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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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8つのエコセーズ D529 概説

8つのエコセーズ Acht Ecossaisen D529
作曲:1817年2月 出版:1871年(第1~3,6,8曲)/1897年(第4,5,7曲)
楽譜・・・IMSLP

(曲種「エコセーズ」の解説はこちら)

シュパウン家に伝わる自筆譜には1817年2月の日付がある。8曲のうち、第1~3曲、第6曲、第8曲のみが抜粋され、D420と組み合わせて1871年に出版されたことは前述した通りである。この5曲が抜粋された経緯は定かではないが、おそらくシューベルト自身が5曲を抜き出して別の自筆譜を作成し、これがシュタットラーを経てゴットハルトに渡り、D420同様製版後に散逸したとみられる。
このとき出版されなかった3曲は1897年に新全集の補遺として初めて公開されたが、他の5曲はやはりD420と組み合わせた形で1888年の本巻に既に収められていたので、収録巻が2つに分かれてしまった(IMSLP参照)。そういう経緯もあり、D529については今も「5つのエコセーズ」の表記が根強い。今回の公演の告知資料にも「5つのエコセーズ」と表記してしまったが、自筆譜に基づき「8つのエコセーズ」として、自筆譜通りのオーダーで演奏する。
第3曲を除いてすべてニ長調で書かれており、全曲エコセーズの定型通り8小節+8小節の二部形式をとっている。

1. ニ長調
 シューベルトの好みのダクティルスによる開始。左手にホルン風の音型が現れる。
2. ニ長調
 ファンファーレ風の和音に続き、ギャロップのようなスケルツァンドな音型が奏される。
3. ト長調
 装飾音を伴うモティーフは前曲のB部分から採られている。
4. ニ長調
 意表を突いたドミナントからの開始。右手は無窮動の8分音符が続き、左手には再びホルン音型が登場する。
5. ニ長調
 前曲に続いて右手は無窮動。B部分はソロとトゥッティの対比になっている。
6. ニ長調
 ダクティルスとは逆の、短短長のリズムで重音や和音が刻まれていく。
7. ニ長調
 前曲と同じく短短長リズムだが、こちらは単音の連打でより軽やかな曲想。連打には432という指使いまで指定されている。
8. ニ長調
 冒頭に「Nach einem Volkslied」(民謡に基づく)との注記がある。ドイチュの研究によると、ニーダーエスターライヒの民謡「's Bedlwaibl wollt Kiarifiartn gehn(貧しい女は市に行きたかった)」、別名「Der geschlagene Mann」(殴られる男)が原曲だという。
この民謡は古くから存在したようで、既に1578年の文献に載っているというが、その後アルプス地方で長く歌い継がれ、1818年にフランツ・ツィスカとユリウス・マックス・ショットキーが編集した「オーストリア民謡集」に収録されている。モーツァルトのディヴェルティメント第15番K.287の終楽章をはじめ、数多くの音楽作品に引用されている有名なメロディーだったようだ。シューベルトの舞曲でこのような注記がある作品は珍しいが、きっと仲間内でも評判になったことだろう。
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  1. 2017/06/13(火) 08:51:39|
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3つのエコセーズ D816、6つのドイツ舞曲 D820 概説

3つのエコセーズ Drei Ecossaise D816
作曲:1824年9月 出版:1956年

6つのドイツ舞曲 Sechs Deutsche D820
作曲:1824年10月 出版:1931年
楽譜・・・IMSLP

これらの舞曲は1824年の秋、ハンガリーのジェリズ(ツェリス、ゼレチュとも。現在のスロヴァキア領ジェリェゾフチェ)滞在中に作曲された。シューベルトは貴族エステルハージ家の音楽教師に雇われ、1818年と24年の2回、夏の別荘のあったジェリズに滞在している。シューベルトがこれほど長い間ウィーンを離れるのは珍しいことだった。シューベルトはここでエステルハージ家の令嬢、マリーとカロリーネの姉妹に音楽を教え、とりわけ1824年の滞在で妹のカロリーネに恋心を抱いたのではないかといわれている。

