狭いウィーンの街とはいえ、大貴族をパトロンとし人々の尊敬を集めたベートーヴェンと、友人たちの閉じられたサークルで細々と創作活動を行っていただけのシューベルトとの間に、具体的な接触があったのかどうかははっきりしていない。
「ベートーヴェンの後に生まれた者に、何ができるというのだろう…」という嘆息混じりの台詞を後世に伝えたのはコンヴィクト時代の親友シュパウンだが、本当にそのような言葉を吐いたかどうかはともかく、少年時代のシューベルトの偽らざる心境であったことは間違いないだろう。
47歳年上の老師サリエリに比べて、26歳差(1770年12月生まれのベートーヴェンと1797年1月生まれのシューベルトはほぼ26歳の差といってよいだろう)のベートーヴェンはシューベルトにとってもっと近しい、
「父親世代」の
ロールモデルだったに違いない。その圧倒的な創作力と影響力に、限りない尊敬と畏怖と、そしていくぶんの煙たさを感じていたのは想像に難くない。
二人の数少ない接点といえるのは、シューベルトがピアノ4手のための
『フランスの歌による変奏曲』D624を、出版に際してベートーヴェンに献呈していることだ。とはいえこのときに作曲家同士の直接のやりとりがあったかどうかは定かではない。これに関連して、「ある日シューベルトがベートーヴェンを訪ね、自作の変奏曲の筆写譜をおずおずと差し出したが、ベートーヴェンは作曲上のいくつかの誤りを発見して指摘し、シューベルトは恐れ入って逃げるように帰っていった」というエピソードが時折伝記に登場する。これはベートーヴェンの“無給の秘書”シントラーが語ったエピソードで、他のシントラー証言と同様に信憑性は限りなく低い。晩年のベートーヴェンがシューベルトの歌曲集の譜面を見て「シューベルトには神々の火花が宿っている」と評した(「神々の火花」といえば『第九』のテキストに出てくる言葉だ)とか、病床のベートーヴェンをシューベルトが見舞ったとかいう逸話も、「こうだったらいいな」という後世の願望が反映されたもの、と考えるのが適当かもしれない。
ベートーヴェンがシューベルトをどうみていたかはわからないが、シューベルトはたびたび友人宛の手紙でベートーヴェンについて言及している。
歌曲では新しいものはあまり作っていないが、その代わり器楽ものはずいぶん試してみた。2つの弦楽四重奏曲と八重奏曲を作曲し、四重奏をもう1曲書こうと思っている。この方向で、なんとか大交響曲への道を切り開きたいと思うんだ。―ウィーンのニュースといえば、ベートーヴェンが演奏会を開いて、そこで新しい交響曲と、新しいミサ曲からの3曲と、新しい序曲をかけるということだ。―できることなら、近い将来僕も同じようなコンサートを開きたいと思っている。(1824年3月31日、シューベルトからローマ滞在中の友人クーペルヴィーザーに宛てて) ここには、偉大な先達の影に嘆息するだけではない、意欲的で野心に溢れた若者の姿がある。そして宣言した通り、
翌年夏のオーバーエスターライヒ大旅行の間に
「大交響曲」に着手することになる(この「グムンデン=ガスタイン交響曲」は、現在ではD944の大ハ長調『グレート』と同一視する説が有力だ)。
* * *
巨匠は1827年3月26日、嵐の晩に力尽きた。3日後の葬儀でその棺を担いだシューベルトは、いよいよベートーヴェンの後継者として名乗りを上げようとする。
それまでシューベルトが主要な器楽曲の調性としてはほとんど選ぶことがなかった
「ハ短調」。ところが1827年を境に、堰を切ったようにハ短調の鍵盤楽曲が増えていく。それはあの『運命』交響曲や、最後の作品111を含む3つのピアノ・ソナタ(作品10-1、作品13『悲愴』)でベートーヴェンが用いた調性でもあった。いくつかの試作の後、ハ短調→ハ長調というベートーヴェン的な調性配置を持つ
