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シューベルティアーデ電子版

ピアノ曲全曲演奏会「シューベルトツィクルス」を展開中のピアニスト佐藤卓史がシューベルトについて語る
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Brown, Ms. 42 6つのアッツェンブルックのドイツ舞曲

Brown, Ms. 42  6つのアッツェンブルックのドイツ舞曲  Sechs Atzenbrugger Deutsche
タイトル:Atzenbrucker Deutsche
日付:1821年7月
所蔵:ウィーン楽友協会資料室(資料番号 A259)

1821年夏アッツェンブルック城滞在中に作曲されたとみられる。アッツェンブルック城での、ショーバーたちとの楽しい催しについては以前紹介した。滞在中、シューベルトはほとんど創作を行っていなかったと思われるが、その唯一の例外といえるのがこの舞曲集である。
6曲は、D365(「36のオリジナル舞曲」作品9)D145(「12のワルツ、17のレントラーと9つのエコセーズ」作品18)に順不同に収録されたが、この自筆譜の存在は古くから知られていて、連作としてしばしば演奏されてきた。

1. ホ長調 →D145-W1 ホ長調
前半16小節の間じゅう、右手に掛かっている8va(1オクターヴ高く)の指示が目を引く。結果的に[9]アウフタクト~[13]以外の前半のすべての小節で、右手はOp.18-W1よりも1オクターヴ高く奏され、結果的に[14]-[16]の左手も低域に移動せずに同じ音域に留まっている。
後半、[17]のアウフタクトから3拍間の右手上声の音型に違いがあり、Op.18-W1とは逆のH-H-H-Fisという進行をとる。Op.18-W1では冒頭の音型を模倣するように改変されたともいえる。前半と同様、[29]以降が両手とも1オクターヴ上がっている。
全体として、右手が高音域を多用する傾向がある。

2. イ短調 →D145-W3 イ短調
この曲においても、[9]-[12]、[17]-[20]、[33]-[36]、[41]-[44]の右手でOp.18-W3より1オクターヴ高い音域が指示されている。細かく見ていくと、[4]の後半がレガートではなく、スタッカートの付いたオクターヴ連打になっていること、[14][22][38][46]の右手のリズムに付点がないこと、[25]-[27]、[29]-[31]の各小節1拍目にsfが付いていること、[33]以降のバスのA音がオクターヴで重ねられておらず単音であること、などが出版譜との主な相違点である。

3. ニ長調 →D365-29 ニ長調
Op.9-29との相違点はほとんどない。[9][11]のデュナーミク指示が若干異なるのみである。決定稿と言って差し支えないだろう。

4. ロ長調 →D145-W2 ロ長調
1821年5月20日に成立したBrown, Ms. 39(第7曲)とほとんど違いはない。Op.18-W2と比べると、左手の伴奏型の2拍目に2分音符がない、[17]3拍目~[18]1拍目・[19]3拍目~[20]1拍目の右手のタイがない、最終小節に2括弧がないのが相違点である。Brown, Ms. 39では出版譜と異なる内声を持っていた[14]は、Op.18-W2と同型になっている。

5. イ長調 →D365-30 イ長調
音符とデュナーミクはほぼ一致。最終小節[16]の2括弧がないだけである。[9][11]ではOp.9-30にはない1小節間のスラーが右手に付加されており、この曲の主要モティーフであるオクターヴトレモロの奏法を示唆している。[13]の2・3拍目にスラーがかけられているのも興味深い。

6. ハ長調 →D365-31 ハ長調
音符とアーティキュレーションは完全に一致。Op.9-31にある、p・fなどのデュナーミク指示は書き込まれておらず、[2][4][6]の3拍目のfzはffzと記されている。[11][13][15]の右手2拍目のアクセントもない。
第6曲の末尾には「Fine」と明記されており、この曲集が連作として完結したことを示している。

これら6曲、とりわけD365に収録された3曲は決定稿に非常に近い。この自筆譜の成立時期と、D365の出版時期(1821年12月)が近いことを考えれば、当然のことかもしれない。
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  1. 2019/03/21(木) 00:44:36|
  2. 舞曲自筆譜
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シューベルトの旅 (3)1820年7月、アッツェンブルック城