これらの2つの舞曲集は、おそらく舞踏目的ではなくレッスンの教材として書かれたのではないかと推測される。とりわけD820の自筆譜はカロリーネの死後遺品の中から発見されており、カロリーネに個人的に贈られたものと見て間違いないだろう。

D816の3つのエコセーズは、いずれも16小節のごく短い舞曲で、最初の2曲はニ長調、終曲は変ロ長調で書かれている。

D820の6つのドイツ舞曲は、6曲が並列されているのではなく、3曲ずつの2セットの形をとる。それぞれのセットの2曲目・3曲目の後で1曲目に戻るように指示されており、D380の「2つのトリオを持つ」メヌエットと同様に、1-2-1-3-1、4-5-4-6-4の順で演奏される。変イ長調で書かれた前半3曲では、繊細に変化する和声が、光と影のやさしい移ろいを描くかのようだ。後半3曲は変ロ長調で、強烈なアクセントと幅広い音域が豊かなコントラストを形成している。この曲集は1931年に出版され、同じ年に編曲されたアントン・ヴェーベルンによる管弦楽版でも知られている。
  1. 2016/04/07(木) 08:07:07|
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舞曲の種類

前回の記事で述べた、シューベルトの手がけた舞曲のジャンルについて、少し解説しておきたい。


エコセーズ Ecossaise (Ecossaisen)
他の踊りとは異なり、2拍子の舞曲である。
エコセーズとはフランス語で「スコットランドの」という意味で、この舞曲がスコットランド起源であることを示している。本来3拍子系の舞曲であったが、1700年頃には既に2拍子化していたらしい。カントリーダンス(コントルダンス)の一種で、男女が常にパートナーを入れ替えながら踊る。その複雑なフォーメーションは、後のカドリーユの起源となった。シューベルティアーデでもエコセーズは人気で、よく踊られていたらしい。
音楽は急速な2拍子で、時にびっくりするようなスフォルツァンドや、強弱の対比を特徴とする。スコットランドではバグパイプで伴奏するのが習わしで、その名残で低音のドローン(保続低音)を持つこともある。ピアノのためのエコセーズとしては、シューベルトの他にベートーヴェン(6つのエコセーズWoO83)やショパン(3つのエコセーズ 作品72-3)が知られている。
シューベルトのエコセーズはいずれも2/4拍子、8小節+8小節の二部形式で書かれており、テンポが速いこともあって1曲1曲は非常に短い。しばしば連作としてまとめられている。

メヌエット Menuett (Menuette)
中庸な3拍子の舞曲。フランスの民俗舞曲を起源とするが、バロック期に宮廷舞踏に採り入れられ、後には古典派のソナタ楽章にも導入された、普遍性の高い舞曲である。
メヌエットのステップは2小節を基本単位としており、そのため奇数小節の第1拍にアクセントを置く(強弱弱、弱弱弱)。また同じくステップの関係上、8小節単位の楽節構造が要求され、8で割り切れない楽節構造のメヌエットは踊ることができない。つまりそれは舞踏を目的としていないメヌエットである。
中間部(トリオ)を伴う三部形式が基本で、「メヌエットとトリオ」という楽式は古典派ソナタにも受け継がれた。
シューベルトの時代、既にメヌエットは時代遅れの舞曲だったようだ。事実、1816年(18歳)を最後に、シューベルトは舞曲としてのメヌエットを作曲していない。シューベルトのメヌエットで特徴的なのは、2つのトリオを伴っていることで、ABACAという形式で演奏される。このようなメヌエットは他の大作曲家には類例がない。

ドイツ舞曲 Deutscher Tanz (Deutsche Tänze) ・ レントラー Ländler ・ ワルツ Walzer
いずれも3拍子のこれらの舞曲の違いについて、これまでさまざまな説明がなされてきた。しかし正直なところ、あまりぴんと来ないと思っていた。