即興曲D899-1が完成し、そして最晩年のソナタD958へと結実する。それは音楽上の
「父」ベートーヴェンへのオマージュであり、その高い壁をついに突破する記念碑的な作品であった。
友人に宣言したもう一つの目標、ベートーヴェンと「同じようなコンサート」はその一周忌の命日に実現する。1828年3月26日、楽友協会ホールにおいて、全曲シューベルト作曲による
個展演奏会が開催された。D929のピアノ・トリオをプログラムの中心に据えた当夜は大評判となり、シューベルトは名実ともにウィーンにおけるベートーヴェンの後継者として認知されたのだった。
しかしシューベルトの個展はそれが最初で最後だった。8ヶ月後、シューベルトは31歳10ヶ月というあまりにも短い人生を終える。病床で熱に喘ぎながら口にした「ここにはベートーヴェンが眠っていない」といううわごとを聞いた次兄フェルディナントの尽力により、亡骸はヴェーリング墓地のベートーヴェンの墓の隣に改葬された。中央墓地に移転された今でも、ベートーヴェンとシューベルトの墓は名誉区32Aの中央に並びその威容を誇っている。
ベートーヴェンの葬儀を終えて、「この中で最初にベートーヴェンに続く者に乾杯」と声を上げたシューベルト。それは図らずも自分への餞の言葉になった。
スポンサーサイト
- 2023/10/21(土) 23:14:36|
- 伝記
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
(第1回はこちら)佐藤 今回シューベルトをご一緒したいなと思ったのには、やっぱり
ウィーンの音楽っていうものを理解している人っていうのはすごく僕の中では大事なことだったので。それが何なのかっていうのは、難しいところなんだけど…どう思う? ウィーンの独特の音楽の伝統、語法っていうか。
林 確かにあるとは思うよね、やっぱりウィーンらしさ、ウィーンならではというか、ウィーンだけのものっていうのは。やってみてくださいって言われるとものすごく難しいことなんだけど。そのあと僕、オーケストラの仕事でドイツに移ったけど、ウィーンの作曲家、モーツァルトとかハイドンとかシューベルトとかやると、全然感じ取り方が違うんだよね。
佐藤 そうなんだよね。
林 求めている音も全然違うし。だからなんだろうな、音楽ってすごく幅があって、懐が深いというか、いろんな解釈があって、どれが正しいと断言はできないけど、やっぱりウィーンの作曲家に合う、ウィーン風の演奏スタイルは確実にあるよね。それが他の町や国で必ず喜ばれるかどうかわからないけど。
佐藤 確かにそれはそうだ。
林 やっぱり9年間住んでいた身からすると、そういうスタイルや音色、センスに接するとやっぱりその、ほっとするっていうか、これだよなっていうような気持ちになる。
佐藤 僕は逆にドイツ時代が先にあってさ、5年間ドイツにいて、その後ウィーンに行ったので、その違いみたいなものを強烈に感じたっていうか。
林 そうかもね、ドイツが先だと特に。
佐藤 ウィーンは、
音楽を聴く機会がすごく多い街で。例えばオペラとかオーケストラとかいっても、もちろん全部ウィーンの人たちがやってるとも限らないし、ウィーン風なわけでもないんだけれども、たまにウィーンフィルとかあるいはシンフォニカー(ウィーン交響楽団)とかを聴くと、なんか独特のセンスがあるよね。音色感もちょっと違うところがあるような気がするし、他の街とはどうも違う感覚があるような…何なんだろうなと思うんだけど。僕はウィーンで勉強したのは2年間だけだったから、長くいた人はどう思うのかなと。ドーラ先生は別にウィーン出身というわけではないよね?
林 そうそう、ロシア系の人だから。
佐藤 ウィーンの伝統的なことについて指導があったわけではない?
