人を歓待し、快適な住居を提供した。

・・・僕ら(フォーグルと僕)はグムンデンに行き、6週間実に快適に過ごした。僕らはトラヴェガーのところに泊まっていたが、彼は素晴らしいピアノフォルテを所有していて、君も知っているように、この小生の信奉者なのだ。あそこでは僕はとても快適に気兼ねなく過ごしたよ。
(7月21日リンツにて、シューベルトからシュパウンに宛てて)

僕は今再びシュタイアーにいますが、6週間グムンデンに行っていました。そこの景色は本当に天国のようで、それだけでなく、そこに住んでいる人たち、特に善良なトラヴェガー氏に心から感動しました。彼には本当に良くしてもらいました。トラヴェガー邸にいると、まるで家にいるかのようにくつろげるのです。
(7月25日シュタイアーにて、シューベルトから両親に宛てて)

トラヴェガーの息子エドゥアルトEduard Traweger (1820-1909)は、このとき4歳だった。シューベルトの巻き髪に指を突っ込んで遊んでもらったことや、水車屋の「朝の挨拶」(D795-8)を「お小遣いをあげるから歌ってごらん」と言って教え込まれたりしたことなどを後年生き生きと回想している。エドゥアルトは長じて警察署長になり、20世紀を迎えても存命で、シューベルトを直接知る者の中では最も長生きしたといわれている。
グムンデンでは宮中顧問官でザルツカンマーグート領主のフォン・シラーの館に招かれ、食事をご馳走になったり、音楽会を開いたりしたほか、学校教師のヨハン・ネポムク・ヴォルフの家では、同家の娘ナネット(アンナ)と一緒に演奏を楽しんだりもした。

7月12日頃にシューベルトとフォーグルはグムンデンを後にし、途中プフベルクという街に寄って、フォーグルの友人たちに会った。フォーグルはそのままそこにしばらく残るというので、シューベルトは彼と別れてリンツへ向かい、15日に到着した。

[3] 7月15日~8月10日頃 リンツ→シュタイアー
一足先にリンツに戻ったシューベルトは、ヴァイセンヴォルフ伯爵夫妻に招かれ、彼らの夏の別荘であった郊外のシュタイアエック城に数日滞在した。

シュタイアエックではヴァイセンヴォルフ伯爵夫人のところに泊めてもらいました。彼女はこの小生の信奉者で、僕の作品を全部持っていて、たくさんの歌をとても素敵に歌ってくれるのです。ウォルター・スコットの歌曲は彼女に深い感銘を与えたようで、自分に献呈されるなんてもったいない、と明言されたほどです。
(7月25日シュタイアーにて、シューベルトから両親に宛てて)

19日には再びリンツに戻り、23日にプフベルクから帰ってきたフォーグルと合流して、25日頃までオッテンヴァルト家に滞在したあと、シュタイアーに向かった。シュタイアーでの2週間ほどの滞在については、ほとんど何も知られていない。

[4] 8月11日~9月4日 ザルツブルク→バート・ガスタイン
おそらく8月10日頃、彼らはシュタイアーからクレムスミュンスター経由でザルツブルクへ向かった。ザルツブルクに到着する直前、ヴァラー湖のほとりの田園風景と遠くの山々とのコントラストは、シューベルトに筆舌に尽くしがたい感動を与えた。
ザルツブルクでも、フォーグルとシューベルトの名前は知れ渡っていて、州知事のフォン・プラッツ伯爵の邸で、地元の名士たちを前に演奏して大喝采を浴びた。特に評判だったのはやはりスコット歌曲の中の1曲で、今も名高い「アヴェ・マリア」だった。演奏のないときは、メンヒベルクやノンネンベルクの丘に登り、大聖堂や修道院を訪れるなど元気に歩き回って大いに観光をした。