1820年からの数年間にわたる、シューベルトの創作数の激減にはさまざまな原因が考えられるが、ポジティヴなものとしては「大規模な劇場用作品の作曲に注力していたから」という理由が挙げられる。
フォーグルの口利きで委嘱されたジングシュピール「双子の兄弟」D647は1819年1月に既に完成していたが、初演にはそれから更に1年半を要した。
1820年6月14日、ケルントナートーア劇場で行われた初演ではフォーグルが一人二役の双子を演じ、シューベルトの友人たちやサポーターが熱烈な喝采を送ったが、大成功というほどの支持を得られたわけではなかった。初演時の通例として最後のカーテンコールに呼び出されるべき作曲者シューベルトは、みすぼらしい襤褸の服を纏って桟敷席に座っていて、見かねたヒュッテンブレンナーが自分の夜会服と交換するよう申し出た。しかしシューベルトは結局ステージに上がらず、仕方なく代わりに主演のフォーグルが聴衆に礼を述べて「あいにく作曲家は本日劇場に来ておりません」とアナウンスするのをニコニコしながら聞いていたという。
こうしたシューベルトの態度は、今では「控えめで目立つことを嫌う性格」と好意的に理解されているが、当時シューベルトの名を世に広めようと躍起になっていた友人や支援者の中には不可解に思ったり、はっきりと苛立ちを覚える者もいたようだ。
そもそもシューベルトはこの「劇場デビュー作」のリハーサルに一度も姿を見せなかった。もし立ち会っていたら、この作品の弱点を初演前に発見し、修正することもできたかもしれない。
「双子の兄弟」は7月までに合計6回上演されたが、夏の劇場のシーズンオフのあと、再演されずに打ち切りとなった。

まだ「双子」の上演が続いていた7月の初旬に、シューベルトはウィーンから35km離れたアッツェンブルック城に姿を見せた。


ウィーンと、そのやや西に位置するアッツェンブルック

アッツェンブルック城の起源は12世紀にまで遡るが、1820年当時はL字型のバロック様式の佇まいとなっており、ショーバーの伯父で弁護士のヨーゼフ・デルフェル Joseph Derffel (1766-1843)がこの館を管理していた。ショーバーとその親戚や友人たちは1817年からこの別荘で夏にホームパーティーを開催していて、シューベルトは招待客のひとりとしてこの年初めて参加したのである。

アッツェンブルック城
現在のアッツェンブルック城。内部は「シューベルト博物館」となっている。

アッツェンブルック城での催しの内容を描いた絵が残っている。シューベルトの友人の画家レオポルト・クーペルヴィーザーが描いたもので、「ジェスチャーゲーム」をやっているところだという。すなわち、参加者が二組に分かれ、一方が演じる無言劇の内容を、知らされていないもう一方が当てる、というゲームである。シューベルトはピアノの前に座り、左手で何やら弾いているようにも見える。

アッツェンブルック城でのジェスチャーゲーム

ちなみに彼らが演じているのは創世記の「アダムとイヴ」と林檎と蛇のシーンである。しかしショーバーが後年解説するところによると、ゲームのお題は「Rheinfall」(ライン川の滝)。どういうことなのだろうか? これは同音異義を使った駄洒落のようなもので、ドイツ語でRheinには「純潔」(現代ドイツ語ではrein)、Fallには「転落」という意味もあるので、「純潔からの転落=Rhein-Fall」、すなわち蛇の誘惑によってアダムとイヴが「堕落する」シーンを演じることで、「ライン川の滝=Rheinfall」に代えたのだ。ずいぶん難解な謎かけである。おそらく正解することより、演じ手によるお題の解釈まで含めて、そのセンスを楽しむハイブローな遊びだったのだろう。アッツェンブルックではこんなふうにゲームに興じたり、遠足に出かけたり、夜はダンスをしたりして遊び呆けるのが常だった。
城でのこの享楽的なパーティーが何日間ぐらい続いたのか、詳しいことは記録されていない。今では通称「アッツェンブルックのシューベルティアーデ」と呼ばれているが、少なくとも1820年の初回は「シューベルティアーデ」とは呼ばれていなかっただろうし、そもそもシューベルトがメインの催しでもなかったはずだ。
シューベルトは翌年以降も何度か、この夏のパーティーに参加した。あくまで休暇中だったので、滞在中に作曲された作品はほとんど知られていないが、例外が「6つのアッツェンブルックのドイツ舞曲」と呼ばれる舞曲集である。1821年7月の日付を持つ自筆譜は、おそらくアッツェンブルックの夜の舞踏会で演奏した舞曲を書き起こしたものなのだろう。これら6曲は、後にD145とD365の2つの舞曲集の中にバラバラに収録されて出版された(D145-1, D145-5, D365-29, D145-2, D365-30, D365-31)。
1821年の夏にシューベルトが再訪したことは確実だが、その後については確たる記録もなく、よくわからない。1822年が最後だったという文献もあれば、23年だとか、最晩年28年に至るまで毎年シューベルトは姿を見せたという情報もある。
アッツェンブルックでの様子を描いたクーペルヴィーザーの絵としては、もう1枚有名なものがあり、アッツェンブルックからアウミュール(詳細不明)へ向かう馬車に乗り合う男女が描かれている。画面の左奥、馬車には乗らず、画家自身と何やら話し込んでいるのがシューベルトである。楽しい遠足の1シーンなのだろうが、その構図はどことなく意味深な気がしなくもない。

アッツェンブルックからアウミュールへ

[参考文献]
・Rudolf Klein著「Schubert Stätten」(Elisabeth Lafite, 1972)
・藤田晴子著「シューベルト 生涯と作品」(音楽之友社, 2002)
・村田千尋著「作曲家◎人と作品シリーズ シューベルト」(音楽之友社, 2004)
  1. 2018/03/20(火) 16:42:21|
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