林 そうだね、指導があったわけじゃないけど、とはいえやっぱり長年住んでるから、ものすごく影響というか、共感してる部分はあったんだなって、離れてから感じたね。
佐藤 なるほどなるほど。
林 同じロシア系で、同じ年代の先生とかと比べても、全然アプローチが違うなと思う。やっぱり長年住んで、それこそウィーンフィルも何回も聴いてるわけだし、あと同僚の先生たちもウィーンの人が多かったから。アルバンベルク・カルテットのピヒラーとも仲良かったし、そういうところから、先生自身も学んでたみたいだから。
佐藤 そうなんだ。なんかウィーン時代の思い出とかあります? 一言では言えないと思うけども。
林 それこそコンサートをいっぱい聴けたのは、すごく良かったなと思う。当たり前のようにウィーンフィル聴いて、オペラにしても、もちろんお金なかったから立ち見が多かったけど。そういうのを聴いて感動した思い出とか…あと、ウィーンも最近はいろいろ変わったけどやっぱり昔のものが残ってるね、旧市街だったり。それこそ、父親の影響で僕も「冬の旅」を散々CDで聴いたけど、冬に自宅に帰るとき、当時結構郊外の、Ober St.Veitっていう地下鉄の終点の近くに住んでたんだけど。
佐藤 おお、だいぶ遠いね。
林 帰り道に雪の中歩いていると、ふと「冬の旅」のメロディーが浮かんできて、ああこういう雰囲気っていうか空気感なんだなって、はっとする瞬間とか。だからといって簡単に演奏に生かせるわけじゃないけど、その感覚を味わえたっていうか、覚えられたっていうのは、大きいかな。今でも自分が演奏していてそういう記憶が蘇ってくると、やっぱり楽しいし音楽が身近なものに感じるかな。
佐藤 うーん、長年住んだ人ならではの感覚だね。
佐藤 ウィーンを離れるきっかけになったのは、オーケストラに入るっていう。
林 そうね、
コンサートマスターになりたいっていう夢が元々あって。それこそ日本を発つときに、原田先生に「ただ留学しても意味がない、何かはっきりした目標を持ちなさい」と言われ、「ヨーロッパのオケのコンサートマスターになりたいです」と話したら、「おおそれは立派な夢じゃないか。必ずやりなさい、やり遂げてきなさい」と言われ出てきたんだけど。
佐藤 へえ。
林 だけどウィーンの先生も教え子にコンサートマスターは多かったけど、それに特化した先生ではなかったし、僕もコンクールに挑戦する傍ら室内楽にも力を入れていたんだけど、ある程度の年齢になって、どうしてもコンサートマスターに挑戦してみたいなと思って。ドイツ、オーストリア、スイスのドイツ語圏のオーケストラで、コンサートマスターの募集のかかっているところはレベル関係なくほとんど全部応募してみたんだけど、20箇所出して、確かオーディションの招待状が来たのが
2箇所で。
佐藤 うーん。
林 もともとドイツは書類選考が厳しいけど、オーケストラの経験がほとんどない人がいきなりコンマスに応募しても難しいと思うよ。でもドイツはなにせオーケストラの数も多いから、その招待してくれたオーケストラもドイツで、早速オーディション受けに行って。
佐藤 もう最初から第1コンサートマスターで。
林 そう、そこは運良くそれで受かったけど、今思うと経験がない人をよく取ってくれたなと思うよ(笑)
佐藤 すごいな。そのコンサートマスターの試験って、試験勉強とかどういうことをするの?
林 いわゆる
オケスタ(オーケストラスタディ)ね。コンサートマスターだと有名なソロの部分の抜粋。ウィーンの音大でも教えてくれる先生がいて、授業の枠で個人レッスンもしてもらっていたよ。
佐藤 ああそうなんだ。
林 うん。クロイザマーというウィーンフィルのメンバーの先生に習ってた。
佐藤 それってみんな取らなきゃいけないの?
林 みんな取らなきゃいけない。数ゼメスターは。
佐藤 じゃあみんなとりあえずはやってるんだね。どのくらいやったかは別にして。
林 別に演奏は義務じゃないから、ただレッスンを聴講してサインだけもらえばいいんだけど、せっかくだから僕は順番を待って演奏するようにしていたよ。あ、でも卒試でもオケスタを弾かなきゃいけないのよ、ウィーンは。トゥッティのオケスタと、最後の修士の試験は、コンマスのオケスタ弾かなきゃいけない。
佐藤 なるほど。じゃあみっちりやらなきゃだね。
林 あと大事なのは必ず一次予選に出るモーツァルトのコンチェルトね。でも実際のオケのオーディションだと、コンクールと全然違って時間がすごく限られていて、
5分くらいしか弾けない。全曲通して弾いた中で総合的に見てもらえるわけではなくて、「はい次の人」って呼ばれて、ぱっと弾いて、最初ミスしたら「はいおしまい」って世界だから。
佐藤 (笑)
林 それは言い過ぎだけど。最初から、限られた時間で見せなきゃいけないっていうのはまた違うトレーニングが必要なんだよね。だから人前で弾く練習も繰り返したけど、最初はなかなかうまくいかなかったね。オーディションはやっぱり独特の雰囲気があるし、衝立があって向こう側が全く見えないこともある。
佐藤 あ、
ブラインドでやるんだ。
林 ブラインドでやるオケもあって、逆に何か変な感じだった。
佐藤 そうだよね(笑)どこ向いて弾けば良いのか。
林 衝立の向こうがどのくらいの広さで、何人が聴いているのか全然見えない。ある意味コンクール以上に緊張したかもしれない。
佐藤 そうか、なるほどね。一番最初に行った街はどこ?