14日に2人はザルツブルクを発ち、バート・ガスタインに向かう。ガスタインは古くから知られた温泉場で、王侯貴族が訪れたことも知られている。途中のザルツベルクの岩塩採掘場を見物したいというシューベルトの願いは、痛風の痛みで一刻も早い湯治を必要としていたフォーグルに却下され、シューベルトは少なからずがっかりしたようだ。ザルツブルクからガスタインへ至る旅の行程について、シューベルトはとても詳しく描写力に富んだ紀行文を兄フェルディナントのために書いていて、すこぶる興味深いのだが、あまりにも長文なのでここでは割愛する。とにかく、山越えはなかなかの悪路だったようだ。
フォーグルがガスタインで3週間の「温泉療法」に取り組む間、シューベルトは演奏に追われることもなく、作曲に精を出した。彼がグムンデン滞在中からずっと、交響曲の作曲に取りかかっていたことは本人や友人たちの手紙から明らかである。その交響曲は次の冬のシーズンにウィーンで演奏される予定で、翌年にはオーストリア音楽協会に贈られて受領された。D849のドイチュ番号を与えられ、「グムンデン=ガスタイン交響曲」と呼ばれるこの作品は、しかし楽譜が散逸したため内容が不明で、幻の交響曲とされてきた。
現在ではこれは、D944のハ長調交響曲(いわゆる「ザ・グレート」)と同一であるか、もしくはその初稿であろうと考えられている。1982年にシュトゥットガルトで発見された、D849に相当すると思われるホ長調の交響曲は、もし真作であるとすればD944の初稿と思われるが、偽作という意見もある。
ガスタインでの音楽的成果として確実に存在しているのはD850のニ長調のピアノ・ソナタである。交響曲に携わった余韻からか、シンフォニックな音響感と、「天国的な長大さ」を湛えた、シューベルトのピアノ・ソナタの中でも異色の作品となっている。
湯治を終えたフォーグルとシューベルトは、9月4日にガスタインを離れ、途中ヴェルフェンの丘に登ったりしながら、再びグムンデンを目指した。

[5] 9月12日~16日 グムンデン
彼らは9月12日までにグムンデンに到着した。トラヴェガー家の面々をはじめ、多くの友人たちが彼らの再訪を喜んだ。シューベルトはあと2~3週間、ここに滞在しようと考えていたが、フォーグルは15日に突然、翌日シュタイアーに帰ると言い出した。そもそも旅費はフォーグル持ちだったので、シューベルトはそれに付き従うしかなかったのだが、シューベルトはフォーグルの(スター歌手ならではの)独断的なやり方にストレスが溜まっていき、2人の間にはわだかまりが生じていった。

[6] 9月17日~10月5日 シュタイアー→リンツ
フォーグルが早くシュタイアーに帰ろうと言い出したのは、すっかり体調が良くなったのでイタリアへ旅行しようと思い立ち、その準備を早々に始めたいと思ったからだったようだ。さすがにフォーグルはシューベルトを更に連れ回すつもりはなく、友人のハウクヴィッツ伯爵と同行することを決め、10月の初めに旅に出ることを告げた。共演者でありパトロンでもあったフォーグルがいないことには、シューベルトは旅を続けることができず、当初の予定よりも早くウィーンに戻らざるを得なくなった。
シューベルトはシュタイアーでフォーグルと別れ、リンツへ向かう。オッテンヴァルト家に再び滞在し、シュタイアエック城でも何度も演奏会を開いた。10月3日にはアントン・フォン・シュパウン邸でコンサートがあり、やはりスコット歌曲が賞賛を集めた。ウィーンからこの日のために駆けつけた友人ヨーゼフ・フォン・ガヒーと連弾を楽しんだ後、シューベルトはガヒーの帰りの馬車に便乗してウィーンへ戻った。10月5日のことであった。

シューベルトとフォーグルは、1821年の「アルフォンソとエストレッラ」事件のときのような大衝突には至らなかったものの、旅行が終わる頃にはだいぶギスギスした関係になってしまっていた。フォーグルがイタリアから戻り、昔の生徒と結婚してからはさらに疎遠になり、ふたりが会う機会も少なくなった。フォーグルと連れ立ってのオーバーエスターライヒ旅行はこれが最後となった。