言葉の登場する順序としては、歴史的に一番古いのが「ドイツ舞曲」である。ドイツ語でそのままDeutscher Tanz(ドイツの踊り)だが、実際にはTanzを省略してDeutscher(複数形はDeutsche)と呼ばれることも多い。これは英語のGermanに相当する、「ドイツの」を意味する形容詞である。「エコセーズ」と同様、舞曲の名称に地域名を用いることは多々あった。
Deutscherをそのままフランス語に直せば、allemande「アルマンド」である。つまり古い時代の文献に登場する「ドイツ舞曲」とは、宮廷舞曲のアルマンドのことを指している。アルマンドはご存じの通り、短いアウフタクトを伴う4拍子の中庸な踊りである。宮廷に入った時点で、既にかなり古い時代の舞曲と見なされていたらしく、その起源をたどることはほとんど不可能である。

これと全く異なる舞曲が、18世紀の後半に同じ「ドイツ舞曲」の名で登場する。シューベルト以前で最も有名なのは、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の第1幕のあるシーンである。
まず第15場のドン・ジョヴァンニの有名なアリア(「シャンパンの歌」)の中で、大宴会を企画しているこの好色家が、従者レポレッロにこんなことを言う。「広場に行って、かわいい娘たちを連れてくるんだ。踊りなら何でも構わない、メヌエットでも、ラ・フォリアでも、アルマンド(l'alemanna)でも、踊らせてやれ。私はその間に、あっちこっちで恋のお楽しみだ」。
そしてその後の宴会で、オーケストラが3群に分かれ、拍子の違う3つの舞曲を同時に演奏するという、前衛的な場面がある(第22場)。まずドン・オッターヴィオとドンナ・アンナがメヌエットを踊り、ドン・ジョヴァンニとツェルリーナのコントルダンスが加わり、更にレポレッロとマゼットが踊るダンスはla Teitsch

teitsch 1
レポレッロのパートのト書きに、「マゼットと無理矢理Teitschを踊る」とある

訛っているが、これこそDeutschすなわち「ドイツ舞曲」のことであり、「シャンパンの歌」で言及されたアルマンドl'alemannaもおそらく同じものを指すのだろう。3/8拍子の速い踊りだ。

teitsch 2
上2段が、レポレッロとマゼットが踊るTeitsch。3・4段目はドン・ジョヴァンニとツェルリーナが踊るコントルダンス。下4段はメヌエット。

注目すべきは、メヌエットを踊るのがドン・オッターヴィオとドンナ・アンナという貴族のカップルであるのに対し、ドイツ舞曲を踊るのは従者レポレッロとマゼットという平民の(しかも男同士の)ペアだということだ。ドイツ舞曲は、宮廷の上品なメヌエットと対極にある、庶民的で粗野な踊りという性格が与えられていたのである。このドイツ舞曲が、同じ名前の宮廷舞曲のアルマンドの流れを引いていないことは明らかだろう。

一方で「レントラー」は、「土地・田舎」を意味するLandに由来する言葉で、いわば「地方の踊り、田舎の踊り」といった意味を持つ。南ドイツやオーストリアの各地方で踊られていた民衆の踊りを総称して、18世紀の初頭からこの呼び名で記録されるようになった。レントラーも、ドイツ舞曲と同様に男女のペアがくるくると円を描くように踊る。