林 レックリングハウゼンというドイツの西部の街で、ドルトムントやエッセンの近く。あの一帯はルール工業地帯といって以前は石炭工業で栄えていたんだよ。だから、ウィーンから来たこともあったと思うけど、あまり街並みが美しいとは感じなかったかな。
佐藤 (笑)
林 僕が在籍していたオーケストラは、そのレックリングハウゼンのシンフォニーオーケストラが、隣町のゲルゼンキルヒェンという町の歌劇場オーケストラを吸収合併してできたオーケストラ。歴史的にいえば労働者の街だけど、かつてのドイツの政策で、
娯楽と芸術的な施設を各都市に作ろうというものがあったらしく、サッカー場と歌劇場をドイツ各地に作ったらしいんだよね。それこそ、ゲルゼンキルヒェンにはシャルケっていう、僕がいた頃に内田選手が活躍していた有名なサッカーチームがあって、日本人ファンも時々見かけたよ。
佐藤 はいはい。
林 サッカーチームと歌劇場が地方都市にも揃っているのが、ドイツらしいところだね。
佐藤 面白いね。日本だとさ、工業都市とか労働者の街っていうのはあんまり文化的なことをやらない。なぜかっていうとナイトライフみたいなものがなくて、朝早く工場行って、仕事終わったら帰って寝るだけだから。
林 うん。
佐藤 だからレストランとかが閉まるのも早いし、夜にコンサートを聴きに行くような文化が生まれないっていう話なんだよね。コンサートを聴きに来る人たちっていうのは割とホワイトカラーで。
林 そうか。
佐藤 大都市で、あんまり朝早く仕事に行かなくてよくて、そんなに疲れずに夕方仕事を終えた人たちが、その後繰り出してコンサート聴きに行く、みたいな感じだと。そこらへんがやっぱり違うよね。娯楽としての歴史の長さもあるんだと思うけど。
(第3回につづく)
- 2023/05/04(木) 23:08:43|
- シューベルトツィクルス
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
佐藤卓史シューベルトツィクルス第18回のゲスト、林悠介さんにお話を伺いました。
ヴァイオリニストをお迎えするのはシリーズ初。佐藤とは昔からの友達ではあるのですが…
佐藤 林くんのインタビューみたいなものは、ネット上にはあまりないようだから。
林 そうだね。
佐藤 オーソドックスな質問からお聞きしていいでしょうか?
林 はい。
佐藤 いつぐらいから、なぜヴァイオリンを始めたのかという。
林 ヴァイオリンを始めたのは、ちょうど4歳になる頃だったかな。僕の両親は音楽家じゃないけど、父親が音楽好きというか、もう相当な愛好家で。
佐藤 言ってたよね、フィッシャー=ディースカウのレコードとかたくさんお持ちだったと。
林 そう、それこそ今回のと繋がるんだけど、こどもの頃は
シューベルトの「ます」(ピアノ五重奏)とか。
佐藤 へえ!
林 「ます」が一番気に入っていて、好きだった。でもヴァイオリンのところじゃなくて、一番喜んでいたのはピアノが出てくるところで。
佐藤 まあ「ます」はピアノが一番おいしい曲だから(笑)
林 そうそう。シューベルトに限らず室内楽が多かったかな、父親の趣味もあって。
佐藤 なんか渋いですね。
林 バルトークの弦楽四重奏全曲なんか聴きすぎて、小学生のときにはほとんど覚えていたね。
佐藤 すごい。
林 シューベルトだとそれこそ
「冬の旅」とか、渋いものが好きだったけど。そういうこともあって、楽器をやらせたいと。父親は自分が子供の頃にヴァイオリン弾きたかったようだけど、当時はなかなか難しかったらしくて。
佐藤 はあなるほど。
林 転勤族だったから、ずっと地方を転々としてたんだけど、その土地土地で先生を見つけて、最初は趣味っていうか、遊びでやっていたかな。
佐藤 でもあるときに、ヴァイオリニストとしてプロになろうと。
林 そう、だんだん大きくなってきて小学校高学年ぐらいから東京の先生に見てもらったりして。それで中学1年生のときに
原田幸一郎先生に演奏を聴いてもらったら
「1日3時間以上練習すると約束できるなら、僕のところに来なさい」といわれて。
佐藤 それまでは何時間ぐらい練習してたの?