最晩年の1828年の夏、シューベルトは単独でグムンデンへの旅行を計画し、トラヴェガー家に宿泊しようとしていたらしい。体調の悪化により、残念ながらそれは果たせなかった。
  1. 2018/04/15(日) 20:12:06|
  2. 伝記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

シューベルトの旅 (2)1819年7-9月、シュタイアー・リンツ

フォーグルとシューベルト
毀誉褒貶の絶えない「シューベルトの親友」、フランツ・フォン・ショーバー Franz von Schober (1796-1882)の、生前のシューベルトへの最大の貢献といわれるのが、オペラ歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグル Johann Michael Vogl (1768-1840)の知己を取り付けたことだ。
フォーグルは26歳でケルントナートーア劇場にデビューして以来、圧倒的な人気と実力を誇ったスーパースターだったが、シューベルトと知り合う頃には、その四半世紀に及ぶオペラ歌手としてのキャリアに終止符を打とうとしていた。ショーバーは、この大ベテランにシューベルトを紹介しようと画策し、早世した姉の夫でやはり劇場の歌手を務めていたジュゼッペ・シボーニ Giuseppe Siboni (1780-1839)のコネクションを使ってフォーグルに接触した。フォーグルは当初「若き天才現るという話はこれまで何度も聞いたが、そのたびに失望してきた。もうそういうことには関わりたくない」と突っぱねたが、他の友人たちの口添えもあって渋々面会を承知し、当時シューベルトが居候していたショーバーの家を訪れた。1817年の春から夏にかけての出来事と思われる。
シューベルトの伴奏に合わせて、はじめは気乗りせずに歌っていたフォーグルだったが、何曲か歌うにつれて次第に熱が入り、この若い作曲家に興味を持つようになった。
「君はいいものを持っているが、コメディアン的、山師的な部分が少なすぎる。素晴らしいアイディアが、充分に磨かれずに浪費されている」
と助言して退去したが、その後しばしばシューベルトに会いに来て、やがてその熱烈な信奉者、サポーターとなり、リート演奏を通してシューベルトの天才を世に知らしめる広告塔を買って出た。大柄で恰幅の良いフォーグルと、風采の上がらないシューベルトが連れ立って歩くカリカチュアはあまりにも有名である。

1819年、23年、25年の3度にわたるオーバーエスターライヒへの旅行は、いずれもフォーグルの同伴で実現したものだった。
オーバーエスターライヒとは、現在はオーストリアの9つの連邦州の1つとなっているが、元来は地域名である。現在のオーバーエスターライヒ州と、その東側にあり首都ウィーンを取り囲むように広がるニーダーエスターライヒ州の両州に相当する地域が、古くからオーストリアの国土の中核を成してきた。15世紀の半ばに、エンス川を境に2つの地域に分かれ、オーバーエスターライヒ Oberösterreich(英語でUpper Austria、「上部(高地)オーストリア」)とニーダーエスターライヒNiederösterreich(英語でLower Austria、「下部(低地)オーストリア」)と呼ばれるようになった。ウィーンから見ると、オーバーエスターライヒは真西におよそ200kmといったところである。
1818年秋、ツェリスから帰郷したシューベルトのところに、フォーグルが大きな仕事を持ってきた。なんと、ケルントナートーア劇場から新作オペラの依頼を取り付けてきたのである。この1幕物のオペラ「双子の兄弟」D647は2年後の1820年に上演されることとなる。
そしてフォーグルは、翌1819年の夏の休暇に一緒にシュタイアーへ旅行しようと、シューベルトに持ちかけたのだ。