ワルツ」の起源にはさまざまな説があり、13世紀頃からアルプス地方で踊られていた「ヴェラー」というダンスに由来するとか、16世紀のイタリアの踊り「ヴォルタ」が起源であるとか、いろいろと言われている。ただ、それらが直接的にワルツの起源になったかどうかは疑わしい。
直接的な起源としてよく言及されるのは、18世紀中頃、ドナウ川の上流から舟に乗ってウィーンへやってきた「リンツのヴァイオリン弾きLinzer Geiger」と呼ばれる楽士たちの集団である。ドナウ河畔の飲食店に居着いた彼らが、レントラーなどの舞曲をウィーンに広めていった。こうして都会に出た踊りを、人々はwalzen(転げ回る)と呼ぶようになり、その音楽は「ヴァルツァー Walzer」(ドイツ語でワルツのこと)と呼ばれるようになったのである。この説に基づけば、「ワルツ」は「ドイツ舞曲」や「レントラー」の発展形であり、最も新しく誕生した概念ということになる。

さてここからは私の個人的な見解である。

1.「ドイツ舞曲」と「レントラー」は、起源をたどれば同じ舞曲だった。
おそらく、オーストリアの田舎で、3拍子の民俗舞曲が踊られていたのだろう。同じドイツ語文化圏の人々は、それを「レントラー」(田舎の踊り)と呼び、他の文化圏に出ていけば、既に国際的になっていた老齢のアルマンドの名前を借りて「ドイツ舞曲」と称するようになったのだろう。だから「ドイツ舞曲」と「レントラー」には、そもそも本質的に違いはない。

2.シューベルトの時代には、「ドイツ舞曲」「レントラー」「ワルツ」には全く差がなかった。
シューベルト自身や仲間たちがさまざまな呼び名を混同していることからもわかる通り、これらの名称は交換可能なものだったのだろう。ただし、上に記した通り、「ワルツ」は当時ウィーンで生まれたばかりの言葉だったから、「ドイツ舞曲」や「レントラー」よりもナウい語感だったことは間違いない。だから出版社たちは、好んで「ワルツ」のタイトルを使いたがったのである。その方が実際に楽譜も売れたのだろう。

3.それぞれの舞曲の差が出てくるのは、シューベルトより後の時代のことである。
とりわけ「ワルツ」は、その後「メヌエット」を遙かにしのぐ、国際的な普遍性を獲得した。フランスやロシアでも独自のワルツが生まれたが、本場ウィーンでの発展は特別だった。ヴェーバーの「舞踏への勧誘」を嚆矢として、短いワルツを数珠繋ぎにするグランド・ワルツの形式が流行し、ヨーゼフ・ランナーやヨハン・シュトラウス1世が「ウィンナ・ワルツ」の様式を確立、シュトラウス・ファミリーによって伝統芸能化する。
快活なテンポと華やかな旋律。1拍目のバスに重さがあり、2拍目・3拍目が刻みを担当する、いわゆる「ぶんちゃっちゃっ」という伴奏型、そして2拍目がやや前につんのめるという「ウィーン訛り」。そうした様式が世界中に知られるようになってから、シューベルトはその元祖として再注目されるようになったのである(でも実際は、当のシューベルトが書こうとしたのは、ドイツ舞曲かレントラーだったかもしれないのだ)。
そして、「ワルツ」が進化していく過程でふるい落とされた要素が、「レントラー」の言葉の中に残された。中庸なテンポ、素朴なメロディー、単純な和声進行、そして「ぶんちゃっちゃっ」ではない3拍子の伴奏型。それらが、鄙びた田園の情景とともに「レントラー」としてまとめられた。そして、もともとあった古い名称を借りた「ドイツ舞曲」は廃れていった。

以上、学術的な信憑性は乏しいが、私の考えるドイツ舞曲=レントラー=ワルツ論である。つまり、
「シューベルトのドイツ舞曲とレントラーとワルツは、違いがない」
ということを主張したかったわけだ。

しかし、個々の舞曲を見ていくと、タイトルとは関係なく、いくつかのタイプに分類できることがわかる。そのことについて、次の記事で述べてみたい。
  1. 2016/04/01(金) 22:33:01|
  2. 楽曲について
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シューベルトの舞曲について 概略