林 どのくらいやってたのかな、はっきりとは覚えてないな。
佐藤 3時間って言われたらちょっと多いなって感じ?
林 「毎日かあ」って。でも先生が言ったのはその3時間に見合った内容っていうことで。そのためには最低3時間は要るよっていうだけで、3時間でいいっていう話じゃなかったんだけど。
佐藤 確かにそうだ。
林 そこから、桐朋に進んでプロを目指すっていう道が見えてきたかな。勉強も並行してやってたし、僕はどっちかというと夢は宇宙とか。
佐藤 へえ!
林 宇宙飛行士になりたいわけじゃなかったんだけど、宇宙関係のことやるのが夢で、外国に出るのも夢だったね。でも中2ぐらいで桐朋に進むって決めたときに、腹を決めたというか。
佐藤 じゃあ、ヴァイオリニストになりたいっていうのは半分ぐらい、みたいな感じ?
林 そうね、半分ぐらい。ただ両親も音楽家じゃないから、ヴァイオリニストで食べていくって実際どういうことなのか、具体的にわかるわけじゃないし、あと地方だったのもあって、
周りにヴァイオリンやってる人なんて誰もいなかったんだよね。
佐藤 そうなの?
林 転校しても、いつもその学校でヴァイオリン弾く人は僕1人。先生たちも「ヴ、ヴァイオリン!」「見たこともない」みたいな感じで。
佐藤 ちなみにどんな街で暮らしてたの?
林 ヴァイオリン始めたときは、宮崎県の延岡市。
佐藤 おお! だいぶ南の方だね。
林 そう。その後熊本に移って、熊本にはもちろんヴァイオリンの先生は何人かいたんだけど、学校にはヴァイオリン弾く子はいなかったんじゃないかな。その後長野県上田市に。
佐藤 かなり距離が。
林 そこもヴァイオリンを弾く友達はいなかったね、学校には。みんなの前で弾いてみせたら目を丸くしていたのを覚えているよ。実物を見たことなんてなかったんじゃないかな。
佐藤 でも長野っていったらスズキメソッドのイメージが。
林 そうそう、今は上田って良いホールもできたしね、盛んだけど当時はそうでもなかったのかな。
佐藤 そうなんだ。
林 その後宇都宮に移って。その頃はもう中学2年生で原田幸一郎先生のところに毎週末通っていた。その後桐朋に入って東京に。
佐藤 なるほど。高校から桐朋なんだよね。
林 そう、桐朋の高校に入って、そこで初めて音楽をやる仲間に出会えたっていうか、一緒に室内楽とか演奏することができて、楽しいなと思った。
佐藤 桐朋ってあれでしょ、男の子少ないんでしょ?
林 少ないね(笑)。当時1学年に100人ぐらいいて、僕の学年は男が12人。3クラスあったから1クラスに4人、それでも割と多い方だった。
佐藤 あ、まあそうだね。
林 女の子たくさんいていいねと言う人いるんだけど、そうでもない(笑)。男でいつも固まって行動していた。
佐藤 (笑)そうだろうね。
林 今でも仲いいのだけどね、その男子たちは。
佐藤 でも、大学は行かずに?
林 ソリストディプロマコースに行くつもりだったけど、高校3年生の2月か3月にウィーン音大教授の
ドーラ・シュヴァルツベルク先生のレッスンを受けて。最初は、そのアシスタントのソロコフ先生に日本の講習会で習って、その流れでウィーンに習いに行ったんだ。
佐藤 へえ。
林 そこで当時の自分に必要な先生はこの人だっていう、ものすごい確信を持ったからその年の5月に入試受けに行って、無事に合格。だからもう日本で大学行かずにウィーン音大へ。
佐藤 ってことは高校3年終わってその年の春にウィーンに行って、その年の秋から。
林 そう。まだ19歳になる前だった。
佐藤 そうか。僕が林くんに出会ったときは、僕があのとき21歳かそのぐらいだったから、ウィーンに行って3年ぐらい?