ウィーンと、オーバーエスターライヒの各都市。三角形の上の点がリンツ、右下がシュタイアー、左下がクレムスミュンスター。

シュタイアー Steyrは州都リンツに次ぐオーバーエスターライヒの街で、ニーダーエスターライヒ州との境目に位置する。エンス川とシュタイアー川の間に広がる市街地には10世紀から続く美しい街並みが残されており、シューベルトの時代に既に古都として知られていた。
フォーグルはもともとシュタイアーの生まれであったので、要するに毎夏恒例の里帰りにシューベルトを同行させた、という格好になる。シューベルトにとって、シュタイアーはフォーグルだけでなく、当時の同居人のヨハン・マイアホーファー、コンヴィクト同窓生のアルベルト・シュタートラーの生まれ故郷でもあり、是非訪れてみたい土地であったに違いない。
旅行の手配と支払いはフォーグルの自腹だったが、旅行中に自由に使える小遣いも欲しかろうと、オペラの委嘱料の一部を劇場から前借りし、シューベルトに持たせてやるほどの親切ぶりだった。

7月中旬、フォーグルの休暇が始まるやいなやふたりはシュタイアーへ向かった。シュタイアーでのシューベルトの滞在先は、旧友シュタートラーの叔父で弁護士のアルベルト・シェルマン Albert Schellmann (1759-1844)の大邸宅で、そこにはシュタートラーとその母も住んでいた。1階のシェルマン家には5人の娘がいて、隣のヴァイルンベック家の3人と合わせて8人の少女たちがわいわいと生活していた。

僕が住んでいる家には8人もの娘たちがいて、しかもほとんどみんな可愛い。僕が忙しいのがわかるだろう?
(7月13日、シューベルトから兄フェルディナントへ)

シューベルトはシュタートラーとともに2階の部屋に住んで、シェルマン氏のピアノを借りて仕事をした。
一方でフォーグルは、シェルマン家のすぐ近く、鉄鋼商のヨーゼフ・フォン・コラー Josef von Koller (1780-1864)の邸宅に滞在していたらしい。

毎日フォーグルと食事をご馳走になっているフォン・コラー氏のところには娘がいて、とても可愛い。ピアノが上手で、僕の歌曲をいくつか歌ってくれることになっている。
(同前)

当時18歳だったこの娘はヨゼフィーネ Josefine (Josefa) (1801-1874)といい、シューベルトのシュタイアー滞在中の「ミューズ」であった。シューベルトは彼女を「ペピ」の愛称で呼んだ。
コラー家ではたびたびプライベートの音楽会が開かれ、あるときにはシューベルトの「魔王」の歌唱パートを人物ごとに分担して、ヨゼフィーネがこどもを、シューベルトが父親を、フォーグルが魔王を演じ、シュタートラーが伴奏する、なんていう楽しい一幕もあったらしい。また8月10日のフォーグルの誕生日には、シュタートラー作詩、シューベルト作曲の新作カンタータ「歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグルの誕生日に寄せて」(D666)をコラー邸で披露。ヨゼフィーネがソプラノ、地元の歌手ベルンハルト・ベネディクトがテノール、シューベルトがバスを担当し、ピアノ伴奏のシュタートラーとの4人で51歳になった歌手を祝福した。
シュタートラーによると、シューベルトはこの滞在中に、直近で書き上げたピアノ・ソナタの楽譜をヨゼフィーネにプレゼントしたという。これはD664のイ長調ソナタのことだと考える向きが多い。