シューベルトは、こと舞曲の分野では大変に成功した作曲家だったと言ってよいだろう。
シューベルトは、モーツァルトやメンデルスゾーンのような神童ではなかった。試行錯誤しながら自らの道を切り拓いていった、努力の人である。しかし舞曲においては、誰に習うことなく、若い頃からごく自然に完璧なスタイルを会得していた。ウィーン生まれウィーン育ち、生粋のウィーンっ子ならではのセンスなのだろうか。

ウィーンの舞踏会シーズンは冬である。他にレジャーのないこの時期、人々は踊りに熱中した。メッテルニヒ体制のもと、舞踏会の開催時期はカトリックの祝日をもとに厳しく規制されていた。舞踏会を開いてよいのは、1月6日の「東方三博士の祝日」から、復活祭に伴って2月3日~3月9日の間で移動する祝日「告解の火曜日」(パンケーキデー)の間のみ。すなわち1年のうち1ヶ月か2ヶ月の間だけ、人々は心おきなく踊ることができた。この法を犯すと重い罰金が課せられたり、逮捕されることすらあった。
しかし、許可されていない期間にも、個人邸などでの非公式のダンスパーティーはこっそりと開かれていた。シューベルティアーデの仲間たちも、時期を選ばず、集まれば結局舞踏会になった。ウィーンの冬は長く寒い。舞踏は、楽しみながら暖を取れる格好のレクリエーションだったのである。シューベルトたちも、1822年の舞踏会の最中、警察に踏み込まれて危うく逮捕されるところだったらしい。
そのような楽しく密やかな集まりで、シューベルトはピアノの前に座り、ひたすら即興で舞曲を弾き続けた。シュパウンをはじめとする友人たちが口を揃えて証言するには、シューベルトは決して自分では踊らず、ただ踊りの伴奏をするだけだった。そして、即興の舞曲の中で特に気に入ったもの、友人たちの評判の良かった曲を、五線に書きつけたのだという。そのようにして、あの膨大な数の舞曲が生まれていったのである。

シューベルト自身か友人が出版社に売り込んだのか、あるいは評判を聞きつけた出版社から話が持ち込まれたのか、その経緯は明らかではないが、あるときから舞曲が出版のルートに乗るようになる。1821年、「36のオリジナル舞曲」(D365)が作品9として出版された。自費出版ではなく、出版社から委嘱を受けて作品が刊行されるのはこれが初めてだった。
以降、出版社たちはこぞってシューベルトに舞曲を委嘱するようになる。作曲家シューベルトにとって、「舞曲」はほとんど唯一の、安定した収入源であった。現代ではシューベルトの代名詞ともいえる歌曲さえ、当時は自費出版を余儀なくされ、そうでなくともシューベルトにはわずかな収入しかもたらさなかった。そこには圧倒的な需要の差があったのだろう。
毎年舞踏会のシーズンが近づくと、出版社たちは次々と「今年のトレンドの」舞曲集を刊行した。さまざまな作曲家に委嘱したオムニバスの舞曲集も人気で、シューベルトの後年の単発の舞曲はこうした楽譜の収録曲として残されたものも多い。
シューベルトは生前から絶大な人気を誇った「舞曲王」だったのである。

新全集の解説によれば、自筆譜の残っている舞曲をジャンルごとに大別すると、次のような割合になるという。
「ドイツ舞曲」が40%。
「レントラー」25%。
「エコセーズ」20%。
「メヌエット」15%。

あれっ、と思われる方もいるかもしれない。「ワルツ」が入っていない。実はシューベルト自身が自筆譜に「ワルツ」と書きつけた曲は、1曲しか確認されていない(D365-3)。そして、生前に出版された舞曲は、製版に使われた原稿が残っていないのである。
印刷してしまえば、手稿は破棄するのが当時は普通だったのだが、そのせいでシューベルト自身がどのような題を与えていたのかを知ることはできない。ただ、いくつかの舞曲については製版用とは異なる自筆譜が残っており、それに周りの友人たちの証言も総合すると、「ワルツ」として出版された舞曲の大多数は、どうやら本来は「ドイツ舞曲」だったようだ。「感傷的なワルツ」「高雅なワルツ」といった命名や、さらに選曲に至るまで、どうやら出版社が恣意的に行ったのではないかと思われるふしは多々ある。