林 3年目かな?
佐藤 確か2005年に会ってるんだけど。
林 そしたら、ちょうど丸2年経ったところだね。ゴスラーの講習会だったよね。
佐藤 そうそう。その頃は自分史的にはどんな感じ? まだまだウィーンにいようかな、みたいな?
林 そうね、講習会は色々受けていたけど、あの頃はまだしばらく、自分の先生のところで習っていこうと思っていたかな。2005年だと、それこそコンクールとかもいろいろ挑戦していたし、具体的にソリストを目指しているわけではなかったけど、まだ勉強していろいろ経験を積みたいという段階だったね。
佐藤 結局ウィーンには何年間?
林 結局ね、
9年間もいたんだ。
佐藤 長かったね。
林 9年間いたねえ、なんかそんな実感が全然ないんだけど。
佐藤 最後ちょっとかぶってたもんね確か(注・佐藤は2011年にウィーンに移住)。
林 そうだよね。修士課程まで修了したんだけど、最後の方はカルテットの演奏活動をしていたからウィーンからもちょくちょく離れてて、卒業も延ばしていた。でもなんだろう、あそこはあそこで別の時間が流れてるっていうか。たぶんわかると思うんだけど。
佐藤 うん、そうだね。
林 別に何年でも住めるっていうか、なんだろうね。9年いたんだけど、あっという間というか。
(第2回につづく)
- 2023/05/03(水) 20:12:28|
- シューベルトツィクルス
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1824年5月7日、音楽史に残る一大イヴェントがウィーン・ケルントナートーア劇場で行われた。
ベートーヴェンの「交響曲第9番」(いわゆる『第九』)の初演である。完全に聴力を失っていた作曲者は、それでも10年ぶりの交響曲の初演の指揮台に立ち、実際に演奏を取り仕切るミヒャエル・ウムラウフにテンポの指示を与えたという。演奏終了後、背後の聴衆の反応がわからずステージ上で立ち尽くすベートーヴェンに、アルトソロの歌手が近づき、喝采する聴衆を「見せた」というエピソードはあまりにも有名である。
ウィーン楽壇の大事件だったこの『第九』初演を、ウィーンに住むシューベルトが知らなかったはずはない。果たして彼はこの歴史的瞬間に居合わせたのだろうか?
普通に考えれば聴きに行ったはずだ。崇拝してやまないベートーヴェンの新作初演、何を措いても駆けつけただろう。
終演後にベートーヴェンの手を取って後ろを振り向かせた21歳のアルト歌手
カロリーネ・ウンガーも知己だった。
3年前に彼女のオペラデビューのコレペティトーアを務めた縁もあり(もっとも毎回稽古に遅刻するシューベルトは劇場関係者の不評を買うことになるのだが)、
彼女の父親はツェリスのエステルハーツィ家の音楽教師の職を紹介してくれた恩人でもある。ちなみにカロリーネは若くしてなかなかのやり手だったらしく、『第九』のウィーン初演に尻込みをするベートーヴェンを焚き付け、この大興行を実現させた陰の功労者だったことが会話帳の書き込みからわかっている。歴史に名を刻んだあの行動も、もしかしたら巨匠と示し合わせてちょっとした芝居を打ったのではと思えなくもない。オペラ歌手ならそのくらい朝飯前だろう。
ところが、
シューベルトが『第九』初演を聴いたという記録は何も残っていないのだ。聴いていたら、きっとはしゃいで友人たちに触れ回ったり、手紙を書きまくったりするだろうに(最晩年にパガニーニの演奏を2回も聴きに行ったことはよく知られている)、そういう資料も証言も残されていない。
実は、1824年4月・5月のシューベルトの足跡はほとんどわかっていないのだ。前年から続く体調不良は一進一退だったようで、たとえウィーンにいたとしても演奏会に行けるような健康状態ではなかったのかもしれない。
4月半ばの友人たちの報告には、
シューベルトはあまり良い体調ではない。左腕に痛みがあって、全然ピアノが弾けないんだ。それを除けば、機嫌は良さそうだ。
(1824年4月15日、シュヴィントからショーバーに宛てて)
とある。
遡って3月31日に、シューベルトはローマのクーペルヴィーザーに手紙を書いている。自らの病状を悲観し、「糸を紡ぐグレートヒェン」の冒頭の歌詞を引用して