もうひとり、1819年のシュタイアー滞在でシューベルトが出会った、忘れてはならない人物はシルヴェスター・パウムガルトナー Silvester Paumgartner (1764-1841)である。彼は鉱山組合の役員で、アマチュアのチェリストでもあり、豪邸でのサロンコンサートをたびたび催していた。地元出身のスターであるフォーグルと、シューベルトによるパウムガルトナー邸での歌曲の夕べは大喝采をもって迎えられた。
パウムガルトナーの委嘱によって作曲され、彼に献呈されたのがかの名曲、ピアノ五重奏曲「ます」D667である。おそらく歌曲「ます」の旋律を気に入ったパウムガルトナーが、チェロの入った編成で楽しく演奏できる室内楽曲を、とシューベルトに頼んだのだろう。パウムガルトナー邸に設置された記念碑には「この家で『ます』五重奏曲が作曲された」とあるが、これはどうやら誤りで、シューベルトは依頼を受けてからいったんウィーンに戻り、完成させた譜面をシュタイアーに送ったようだ。1819年暮れから1820年初めにかけての冬のシーズンに、パウムガルトナー邸で初演されたが、そこにシューベルトは立ち会わなかった。

さてシューベルトとフォーグルは、シュタイアーを根城にしてリンツにも足を伸ばしている。8月19日付の、ウィーンでの同居人マイアホーファーに宛てた手紙はリンツから出された。

僕は現在リンツにいる。シュパウン家に滞在し、ケンナー、クライル、フォルストマイアーに会った。シュパウンの母親、それからオッテンヴァルトと知り合い、彼の詩に作曲した「子守歌」を歌ってあげた。シュタイアーではとても良い時間を過ごしたし、このあともそうなると思う。あのあたりはまるで天国だ。リンツもとても美しい。僕たち、つまりフォーグルと僕は、向こう数日間ザルツブルクに旅行するつもりだ。どんなに楽しみにしていることか。
(8月19日、シューベルトからマイアホーファーへ)

リンツはシュパウン家の本拠地だが、残念ながらコンヴィクト時代の親友ヨーゼフ・フォン・シュパウンは他所に赴任中のため不在で、代わりに弟で文学史・民俗学者のアントン・フォン・シュパウン Anton von Spaun (1790-1849)や、彼らの妹の夫アントン・オッテンヴァルト Anton Ottenwalt (1789-1845)らと親交を深めた。
彼らを中心に、コンヴィクト時代の友人ヨーゼフ・ケンナー、シュタイアーのアルベルト・シュタートラー、それにマイアホーファーといった面々が、リンツ=シュタイアー地域の友人グループを形成している。彼らは文学や哲学に精通し、その詩作にシューベルトが付曲したリートも多い。この「リンツ=シュタイアー」一派は、シューベルトのウィーンの友人たち(画家が多い)とともに、後の「シューベルティアーデ」メンバーの中核となっていく。
マイアホーファーに予告したザルツブルク行きは結局このときは実現しなかったようだ。シュタイアーに戻る途中、8月26日にはクレムスミュンスターの修道院に立ち寄っている。修道院のギムナジウムは、フォーグル、そしてショーバーが少年時代を過ごした場所でもあった。
残りの休暇の日々をシュタイアーで過ごし、9月の半ばにウィーンへ帰着した。旅行中にシューベルトが書いた作品は少なく、歌曲に至っては1曲も作曲していない。おそらくフォーグルとの演奏もあって忙しかったのだろう。

フォーグルがこの旅行にシューベルトを同行させた理由は、単に自分の故郷を見せたいというだけでなく、ウィーン以外の地方にもシューベルト・ファンのネットワークを広げるという目的があったと思われる。シュタイアーのシェルマン、コラー、パウムガルトナー、リンツのシュパウン、オッテンヴァルトの各家は、1823年・25年の旅行時にもフォーグルとシューベルトに便宜を図り、さらにシューベルトの没後もその名声を高めることに貢献した。

[参考文献]
・Rudolf Klein著「Schubert Stätten」(Elisabeth Lafite, 1972)
・Otto Erich Deutsch編「Franz Schubert Die Dokumente seines Lebens und Schaffens」(Georg Müller, 1914)
・藤田晴子著「シューベルト 生涯と作品」(音楽之友社, 2002)
・オットー・エーリヒ・ドイッチュ編 實吉晴夫訳「シューベルトの手紙」(メタモル出版, 1997)
  1. 2018/03/06(火) 22:45:11|
  2. 伝記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0