シューベルトは舞曲を書くとき、構想を練ることも、推敲することもなかった。後世に残す芸術作品ではなく、あくまでその場で消費する実用音楽である。題名にもこだわらなかったし、実際のところ、楽譜通りの曲順で一音も変えずに演奏されるような性質のものではなかったのだろう。演奏する側が好きな曲を選んで、適当に音を抜いたり加えたり、場合によっては小さいアンサンブルを組んだりして、楽しい舞踏会の伴奏に供したのである。
  1. 2016/03/22(火) 22:51:32|
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12のエコセーズ D299 概説

12のエコセーズ 12 Ecossaisen D299
作曲:1815年10月3日 出版:1897年(第1-8曲)、1912年(第9-12曲)
楽譜・・・IMSLP

エコセーズはスコットランド起源の舞曲で、元来は3拍子だったようだが、ウィーンに伝わった頃には2拍子の軽快な舞曲に変容していた。2組のペアで踊るスタイルは、後のカドリール(カドリーユ)の源流とも考えられる。エコセーズはドイツ舞曲と並んで、シューベルトの周りの友人たちの間で特に好んで踊られていたという。

D299のエコセーズ集の自筆譜は一部しか残されていないが、そこには1815年10月3日という作曲の日付と、マリー・フォン・シュパウンへの献辞が記されている。
コンヴィクト(帝室神学校)で知り合い、一生の友人・支援者となったヨーゼフ・フォン・シュパウン(1788-1865)とは、この頃既に家族ぐるみの付き合いになっていたらしく、本作の楽譜は作曲直後にリンツのシュパウン家に送られたようだ。シューベルトの作品の中で、ウィーン市外で演奏された初めての曲ということになる。献呈相手のマリー(1795-1847)はヨーゼフの妹でシューベルトより2歳年上、一時期はシューベルトの親友フランツ・フォン・ショーバー(1796-1882)と交際していたこともあったようだが、1819年にリンツの役人アントン・オッテンヴァルト(1789-1845)と結婚し、その邸宅はリンツにおけるシューベルトサークルの中心的な存在となった。

単純なステップの第1曲 変イ長調、左手のホルン風の音型が特徴の第2曲 変ホ長調、シューベルトの偏愛したダクティルス(長短短)のリズムが支配する第3曲 ホ長調、3連符の下降形と急な跳躍がおどけた調子を醸し出す第4曲 イ長調、シューマン風の分散和音が全編を覆う第5曲 変ニ長調、鐘のような両外声の保続音が印象的な第6曲 変イ長調、3連符のアルペジオが勢いよく上行する第7曲 ホ長調、シンプルなモティーフの繰り返しが続く第8曲 ハ長調、突然のアクセントが楽しい第9曲 ヘ長調、ダクティルスとは逆の短短長のリズムの第10曲 変ロ長調、2拍目に重量感のある第11曲 変イ長調、唯一の短調でしんみりとした情感を残す第12曲 ヘ短調と、各16小節のエコセーズが12曲連なっているが、偶数番号の曲の末尾には「前の曲の冒頭に戻る」という指示がある。すなわちこれらは奇数番号曲のトリオという扱いであり、1-2-1, 3-4-3,...という順番で演奏していくと、三部形式のエコセーズが都合6曲出来上がることになる。

自筆譜は最初の8曲しか残っておらず、旧全集には8曲のみが収録された。その後全12曲を収めた筆写譜が発見され、第9-12曲は1912年、D782のエコセーズとともに雑誌付録として初出となった。
  1. 2015/10/26(月) 05:03:18|
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