「『私の安らぎは去った、私の心は重い。私はそれを、もう二度と、二度と見出すことはない』、そう今僕は毎日歌いたい。毎晩床に就くときは、もう二度と目覚めることがないように祈り、朝になると昨日の苦悩だけが思い出される」という憂鬱な文章はよく知られているが、実はこの手紙に書かれているのはそんな愚痴ばかりではない。
歌曲では新しいものはあまり作っていないが、その代わり器楽ものはずいぶん試してみた。2つの弦楽四重奏曲と八重奏曲を作曲し、四重奏をもう1曲書こうと思っている。この方向で、なんとか大交響曲への道を切り開きたいと思うんだ。―ウィーンのニュースといえば、ベートーヴェンが演奏会を開いて、そこで新しい交響曲と、新しいミサ曲からの3曲と、新しい序曲をかけるということだ。―できることなら、近い将来僕も同じようなコンサートを開きたいと思っている。(中略)5月の初めにはエステルハーツィと一緒にハンガリーに行くので、そうなると僕の住所はザウアー&ライデスドルフ社気付ということになる。
(1824年3月31日、シューベルトからクーペルヴィーザーに宛てて)
シューベルトが『第九』初演を事前に知っていたことがちゃんと書かれている。なんと、巨匠のこのイヴェントに触発されて、「個展」を開催する気になったわけだ。自分の作品だけを集めた演奏会は、それから4年後の1828年、ベートーヴェンの一周忌にあたる3月26日に楽友協会でようやく開催されたが、その8ヶ月後に帰らぬ人となるシューベルトにとってはそれが生涯で唯一の機会になる。
ところが、手紙にあるように5月の初めにツェリスへ旅立ったとすると、5月7日の『第九』初演時には既にウィーンにいなかった可能性がある。1824年春、ウィーンでのシューベルトの最後の足跡は、4月に男声4部のための「サルヴェ・レジナ」D811を書き上げているのみだ。ドイチュはウィーン出立の日を5月25日前後と推察しており、多くの伝記がそれに倣って「5月末頃にウィーンを発ちツェリスへ」と書いているが、その確かな根拠はない。もしドイチュ説を採るならば、5月23日にレドゥーテンザールで行われた『第九』の再演に立ち合った可能性すらある。ちなみに再演は散々な失敗だったと伝えられる。
6月末に両親がシューベルトに書いた手紙には
5月31日付のお前の手紙を6月3日に受け取った。お前が健康であること、伯爵の館に無事到着したことを知って嬉しく思っている。
(1824年6月末、父フランツ/継母アンナからフランツ・シューベルトに宛てて)
とある。この5月31日付の手紙は行方不明だが、その時点でシューベルトがツェリスに到着していたことは確実のようだ。
そういうわけで資料的な裏付けは何もないのだが、私は
シューベルトは確かに『第九』をリアルタイムで聴いたはずだと考えている。なぜなら1826年出版の
「フランス風の主題によるディヴェルティメント」D823の中に、『第九』がこだましているのが聴き取れるからだ。
「ディヴェルティメント」第1楽章の第2主題後半、この情緒的な旋律線はどこかで聴いたことがあると思っていた。

記憶をたどってようやく思い当たった。『第九』の第2楽章スケルツォである。

そう考えると、妙に符合するところがいくつかある。「ディヴェルティメント」第2楽章「アンダンティーノ・ヴァリエ」の第2変奏と、『第九』スケルツォ主部のスタッカートの音型。


「アンダンティーノ・ヴァリエ」第4変奏と、『第九』第3楽章の再現部。


音型そのものが酷似しているというわけではないが、全体の拍子感やメロディーが6連符で細かく装飾されるさまはとてもよく似ている。
『第九』の楽譜出版は1826年8月で、「ディヴェルティメント」第1楽章の出版はその2ヶ月前なので、楽譜で読んで影響を受けた、ということはない。1824年5月の2度の『第九』の実演のどちらかに接し、その記憶が「ディヴェルティメント」の中に表出したのではないだろうか。
とはいえ、たまたま似ただけ、といわれればそれまでの話ではある。
- 2020/12/06(日) 21:13:15|
- 伝記
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0